青春時代

2017年11月 7日 (火)

中学生日記 昭和28年から30年 同窓会で昔話を語る

 数え年で「傘寿の同窓会」を郷里岐阜県中津川市へ帰り、湯舟沢のクワハウス華更紗で同窓会。そのとき、話したのは、中学生時代のことであった。小学生時の思い出とともに中学生時代。その後、50代で亡くなったA君との交流について語った。

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 昭和28年(中学2年)
 中2~3担任は、中津高校創立者の間家の孫にあたる間太利先生。女の独身先生(38歳)であったので、反抗期の我々と波長があうか、そのことで波乱あり。数年前、98歳で他界。
 
0372
5/29 栄町三井金物店(現在ビジネスホテル栄)にテレビ設置、もちろん白黒TVをYツーちゃんと見に行ったら、栃錦と吉葉山の結びの一番、吉葉山の勝ち。中継アンテナ基地もきちんとできていないから、雪が降っているような画面であったが、中津で初めてのテレビである。
6/16 深夜、栄町旭パン工場から出火、12軒が類焼。寝巻きのまま出かけ、中津川駅の端から眺める。翌日は現場へ英語の塾へ行く前に見に行った。歩数で数えたら68歩。見当では40メートルくらい類焼、焼け跡は独特のにおいだった。
8/03 近くの川でウナギを捕まえた話、全く個人的な話題なのに、意外と「どうした?」と興味もっていた。(そうか、これは、赤字の評があった。太利先生に提出した日記という話をするのを忘れた)
9/29 乙姫岩は遠足した。先生は38歳、16貫の体型だったコロ。日がカンカン照りで「帽子をかぶらないと、はげるよ」と注意された記憶を語る。
10/09 青木、安江両君が、10円玉三個つかって髪の毛を抜くイタズラ。
10/14 映画「夜明け前」を旭座で見た。「前代未聞、前代未聞」と言って隣のおじさんが青山家へ入ってくるシーンが印象的であった。最後、青山半蔵は、座敷牢で狂って死ぬ。
11/10「生きている兄」長尾先生、音楽の時間に、長い作文を録音で聞かせた。北海道で遭難した兄を偲んで書いた優秀作文。
11/29 秋の文化祭で演劇「ウイリアムテル」O君、迫真の演技、本田先生の批評。
あのとき3年1組が「とししゅんは」と印象的な声で愛ちゃんが・・・桃源郷
6組は「クリスマスキャロル」で、勝野が印象的だった。
昭和29年
3/01 間先生宅へ勉強を教わりに行って上がらず、逃げ帰り、フジスポーツ運動具店S君宅へ上がった。「魔弾の射手」レコードを聴いた。
3/07 文集「鉄の玉」作成、黒塗り(反戦思想と男女交際記事を学校から禁止)
3/11 K納君の腕の骨折、M得君と相撲していて、
3/20 生徒会選挙 浅野勇生徒会長当選。会計T時子(応援弁士N育子)ここまでが中二、一年間の話である。
 
昭和29年(中学3年)
4/09 転校生N穂波、初登校。
4/12 小木曽独行(聾唖者)の講演会、聞き取りにくい話だが、生きる意気込みだけは伝わった。
4/21 「心臓破りの丘」(映画)旭座で見る。
4/20 根ノ上高原へ遠足
4/22 「恵麓新聞」二中わんぱく少年、K先生部顧問、 
4/26 反省学習(数学)100点とったのは8名いて、それが本日出席者5名入っていた。入っていない人には差別になるか、気になる記録である。T時子、N純子、H昇、I和子、N育子、私、+1名。
5/02 休日を利用して「次郎物語」第一部、第二部読む。次郎の母お民が乳が出ないので、お浜に預ける。五年位たって次郎を返してもらうが、お浜が恋しい次郎は・・・
6/18 「禁じられた遊び」映画を旭座で見る。
   このころ、「本州製紙」の工場見学
7/20 ホームルームの議長がHであったが、進め方が独断的であった。
7/27 午前10時30分からプール監督に行った。橋場先生が見えた。監督日誌をつけて帰った。
9/06 二中開校6周年記念式
9/17,18京都、奈良、修学旅行へ 台風14号、最悪な天候であった。(松島さんが盲腸で急病で校長の付き添いで帰る)
9/27 台風15号、青函連絡船洞爺丸ほか数隻が沈没の大事故。
9/29 運動会 朝は雨降っていたが、運動会が始まると晴れてきた。
    応援団長で、声がかれた。
10/3 PTA連合運動会 またもや、応援団長で、声がかれた。
10/8 後期生徒会役員立候補の立会い演説会。司会進行を担当。
10/11浅野君と成人指定の映画「どぶ」と「愛」二本立てを見に行く計画。
   後日見て、売春映画で、乙羽信子が薄汚いと感じられ仕方なかった。
10/16~一週間、職業実習期間、これも、それぞれの立場から思い出があり、発言多し。
10/23 HR運営委員会、先生イジメをする計画を語る反抗期の三年生。
10/30 映画「破戒」を見た。部落民の身分を隠して丑松は教師だったが・・・
11/01 学校劇「恩讐の彼方」企画、脚本作成から浅野君の活躍。
 A勇、K勝也、S原英亮、Nら、男ばかりの劇だったが、
11/02 落合のトンネルの上の「見晴公園」で写生大会。距離は、乙姫岩より近い。
11/17 生徒工場裁断機で、M君指切断。(アルバム作成中)
11/18 旭座で「二十四の瞳」を見た。“浜辺の歌”が印象的だった。
11/26 練習。雨の一日。11/29・12/01(PTA総会で披露)
 長いキセルであばずれの女役をやった彼女の親が、ウチN尾さんの母に「あんな役」と嘆いていた話など、半世紀越しで聞いた。
12/08 文集「岐路」の作成開始 100部作成予定で、半分を販売計画
12/18 土曜日だったので、A君宅へ午後2時から午後7時まで、たっぷり話し込んできた。
    帰りの中村用水路脇を自転車で走るのはこわかった。
12/21 深夜の火事、中部電力の火災
昭和30年
3/01 文集「岐路」錐で綴じて完成 その後、キリをつかってダーツで遊ぶ。
3/11 卒業記念の会食会、二中ケーキ、N育子、お富さんを歌う。
      中川先生、村の壷に酒を集めたら、水ばっかりと言う話
3/18 (中津)高校入学試験雨。大雨の中、高校の坂を上る。
 

