日本史

2016年8月20日 (土)

関東大乱 メモ資料 長尾景春の乱 (Wikipedia参考)享徳の乱

 長尾景春の乱は、文明8年(1476年)~文明12年(1480年)にかけて起こった関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。
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 永享の乱(永享11年:1439年)で室町幕府によって滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児成氏は鎌倉公方として迎えられたが、享徳3年(1454年)に父の遺恨から“関東管領上杉憲忠氏”を暗殺し、上杉氏との全面戦争を始めた。
 成氏は、上杉氏を支援する幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を逃れ、下総古河城に拠って古河公方と称し、両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)及び幕府から派遣された堀越公方足利政知(8代将軍足利義政の異母兄)との抗争に突入した(享徳の乱)。

 山内上杉家と扇谷上杉家は上杉氏の同族だが、関東管領職は山内家が継承しており、扇谷家はその分家的な存在で所領も山内家の家宰長尾氏の半分もなかった。
 古河公方との戦いで、扇谷家は山内家を支え、扇谷家の家宰太田資清(道真)と資長(道灌)父子の活躍によって、その力を増していた。太田父子は岩槻城を修築し、河越城、江戸城を築いて関東における拠点を確固たるものとした。

 享徳の乱は、20年続いた。両上杉家の主力は北武蔵の五十子陣に陣を敷いて古河公方と対峙していた(五十子の戦い)。
享徳の乱(文明7年~文明9年1月)★

 文明5年(1473年)、五十子陣で、主力の山内家の長尾景信(白井長尾家)が死去し、家督が子の景春となったが、家宰職(陪臣だが関東管領の補佐役)は、家督の景春の叔父長尾忠景に与えた。

長尾氏は白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、鎌倉長尾家(後の足利長尾家)に別れ、持ち回りで家宰職を務めていた。しかし、本来は長尾氏の嫡流である鎌倉長尾家とそれに次ぐ犬懸長尾氏から輩出され、両家が当主の不在や幼少などで適任者を欠く場合に白井・惣社両長尾家の長老から選ばれる仕組みであったと考えられている。

だが、上杉憲忠殺害事件の時に鎌倉家当主長尾実景とその息子で犬懸家を継いでいた憲景がともに殺害された影響で、家宰職が景春の祖父景仲、景信と2代続けて白井家から出る事になった(景仲次男であり、景信の弟である忠景は対抗馬になり得ない)。この論理で行くと、次期家宰職の最有力者は足利長尾家(鎌倉長尾家が足利荘に移転した)の長尾景人であったが、景信の死の前年に若くして没し、後を継いだ息子の定景や犬懸家当主である景人の弟房清は家宰職を務めるには余りにも若かった。

 そのため、一族の長老となり、景仲よりも以前に家宰を務めていた養父の長尾忠政の没後に武蔵守護代など家中の要職を務めてきた忠景が家宰職になる事はこれまでの選出方法から考えれば不自然な人事ではなかった。その一方で2代続けて家宰職を出した白井家の力が強くなりすぎることを嫌った上杉顕定は家宰職を景春ではなく忠景に与えたという側面もあった。

 だが、景春はこの人事を深く恨んだ。
 景春は縁者(従兄弟)である太田道灌に同心を求めるが、道灌はこれを拒否して直ちに五十子陣にいた顕定と主君の扇谷家当主上杉定正のもとへ向かう。道灌は顕定と定正に景春を懐柔すべく、忠景が景春に武蔵守護代を譲るように進言するが景春が自分に次ぐ立場になる事を嫌った忠景は異例の両職兼任を行い、それならば忠景を一時的に退けるよう進言するも顕定はこれを受け入れず、ならば直ちに出兵して景春を討つよう進言するが、古河公方成氏と対峙している状況ではそれもできないと取り上げなかった。

 そして何よりも足利長尾家(長尾景人)亡き状況で、長尾一族の長老である忠景が家宰に就任するのは当然で、景春の主張は不当のものだという考えが、顕定・忠景だけでなく他の上杉氏重臣の間にも強く、忠景を一時退ける様に顕定に諫言した道灌は却って父の道真に叱責される有様であった(『太田道灌状』)。

 道灌が今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた文明8年(1476年)6月、景春は武蔵鉢形城に拠って反旗を翻す。顕定・忠景は未だ景春の力を軽視していたが、景春は優れた武勇の士であり、2代続けて家宰職を継いだ白井家の力は他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が続出する。

五十子の戦い(長尾景春の乱
 その後も古河軍と上杉軍は五十子で睨み合いと小競り合いを繰り返し、関東各地で一進一退の戦いを繰り広げていた。ところが、文明5年(1473年)関東管領家である山内上杉家の家宰長尾景信が死去し、続いて扇谷上杉家の上杉政真が五十子での攻防戦で古河軍によって討たれてから、にわかに状況が一変する。
 家宰を継げなかった景信の子・長尾景春は顕定を恨んで成氏方に寝返って挙兵する。

 翌文明9年(1477年)正月、景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲し、顕定と定正は大敗を喫して敗走。18年に渡り、対古河公方戦の最大の防御拠点だった五十子陣は景春の僅かな兵によって落とされてしまった。顕定と定正は上野へ逃れる。

 長尾景春の挙兵に相模の小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎、小沢城 (相模国)(神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助、溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)、そして小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫が呼応。その他多くの関東の国人、地侍が景春に味方し、侮りがたい勢力となった。
 これに南武蔵の名族豊島氏が同心する。鎌倉幕府の有力御家人だった豊島氏は室町時代に入って、その旧領を太田氏に奪われていた。石神井城と練馬城(東京都練馬区)に当主の豊島泰経、平塚城(東京都北区)にその弟の泰明が拠り、江戸城と河越城・岩槻城との連絡線を断ってしまった。

 文明9年3月、道灌は先手を打って兵を動かし、溝呂木城と小磯城を速攻で落とし、さらに小沢城を攻めるが、守りが堅く景春が援兵を送ったため一旦兵を引いた。小机城の矢野兵庫が出陣して河越城攻撃を図るが、太田資忠(道灌の甥)と上田上野介がこれを撃退した。

 道灌は江戸城の指呼に勢力を張る豊島氏を早期に潰さねばならず、同年4月、上杉朝昌、三浦高救らの援軍を得た道灌は軽兵を発して平塚城城下を焼き払い、寡兵と侮って城を出て追撃してきた泰経・泰明を待ち伏せ、僅か50騎で200騎の豊島勢を打ち破り、泰明を討ち取った(江古田・沼袋原の戦い)。
 道灌は敗走した泰経を追って石神井城を囲む。泰経は降服を申し出るが、城破却の条件が実行されなかったため、道灌は城を攻め落とし、泰経は没落した。

 同年4月、景春は五十子を出陣して利根川を渡り、顕定と定正の軍を鉢谷原で攻めるが撃退される。5月、道灌は顕定・定正と合流して五十子を奪回。用土原の戦いで景春を撃破。鉢形城を囲むが、成氏が8000騎を率いて出陣したため撤兵を余儀なくされた。

