故郷郷愁

2019年8月24日 (土)

戦場からの恋文(中日新聞社)フィリピンで散った 青山ふゆ先生の夫

 中津高校OBには、「旭陵新聞」が年に一回は送られてくる。そんな新聞、タマタマ一年以上前のもの読んでみると、恩師の訃報が載っている。今回、高一、高二で接した花田春雄(数学)、高橋照子(音楽)、土屋甲子朗先生が、熊崎公平(高3担任)先生が鬼籍に入られた。03_203_303






 

02 
熊崎公平(高3担任)先生は
弔辞 熊崎公平先生
被爆死体片付けた 広島高師の学生:
 公平先生には、銀座のライオンで一杯ゴチになったことも、同じ町内(本町)だったので、お母さんの焼き芋屋にはお世話になった・・・。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「★読んで頂いたら、★1日1度クリック」 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います お気に入りに追加 
ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その横には、青山ふゆ先生の出版が報告されていた。
「戦場からの恋文」=私家版「防人通信」(青山フユ先生)のリメイク版らしいが、フィリピンで戦死した夫の手紙が・・・とあるから、先生のことも知りたいと図書館にリクエストしたら、昨日借りることができた。

 

01
A_21 郷里の高校恩師だから、なにも言わなくてもわかる人にはわかるが、一般の人にわかりやすくいうと、
 “顔の輪郭”と“くぐもった発音”が、(よく言えば)桃井かおりに似ている。もちろん、昭和30年代、授業中に桃井かおりの雰囲気や匂いはないが。

 

 

  青山ふゆ先生は、地元の中津女学校を卒業して東京女子師範(お茶の水女子大)卒というめった輩出しない才媛・・・昔、女子に東大という選択肢あれば入ったかも。稀有な才女だった。岐阜師範はあったが、田舎女学校から東京女子師範は珍しかっただろう。だからか、めった褒めることがなかった気がする。
 そして、昭和30年代、中津高校の国語教師を続けていた。てっきり、オールドというかハイミス先生だと勝手に思っていた。国語の先生には、もう一人、東京女子大卒の歯科医院のお嬢様先生がいたから、生徒の目はそっちに行っていた。

 

Photo_4 夫の青山泉と言う人の家系は、苗木藩(親藩)の士族の系統の分家らしい。幕末、平田篤胤の廃仏毀釈の国学系思想が中津宿の周辺は盛んだった。そのとき、中津の中心人物に青山という姓が出てくるが、この運動に係ったか、その辺はわからないが、中津にはありがちの姓である。幕末の思想で動いた人物、中津では、間、市岡、青山などがある。

 

 青山泉は、苗木小学校を卒業したのち、長野県立木曽山林学校へはいった。修業年限四年、旧制中学と同格で、1923年(大正12年)卒業後は国の林野局か、府県の林野部局に配属される。彼は、当時、日の出の勢いのあった、東京駅を請け負った大林組に入って、理工技術系サラリーマンとなった。

 当時、戦争になったらいい位置で出征したいという意識があった。一年志願入隊をすると、除隊するとき、予備少尉になって、本当の戦争で徴兵された場合、平の兵隊にならないで済む。二等兵と少尉では、天と地ほどの差がある。チョット世渡り上手の家族は、一年間志願入隊をしておく。
 軍隊としては、下級指揮官が欲しいから、知識学歴のある信頼に足る男子が、士官学校ではなくても、少尉になれる道があった。ただし、生活衣服代として、一年間で240円を支払う必要があった。もっとアレな人は、軍の経理学校に入って、主計将校になる道を選んだ。砲弾の落ちる戦地には行かないで済むというが、そう甘くはない。戦後活躍した人には、そういう人が多い。一方、特攻の生き残りも、活躍した。

 

0404_2 青山ふゆは、中津市坂本小学校教師の父加藤龍三、かく夫婦九人兄弟の長女。父の転勤のよって、恵那郡長島→久須美小→美濃福岡小→中津高女→東京女子師範(御茶ノ水女子大)→愛媛県の師範学校女子部教諭兼舎監。
 青山泉は、苗木小学校→長野県立木曽山林学校(四年)卒業後は東京駅を請け負った大林組のサラリーマン。

 