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  今回、私の故郷中津川市へ帰ってきました。
メインの用事は同窓会でありましたが、
中学2年で3年までの二年間の担任(間太利先生)の家も伺ってきました。姪ごさんがいるだけになっていたが、ちょくちょく伺っていた昔のままでした。
 今は、写真と明かりがともる仏壇に手を合わせて、ひと時を過ごして参りました。
 
 同級生のお母さん、母親が女学校の同期である。したがって、私たちは同期の子たちで、太利先生は、自分の子供のような心境で接していたと想像している。
 先生の家は、中津川市の目抜き通りで、江戸時代以前から、祖先は名家として名が通っている家柄だった。島崎藤村の「夜明け前」、幕末志士に協力する活躍ぶりが触れられている。また、三代前の当主間杢右衛門は、町を見下ろす旭丘に、岐阜県で二番目に古い「(中津)女学校」を作り県に寄付。今の県立中津高校になっている。
 
 そういうことは、大人は知っていても、中二の我々には関心がない。見れば太目の中年オールドミス、中学生の特に男子には、印象は悪かった。なんで隣りのクラスは30代の男先生なのに、なんで?という印象だった。
 先生、教える教科は、数学と理科がメインだった。
 ピアノも弾けるから、クラスの主題歌を作ろうと言い出したのは、先生だった。朝の歌は決まらなかったが、「帰りの歌」中津川市の西に笠置山があり、“笠置の山も黄昏れて♪…”と、二年間歌ってから、帰っていた。文句をいいつつ、従っていた。
 先生の体重は、16貫目(3.75 ㎏×16=60㎏)あった。
 教育の場で生徒と戦うには、これくらいあったほうが良かったかもしれない。当時はダイエットなんて感覚はないから、太めは太めで個性で通っていた。
 四つ目川の花壇つくりで、クラスで作業していたとき、不真面目で作業をしないA君を叱りつけ、大柄な彼をぶっ飛ばした。中三の男子をリードするには、体力があればこそだと思った。
 私はホームルーム中、先生の説明を妨害して、ヤジを繰り返したら、教壇から下りてきて、一発頬をぶちかまされた。
 その日、先生は夜になって学校帰り、私の家へ来て、父と母に
「●君を、こういうわけで、ブってしまいました。すみませんでした」
と詫びているのが聞こえた。先生は、こうして叱りつけたあと、必ず、生徒宅へ放課後でかけて、しかりつけてぶっ飛ばした事実を親に謝罪していた。
 学校の校区は、円で描けば、半径でも40分~50分はかかるだろう。その生徒の家を知っていた。毎日のように、誰か休んでいたり、問題があれば家を回った。
 そのときは、先生ってこういうものだと思っていたが、授業以外の部分で並々ならぬ努力をしていたのだ。授業で勉強を教える部分より、授業外の生徒のケアに努力していた。と今になって痛感する。
 中学二年、三年生の頃は、先生の困ることを次から次と起こして、それを楽しんでいた。
 

 私たちの中学は、勉強より、イロイロな面の活動が盛んであった。
 文化祭で演劇をクラス単位で行った。二年では「ウイリアム・テル」、三年では「恩讐の彼方へ」(菊池寛)を行った。
 また、毎年クラス単位で文集も生徒が自発的に作った。「(二年)鉄の玉」「(三年)岐路」を製作した。勉強以外の面では、かなり充実していた。
 三年の文集作成過程で、集金していたお金が紛失して、編集委員として残っていた人に疑惑がかかり、
「机の上にカバンを置いて廊下に出なさい」と、
 一人ひとりにお金を盗んだ事実を確かめ始めた。先生一人でカバンを一個一個チェックして検査した。
 すると、「そんな疑惑を掛けるなら、編集委員を辞める」
 と生徒会長だったA君が言い出た。
 Aクンは、編集委員全員を引き連れて、ストライキ風に先生に反抗して立ち向かった。先生として、盗難問題を解決しなければならないし、文集作業の頓挫も困る。先生は授業の終わったあと、
編集委員の家を一軒一軒、夜遅く訪ねてきた。広い校区を先生は車ではなく、歩いて回っていたから、すごく大変な労力だった。
 盗難問題に疑惑で、「編集委員を辞める」というAクンの論理に疑問を感じていたので、私は「編集委員を辞めるつもりはない」と、訪ねてきた先生にいうと、ホっとした表情になったのが印象的だった。私の家を最後に(緑町の)自宅に帰るのだろう。
 お金の盗難疑惑は、先生の労苦で解決したが、犯人の個人名は最期まであいまいのままにして終わったが、父親が先生に謝罪しに来た姿を見かけたという情報で一部の人にはバレた。
 体育祭は、もちろん、遠足もある。クラス役員は、級長、生徒会議員、等の生徒会活動もある。生徒会会長にも立候補し、当選することもあった。
 
 先生は、中津女学校第25回卒業110名(昭和8年3月)の中にいる。うちの父の妹四季代叔母24回、美世叔母が26回卒業の間である。
 昔は17,18歳で
高等女学校を卒業すると、一年目から和裁を習い、料理とか、花嫁修業した。その間に、見合い写真が回り、数年のうちに結婚が決まるのが普通だ。
 ところが、女学校時代の同級生が花嫁修業しているのに、親の反対を押し切って大学へ行って教員になった。
 
 先生とは、私は大学へ行っている間も、社会人になったのちも、帰省するたびお目にかかって、いろんな話をしていた。
 生徒がその後、どうしているか、いつも世話し続けている印象がある。ご自身のことは放置して、生徒の結婚の世話や問題を起こした生徒の始末に奔走していた。そんな
公表できない話も、片手にあまる。両手を広げて受け止めるほどだ。

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2016年8月18日 (木)

マスコミは、オリンピックにこんなに熱入れて、大丈夫だろうか?