 道灌は、景春の本拠である上野へ侵攻。塩売原で1カ月間対陣するが決着がつかず、同年11月に双方撤兵した。翌文明10年(1478年)正月、成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰長尾忠景へ和議を打診してきた。期待した景春の反乱が道灌の活躍によって短期間で逼塞せしめられたためであり、20年以上の戦いに飽いた成氏は幕府との有利な条件での和睦を望んでいた。

 この和議の動きを妨害するように、同年正月に泰経が平塚城で再挙するが、道灌は直ちにこれを陥れ、泰経は敗走して小机城に逃れる。3月、景春が河越城へ攻め寄せるが定正と道真がこれを撃退した。

 道灌は扇谷家の本拠地相模の景春方を制圧すべく、3月に前年に攻略に失敗した小沢城を攻め落とし、4月に小机城を攻略した。城に匿われていた泰経は行方知れずとなり、名族豊島氏は歴史上から姿を消す。続いて道灌は相模の景春方の諸城を駆逐。7月に景春の拠る鉢形城を攻略し、顕定の居城とした。

 武蔵と相模を固めた道灌は、12月に和議に反対する成氏の有力武将千葉孝胤を境根原合戦で打ち破った。翌文明11年(1479年)に甥の資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総半島へ派遣し、千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略させた。この戦いで資忠は戦死するが真里谷武田氏、海上氏を降し房総半島から反対勢力を一掃することに成功した。

 成氏との和睦交渉が続けられる中、景春はなおも北武蔵秩父郡、児玉郡で抵抗を続けた。文明12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ、景春は成氏を頼って落ち延びた。その後、景春は顕定の養子である上杉憲房の切り離しに成功して山内上杉家当主に擁立し、自らが家宰に就任して再起を図る[5]。

 文明14年11月27日(1483年1月6日)、成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。成氏は幕府から赦免された。また、憲房も顕定の下に戻り、景春は成氏の下で再起を期することになる。
 景春の没落によって30年におよんだ関東の争乱は治まった。

 だが、この和睦は山内家と越後上杉家が主導したものであり、扇谷家の当主定正は不満であった。道灌も「太田道灌状」で自分や戦った武士達に十分な恩賞がないと不満を漏らしている。この戦いで活躍した道灌の威望は大いに上がったが、それは主君である顕定・定正にとっては危険なことでもあった。
 文明18年(1486年)7月、道灌は糟屋舘(神奈川県伊勢原市)で主君定正によって謀殺された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。(こんなアホばかりでは、ウチは滅びる、という意味)

 長享の乱
 長享元年(1487年)、山内家と扇谷家は決裂し、両上杉家の抗争に突入する。没落していた長尾景春は扇谷家に味方して再び山内家と戦うことになる。
 その争乱の最中の明応2年(1493年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆へ乱入して堀越公方を滅ぼし、さらに相模へ進出。やがて両上杉家は後北条氏によって滅ぼされることになる。
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2016年8月 9日 (火)

公方(くぼう)とは、前近代の国家=公を体現する国家的統治権者

 秀吉、信長、家康の戦国の歴史は知られているが、関東の戦国時代(北条の歴史)は案外知られていない。関東戦国時代の遺跡は粗末に扱われている。そこで、関東に住んでいる我々は、東国の戦国時代を知るには、何が必要だろうか。
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Img_4公方(くぼう):日本の歴史、前近代のおいて、国家=公を体現する国家的統治権。すなわち天皇や朝廷を表現する言葉。将軍を代表する言葉である。室町時代後半には、幕府公権力の代行者・君臨する足利将軍家の肩書きとして用いられた。
 当初、関東を統治するため、足利基氏も将軍家が関東管領を鎌倉公方と称するようになった。以降、幕府の主宰者たる将軍や、鎌倉公方を称した鎌倉の足利一族により、世襲される。
 すると、鎌倉公方は古河公方と堀越公方の二派に分裂し、古河公方はさらに小弓公方と分裂。1454 関東管領職は、補佐役の執事上杉氏や畠山氏が、力をつけて“管領”と称するようになる。上杉謙信(長尾景虎)はこの名籍を継いだ。北条氏綱・滝川一益も名乗ったという。Thg66d5wnt

 江戸時代になると、統一されて、徳川の幕府と統合される。

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2016年8月 4日 (木)

『七人の侍』リアリティを重んじた黒沢監督作品のトップ評価AA

 黒澤作品、用心棒、椿三十郎、隠し砦の三悪人と続けて3本見て、『七人の侍』をみると、これが一番いい。
 1954年(昭和29年)公開の日本映画。東宝製作・配給。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と志村喬。加東大介、千秋実。木村功。

3813da6e 白黒、スタンダード、207分。 通常作品の7倍製作費をかけ、何千人ものスタッフ・キャストを動員、1年余りの撮影期間がかかった。観客動員700万人を記録し成功した。
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時代考証のリアリティの点を考えると、なかなか断定できないから書けなくなる。『七人の侍』を作る前、別の作品を予定していたが、「当時の武士の昼食は、弁当持参だったのか、給食が出たのか」「当時は1日2食であり、昼食を摂る習慣はなかったのではないか」等の疑問が解決できなかった。よって、その作品を止めて『七人の侍』ということになったらしい。

 日本の戦国時代(1586年)を舞台、野武士の略奪、困窮した百姓に雇われた七人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の一団と戦う物語。
 前半部では侍集めと戦の準備、後半部では野武士との本格的な決戦。盗賊と化した野武士(野伏せり)たちが一般の農村を脅かす戦国時代。
麦が実ると同時に、大名に所属しない野武士たちが略奪に来る。村人たちは絶望のどん底に叩き落とされていた。
 前年も野武士の略奪されているゆえ、若い百姓の利吉は、野武士を皆突き殺すべきと主張。村人は怖気づき反対するが、長老は戦うことを選択し、侍を雇うことを思い立つ。
 これは、東南アジアで米軍が士官を派遣するのに似ている。農民を兵士に仕上げ竹やりを持たせ、騎馬の野伏せり軍団に立ち向かわせる士官志村喬が戦い方を指導すると、ズバズバ当り、撃退する。農民百姓軍にも多くの犠牲者も出る。

 僧に扮して盗人から子供を助け出し、礼も受けずに去ってゆく初老の浪人。志村喬、「生きる」とは違ったいい味がある。C18若侍勝四郎が勘兵衛に弟子入り志願したりする中、利吉は勘兵衛に野武士退治を頼みこむ。しかし勘兵衛は飯を食わせるだけでは無理だと一蹴、やるとしても侍が7人必要だという。 

勘兵衛たちは村の周囲を巡り、村の防御方法を考案する。百姓たちも戦いに加わるために組分けされ、個性的な侍たちの指導により鍛え上げられる。 

904a 野武士の物見を捕らえ、本拠のありかを聞き出し、利吉の案内で野武士の本拠へと赴き、焼き討ちを行う。野武士にさらわれた妻を火の中に追いかけ、利吉を取り押さえようとした平八が野武士の銃弾に倒れる。皆が平八の死を悼む中、菊千代は平八が作り上げた旗を村の中心に高く掲げる。 