 二人の出会いは、ふゆが愛媛県立師範学校で教諭しているとき、坂本へ夏季休暇で帰省した帰り、中津の“すや”へみやげを買いに来た。そのとき、“すや”赤井九兵郎に嫁いでいた四姉照を苗木に住んでいた青山泉が訪ねていた。ふゆの話し方、振る舞いに、ぜひ彼女を紹介してほしいと姉照に頼んだのが最初だという。

 

707 姉は「東京女子師範(御茶ノ水女子大)卒の才媛が苗木に来るわけないでしょ」と言っていたが、二人を会わせると、彼の風貌と文学の造詣が深いことにふゆのほうが好きになったようだ。
 身長は書いてないが、泉は体重70数キロというから、昭和のはじめでは大柄だ。ふゆ先生、国語国文の話ができる男性にめぐり合って、会話が楽しかった。親しく話せば話すほど、度量の大きさに気持ちが傾いて行ったに違いない。というのは、推測であるが。

 

「戦場からの恋文」内容を読むと、夫泉さんの文面には、何を書いても通じるんだという融通無碍の雰囲気がありありだ。相手が才媛ではあるが、朋友、親友の仲間意識があり、昔の男性にありがちな・・・でなく、近代の男女関係で書かれている気がする。

 

 二人は、昭和10年3月28日、中津の梅信亭で挙式。
 愛媛の学校は退職し、彼の仕事で浜松の百貨店建設があり、暫くは浜松に専業主婦として、
この楽しかっただろう。浜松の百貨店建設が一段落し、その三年後、名古屋市千種区元古井町の借家に居を移した。それから愛知淑徳高等女学校へ勤務し始めた。

 

 昭和17年に召集令状が来て、実質7年で結婚生活は終わった。3月17日に岐阜駐屯地を出て、広島の宇品港から出航し、フィリピンのルソン島に着く。そこで訓練を受けて、パナイ島に赴く。Photo このときから、二年半、ふゆとの手紙のやり取りが続く。04_3 たったの二年半、戦地に送ったふゆの手紙は一切ないが、泉から来た手紙類は彼女に寄って大切の保存されている。

 

 最初に届いた『戦場からの恋文』1号は、穏やかであったが、2号では大変なことが書いてあった。パナイ島イロイロ病院に入院中とある。パナイ島上陸一週間くらいのとき、66 部隊がトラックで進行中、地雷を踏んで横転したところをゲリラに銃撃され、青山泉少尉は右腕を撃たれ静脈を切って大出血。腹に巻いているサラシで止血しながら、左手でピストルを打って撃退した・・・とある。応戦中に中隊長以下応援が来て、事なきを得たという。右中指と薬指がうまく動かないが、二三年すれば、大丈夫だとケガに負けない文章である。二日後にイロイロ病院へ入院。

 

 戦地から届く手紙は、まとまって届いたり、あるいは、特に、制海権、制空権を日本軍は失っているから、出したはずの手紙が届いていないことが多いはずだ。昭和19年10月が最後になった。

 

04_4 文通できたのは、内容的には普通の兵士なら書けない内容を伝えているが、これは青山泉が検閲する側の責任者にいたからだと「戦場からの恋文」の監修者がいう。
 私家版「防人通信」から、中日新聞社出版となったとき、監修者がついた。監修者宮地正人は千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館学芸員、舘長。私が見た「
佐倉連隊にみる戦争の時代 : 」(2006年)展示会を取り仕切った責任者のようだ。
 監修者がつくと、資料の文章で内容チェック、読みが深い。さすがであると感じた。
 フィリピンの島々には、結構広い島がいくつかあって、ヨーロッパのオランダとか、アメリカからも移住者がいて、日本が統治している間には、彼も楽しい生活があった面もある。

●最短で学芸員資格を取得する方法
 大学で「博物館概論」や「博物館情報・メディア論」などといった博物館に関する授業の単位を19単位、専門分野の単位(専門はは歴史系)「考古学」や「民俗学」の授業などを10単位取り、また、「博物館実習」として4年生の夏に一週間前後、博物館へ実習すると、卒業と同時に資格を取得。 この方法では、試験などはなく、大学で必須単位を取るだけで資格が取得できる

 最後はどうなったのか、昭和20年9月23日、マラリアと栄養失調で餓死・・・とある。捕虜収容所に入っていたのか、不明だ。病院死のような印象である。死後の妻の日記は短い・・・たぶん、手紙は長いものだったはずだ。

 