一番興味があることを報道して、視聴率を取るには、オリンピックだろうが、各局一斉に報道してまったく差のない内容になっている。この一斉に報道する姿勢は、昔から日本人は変わらない。
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 これだけ、一方的な方向に向って走り出す民族は日本人だけではないか?相手の国、チームがいるのに、「ニッポン!ニッポン!」と会場の中をこだまするのは、異常だろう。他の国の人からは、(あいつら、北朝鮮と似ている)と思われるだろう。国際平和とは口では言いながら、やっていることは、自分たちだけ、一国平和、一国繁栄だけ。難民救助も、日本国内に入れないは、その表れだろう。
 確か、自分の隣りに習慣が違う国の人が10人も住まわれたら、気味が悪い・・と、思うのだろう。実際現実になったら、理想論は語れないが、現実の日本人は「ニッポン!ニッポン!」と、団結してしまう習性がある。

 このオリンピックのTVを見ないと、なにか「日本人ではない」という差別を受けるような・・・被害妄想にさえなる。日本人以外の素晴らしい演技を賞賛する場面も見たい。人類という見地もあっていい。国別対抗運動会ではないのだから、個人参加がクーベルタン男爵の理想だったのが、国の国威発揚に利用されている。

 もう一点は、経済的な利権の場に利用されてオリンピックのたびに、会場建設に食い込む企業の荒稼ぎが目立つ。近代オリンピックを発案したギリシャにメリットが何も無いのは、片手落ちだ。ディズニーランド、ディズニーシーの利権で稼ぐアメリカのように、オリンピックはギリシャの発案だから、参加国は一割は、ギリシャに支払うべきだ。

 
 この、オリンピック一色の報道、何か似ているなァと、考えていたら、思い出した。
Ig360 これは、戦前の“戦争報道”だ。
 日本が開戦して、真珠湾攻撃して、「勝った、勝った!」という報道に極似している。その翌日に、イギリスの空母プリンスofウエールズを撃沈して、喝采を叫んでいた国民性と似ていて仕方が無い。

日本の女子レスリングが強い。3階級金メダルは、快挙。結構結構。メダルの男女比を比べたら、日本の場合、男子より女子の方が多いのかもしれない。体操で内村航平君の金メダルは、金太郎、桃太郎的なイメージがある。

【リオデジャネイロ=本池英人】リオデジャネイロ五輪のレスリングは女子の3階級が17日行われ、48キロ級の登坂絵莉(22、東新住建)はマリア・スタドニク(28、アゼルバイジャン)に決勝で判定勝ちし、金メダルを獲得した。登坂は世界選手権3連覇中で、五輪初出場。この階級では2012年ロンドン五輪の小原日登美に続いて2大会連続の「金」になる。

 58キロ級の伊調馨(32、ALSOK)は準決勝でテクニカルフォール勝ちした。五輪の全競技を通じて史上初の女子個人種目4連覇を目指し、決勝でワレリア・コブロワゾロボワ(23、ロシア)と対戦する。

 五輪初出場になる69キロ級の土性沙羅(21、至学館大)は準決勝で判定勝ちし、銀メダル以上を確定した。決勝ではロンドン五輪72キロ級金メダルのナタリア・ボロベワ(25、ロシア)と対戦する。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDH18H04_Y6A810C1000000/?n_cid=NMAIL001

東京オリンピック2020決定 その裏で:
ロンドン五輪 開会式行進 旗手特集
オリンピックの著作権料 ギリシャに払え!

ロシアのドーピング違反は、ロシア国民性か
ロンドン五輪 一番がっかりした日本柔道の弱さ

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2016年7月30日 (土)

ナイナイ婚活パーティ3時間×5本 大集合総集編

ナイナイ婚活パーティ3時間×5本 見た回もあるかもしれないが、恋愛の駆け引きのノウハウを知ることができる。勉強だと思って見てみよう。オレだったら、こうするという勉強になると思うよ。
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 これからは、インターネットが発達してくるから、都会より田舎で人間らしい生活は田舎のくらしではないかな。自然の中で、いい空気を吸って、マイペースの生活が展開できる。釣りとかドライブとか、作家とか、芸術家は、都会の中ではいいアイディアが浮かばないのではないかと思う。

①有田川婚活パーティ★★https://youtu.be/NvfdJGa_Wx0?t=3

②北海道北見コンかつパーティ★ナイナイ婚活北見市 人気№1女性獲得のホタテ養殖青年の涙

③香川県観音寺町コンかつパーティ★

⑤福岡県八女町コンかつパーティ★★ 
モテナイと思っている男でも、チャンスがある。
 キミの情熱を傾ければ女性は結婚したいと思っている瞬間があるから、そのチャンスをみつけて、マメにアタック。ストーカーの雰囲気になってしまわないで、伝える努力、工夫が必要だ。経済力も必要だけど、彼女と協力して二人で食えるレベルに・・・。 ★★https://youtu.be/AoyHG8SqsXk

ナイナイ婚活北見市 人気№1女性獲得のホタテ養殖青年の涙
ナイナイお見合い(種子島)人気№1荒木御曹司の場合
ナイナイ(種子島)内気な29歳、陽気な28歳女性
2月18日ナイナイお見合い 新潟三条市 女性№1さん戦略
ナイナイ種子島、バツイチサファーのこんな展開
453名が一人に群がる ナイナイ四万十お見合い 
続 お見合い大作戦 邑南町の花嫁
TBS結婚ガチ真剣見合い 島根県邑南おうなん町 
ナイナイ 伊豆の国 一番人気女性の悩み末の結論
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2016年7月 6日 (水)

繁体字 山楂樹之戀  サンザシの樹の下で 評価AA

 舞台は40年前の中華人民共和国で、毛沢東が勢力を取り戻すべく怒涛の如く開始した「文化大革命」の時代(1966-1976)「毛沢東語録」という小さな赤い手帳を振りかざす民衆の姿に何か言いようの無い雰囲気を感じた。★
 その時代は、少しでもブルジョア的雰囲気を見せたものは直ちに吊るし上げられ、自己批判を強制されるなど最も鎖国的で暗い十年間であった。
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 都市の高校生である静秋(ジンチュウ)は、文化大革命下の教育の一環として、農村にホームステイする。その村には『英雄の樹』と呼ばれるサンザシの樹があり、抗日戦争に斃れた志士たちの血を受けて、赤い花を咲かせるのだという。 

 その過酷な状況の中、毛沢東の教え通りたくさんの若者が都市から農村に送られて学んでいた。その中の一人、小さくてほっそりとした高校生のジンチュウは、その農村に常駐していた地質調査隊員の共産党幹部の息子スンと知り合った。彼はで比較的自由で恵まれた青年でした。 

 静秋のホームステイした農家には、地質調査隊の一員として村を訪れていた青年:孫建新(スン・ジェンシン)がおり、その家の三男同然という意味から”老三”(三番目の兄の意)と呼ばれていた。孫は共産党の幹部の息子であり、経済的にゆとりがあった。一方の静秋は、父親が労働改造所送りとなり、教師の母親は職場で再教育を受けており、知識階級であるが経済的にも社会的にも余裕は全くなく、母親からは過失無く教師としての職を目指すようきつく言い含められていた。 

 当時の中国では、奔放で優しい彼、時間も自由なのか、彼女の近くでいつも見守っていた。彼らの心を結びつけたのは、抗日戦争で殺された兵士の墓標ともいえるサンザシの樹の話でした。 