 それと同時に野武士が来襲、戦いの幕が切って落とされる。
 柵と堀によって野武士の侵入は防がれたものの、野武士に長老儀作の水車小屋と離れ一軒家が焼かれる。息子夫婦も野武士に殺されるが赤子だけは助かり、菊千代はそれを抱いて「こいつは俺だ」と号泣する。
 

 翌朝、折からの豪雨の中、残る13騎の野武士をすべて村に入れての泥まみれの決戦が始まる。久蔵が小屋に潜んだ野武士の頭目に撃たれ、続いて菊千代も撃たれるが、頭目を相打ちで葬り、ついに野武士は全滅する。
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2016年5月 1日 (日)

のぼうの城 忍城(おしじょう)の攻防、石田三成軍を蹴散らす。評価AA

 のぼうの城 行田にある忍城(おしじょう)の攻防、なかなかの力作映画CDであった。でくの坊と言われる城代だが、百姓たちにバカにされながらも好かれている。史実とドラマが混同してしまうが、秀吉が三成を理財だけの才能ではなく、戦もできる能力があるように力をつけさせようと、行田の忍城を落とす任務を2万の兵をつけて送り出す。忍城側は1000人しかいない。000026・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 葛飾区にある城、葛西城が、北條の支城で忍城と同じ立場であった。小田原征伐に秀吉に滅ぼされたようなものだ。天下統一で、九州も、四国も中国も秀吉に服従することになった。残るは北條だけになった。小田原城を囲んでいるときに、北條の支城が28あったらしいが、最後までがんばったのがこの忍城だったという。110858 葛西城もなかなか降伏しなかったが、その開城する前に、地元の百姓地主が連合(高砂、柴又、青戸など)して、前線の将に浅野某に、田畑を荒らさないように、申し入れしている。もちろんかなりに献金とともに頭を下げてしるから、もうその時は、地元民を掌握していない。あの青戸の葛西城では、百姓1000人が篭城はできないだろう。生死を共にしてくれる地元百姓はいないだろう。 

 埼玉県行田には身内がいるからわかるが、土地が広いから、大きな敷地を防衛の為に使える。02 のぼう=“でくのぼう”といわれる成田長親という愛嬌のある殿様が城下の住民百姓と懇意にしている。あんな庶民的な殿様がいたはずないだろうが。とにかく、愛嬌というか、おつむが弱い殿様がいた・・・というフィクションがあるわけだ。 成田長親(野村萬斎)は、当主の従兄弟で、よく領民の作業を手伝いたがるが、不器用で迷惑をかけている。家臣はおろか百姓らからも、「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれる。運動は滅法苦手で、馬にさえ乗れない。愚鈍な人物と思われているが、実は非常に誇り高く、民百姓とも分け隔てなく接する度量の広い人物で、このため百姓・足軽等、身分の低い者たちからは非常に慕われていた。 

 のぼうの父成田泰季(平泉成)筆頭家老は、小田原北条家に恩義を感じており、小田原攻めに際しては、豊臣陣を迎え撃つべきだと強固に主張した。城代長親(野村萬斎)が開戦を決めた直後に死去した。
 成田氏長、成田家の当主は、それなりに政略や戦略の見識はあるが、連歌をこよなく愛する。

000012 氏長は、小田原攻めに際し、密かに豊臣側への降伏を伝え内通していた。が、
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 三成が送った使者は、忍城側が内通のシグナルを出しているのを知らず、二万の大軍で1000人の守る相手を小ばかにして、「降伏するか、戦うか」と高飛車に出てきたので、城代長親(野村萬斎)がカチンときて、睨みつけて「かかって来い!」と、坂東武士の味を見せてやる、とタンカ切ってしまった。豊臣と北条の双方から裏切り者と見なされてしまう。

 成田泰高(谷川昭一朗)、城主氏長(西村雅彦)の弟。氏長と共に小田原の籠城に参加。甲斐姫(榮倉奈々)は氏長の娘。18歳。美人だが、見かけによらず武辺者であり、剣技だけでなく、薙刀や体術にも長けている。過去に自身が起こした騒動を長親(野村萬斎)が収めて以来、長親に惚れている。
 この戦いの後は、愛人コレクターの秀吉のもとにいく。
000047 珠(たま鈴木保奈美)氏長(西村雅彦)の2番目の妻。40近いが、いまだ美貌が衰えない。甲斐姫(榮倉奈々)とは血が繋がっていない。伝説の武将・太田三楽斎の娘で、自身も勝気な性格。
 氏長を腑抜けでつまらない男だと思っており、猛々しい泰季(平泉成)との方がより気が合う。城代長親(野村萬斎)は、秀吉軍の使者に誇りを傷付けられた怒りから開戦を決めた事を知って、「あの腑抜け(小田原城へ行った城主氏長)の話など聞かずともよい」と長親の決断を後押しした。
 

 正木丹波守利英(佐藤浩市)は、「漆黒の魔人」の異名を持つ成田家一の家老。長親とは幼なじみ。幼い頃見た、上杉謙信の姿に触発され、武芸の鍛錬に勤しんだ。長親に潜在的な将器があるのではと思っている。

 成田家家老である柴崎和泉守敦英(山口智充)は、筋骨隆々とした巨漢。20歳以上年の離れた妻との間に6人の子どもがいる。丹波守(佐藤浩市)の持つ朱槍を欲しがって、少年期から常に張り合っている。同じく家老職の酒巻靱負詮稠(成宮寛貴22歳)に「隙あらば襲ってみろ」と丹波守(佐藤浩市)にからかわれ、所構わず頻繁に仕掛けている。戦歴がなく、初陣である。

 ちよ(尾野真千子)は、かぞう(中尾明慶)の妻。昔、侍に手籠めにされた。義父のたへえ(前田吟)、娘のちどり(芦田愛菜)と共に忍城戦に参加する。ちどりかぞうとちよの娘。4歳になる。
 

 豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして大軍を率いて北条領に攻め入った。石田三成(上地雄輔)は、秀吉の側近。理知に富むが、武運に恵まれない。北条攻めに来た秀吉から2万の軍を与えられ、忍城攻略軍の総大将に任命されるが、忍城が既に降伏を決めていることは知らされていなかった。 

 三成(上地雄輔)は、秀吉の直臣になってから態度が高飛車になった。弱者には高圧的に、強者には弱く応じる。三成から忍城に対する軍使に任ぜられ、戦いを望む三成の挑発であり、結果、降伏するはずの忍城が戦に転じる原因となった。

 普段から武将たちに陰口を叩かれている三成に武功を立てさせようと、秀吉は、既に降伏を伝えてきた忍城攻略軍の総大将に任命。秀吉は、「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」と石田三成に命じ、2万の兵を与えた。 