〈おまけのエピソード〉
 女性から手紙が兵隊にくると、回りの先輩が冷やかして囃し立てて、手紙の全文をみんなの前で朗読させたと聞いたことがある。女っ気が少ない戦場の乱暴な楽しみだったかもしれないが、イジメ、プライバシーまるでない・・・兵舎だった。と聞いた。
 青山泉は
少尉だから、下のものがアレコレ言える立場ではないからよかったかもしれないが、イロイロ言われることはあっただろうね。やっぱり、二等兵はつらいよ。やはり尉官レベルで出征したいものだ。

 ふゆさん、愛する夫への思いは切ないものがあだろうが、仕事を持つ女の強さか、偉丈夫の彼のことを「子」と言って、掌に載せて愛でるかのような表現で書いてある。さすがふゆ先生、感情を抑えている。

 

 青山ふゆ先生、授業には一切夫、彼のことは言わなかった。昔の女性、そういう面を一切出さないでやっていたのだね。先生の国語で「寒山拾得」をまとめる司会役に私が当たった話・・・結局、私では授業が進まず終わりになった話、覚えている?どっかに書いたから、探してください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「★読んで頂いたら、★1日1度クリック」 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います お気に入りに追加 
ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Sponsored Link
 

 

Kanban2データ入力 
http://www.nozawa21.net/データ・名刺入力/

顧客名簿作成・名刺データ入力・DM宛名シール作成。様々な形式で作られたデータの同一形式での統一化。手書き原稿のデータ化。《→データ入力詳細へ    

 

アンケート入力
各種調査アンケート集計
《→
アンケート入力詳細へ
 

 

録音テープ起し
 講演・講義・取材・座談会など。様々な媒体の音声のデータ化。 オプションサービスとして、出張録音(機材持込可)・原稿要約いたします。 《→
録音テープ起し詳細へ》 
録音起こし依頼側へ  
講演などの録音は、
①講演者から1.5m以内でICレコーダーで録音。
②講演会場の自席でスピーカー通して録音。
 ①と②では、作業担当者には、大きな違いがある。①の場合は、ほとんど資料など必要ない。 ②は、聞き違いが生じる
 

 

Dropboxge_3 最近お勧めはDropBoxです。 
*ドロップボックスへ音声ファイルを入れると、即刻、デスクトップ上に届く。現在1回20GB(音声30時間)受付可。
 即日、専用ドロップボックスを用意します。
 バイク便より確実で早く、料金のご負担もない。
 (宅急便で、SDカード、CD、DVD送付でもOK。)
執筆代行 ゴーストライター (原稿作成)
 自身の経験・原案を一冊の本/講演スピーチに/
 
 著者からテーマを聞き出し、取材して“言いたいこと”を原稿作成。出版社・印刷所に出せる体裁に。《→執筆代行詳細へ                                                         

プライバシーマーク認証 研修済み 証明書番号1483
当社はベテランオペレーター40名
Microsoft Office User Specialist 有資格者


問い合わせ窓口 ←クリック

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

| | コメント (0)

2019年5月16日 (木)

 亡くなった昭和4年の早生まれのT兄の思い出を

 手紙検閲 昭和25年頃

 

昭和4年の早生まれのT兄は、終戦後の風潮を一番謳歌していた。
人のいい兄貴だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ブログランキングに★クリックお願いします★」
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います
 お気に入りに追加  ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 10数歳も年下の弟や妹に、仕事をさせ紙で書いた約束手形で払って、最後に相当の金額をチャラにする兄だった。

 

 小5の夏休み、当地出身の十両の関取が来て、子ども相撲大会が横町で行われ、同級生のY君と取って、最初は先手を取られて負けたが、二度目は用心して実力を発揮して勝った。その賞品として、サイダーを商品に貰った。それを机の上に置て楽しみにして取って置いた。数日後、飲むと味がない。おかしい。水になっていた。サイダーの王冠はきちんと閉まっていた。うまく細工してあった。兄弟の中でこういうことをするのは、T兄しか頭に浮かばなかった。

  リーダーズダイジェストは、アメリカの雑誌の翻訳版だったが、兄貴は雑誌の折込ハガキを送って契約して毎月取っていた。この内容は、アメリカの雑誌の直訳であまり、興味引く内容ではなかった。
 東京へ来たとき、毎日新聞社と隣併せに「リーダーズダイジェスト」の日本支社を見つけたと奇妙な懐かしさを感じた。 兄はそれほど熱心には読んでいなかった。

 