 そんな彼にジンチュウは次第に心を寄せていく。しかしジンチュウの父母は反革命的分子として睨まれているため、彼らが仲良くしていることは絶対に秘密でした。しかし、あまりに大っぴらに逢瀬を重ねていたため、ある日、彼女の母と道でばったり会い、当然ながら絶対に会わないと約束させられてしまいます。しかも、後に間違いと判るのだが彼には婚約者がいるとの噂も・・・。ちょっと中井貴一と酒井美紀に見えなくもないかな。

  二人は徐々に心を通わせ、静秋が街に帰った後も、母親の目を盗んではひっそりと会うのだった。やがて、静秋は教師として仮採用が決まったが、立場もあり、休暇中は自ら労働を志願していた。孫は彼女を経済的にも支援しようとするが、ついに静秋の母に見つかり、二人は距離を置くよう説得される。
 そして、彼が入院したと聞くジンチュウ、彼がひた隠しくしにした病名は、白血病。でもそんなことを微塵も感じさせないのは彼女のあまりにもいたいけで純粋な姿、この映画はジンチュウ役の周冬雨(チョウ・ドンユイ)のためにあるといえるほどです。
 

 大人しかった彼女はここから一転して芯の強い、恋する女のひたむきさが前面に出てきます。面会時間が過ぎ。看護士に帰れといわれても帰らず病院の前で一夜を過ごす彼女に翌日彼は特別に看護士の部屋を用意した。しかし、ある日、孫が白血病で入院したという噂を聞いた静秋は、病院に駆けつける。ただの検査だと言う孫に寄り添い、3日間一緒に過ごす。その間、同じベッドで寝ても、孫は服越しに彼女に触れる以上のことはしなかった。
 街に戻った彼女は、親友が妊娠し中絶するのに病院に付き添うジンチュウに友人は「男なんて皆同じ、一度やらせたら逃げちゃうんだからね、あんたどこまで行ったの?」そのときまで、ジンチュウは男女の営みも知らなかったとはちょっとウブ過ぎ。彼女ならありえるかも、と思ってしまいました。
 

「何十年でも待つよ」「君の名を聞いたらどこからでも飛んで行くさ」スンもあくまでも純愛を貫きます、二人で川で遊んだり、服の生地を買いに行ったり、写真館で写真を撮って貰ったり、サンザシの花が咲く頃には一緒に見に行こうと約束したり、どう考えたってラストは悲劇になるしかない展開をカメラは淡々と追って行く。 

 しばらく後、教壇に立つ彼女に、突然の連絡が入る。急いで病院に駆けつけるが、孫の病室には家族、親族、党の関係者ら大勢が詰めかけていた。別れを告げるよう促されるまま孫の傍に寄り、彼に必死で話しかける。変わり果てた姿の彼は、わずかに瞳を動かすが、その先にあったのは天井に貼られた二人の思い出の写真だった。 

 孫の遺骸は、思い出のサンザシの樹の下に葬られ静秋は、その場所が三峡ダムに沈んだ後も毎年その場所を訪れるのだった。サンザシの樹には、赤ではなく白い花が静かに咲いていた。これ、実話だったそうです。 何十億円もかけるハリウッドの超大作よりもずっと素晴らしいと思った。 

静秋(ジンチュウ) チョウ・ドンユィ(周冬雨) 三ツ木勇気
孫建新(スン・ジェンシン) ショーン・ドウ(竇驍) 高橋広樹
ジンチュウの母 シー・メイチュアン(奚美娟) 堀越真己
村長 リー・シュエチェン(李雪健) 真田五郎
ルオ先生 チェン・タイシェン(成泰燊) 
スンの父 スン・ハイイン(孫海英)
 

監督:チャン・イーモウ(張芸謀)
原作:エイ・ミー『山楂樹之戀』
脚本:イン・リーチュエン(尹麗川)
製作:チャン・ウェイピン(張偉平)、ビル・コン(江志強)
撮影:チャオ・シャオティン(趙小丁)
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2016年6月 9日 (木)

「人間佐藤一斉の悩み」(風詠社)かくれた彼の青春の蹉跌

郵便受けにドスンという音がして、なにか書籍でも来たのかと行ってみると。従兄弟のT彦さんからの郵便物だった。02 中に入っていたのは、「人間佐藤一斉の悩み」(風詠社)という本だった。以前、岐阜県恵那郡岩村町出身なら、「佐藤一斉」のことを知っていると思って、ハガキでT彦さん聞いたが、ご存知なかった。
 
佐藤一斎「言志四録」人生訓: nozawa22
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 今回、この本の著者、ペンネーム美濃吾作、本名を見るとTさんの弟Hさんだった。大蔵官僚だった彼とは余り接点がなかったが、「美濃」を冠したペンネームを使うとは、故郷に恩返しのような意識があるようだ。Hさんは、昭和30年ころ、高校生の雑誌「蛍雪時代」旺文社の募集した作文で最優秀賞をとった経歴がある。

02_2 儒学者佐藤一斎は、「言志四録(げんししろく)」で
少にして学べば壮にして為すあり。
壮にして学べば老いて衰えず。
老いて学べば死して朽ちず
。」「三学戒」
(少年時代に学べば壮年になってから役に立ち、何事かを為すことが出来る。壮年のとき学べば老年になっても気力の衰えることはない。老年になって学べば、死後もその名が朽ちることはない)と書き残している。そのプレートが岩村の町のあちこちに掲出されていると聞く。

 こんな名文句を吐く人は、どんな人生を送ったのか。学者として王道を歩んだのか・・・と疑問をもったが、Wikipediasを見ても何も参考になることは書いていない。

この本を見たら、佐藤一斎の二十歳頃には、岩村藩の江戸屋敷に藩主候補の兄貴分、四歳違いの松平乗衡とつるんでいた。浅草寺の裏の吉原遊郭大門の外側で、辻斬り遊びをしていたと書いている。遊郭で大金を浪費する青年を捕まえて、峰打ちをして、青年に「お前の遊んだ金は、店の金か、自分の身銭か」と聞いて、自分の貯めたカネといえば、「汗水たらして稼いだカネを吉原の女郎につぎ込んでしまうとは、何事だ」と説教し、店のカネを使い込んだといえば、「そんな不心得ものには、天誅だ」と、再度、峰打ちをした。

 岩村藩の江戸屋敷は、日本橋浜町(今の人形町)にあったから、吉原まで、歩けば1時間くらいの距離だった。しかし、この辻斬り説教強盗のうわさは江戸中に広がり、青春のヒトコマとしてやったつもりが、公儀にも知れてしまう様相になって、猛ソレはできなくなった。