 石田三成(上地雄輔)は、最初力攻めで押し込んだが、二万の大軍で1000人の守る相手の知恵に火攻めで失敗した。その後、カネと動員力で水攻めを計画した。水攻めの水かさが増してきた中、

 秀吉の毛利・備中高松城の水攻めで、城主清水宗治が舞を踊った後、辞世の句をしたため、自害した。
 それにならって、三成は忍城を水攻めの堤防を築いた。こちらでは、成田長親(野村萬斎)は船を出して、
000094000100能ではなく狂言を舞って、敵の目をくらまして、周りの三成の兵2万が酔いしれている。000099あまりに図に乗っていると、三成は鉄砲隊に命じて、撃たせた。長親(野村萬斎)は船から落ちて・・・、その間に、百姓らが土手に穴を開けて水没する危機を救って・・・。
 そうこうするうちに、小田原城が降伏した。支城の忍城も開城する様に指示が来た。

 そこへ石田三成がやってきて、『忍城の指揮官はどんな人物か見たい」と、忍城で成田長親(野村萬斎)と石田三成が対面して、降伏文書に調印となる。
1篭城した百姓は、全員耕作地へ戻ること。
2武士は全員、武器と食料を置いて、退去する。
(武士を辞めるものはその限りではない)
3 甲斐姫(榮倉奈々)は関白秀吉に差し出す。

 武器と食料を置いて、退去すると言う条件に怒り、「坂東武士の戦いを味わってみよ」という一言で、関白は「降伏して、開城するだけでよい」と言っていると伝え、条件なしになった。が、成田長親(野村萬斎)は、こっちには条件があるという。
「水攻めの俵を片付けていくこと」と「食料がないと、生きていけない」ということをいうが、甲斐姫(榮倉奈々)を差し出す件は、認めてしまった。

 帰り際、他の支城はどうなったかと聞くと、「最後まで降伏しなかったのは忍城のみ、よき戦であった」と言って帰っていく。
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2016年3月27日 (日)

氷河期の狩猟民と弥生時代の農耕民、日本人はどこから来たか

 日本人とは、氷河期の狩猟民(縄文人)(目のくぼみが特色)000015と後から来た弥生時代の農耕民(弥生人=壇蜜)といった、日本列島へ渡来した人々である。
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Iyo Yay後から渡来した弥生人は、稲作をするから広い土地を必要としたはずであり、かつ、鉄器を作り、生産性も高く、武器も進んでいたと考えられる。 しかし、約3万年前から住んでいた縄文日本人を、後から来た今の日本人の祖先が駆逐したと考えたが、人類学の進展により否定された。

Imagetop1a 縄文日本人は、文化的に高度の倫理性があり、局地的には紛争もあるが、後から来た鉄器や稲作技術をもった渡来弥生人を平和裡に受け入れ、日本民族を構成した・・・と考えられる。
 
 まずウルム氷期にアジア大陸から、「マンモスを追いかけて」日本列島に移ってきたのが、縄文人(後期旧石器時代)である。その後、アジア大陸(朝鮮半島)から新石器時代(縄文終末~弥生時代)に西日本の一角に渡来した。
000000 遺伝子の型から、森公美子らは氷河時代の旧石器時代に日本に到来した縄文人で、弥生時代に稲作、鉄器、青銅器をもたらした壇蜜ら弥生人が来たのだと判断される。000006
 語彙説明:
「ウルム」氷期:およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期。氷河期とは、数万年単位の短期的ではなく、長周期的に見ると、「ギュンツ」「ミンデル」「リス」「ウルム」の4氷期に区分され、その間にも小氷期、小間氷期がある。

 Photo 最初に住んだ後期旧石器時代人(縄文人)は古モンゴロイドであり、新石器時代人(終末期の縄文人~弥生人)は新モンゴロイドで、急激に新石器時代的身体形質が生じ、その後、古墳時代から奈良時代にかけて徐々に均一化された日本人となった。

語彙説明
 モンゴロイド (英: Mongoloid) :形態人類学上の「人種」概念。黄色人種、モンゴル人種とも言う。黄色人種の名はヨーロッパ人と比較した際のモンゴロイドの肌の色に由来する

 縄文人の遺骨を調べたところ、「平均では14~15歳で死亡」しているという表記があったが、合理的なデータがあった。
 以下の表である。
 縄文時代: 男31.1歳/女31.3歳
 弥生時代: 男30.0歳/女29.2歳
 古墳時代: 男30.5歳/女34.5歳
 室町時代: 男35.8歳/女36.7歳
 江戸時代: 男43.9歳/女40.9歳 だそうです。
 やっぱり、海を航海して次の地で家庭を築くには、20歳以上でないと、先の展望ができないのではないか。医者にかかれない生活では、30歳くらいで死んでいくなら、30歳程度が平均寿命。

 日本人は、原日本人系(縄文人)と渡来系の二重構造の中で混血があって、その混血が今でもまだ続いているという。
 アイヌと沖縄の人々が、人類学的にもミトコンドリアDNA分析でも、 縄文人に近くて近縁関係にあると証明されてはいるが、 文字配列の違いから少なくとも1万2千年以上前には、 別の集団として存在していたという。

 縄文人に近いとされているアイヌの人々と沖縄の人々に多いタイプの割合が日本では24.2%、韓国では19%、中国では12.1%である。そこに何か国民性の違いの秘密がある。

 アイヌや琉球の人々の価値観は、自然との共生にあり、日本人の原点であり、その一部であるように思う。日本には、渡来した文化だけでなく 、アイヌや琉球の多様な文化、他の価値観を雑多に認めあうことが必要だ。


525px 何万年も、前の人類の移動は確証がなから確かな説明はできないが、最初の勇気ある冒険する祖先はがいたのだろう。群れの中でも先進的な人材が、飛び出して行ったに違いない。
 日本列島にたどり着いたトップランナーがいたに違いない。多分、集団の中から外国へ留学するような、勇気と能力のあるタイプの人間が日本に辿りついたのだろう。王朝が滅びると、日本へ王朝関係者が多く渡来、帰化しているのが実証例だ。近代では、ロシア革命で白系ロシア人も多数来ている。
 だから、日本人は、大陸の人間の平均より、知能が優れている・・・と説明する学説がある。

 人類は、太平洋の大海原を丸木舟で渡った証拠がDNAの中にある。何万年もの間に、人類は旅をして、混血し続けているし、言葉も作ってしまう。人類の進化、移動は大きい。I001(人類学の余禄知識)
 Y染色体DNAは 父親から男の子のみに伝わり(男→男の子→男の孫→・・・)、母親から女の子にのみに伝わる(女→女の子→女の孫→・・・)。したがって、たとえば、子どもが女の子しかいないと、その Y遺伝子はそこで途絶え、祖先のDNAの追跡はできない。もっとも、同じ Y染色体をもつ近縁の者との間の子には、このしるしを伝えることができる。同様に、母方の家系の血を引く女性をめとった場合もミトコンドリアDNAは引き継がれる。