 うちの兄弟で一番流行に敏感であったT兄は、ベレー帽を被っていた。近所とか、知り合いの女の子を集めて、手回しの蓄音機でレコードを掛けてダンスをしていた。
すぐ下の中学生の兄も、そういう音楽とかダンスには興味深々だった。

 

 時々、女の子がT兄を訪ねてきて、コソコソと外に出て行き、路地の陰の暗闇で立ち話をしていた。単に立ち話だったのか、何か知らないが、我々小学生がそれをつけて行って、のぞくのが当時の子供の楽しみというか、風習だった。

 

 
田端義夫の「ハワイアン航路」の歌が流行っていたから、あれに影響されたのだろう。T兄は白いズボンにビニールの透明なベルトをしていた。透明のベルトも半年もしない間にくすんだ色に変色した。

 

 当時の芸能雑誌「平凡」には、田端義夫がハワイロケで現地の背の高い女性と親しくなって、結婚したという記事が載っていた頃だと思う。後に離婚したが。

 

 この投書の方の検閲された手紙の話で思い出した。
T兄のところに来ていた手紙も検閲してあった。ラブレターかどうかは、小学生の私にはよくわからなかったが、封筒の下がハサミで開けた後にビニールテープで「OPEN  HERE」だろうと思うが、「開けました」という意味が英語で書いてあった。

 

 開けた封筒の底が「接着ビニール」で閉じてあるを見て、ヘーエすごいものがアメリカにはあるもんだ、と感心した記憶がある。その頃は、日本にはセロテープもないし、張り合わせるには、うどん粉を煮て糊にしたものだ。市販の糊は「不易糊」が第一号だった。

 

 
進駐軍は全国どの町にも来ていたのだろう。中津の町にも、軍人ではないが、教会に2名の若いGHQが二名滞在していた。彼らは、GHQを代表して教育委員会へ行って指導をしていた。

 

 車は、茶色の濃い色したジープではなくセダンとオフロードカーの中間の車種だった。それで町中を駆け回っていたから、目だった。

 

 

 

中津の町では、英語が使える人は、商業学校の菅井先生、教会の水垣牧師、あと旧本陣の市岡先生(女性)の三人だった。

 

 市岡先生が一番若くて、このGHQに付き添って通訳をしていたと後に聞いた。昭和22年~25年ころだろうと思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ブログランキングに★クリックお願いします★」
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います
 お気に入りに追加  ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

| | コメント (0)

2017年11月 7日 (火)

中学生日記 昭和28年から30年 同窓会で昔話を語る

 数え年で「傘寿の同窓会」を郷里岐阜県中津川市へ帰り、湯舟沢のクワハウス華更紗で同窓会。そのとき、話したのは、中学生時代のことであった。小学生時の思い出とともに中学生時代。その後、50代で亡くなったA君との交流について語った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ブログランキングに★クリックお願いします★」
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います
  お気に入りに追加  ブログ村
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 昭和28年(中学2年)
 中2~3担任は、中津高校創立者の間家の孫にあたる間太利先生。女の独身先生(38歳)であったので、反抗期の我々と波長があうか、そのことで波乱あり。数年前、98歳で他界。
 
0372
5/29 栄町三井金物店(現在ビジネスホテル栄)にテレビ設置、もちろん白黒TVをYツーちゃんと見に行ったら、栃錦と吉葉山の結びの一番、吉葉山の勝ち。中継アンテナ基地もきちんとできていないから、雪が降っているような画面であったが、中津で初めてのテレビである。
6/16 深夜、栄町旭パン工場から出火、12軒が類焼。寝巻きのまま出かけ、中津川駅の端から眺める。翌日は現場へ英語の塾へ行く前に見に行った。歩数で数えたら68歩。見当では40メートルくらい類焼、焼け跡は独特のにおいだった。
8/03 近くの川でウナギを捕まえた話、全く個人的な話題なのに、意外と「どうした?」と興味もっていた。(そうか、これは、赤字の評があった。太利先生に提出した日記という話をするのを忘れた)
9/29 乙姫岩は遠足した。先生は38歳、16貫の体型だったコロ。日がカンカン照りで「帽子をかぶらないと、はげるよ」と注意された記憶を語る。
10/09 青木、安江両君が、10円玉三個つかって髪の毛を抜くイタズラ。
10/14 映画「夜明け前」を旭座で見た。「前代未聞、前代未聞」と言って隣のおじさんが青山家へ入ってくるシーンが印象的であった。最後、青山半蔵は、座敷牢で狂って死ぬ。
11/10「生きている兄」長尾先生、音楽の時間に、長い作文を録音で聞かせた。北海道で遭難した兄を偲んで書いた優秀作文。
11/29 秋の文化祭で演劇「ウイリアムテル」O君、迫真の演技、本田先生の批評。
あのとき3年1組が「とししゅんは」と印象的な声で愛ちゃんが・・・桃源郷
6組は「クリスマスキャロル」で、勝野が印象的だった。
昭和29年
3/01 間先生宅へ勉強を教わりに行って上がらず、逃げ帰り、フジスポーツ運動具店S君宅へ上がった。「魔弾の射手」レコードを聴いた。
3/07 文集「鉄の玉」作成、黒塗り(反戦思想と男女交際記事を学校から禁止)
3/11 K納君の腕の骨折、M得君と相撲していて、
3/20 生徒会選挙 浅野勇生徒会長当選。会計T時子(応援弁士N育子)ここまでが中二、一年間の話である。
 