春、さくらの見ごろの頃、松平乗衡がお気に入りの娘を三人を口説いて舟遊びに誘った。娘たちを誘うのは、一斉の役目だった。船頭を除いて三人乗りの小舟で、船頭を雇わないで一斉が櫓を操った。隅田川へ。川幅も広く波も穏やかであったので、船頭のほかに四人乗っても大丈夫だろうと考えた。

 お女中たちも花を愛でつつ、おしゃべりしたり、花見弁当を広げていた。お酒も入ってにぎやかになって、日ごろの謹厳振りから開放されていた。殿も櫓をこぐ一斉に声掛けた。
「おーい、一斉(当時は幾久蔵)、お前も呑め。さくらが満開でこんな気分のよい日はないぞ」
 酒の入った杯を持って立ち上がり、一斉のほうへ移動しようとした。そこへ運悪く、大きな運搬船がすれ違った。その大波がうねりとなって、彼らの小舟を大きく揺らして水しぶきがかかる。お女中たちは、「あれぇ」と、舟べりをつかんだり、立ち上がろうとした。舟のバランスが崩れて、重心が大きく偏って・・・定員を超えて乗っているから舟は浸水して、転覆してしまった。

「殿、あぶない!」
 殿を支えようとしたが、そのまま水中に落ちてしまった。殿を助けるだけで精一杯で、お女中たちは振袖で着飾っていたので、水を含んだ着物の重みで浮き上がることもでいなかった。三人ともに溺死した。男二人は近くの船に助けられたが、女三人は隅田川の藻屑と消えてしまった。

 藩主の嫡男乗衡と家老の嫡男がしでかしたこの不始末は、誠に重大であった。場合によっては、公儀から藩の取り潰しもあるかもしれない。この件は、折をみて幕閣におとりなしを願い出るほかない。それまでは、両人には謹慎をもうしつける、ということだった。

 一斉は、殿には何の過ちはなく漕ぎ手の一斉の不注意から起こったことで、腹を切ってわびるつもりであった。藩内にはかん口令が敷かれていたが、当日の事件の様子は川岸から丸見えであり、人の口には戸を立てられず、岩村藩の家老が取り調べを受けることになった。岩村藩は松平家の治める藩であり、きちんとした裁きをしないと他の大名に示しがつかない。しかし、お取りつぶしまでいくと、大事になって幕藩体制にヒビが入りかねない。

 審議の結果、事件の主たる責任は、佐藤一斉にあると断じて、彼は藩籍を剥奪し追放になった。侍の身分を離脱させることになった。殿の方は身分はそのまま、当面謹慎せよという処理であった。これは温情のある裁きだった。佐藤一斉は、切腹せよという沙汰があるかもと、覚悟していただけに救われた思いだった。

 士籍を離れた一斉は、学問で身を立てるしかないと考え、名前を捨蔵と名を改めた。捨蔵と改めたとき21歳(数え)、殿から呼び出しがあり、上方への遊学を勧められた。殿も彼が全部責任を被って藩籍を剥奪されたことの気にかけていた。

 易学、数理、天文を学んだ。半年ほどしたとき、師匠皆川淇園の娘から「江戸から来た人にはだまされないようにといわれていたが、佐藤一斉様はたいへんまじめで、勉強熱心と父もほめています」という出だしで、彼に「私をいかが思っていますか」と手紙をもらった。特段問題のある文面ではない。かつても一斉だったら、「据え膳食わぬは、男の恥」とばかりに受けて立ったにちがいない。しかし、今は事件のあったあとだ。学問で身を立てるしか今後がない。
 娘に真情に心をあつくなりながら、娘の文を師匠淇園に届けた。

 淇園は娘を呼び激しく叱責した。娘は恥ずかしさと口惜しさで一杯になり、そのまま裏の井戸に身を投げた。
 一斉は娘の死を知り、師匠にも迷惑を掛けたことを悟り、予定を切り上げ大坂へ戻った。

 大坂で、陽明学を中井竹山(懐徳堂)に学び、上方での修業を終えて江戸に戻ると、殿は林塾への入門を勧められた。

 26歳(数え)で、幕臣の娘と結婚した。最初の結婚がとても琴瑟相和し、趣味に合って三人の娘をなした。これが妻を亡くし、一番妻に似た娘も失って・・・それから二人目の妻とは離婚し、三番目の妻とは長くくらしたが、どこかぎこちない関係であった。

 佐藤一斉の学問とは関係ない部分の経歴を辿ったが、
「言志四録(げんししろく)」で
少にして学べば壮にして為すあり。
壮にして学べば老いて衰えず。
老いて学べば死して朽ちず
。」「三学戒」を語る裏にこのような歴史が彼にはあったことを知るのは、知識に厚みを与えると、思う。

 経歴はWikipediaにも書いてない。岩村にある一斉塾の理事長から聞いたようなことが書いてあった。岩村藩の家老の家系であったが、士籍を失ってから岩村へも寄っていない。
 T彦さんの家系は、家老といわれても、知らなかったのは仕方がないのかも。 一斉には大きな引け目になっていたのかもしれない。今は、岩村市民の誇りになっているが、本人にとっては、岩村は遠くあるふるさとだったようだ。
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佐藤 一斎(さとう いっさい、安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は、美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。諱は担。通称は捨蔵。字を大道。号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒。

安永元年10月20日(1772年11月14日)に佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の岩村藩邸下屋敷内で生まれた。生家は佐藤方政の子孫の系と伝えられ代々藩の家老を務める家柄だった。一斎も寛政2年(1790年) より岩村藩に仕え、12・3歳の頃に井上四明に入門し長じて大坂に遊学、中井竹山に学んだ。

寛政5年(1793年)に、藩主・松平乗薀(のりもり)の三男・乗衡(のりひら)が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ、当主(大学頭)として林述斎と名乗った。一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門する。文化2年(1805年)には塾長に就き、述斎と

共に多くの門弟の指導に当たった。

儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、広く崇められた。当

然、朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。門下生は3,000人と言

われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂、池田草庵、東沢瀉、吉村秋陽、安

積艮斎、中村正直、林鶴梁、大橋訥菴、河田藻海、竹村梅斎、河田迪斎、山室汲古、北條悔堂など、いずれも幕末に活躍した英才がいる[1]。同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。

また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄」では、無実の罪で窮地に落ちい

った渡辺崋山を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々(特に明治以降)「言行不一致」と批判される事となった。

安政元年(1854年)の、日米和親条約の締結交渉では、大学頭・林復斎(述斎の六男)を補佐している。安政6年9月24日(1859年10月19日)、88歳で死去。長男・慎左衛門の娘・町子(まち)は田口卯吉・木村鐙子の母親(異父姉弟)となり、鐙子の名前は一斎の命名による。また、三男・立軒の次女・士子(ことこ)は、実業家の吉田健三に嫁ぎ吉田茂の養母となった。