  ミトコンドリアDNAは、母系遺伝をするので、女性の祖先をたどった系図を調べることはできる。DNA配列が短期間に変化しやすいので分岐の時期が詳細に分かるという特徴がある。

(参考文献)
 「DNAから見た日本人」、斎藤、ちくま新書、2005 3
 「DNA人類進化学」、宝来、岩波科学ライブラリー、1997
 「日本人の来た道」、池田、朝日選書、1998 
 「日本古代史の謎」、自由国民社


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2016年2月20日 (土)

老人介護施設に優秀な人材が集まらないのは、やむ得ないか。

 川崎市幸区の有料老人ホーム「Sアミーユ川崎幸町」では、2014年、87歳の入所者丑澤民雄さんが4階のベランダから落ち、翌12月には86歳の女性と96歳の女性がそれぞれ4階と6階のベランダから転落死した。000027・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 警察は2か月の間に同じ施設で3件の転落死が続いたことや、いずれも3人とも高齢で高さが1m20cmあるベランダの手すりを自力で乗り越えることが難しいことなどから、事件の疑い捜査した。L000033 転落死が起きた時間帯に勤務していた職員今井容疑者1人が、いずれの日も夜勤の勤務をしていたことが分かった。

L000028 今井容疑者は去年2015年5月、入所者の現金(14万円)を盗んだ疑いで逮捕起訴され、同施設を解雇された。警察は先月下旬以降、今井容疑者から事情を聴き始め、2月15日、3人のうち(最初に転落した)87歳の男性をベランダから落としたと認め、今井容疑者に疑いが強まり、殺人の疑いで逮捕した。

 事件の経緯
000045 最初に、おととし2014年11月4日、施設の4階の部屋87歳の男性が施設の庭に倒れているのが見つかり、死亡が確認された。そして、翌月の12月9日、同じ4階の部屋の86歳女性が庭で倒れているのが見つかり、死亡しました。さらに、20日余り後の大みそか31日、今度は6階に入居96歳の女性が庭で死亡していた。いずれもベランダから転落したとみられている。

 000046警察は僅か2か月の間に高齢の入所者が3人も相次いで転落死亡や、1m20cmの高さのベランダを小柄な高齢者が乗り越えるのは不自然であり、目撃や防犯カメラなどの証拠はなく、こうしたなか警察は、転落死が起きた日や事件が起きたとみられる夜間の時間帯に勤務していた職員を調べた。その結果、23歳の元職員が当時、いずれの日も夜勤で勤務していたことが分かった。

JNNの取材に対し
 事件への関与を今井容疑者は否定した。
 「関与していないが、当直、夜勤していたのは隠す必要も ないと思いますし、それは事実です」(今井隼人容疑者 去年9月)
 警察の取り調べに対し、  
 今井容疑者は、「ベランダから投げ落としたことに間違いありません」 「殺そうと思って投げ落とした」などと容疑を認めているということだ。
 この老人ホームでは、丑沢さんを含め2か月間に入所者3人が相次いで転落死しているが、いずれも今井容疑者が勤務していた夜間の時間帯に事件が起き、警察は同容疑者が関与しているとみて追及する。

 この今井容疑者のような青年しか勤めていないだろうか。そんなことはないだろう。K君の遺児が頑丈な筋肉体型ではないが、気持ちの優しい青年だから、老人に接する仕事は向いていると思って勧めたが、彼にはその選択肢は入っていなかったようだ。
 1年契約で一般電機製造で働き始めた。
 就職としてみれば、介護施設は待遇が悪い代表かもしれないが、この後、施設の責任者として自分の施設という意識を持って働けば、有意義な仕事だと思う。

 認知症気味の人が集まってくる場所だから、一人ひとりが扱いにくい成人かもしれない。そういう人の相手するとなると、手間がかる。幼児がテンデン、バラバラに行動したら、保育士も扱いが大変だ。そのオトナ版を扱うとなると、介護士は体力が必要。保母さんか、学校の先生の気持ちで接するくらいの目で高齢者に当たるだけの許容度が必要だ。高級で高額施設なら、人件費をかけることできるが、中以下の施設では、低額で利益が上がる施設にするように、経営者から求められると、もうダメだ。

 手のかかる老人になったら、家族は、もう姥捨て山に捨てる気分だから・・・“姥捨て山”施設と名づけて、それは、厚生年金、国民年金で「安楽死」を目的にする施設なって、上手く回わさないとだめだね。
 都内に自宅がある場合、自宅と健康施設を組み合わせ、介護の指導者が何人かを預かる工夫して施設の役目を果たす形で工夫する。この新しい介護のシステムを考える必要がある。
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2016年1月11日 (月)

NHK真田丸の第一回、戦国武将をズバリ現代解釈で切っている

 真田丸の第一回 最初ドコを描いているか、わかりにくいものだ。アレ、これは武田勝頼の滅亡寸前だ。
01_501_3 天正3年(1575年)、名門武田家は、長篠の戦いの敗北で、武田軍は1万人以上(諸説あり)死者を出し、武田の有力武将を失い、武田家臣に動揺が走り・・・織田信長の大軍の猛攻を前に右往左往・・・。
 そうか、真田家は、武田に仕えていたのだ。それも新参者だと扱われて・・・。
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  そこへ、天正10年(1582年)2月、“信玄の娘婿の木曾義昌が織田信長に 寝返った”という知らせから、重臣たちは、・・・浮き足だって、醜態をさらしていたのだ。

03
02  温水洋一演ずる武将小山田信茂がクセのある演技で、一見の価値がある。
「(徳川・織田軍に)城から撃って出て、武田騎馬軍で・・・」と主張。

01 それに真田安房守(草刈正雄)が、
「活路は左様なことでは拓けん。捨て鉢にならず、最後まで望みを捨てなかった者にのみ、道は拓けまする。」
 そして、尚も岩櫃(真田居城)に行く事のメリットを説く。
「この真田安房守がいる限り・・武田は滅びません!!」 カッコいい役回りである。

000008  会議のあと、武田家の中心柱になっている穴山梅雪(榎木孝明)が嘆くように
3「これ以上、裏切り者が出ないように手をうちましょうぞ。あれほど結束を誇った武田の家中も、見る影もなし」真田安房守(草刈正雄)に語る。
「信玄公が、偉大であったということでござる」
「安房守殿、たとえ我等だけになったとしても、お屋形様をお守りしようぞ。武田家のために力をつくそうぞ」
「もちろんのこと」

 ところが、その舌のねが乾かぬうちに、穴山梅雪は、徳川を介して、織田軍に加わったといいう情報が聞こえてきた。
 シナリオ作家
三谷幸喜が、武田家の崩壊をテキパキと描くのはさすがだ。

 三谷幸喜は日大の演劇学科で、爆笑田中、太田の先輩。
 三年後輩の太田光は、
「三谷さんは学生の頃から、すごい人気者だった。日本大学のヒーローだった。自分は教授とケンカしたりして演劇を諦めたから、今でも三谷さんにはコンプレックスがある」と。三谷は後に著書の中で「番組内では黙っていたが、太田の認識ほどの人気はとてもじゃないが無かった」と書いている。