昭和29年(中学3年)
4/09 転校生N穂波、初登校。
4/12 小木曽独行(聾唖者)の講演会、聞き取りにくい話だが、生きる意気込みだけは伝わった。
4/21 「心臓破りの丘」(映画)旭座で見る。
4/20 根ノ上高原へ遠足
4/22 「恵麓新聞」二中わんぱく少年、K先生部顧問、 
4/26 反省学習(数学)100点とったのは8名いて、それが本日出席者5名入っていた。入っていない人には差別になるか、気になる記録である。T時子、N純子、H昇、I和子、N育子、私、+1名。
5/02 休日を利用して「次郎物語」第一部、第二部読む。次郎の母お民が乳が出ないので、お浜に預ける。五年位たって次郎を返してもらうが、お浜が恋しい次郎は・・・
6/18 「禁じられた遊び」映画を旭座で見る。
   このころ、「本州製紙」の工場見学
7/20 ホームルームの議長がHであったが、進め方が独断的であった。
7/27 午前10時30分からプール監督に行った。橋場先生が見えた。監督日誌をつけて帰った。
9/06 二中開校6周年記念式
9/17,18京都、奈良、修学旅行へ 台風14号、最悪な天候であった。(松島さんが盲腸で急病で校長の付き添いで帰る)
9/27 台風15号、青函連絡船洞爺丸ほか数隻が沈没の大事故。
9/29 運動会 朝は雨降っていたが、運動会が始まると晴れてきた。
    応援団長で、声がかれた。
10/3 PTA連合運動会 またもや、応援団長で、声がかれた。
10/8 後期生徒会役員立候補の立会い演説会。司会進行を担当。
10/11浅野君と成人指定の映画「どぶ」と「愛」二本立てを見に行く計画。
   後日見て、売春映画で、乙羽信子が薄汚いと感じられ仕方なかった。
10/16~一週間、職業実習期間、これも、それぞれの立場から思い出があり、発言多し。
10/23 HR運営委員会、先生イジメをする計画を語る反抗期の三年生。
10/30 映画「破戒」を見た。部落民の身分を隠して丑松は教師だったが・・・
11/01 学校劇「恩讐の彼方」企画、脚本作成から浅野君の活躍。
 A勇、K勝也、S原英亮、Nら、男ばかりの劇だったが、
11/02 落合のトンネルの上の「見晴公園」で写生大会。距離は、乙姫岩より近い。
11/17 生徒工場裁断機で、M君指切断。(アルバム作成中)
11/18 旭座で「二十四の瞳」を見た。“浜辺の歌”が印象的だった。
11/26 練習。雨の一日。11/29・12/01(PTA総会で披露)
 長いキセルであばずれの女役をやった彼女の親が、ウチN尾さんの母に「あんな役」と嘆いていた話など、半世紀越しで聞いた。
12/08 文集「岐路」の作成開始 100部作成予定で、半分を販売計画
12/18 土曜日だったので、A君宅へ午後2時から午後7時まで、たっぷり話し込んできた。
    帰りの中村用水路脇を自転車で走るのはこわかった。
12/21 深夜の火事、中部電力の火災
昭和30年
3/01 文集「岐路」錐で綴じて完成 その後、キリをつかってダーツで遊ぶ。
3/11 卒業記念の会食会、二中ケーキ、N育子、お富さんを歌う。
      中川先生、村の壷に酒を集めたら、水ばっかりと言う話
3/18 (中津)高校入学試験雨。大雨の中、高校の坂を上る。
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ブログランキングに★クリックお願いします★」
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います
  お気に入りに追加  ブログ村
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  今回、私の故郷中津川市へ帰ってきました。
メインの用事は同窓会でありましたが、
中学2年で3年までの二年間の担任(間太利先生)の家も伺ってきました。姪ごさんがいるだけになっていたが、ちょくちょく伺っていた昔のままでした。
 今は、写真と明かりがともる仏壇に手を合わせて、ひと時を過ごして参りました。
 