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2016年5月18日 (水)

雑誌の文通欄に個人情報がズラーッと載っていた時代が懐かしい

 00162 この写真を葛飾区郷土と天文博物館へ借りに行った。
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 「はい、いいですよ」と承認されるかと思いきや、面倒な手続きをして、貸し出したのがCD-ROMに上の一枚を焼き付けて渡してくれた。少しも間違っているわけではないが、この手間とエネルギーの消費が文明を守ることになるのだろうか。文明が進めば進むほど、不要な部分にエネルギ-が費やされる。文明が進めば、面倒くさい。

000003 確か、ウソか、ホントウかわからない情報がウンカ雲霞の如く漂っているから、だまされてしまう。判断力が鈍くなると、スキを突いてセールスが来たり、電話で誘いが来たり、男性の好き心を突くメールが一日何十、何百も来る。

 手を変え、品を変え攻めてくる。プロとして新種の詐欺だろうが、知恵を磨いているのうで、以前は女性の名前をかたって、男心をくすぐる文言を書いていたが、一年くらい前からは、何も書かないでメルを返信するミスを待つような方向に変わった。

 これは、生活の安定した人がやるわけないから、社会の不安定と連動する社会現象だろう。アメリカのニューヨークが危険な都市だったのは、アナログ時代の現象だったが、デジタルのインターネット時代には、この種の詐欺の時代になったのだろう。

 電車の中にある中吊り広告を見ながら、どこまで上げ底でない広告があるのだろうか、疑問に思いながら見てしまう。誠意、真実、正味で勝負している人はいるのだろうか。

 所有権、権利を守ると同時に、自分の存在を秘すために、顔を隠し、住所を隠し、個人情報を秘匿するのが、常識で、他人にしらなれないようにする。

 人間の習性なのか、他人のことを知りたいくせに、自分のことは隠す。文通欄に住所を雑誌の後半にズラーッと載っていた時代を知っているだけに、なぜ、アノ時代が終わってしまったのか、不思議だし、悲しく思う。
 高校生のとき、女性の雑誌に載っていた20代のOLに手紙を出したら、丁寧な返事が来たことがある。まあ、軽くあしらわれていたが、日本中の人と交流が可能だった。まあ、今もSNSとか、ツイッターで即時交流が可能。
 それが、身の危険に及ぶ社会になっている現状が問題だけど。人を信頼できない都会化した現代を考えるべきだ。つまり、「人情、紙のごとし」とは、随分昔から言われている。田舎暮らしにこそ、人間の味がある。どこの國へ行っても、都会は似たようなものだが、田舎には、その國の味がある。
05

 写真や記念品、造形物を「撮影禁止」とするか、ああいうものは、日本国民の遺産だったら、あるいは戦争を憎むなら、それを公開して・・・国民共有の遺産にするべきではないか。そんなことを常に思う。 

「葛飾区の昭和」いき出版から、昭和17年の水戸薬局前で防空訓練の状況の写真17使用許可が写真を持つ方から承諾を得たのだ。ブログでの使用は、どうなんだろう。疑問があるが、この写真で商売するわけではないから私的使用は・・・。が使用OKだと、電話が掛かってきた。ただ提供者の氏名を入れてほしいという。

 著名な出版物の著者の映像は、遺族が出版社に管理を委託していて、ブログ上でも使用させないでいる。しかし、現在のようにスキャンが発達していれば、ドコで使用されても、禁止できない。にも拘らず、管理をする出版社は、専属の管理者が目を光らせているようだ。管理費が出るほど、価値ある著作者に限るが。
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2016年5月12日 (木)

名古屋に転勤した野際陽子の泥棒にあった話

 名古屋に転勤した野際陽子の泥棒にあった話、アサイチでもきくべき黒柳徹子も勧める。ぜひきくべきだという。ちょっと長いですけど。000000・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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イノッチ:ここまで聞くと、聞きたくなる。
有働:かいつまんで
野際:ご存じないですか?簡単にいうと、(NHKへ)入局して名古屋へ赴任して、10月です。給料をもらいました。一万3650円。(今で言うと、二十万円弱)。(銭湯へ行って帰り)布団を敷いて、000013四畳半のキタナイ・・・イエイエ、キタナクない、小さな民間借り上げアパート、そこに布団を敷いて・・・したら、べニアのドアです。そこに、私はノレンをかけていた。カギはまだ8時過ぎだったからかけていなかった。そうしたら、スーッとあいたんです。ふっと、(ノレンの方を)見たのです。したらね、マスクした男がね、「なんですか?」と、牛乳の集金か新聞だと思った。そうしたら、スーッと入ってきて、私がこう(腹ばい)やっていると、バッとナイフを突き付けて、
イノッチ:ホントに?

野際:本当に。それで逃げようと思ったけど、こっちは窓が閉まっているし、もうこうなっているから「キャーッ」とものすごい声を出したんです。あの声はゼッタイ芝居では出せない声、絹を裂くような、この辺から、ピーっと出たのですけど、一声で止めたのですよ。理性が働いてしまって、
有働:なんで?
野際:騒ぐと殺される。
イノッチ:そこまで切羽詰まった状態だった。

野際:向こうも、ナイフを納めて、(私ハ)ガタガタ震えて怖いから、「何がほしいの?」と、馬鹿な質問したんです。決まっているんじゃないですか、そんなもの。
「カネだ」
そうだろうとは思ったのですが、震えながら「いくらほしいの?」と、とにかくしゃべっていないと、怖い。むこうは、そんな質問は、想定外だったらしく、「いくら」というのは、「200円」当時の価値でいうと今の5000円くらいですかね。
当時の給料が2万いくらかですから、ああーよかった。とにかく、私は給料日ですから。袋に入って有り金あるわるわけですから、パッととっさに布団の下に入れた。
有働:隠したんですか!
野際:ああよかった、有り金を取られなくて。有り金取られて殺される、まず思った。千円札しかなかったのです。
有働:あああ。000010野際:200円がなかった。どうしょう、どうしょう。200円がない。
「1000円しかないけど、おつりいただけます?」
イノッチ:はははは・・・。
野際:笑わないでください。本当に
イノッチ:・・の人が出せるわけないでしょ。
野際:そういったの、泥棒が。
「800円あるくらいなら、200円くれと言わない。」
有働:ああそうだわ!
野際:頭はいい泥棒だった。ああそうだな。でも、いったんは有り金で殺されると思ったのに、「200円」といわれたとたん、すべてが惜しくなったの。
有働:ワッハハ。
000019_2
野際:1000円、ここ(布団の下の月給)から出したら、有り金持っていかれる。と思った。200円にこだわって、じゃあね、寮はNHKが借り上げていたから、もすぐ他の人、男の人もいたのです。
「じゃあ、とにかく誰か帰ってきたら、あなたのことを絶対誰にも言わないで200円借りて、あなたに200円上げるから、というと
「信用できねえ」時々、へんなすごむ声をだす。「信用できね」とか。「じゃあ、一緒に煙草屋へ行こう」そこで崩して200円を上げます.
 どうしょう、どうしょうと思って、ピンクのお布団が敷いてあるし、だんだんそっちがこわくなってきた。
有働:ワッハハハ・・・。