「穴山梅雪の手引きで、徳川軍が藩内に乱入のよし」
穴山梅雪は、かなり以前から織田徳川に内通しての用意周到の裏切りだった。

02「もはや、これまででござる。ご一門筆頭の穴山・・・、裏切りだったということは、お味方の人数、軍略が一切、敵方へ漏れたということ」
「かくなる上は、新府に篭城し、敵を迎え撃つより他に手はない。」
「座して死を待つぐらいなら、華々しく散るべきでござる。全軍をもって織田軍に仕掛けましょうぞ」

 01「お待ちください。
 まだ、この戦イクサ、負けと決まったわけではござりません」真田昌幸(草刈正雄)は話かけた。
「もはや、命運は尽きた。武田の柱(穴山梅雪)が敵方に下ったのだ」
「柱はもう一本ござる。
お屋形様はぜひ、岩櫃城へおいでください。」
真田の本拠、岩櫃城で織田軍を迎え撃つよう武田勝頼(平岳大)に進言。000039

 01_2「この新府を離れると申すか」
武田の新城は、筆頭の穴山梅雪の指導で
長篠の戦いの敗北のムリを重ねていた。それは家臣には資金、労働力を負担でようやく完成していた。
「この城は築城してまだ一年。その守りは磐石とはいえません。城に篭るのは得策にあらず。」

02_2「だから、城から、撃って出ると申しておる」
01_6「無謀でござる。小山田殿は武田家を滅ぼすつもりか!」
「我等の騎馬衆をもって突き進めば、活路が開けるやもしれん」
「活路は、そのようなことでは拓けん。捨て鉢にならず、最後まで望みを捨てない者にのみ道は拓けまする」
 岩櫃の守りは完璧だと力説し、「岩櫃城で力を蓄え、再起をはかりましょうぞ。真田安房守のいる限り、武田は滅びません」と力説すると、武田勝頼(平岳大)はその進言を聞き入れ、岩櫃城へ落ちることを決断したのであった。
 

 しかし、新参者の真田家を蔑サゲスむ者たちも多かった。
 その後、 小山田信茂(温水洋一)らは、勝頼の前に出て
「岩櫃に行くのは危のうございます。真田は武田の家臣になって日が浅そうございます。信じてよいものか、どうかわかりません。」

01_2「ワナだと申すのか?」
「その虞オソレは充分ございます。真田にはよからぬウワサがございます。裏で北條とつながりがあるようです。文のやり取りをしているとのウワサがございます。お屋形さまには、岩殿城へお入り頂きます」
「家中の総意にございます。信玄公の甲斐を易々と捨て、(真田の)信州で生き延びても、父上は喜ばないとお思いになりませんか」
 家中の総意といわれ、父が喜ばないと、聞かされて、勝頼は翻意する。

 その夜、
勝頼は真田の居室へ訪ねてきて、
「ワシは、明日ここをたつ」と、真田の岩櫃には行けない断りに来た。
“代わりに、100人の護衛を置いて、姉を人質を解放するから連れていくように”と、置き土産を持って、真田を信じる証だった。
000052 真田兄弟も、殿へ証に「100人の護衛」は、お屋形様が生き延びて頂くために、お返しした。
「お主たちこそ大丈夫か」
「真田兄弟は、安房守の息子です、そうたやすく討たれません。我等のことはご心配なく」
「真田は、よき一族じゃ」

 翌日、岩殿城へ向って勝頼とそれを護衛する小山田信茂一行が進んでいく。それを見送る真田兄弟である。

 岩殿城に近づいた坂の手前で、
「この坂を越えれば、じきに岩殿城でごさいます。準備のために、先に行っておりますので、お屋形様はごゆるりとお越しください。」と、勝頼一行を置いて、坂の上へかけていく。
000077坂に上りきったところにある柵を下ろし、誰も通さないことにした。小山田は、部下に
「柵を下ろし、勝頼を入れさせないように」と、命じた。
000080 命じられた瞬間、部下はナニを行っているか理解できなかった。命じられた部下というのは 真田信幸、信繁の姉の夫である。
 部下は、武田勝頼一行に「命令です」と泣いて見送る。温水洋一の
悪役を演技、裏切りという汚い人間をみごとに見せた。000085000089 勝頼は、小山田信茂(温水洋一)の裏切りで、前にも進めず、新府城へ戻ろうにも、焼き尽くし戻る場所がない。勝頼の滅亡の引き金をこの男小山田信茂が引いた。
 勝頼の表情が印象深かった。
 名門の二世というのは、人がいいというか、役者平岳大も名門で、オヤジ平幹二朗に似た顔つきで、何もしないでも演技になる。勝頼にぴったりハマッタ。
 この男、きれいな役どころでは芽がでない。汚れ役のクセの強い役をやったら、一流になる。

平岳大(ひら たけひろ、1974年7月27日 - ):
父親は俳優の平幹二朗、母親は女優の佐久間良子。二卵性双生児の兄として生まれ妹がいる。両親は1984年5月に離婚。両親の離婚後は母親である佐久間の元で育った。
 アメリカモーゼス・ブラウン・スクール卒業後、名門ブラウン大学理学部応用数学科へ進学し卒業。ブラウン大学卒業後はコロンビア大学大学院修士課程へ進学したがその後中退。投資顧問会社やソフトバンク系列会社などを経て、27歳で役者に転身。
 小さい頃は、母は仕事でほとんど家にいなかったので、食事の用意などはお手伝いさんがやってくれていた。役者の仕事をしたいと母に話したところ、大反対を受けた。しかし、最後には「あなたもいい大人なんだから好きにしなさい」と言われ現在に至る

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2015年10月 8日 (木)

関が原の戦い 地元の人々の迷惑

  関が原の戦いは、本当は大垣城周辺での戦いになるはずだった。それを、狸オヤジの家康は、三成の弱点を突いて、大垣城から三成を引きずりだし作戦にうまく引き掛かって、関が原に出て来てしまった。大垣城に篭城して戦えば、天下分け目の戦いの決着がつかなかっただろう。時間が延びて応仁の乱以上に全国に波及して、日本はどうなったかわからない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 天下とっていた豊臣家の豊富な資金量とか、陣営は、石田三成の側に有利であった。東軍:家康、西軍:三成の陣形を見た、明治時代、ヨーロッパから来た明治政府軍事顧問たちから見ると、家康東軍は、あの陣形では勝てないと読み切った。 

000011 それが、あに図らんや。不利に見えた家康が勝利した。ドコに勝因がかくれていたのか。

 