 同級生のお母さん、母親が女学校の同期である。したがって、私たちは同期の子たちで、太利先生は、自分の子供のような心境で接していたと想像している。
 先生の家は、中津川市の目抜き通りで、江戸時代以前から、祖先は名家として名が通っている家柄だった。島崎藤村の「夜明け前」、幕末志士に協力する活躍ぶりが触れられている。また、三代前の当主間杢右衛門は、町を見下ろす旭丘に、岐阜県で二番目に古い「(中津)女学校」を作り県に寄付。今の県立中津高校になっている。
 
 そういうことは、大人は知っていても、中二の我々には関心がない。見れば太目の中年オールドミス、中学生の特に男子には、印象は悪かった。なんで隣りのクラスは30代の男先生なのに、なんで?という印象だった。
 先生、教える教科は、数学と理科がメインだった。
 ピアノも弾けるから、クラスの主題歌を作ろうと言い出したのは、先生だった。朝の歌は決まらなかったが、「帰りの歌」中津川市の西に笠置山があり、“笠置の山も黄昏れて♪…”と、二年間歌ってから、帰っていた。文句をいいつつ、従っていた。
 先生の体重は、16貫目(3.75 ㎏×16=60㎏)あった。
 教育の場で生徒と戦うには、これくらいあったほうが良かったかもしれない。当時はダイエットなんて感覚はないから、太めは太めで個性で通っていた。
 四つ目川の花壇つくりで、クラスで作業していたとき、不真面目で作業をしないA君を叱りつけ、大柄な彼をぶっ飛ばした。中三の男子をリードするには、体力があればこそだと思った。
 私はホームルーム中、先生の説明を妨害して、ヤジを繰り返したら、教壇から下りてきて、一発頬をぶちかまされた。
 その日、先生は夜になって学校帰り、私の家へ来て、父と母に
「●君を、こういうわけで、ブってしまいました。すみませんでした」
と詫びているのが聞こえた。先生は、こうして叱りつけたあと、必ず、生徒宅へ放課後でかけて、しかりつけてぶっ飛ばした事実を親に謝罪していた。
 学校の校区は、円で描けば、半径でも40分~50分はかかるだろう。その生徒の家を知っていた。毎日のように、誰か休んでいたり、問題があれば家を回った。
 そのときは、先生ってこういうものだと思っていたが、授業以外の部分で並々ならぬ努力をしていたのだ。授業で勉強を教える部分より、授業外の生徒のケアに努力していた。と今になって痛感する。
 中学二年、三年生の頃は、先生の困ることを次から次と起こして、それを楽しんでいた。
 

 私たちの中学は、勉強より、イロイロな面の活動が盛んであった。
 文化祭で演劇をクラス単位で行った。二年では「ウイリアム・テル」、三年では「恩讐の彼方へ」(菊池寛)を行った。
 また、毎年クラス単位で文集も生徒が自発的に作った。「(二年)鉄の玉」「(三年)岐路」を製作した。勉強以外の面では、かなり充実していた。
 三年の文集作成過程で、集金していたお金が紛失して、編集委員として残っていた人に疑惑がかかり、
「机の上にカバンを置いて廊下に出なさい」と、
 一人ひとりにお金を盗んだ事実を確かめ始めた。先生一人でカバンを一個一個チェックして検査した。
 すると、「そんな疑惑を掛けるなら、編集委員を辞める」
 と生徒会長だったA君が言い出た。
 Aクンは、編集委員全員を引き連れて、ストライキ風に先生に反抗して立ち向かった。先生として、盗難問題を解決しなければならないし、文集作業の頓挫も困る。先生は授業の終わったあと、
編集委員の家を一軒一軒、夜遅く訪ねてきた。広い校区を先生は車ではなく、歩いて回っていたから、すごく大変な労力だった。
 盗難問題に疑惑で、「編集委員を辞める」というAクンの論理に疑問を感じていたので、私は「編集委員を辞めるつもりはない」と、訪ねてきた先生にいうと、ホっとした表情になったのが印象的だった。私の家を最後に(緑町の)自宅に帰るのだろう。
 お金の盗難疑惑は、先生の労苦で解決したが、犯人の個人名は最期まであいまいのままにして終わったが、父親が先生に謝罪しに来た姿を見かけたという情報で一部の人にはバレた。
 体育祭は、もちろん、遠足もある。クラス役員は、級長、生徒会議員、等の生徒会活動もある。生徒会会長にも立候補し、当選することもあった。
 