野際:フッと見たら、ナイフは私の部屋の隣にある台所にある食事用のナイフであまり切れない。「あのナイフなら大丈夫だ」と思って、命の方は。布団敷いてある。首締めるという手もある。000022  とにかく、帰そうと思って、ガタガタ震えながら、
「どうしてこんなことするの。私こんな目に会うのは初めてだ」と言ったら、向こうも「おれだってこんなことをするのは初めてだ」で、 若いですよ、私より。たぶん。
「なんでこんなことするの?」
「女房が子どもを置いて出て行った。この寒空に」10月にね。寒いっちゃ、寒いですけど。シャツ一枚で震えているから。シャツ買ってやりたい。ウソかほんとかわからないけど。まあ、それはかわいそうだけど。 じゃあ、こうしましょう。
  200円ならば、タダの泥棒だけど、1000円とったら強盗よ。とにかく、惜しいわけですよ。
イノッチ:渡したくないわけね。
野際:そうしたら、いきなりね、ナイフ見られたと思ったみたいで、マスクをいきなり、パッと取って、私の手を(ちょっと手を拝借していいですか)こうやって手を掴んで、000024「姉さん、オレをサツにつき出してください」いやいや、「チョチョチョ。ちょっと待って、まだあなたは取っていないから、サツどこか、私はわからないし」
  だんだん、日本語もおかしくなってきた。
イノッチ:サツどこかわからないし。(笑い)

000026_2野際:まあまあ、いろいいろなことがありまして、
  そうじゃあね、わかりました。この千円あなたにお貸しします。あなた、まだ若いんだから、こんなことやっていないで、働いてちゃんとして、返す気があるのだったら、そのポストの中へ入れておいて頂戴。といったの。
   「イヤイヤ」と言っていたけれど、もうすぐみんな帰ってくるから。大挙してNHKの男の人が帰ってくる。帰ったほうがいい、といった。やっと帰した。

   したら、ガタガタと震えがカギをこうやって鍵ったってね、あんなところに年若いアナウンサーを住まわしておいたというほど、こんな鍵ですよ。真鍮でできた鍵ですよ。閉めてガタガタしていたら、

  仲間が帰ってきて「ノンコ!」とのんきな声出して・・・その話をチーフアナウンサーにして、しばらくしたら、手紙が来たのです。
   NHK名古屋放送局発送部野際陽子さんと発送部ではなく、放送部なんですよ。
イノッチ有働:間違えた?
野際:間違えたかどうか、わからないですけどね。
「こないだ怖い思いをさせて。働いて、なんとかおかえしします。心のやさしい姉さんへ」
   姉さんというのは、ドウモね。気に入らないのですが。
有働:イヤイヤ。それは、どうでもいいです。
イノッチ:ワハはは。
野際:「後悔している悪魔より」と書いてあるのです。その手紙をもっていればね、今、この話はウソではないと証明できるのだけどね。
有働:ウソじゃないですよ。それだけ、ディテールに詳しく話だから。
野際:これで、四回、五回話している。当時聞いた人は「あなたの話、微妙に違う」という人が出てきて、話しているうちに、おひれがついてきているのかもね。
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2016年4月21日 (木)

 亡くなった昭和4年の早生まれのT兄の思い出を

 手紙検閲 昭和25年頃 昭和4年の早生まれのT兄は、終戦後の風潮を一番謳歌していた。 人のいい兄貴だった。
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 10数歳も年下の弟や妹に、仕事をさせ紙で書いた約束手形で払って、最後に相当の金額をチャラにする兄だった。

 小5の夏休み、当地出身の十両の関取が来て、子ども相撲大会が横町で行われ、同級生のY君と取って、最初は先手を取られて負けたが、二度目は用心して実力を発揮して勝った。その賞品として、サイダーを商品に貰った。それを机の上に置て楽しみにして取って置いた。数日後、飲むと味がない。おかしい。水になっていた。サイダーの王冠はきちんと閉まっていた。うまく細工してあった。兄弟の中でこういうことをするのは、T兄しか頭に浮かばなかった。

  リーダーズダイジェストは、アメリカの雑誌の翻訳版だったが、兄貴は雑誌の折込ハガキを送って契約して毎月取っていた。この内容は、アメリカの雑誌の直訳であまり、興味引く内容ではなかった。
 東京へ来たとき、毎日新聞社と隣併せに「リーダーズダイジェスト」の日本支社を見つけたと奇妙な懐かしさを感じた。 兄はそれほど熱心には読んでいなかった。

 うちの兄弟で一番流行に敏感であったT兄は、ベレー帽を被っていた。近所とか、知り合いの女の子を集めて、手回しの蓄音機でレコードを掛けてダンスをしていた。 すぐ下の中学生の兄も、そういう音楽とかダンスには興味深々だった。

 時々、女の子がT兄を訪ねてきて、コソコソと外に出て行き、路地の陰の暗闇で立ち話をしていた。単に立ち話だったのか、何か知らないが、我々小学生がそれをつけて行って、のぞくのが当時の子供の楽しみというか、風習だった。

  田端義夫の「ハワイアン航路」の歌が流行っていたから、あれに影響されたのだろう。T兄は白いズボンにビニールの透明なベルトをしていた。透明のベルトも半年もしない間にくすんだ色に変色した。

 当時の芸能雑誌「平凡」には、田端義夫がハワイロケで現地の背の高い女性と親しくなって、結婚したという記事が載っていた頃だと思う。後に離婚したが。

 この投書の方の検閲された手紙の話で思い出した。
T兄のところに来ていた手紙も検閲してあった。ラブレターかどうかは、小学生の私にはよくわからなかったが、封筒の下がハサミで開けた後にビニールテープで「OPEN  HERE」だろうと思うが、「開けました」という意味が英語で書いてあった。