 勝敗の原因は、戦う前の多数派工作だ。“豊臣家”の忠誠心の厚い恩顧の大名に“石田三成への憎しみ”に言い換え、それを徳川家康への味方するエネルギーに置き換えさせた。この“たぬき”的は政治力の差があった。
 江戸時代に変わると、大阪中心の豊臣家人気=太閤人気に水差すのは難しいから、悪役を石田三成に負わせた。ターゲットを豊臣家にむかわせると、全国有力の大名を糾合できなくなるから、三成の行政によって豊臣家がもったようなものだが、それを恩顧大名を敵に回したら徳川政権を樹立はできないから、家康の幕閣の知恵者が、豊臣縁故の大名を分離してしまった。

  豊臣秀吉は晩年、五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家)を制度化した。これでうまくいくはずだった。
 ところが、豊臣政権下、秀吉の政務担当石田三成ら(文治派=行政官僚)と加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興ら(武断派=軍人官僚)が対立。
 その内部対立の原因として挙げられて理由は
①蒲生氏郷の死去、蒲生家相続問題、
②小田原征伐の伊達政宗への処遇、
③千利休切腹事件、
④豊臣秀次事件、
⑤文禄・慶長の役での処遇など、である。

 これらのトラブルを豊臣内部では処理できず、力のある家康に相談し始めることから、その亀裂を広げた。実は、紛争の火付け役が家康だったのに、豊臣家は知恵のアル家臣は悪者にされ、武断派が家康側にくっついた。それが、この関が原の戦いで徳川家康が勝利した理由になる。
一分でわかる関が原の戦い動画。★
★もうちょっと長い解説YouTube 関が原の戦い★★「関ヶ原の戦い 戦後の敵中突破 島津義弘」★

 歴史で混乱を起こさせるのが、政治家と軍人(武士)なわけだが、地元の関ヶ原町に住んでいた人々から見たら、どうなるか。
地元の関が原を統括していたのが、豊臣秀吉の弟、秀長の長男の土地だったらしい。秀吉の弟秀長は、兄貴をいさめる役目があり、彼が健在の間は、豊臣政権は順調だったと言われる。著者:堺屋 太一の「豊臣秀長―ある補佐役の生涯(文春文庫)」があるが、弟秀長だけを取り上げると、惜しい事にストーリーが映えないのだ。

 地元「関が原」庄屋宅に、豊臣家から石田三から依頼の手紙が来ている。丁寧な依頼だ。地元に思いやる三成の意向が見える。地元民は豊臣側へ加担する動きをして、先遣隊が辺り一帯を調べているのに協力している。000040 地元民は西軍の石田側についた。領主も当然西軍にならないとおかしいことになるが、関が原の戦いの当日、地元百姓たちが高い場所に避難してみていると、関が原の領主は、東軍に加わっていたという。

 “関が原”という平坦な土地があってそこで戦があったという幻想をもちがちだが、“関が原”には稲田が広がっていた。両軍がにらみ合ったときは、稲の収獲の直前の9月で、兵農分離前は百姓が兵士だったから収穫期には戦はなかったが、分業になっていたから、いつでも戦いがあるようになった。

 戦いの前に百姓は“青田”を刈り入れした。大損害だったらしい。戦死者がゴロゴロ転がっており、落ち武者はもちろん、勝った側の兵士もなにするかわからない。

地元民は、家康に禁制を貰いに、家康一行を追いかけて、ドコカの城に停泊していた家康に面会して願い出た。西軍に加担していたことは伏せて・・・多分・・・000000
 略奪、婦女暴行、放火をしてはならない・・・と、お墨付きをもらったら、武士たちは統制とれることになる。命のやり取りしているのだから、婦女暴行はヤリ得みたいなもの。やられる側の百姓たちは、戦があるときけば、女房娘、子供はあぶないから山中に隠した。あと、貯蔵しているコメ、麦など食料を奪われるから、自衛しなければならない。敵になる家は放火して燃やしてしまう。
 こうして、守ってもらうには、献金をつけてお願いしないと、この“禁制きんぜい”を出してもらえない。
 いくら出したか・・・今のカネにして数千万円に当たるだろう。

●昨日の深読みベスト5
NHK「小さな旅」 思い出そう長野県木曽駒ヶ岳:23分

藤本健二 北朝鮮訪問、金正恩より招待:
花燃ゆ」至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなり (『孟子』離婁上)
ファミリーヒストリー梅宮 辰夫、父親の生き様に注目:
強制代執行 ミカン農家に “櫻井よしこ”エール:
ナイナイ(種子島)内気な29歳、陽気な28歳女性
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2015年10月 1日 (木)

奉行根岸肥前の「耳嚢」は、時代小説のネタ宝庫らしい

赤鬼奉行根岸肥前(時代小説 風野真知雄) 
耳嚢 上中下(岩波文庫)
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 日曜日のシニア支援センター「江戸こぼおれ話」で、講師の高田さんから聞いた南町奉行根岸肥前の「耳嚢」を図書館に取り寄せてもらって借りた。(備前だと思って聞いていたら、肥前だった)Photo 「耳嚢みみぶくろ」は、根岸肥前が30数年間、メモ魔のように、書き綴った記録がある。Photo_2 「徒然草」や「方丈記」に似た雰囲気がある。根岸肥前奉行の聞き書きだから正確とはいえない面もあるが、その時代の雰囲気が伝わっている。奉行のせいか、事実として聞き書きをそのまま、提供している。その事実を自分の解釈を加えている吉田兼好とは、明らかに違う。教育者の側面はあまり出ていない。
 小説「赤鬼奉行根岸肥前」は、南町奉行に指名されるのが62歳、隠居する年齢だから、引き受けるべきか、断るべきか、迷っている場面が長々とあって、やっと本題に入る。ストーリーとしては遅い。なにしろ、歳のせいか、特に最近せっかちだから、イライラする。

義賊ネズミ小僧次郎吉、回向院、お上のお目こぼし

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2015年9月28日 (月)

義賊ネズミ小僧次郎吉、回向院の信仰は、お上のお目こぼし

01 日曜日の昼過ぎにシニア支援センターの地下で話しを聞いた。年配の方が多くて、地域の歴史好きが集まっていた印象だ。
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 堀切中学校同窓会の『江戸歴史散歩会』の代表(高田喜一郎15期)がプロジェクターを使って最近の散策コースを話してくれた。アカデミックではないが、知識は豊富。 

 高田さんがプロジェクターで江戸散歩の写真を投影して、準備段階で話しが始まっていた。時間1:30になって、再スタートを切って、根岸肥前守の裁定の妙から始まった。江戸時代の町民は、シャレ好きで、現代の裁判のようなガチガチではなく、犯人“半鐘”に罪を着せて、八丈島に流す・・・といった人を生かす方法を知っていた。
 

 (め組となると、時代が違う)半纏を着ている火消し(=とび職)は、木戸御免で相撲見物が無料できる権利があった。とび職の頭、新門辰五郎は、半纏着た五六人が、芝大神宮内の相撲見物に来たところ、火消しの半纏とは違う仲間を連れていたので、下足番が木戸で、半纏の違う連れを「入場できない」と入れさせなかった。新門辰五郎にしてみれば、顔をつぶされた形になった。 