 先生は、中津女学校第25回卒業110名(昭和8年3月)の中にいる。うちの父の妹四季代叔母24回、美世叔母が26回卒業の間である。
 昔は17,18歳で
高等女学校を卒業すると、一年目から和裁を習い、料理とか、花嫁修業した。その間に、見合い写真が回り、数年のうちに結婚が決まるのが普通だ。
 ところが、女学校時代の同級生が花嫁修業しているのに、親の反対を押し切って大学へ行って教員になった。
 
 先生とは、私は大学へ行っている間も、社会人になったのちも、帰省するたびお目にかかって、いろんな話をしていた。
 生徒がその後、どうしているか、いつも世話し続けている印象がある。ご自身のことは放置して、生徒の結婚の世話や問題を起こした生徒の始末に奔走していた。そんな
公表できない話も、片手にあまる。両手を広げて受け止めるほどだ。

| | コメント (1)

2017年9月28日 (木)

田舎の店で緑色のシュワーとする飲み物を飲んだ。

 昭和21年、小学一年生の私は、夏休みの宿題の習字を書いていた。夏休みの終わりで宿題に追い詰められていた。もう、やっつけ仕事でもいい終わらせたらいいという気分である。私の字があまりにも、いい加減で下手なのを見て、兄が手伝おうとして、私の背中から手を掴んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ブログランキングに★クリックお願いします★」
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います
 お気に入りに追加  ブログ村
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 研修医として郷里に帰ってきていた兄が、母が亡くなって兄が親代わりになっていた。みんな兄の威令に従う風になっていた。その式で、私にも兄は習字を書かせようとしていた。
 
Naku1  私の筆を持つ手を握り、兄の動かすように文字を書いているが、それでは自主的に書くとまるで兄の字とは違う下手な文字になる。再度、手を持たれて書かされて、今度は私が書くと、兄の満足できる文字にならない。それを何度繰り返しても、きれいな文字がかけないから、だんだん、兄はイライラして大きな声で叱りつけた。
 そうすれば、立場の弱い私が泣くしかない。泣かれては、もう兄は始末に負えないから、放り出して、外へ出て行った。
 
 めそめそしている私に姉が外へ誘ってくれた。
 夏の夕方は、少し黄昏ていた。姉の友人がきていたので、いっしょに中津川の駅前通りに出て、喫茶ルームような店~キリン亭に入った。NHK朝ドラ「ひよっこ」の“鈴ふり亭”のような店だった。
 駅前なのに店の前に川が流れていた。夕暮れて、ガラス窓は青やオレンジに内側の光が美しく見えた。戦後間もない時には、明るいというだけで、時代の変化を感じたのである。ドアを開けて中へ入ると、部屋は金魚鉢の中にいるような雰囲気。天井からなにか、きらきら光る紙がつるしてあった。
 部屋の中を不思議なものを見るようにキョロキョロしていると、盆に乗ったガラスのコップに緑色の飲み物が運ばれて来た。
 ストローで飲み物を飲むのも初めてだった。姉と姉の友達は、それぞれ慣れた調子でしゃべっていた。私は一人、この緑色の飲み物を眺めて、底から泡が立ち上って、表面にでて弾ける音を見ていた。シュワシュワと聞こえるこの音が、夏休みの一日が闇の中に消えていくように思えた。惜しみつつ全部飲んだころには、すっかり気分が良くなっていた。
 その後、このキリン亭へ一度も行かなかったし、このようなスッキリした味わいは体験しなかった。このキリン亭もすでに廃業してなくなっている。 夏、終戦直後の田舎町中津川の思い出である。
 その兄は,栃木県矢板で外科医院を開き、60数年後の今年1月に亡くなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ブログランキングに★クリックお願いします★」
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います
 お気に入りに追加  ブログ村
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

| | コメント (0)