 開けた封筒の底が「接着ビニール」で閉じてあるを見て、ヘーエすごいものがアメリカにはあるもんだ、と感心した記憶がある。その頃は、日本にはセロテープもないし、張り合わせるには、うどん粉を煮て糊にしたものだ。市販の糊は「不易糊」が第一号だった。

  進駐軍は全国どの町にも来ていたのだろう。中津の町にも、軍人ではないが、教会に2名の若いGHQが二名滞在していた。彼らは、GHQを代表して教育委員会へ行って指導をしていた。

 車は、茶色の濃い色したジープではなくセダンとオフロードカーの中間の車種だった。それで町中を駆け回っていたから、目だった。

  中津の町では、英語が使える人は、商業学校の菅井先生、教会の水垣牧師、あと旧本陣の市岡先生(女性)の三人だった。

 市岡先生が一番若くて、このGHQに付き添って通訳をしていたと後に聞いた。昭和22年~25年ころだろうと思う。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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2016年4月10日 (日)

自分史を作る講座、隗よりはじめよ。

 誰にも相談をしていないが、“自分史講座”を始めると、どんな反響がでるか。文章に関する話、自分史という墓標、終活の考えの養成、あまりいいイメージではないが、老人がすべきことだろう。
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 自分を「高齢者」「老人」[シニア」と呼ぶだけのゆとりを持ちたい。
 これって、アレだね。子どもに向って「お姉さんがね」(おにいさんが)と自称していたのを「おばさんがね」(おじさんが)と変えて言うようになる“40代ギャップ”に似ている。
 

 客観的に自分を見つめるには、“自分”を振り返るのがいい作業だ。自分史とはいえ、きっとファミリーヒストリーだと思う。これを本にする。眼に見える文集化するところまで仕上げて終えるから、いい作業だ。ただ、一日で終えるとか、一斉には終わらないから、ソレが問題だ。 

 隗よりはじめよ。ということで、
_6603_2 小学生編(上・下)
序章:故郷の廃家
    中津川市内を歩く
 
②我が家の忘れられない日
復員兵が帰ってきた 昭20年秋
④継母となる母と始めてで会った
初恋の洋子ちゃん、今いずこ
文化新進会 町に戦後の風
第五福竜丸のマグロを食べた家
紙芝居おじさん 神主が副業
市内の企業野球チーム
めがねをはずせ、往復ビンタ
⑪ニセ「進物品」でだます.
保古沼でスケート
⑬もう一人の自分に向って

  一冊が36~38ページだから、内容がこれだけあると、多分、二冊に分冊しないと、収まらない。中学生編でも、同様かもしれない。
 自分史は、プライバシーを露出しないと書けないと思う人も多いから、その辺が吹っ切れないと、書けないかもしれない。特に見栄がネックだろうね。これをどう自分の中で折り合いをつけるかだ。
 Img_8119孔版印刷機を駆使すると、容易に本が作れると知れば、この印刷機が使われるようになっていいのではないか。

●お勧め深読みブログ

天皇実録完成 昭和天皇の生涯と戦争と関わり: 
「TSUTAYA」から増田 宗昭 自力発展に注目
三原じゅん子(参議院議員)の「八紘一宇」の意味
ノモンハン事件(昭和14年)から何も学ばないまま
負けて、勝つ 大柄渡辺謙 小柄吉田茂を演ず
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2016年4月 4日 (月)

「ふだん記」は「下手でいい、下手がいい」

 Rumoi201_2「ふだん記」という作文運動がある。
 橋本義夫先生は「だれもが書ける文章」を提唱。
 平成の始め頃に、「ふだん記」の活動に参加した経験がある。年配の人たちの文章掲載例会や、その後のハガキのやりとり、熱い息吹を感じた。
 例会のフィナーレは、手をつないで輪になって「星影のワルツ」を歌う・・情が濃すぎる印象だった。橋本義夫先生の遺志の尊重が説かれると、・・それを受け止める高齢者には、フィットしているのかもしれない。悪いことではないが、30代だった私には違和感を感じた。
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 橋本義夫先生は、1902年(明治35年)3月13日~1985年(昭和60年)8月4日。全国ふだん記運動創始者。川口村楢原の旧家に生まれる。68年「ふだん記」第1号を発行し、ふだんぎ運動を始める。70年ふだん記全国結成。78年「だれもが書ける文章」。ということで、「ふだん記」が始まる。

 多方面の文化活動を八王子中心に行っていた橋本義夫は、1985年(昭和60年)に亡くなったが、「ふだん記」は、作文は苦手だが自分の気持ちを表現したいという多くの人に支持され、全国展開した。文章は「下手でいい、下手がいい」ということで、自分の文章を発表の機会を得るゆえに、「ふだん記」文集が広がった。

 いちばんすんなり受け止めてくれる文章は、自分の失敗、こけた話がいい。自分が幸せだとか、優勝したとか、・・・うまくいった成功譚は、受けないとベテランお母さんが語っていた。貧乏とか、自殺寸前のお涙頂戴、ギリギリの話も最後に救いを書かないと・・・と教えてもらった。

あなたも書いてみませんか、と全国にグループが広がった。
Tokoro391_2ふだん記さいはてグループ   
ふだん記津軽グループ  
ふだん記帯広グループ
ふだん記江別グループ
ふだん記札幌グループ
ふだん記旭川グループ
ふだん記留萌グループ  
ふだん記みちのくグループ  
ふだん記春日部グループ
ふだん記所沢グループ 
ふだん記北見グループ 

Kitakyuu341ふだん記雲の碑(八王子)グループ   
ふだん記あいちグループ 
ふだん記静岡グループ
ふだん記東海グループ
ふだん記ヨコスカ(
2013年解散)
ふだん記四条畷グループ
ふだん記北九州グループ
ふだん記高知グループ

 千葉で「ふだん記」を結成したけれど、中心になってまとめてくれていた人が、病気になって、なくなっYokosuka521た途端、消滅してしまった。

 千葉グループ結成の際、ヨコスカの小船町で居酒屋をやっている
という肝っ玉かあさん風の方たちとグループになった。以後、「ふだん記ヨコスカ」に投稿していた。投稿しないでも、「ふだん記」を送って頂いていた。肝っ玉かあさん、数年して体を壊して、その後、ご無沙汰しているうちに音信フツウになった。
 高齢者は、音信フツウになる前に、「以後年賀状の・・・を辞退します」と挨拶状がくることがある。ここ数年、数枚は頂いている。さびしいものだ。

 新発想!これを、郵便局が、住所宛名を受け取って「永代供養」代わりに自動的に発送をおまかせで送り続けたら、どうなんだろう。生きていると思っている間に、フェイドアウトするなんて・・。
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