新門辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)9月19日):江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番である。娘の芳は15代将軍徳川慶喜の妾となる。 

 それを強引な形で、新門辰五郎の一行は勧進相撲を見られなかったが、相撲の一件はソレで終わった。次に芝で行われていた新宮で行われている芝居の見物に行った。
 江戸時代の芝居は、中村座、市村座などに限定されていたが、宮路芝居といって緞帳、屋根、枡席のない簡単な芝居は許されていた。勧進相撲を見られなかった辰五郎の一行は芝居を見ていた。暫くすると、さきほどの相撲の九龍山という関取が入ってきた。
 先ほどの相撲見物に入れてくれなかった遺恨があり、辰五郎の一行は「でくの坊、でかいから邪魔だ、そっちへ行け」と九龍山に向って冷やかしをやった。そこで、けんかになってしまった。
 力の強い相撲取り九龍山は、辰五郎を投げ飛ばしてしまった。それで、芝居がゴチャゴチャになってしまった。そこで、双方入り混じって大喧嘩になって、収まりがつかなくなった。
 火消し側は仲間を呼びに行き、九龍山は勧進相撲の陣屋へ行って仲間を呼び、双方の争いは大けんかになった。そして、誰が鳴らしたか、半鐘が突如鳴り響き、「め」組以外、ほかの火消し(=とび職)が集まってきた。相撲取りとトビ職の大ケンカが始まった。規模が拡大、江戸中が上へ下への大騒ぎとなった事件である。大喧嘩は続いてが、ようやく収まったが、けんかで死人が出てしまった。

 この頃には珍しく、町奉行、勘定奉行、寺社奉行の三裁きが行われた。そのとき、根岸肥前守が加わっていた。火消しを大量に捕らえて小伝馬町に押し込んだのだが、そのままでは、江戸の町は火事が多いので、いつまでも置いておくわけにはいかない。町奉行も困った。寺社も、勧進相撲で修復費を集めているので、いつまでも捕らえられたままでは困った。
 迅速な裁きが求められて、辰五郎と九龍山は江戸処払いと判決が下った。捕らえられた大勢をどうするか、頭が痛かった。
 根岸肥前守は
「なぜ、お前たちはケンカに集まったのか」と尋ねた。全員が
「半鐘が鳴ったからだ」と答えた。「我々は商売だから、半鐘がなったら、火事だと思ってワーッと飛んでいく。そこで、人が争っていたから、その中へ入っただけだ」
次に根岸肥前守は聞いた。
「誰が(半鐘を)叩いたのだ」
 実際のところは、とび職=町火消しに加勢を求めるべく半鐘を鳴らした可能性が濃厚なのだが、ところが、誰もいない。鐘を叩いたと手を上げない。
 肥前守は、スッと全てを悟って、「わかった」と「半鐘は勝手に鳴ったに違いない。誰も鳴らさないのに鳴ったというなら、半鐘自身が鳴ったに違いないから、“この鐘を島送りにする”」ということで、縄をなってグルグル巻きに鐘を縛って、半鐘を島流しに処した。ほかの人間は無罪放免にしてしまう。1810年頃だ。

 「かかる半鐘を放置しておけば、今後も勝手に鳴り響く懸念があり、江戸を混乱に落としかねず、早急な追放が妥当である」として、「遠島を申つく」と八丈島へ送った。半鐘が戻ってきたのは、 明治維新で明治の代になってからである。

 人には罪を負わせず、無難な裁定をしたのは、根岸備前守。彼は死ぬまで町奉行を続けていた。隠居すると、職を譲った息子の意のままになるから、「ゼニ」は持っていたほうがいい・・・と講師高田先生の言葉。
その他、永代橋に船がぶつかった事件、お茶屋で坊さんが50両吹っかけられた事件・・・これらをトンチで、坊さんの稚児遊びを未然に防いだが、50両を払わせた。


Photo_3 両国回向院:明暦の大火(1657年(明暦3年)振袖火事の焼死者10万8千人を幕命(将軍徳川家綱)によって万人塚に葬った。以後、安政大地震、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬。
 あらゆる宗派だけでなく、人、動物すべての生あるものを供養する。その理念から
「軍用犬・軍馬」の慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の三味線の革の「犬猫供養」など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数ある。徳川家綱の愛馬を供養した馬頭観世音菩薩も。
著名人墓地として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。 参拝客のために両国橋が架けられた。
 

 ネズミ小僧次郎吉の話しは、江戸時代の銀行がないから、盗難にあいやすいという理由を聞くと、江戸時代の時代背景が湧いくる。 商家は蔵もあるし、金融に通じているので、現金が家にあることが少ないが、武家は俸給の支払が証書に寄って渡され、すぐ両替屋へ行って現金と交換してもらう。武家には蔵がないから、神棚や現金を置く場所が決まっていて、大量の現金で置かれている場所がわかりやすい。そういう事情で、武家屋敷にねずみ小僧が侵入しやすかったのだろう。
 ネズミ小僧次郎吉は、総額8億円を盗んだとわかっている。当時10両盗むと首が飛ぶと言われていた。だから、泥棒は9両3分2朱を取る。盗まれたほうも、10両盗まれたとはいわない。この双方の情けというか、処刑されることを望まなかった。この人情の機微が江戸庶民のシャレには、現代の司法制度を遅れているとか、何でも言ってもいいが、その背後に流れる“シャレ”には頭が下がる。江戸時代好きにはたまらないだろう。
 1両=20万円として、総額8億円=400万両を盗んで町にばら撒いたというわけだ。幕府、官憲側からすると、社会の秩序を乱す大罪人であるが、ネズミ小僧は、庶民の歓呼の声に満足していた・・・かな。

一両って今のいくら?江戸時代の値段:

 墓は作れない大罪人であるが、回向院へ行ってみるとわかるが、立派な墓がある。しかし、次郎吉とは書いてない。

Photo_3 ネズミ小僧の墓石は、墓の石が削られている。ネズミ小僧の墓石は、それを持って受験すると、ご利益があるという。つまり、“スルっと”入れる、合格するという思う人が多く、墓石は削られるのだという。
 罪人が処刑された遺体は、墓をつくって葬るということは、時の幕府は許可していなかったから、ネズミ小僧次郎吉は、墓は作れないはずだが、そこは江戸の人たち、義民だった次郎吉とは書かないで
偽名にちかい扱いにしている。 

平田国学と岩倉具視、裏切りも 想定内
江戸時代 私の祖先は何人いたか
馬宿うまやど 中山道中津川宿
踊らされた相楽総三と赤報隊
新政府に破れ、旗本の身の処し方
明治維新を日本人80%は無関心だった
浅野内匠頭の癇癪持ち、吉良上野介

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①講演者から1.5m以内でICレコーダーで録音。
②講演会場の自席でスピーカー通して録音。
 ①と②では、作業担当者には、大きな違いがある。①の場合は、ほとんど資料など必要ない。 ②は、聞き違いが生じる

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