死の招き

2017年10月 7日 (土)

さわやか 早川芳男くん 8月14日昇天し、付知で眠る

 「早川芳男くん」の三人の息子から連名で死亡通知をもらった。
 高校の文化祭・運動会の帰り、クラスメイト男女でコーヒーショップに入って騒いでいた。目の前に座っておんなじように興奮していたのが、彼「早川芳男くん」である。今から、ひゃー50年も前だ。そんな昔からの友人である。
 彼は、ちゃっかり、一番かわいいMさんと仲を温めていた。それは、卒業後、結婚前の思い出として・・・電車の中で落ち合って、海水浴デートをしたという。真っ白な水着が今でも目に浮かぶといってかなり高揚していた。
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 余計な知識だが、
 中津川市内には「早川」姓が多かったが、大体ルーツは付知だった。付知は、木曽義仲が京都へ上京した際の駐屯宿泊した場所、源氏の流れかもしれない。
 
 彼は猛然と勉強をして、悠々と神戸大へ入った。そして、どっちかといえば、文系の男だったが、ワンダーフォーゲル部に所属した。多趣味で、カメラと三脚を持ち歩き、バードウオッチングを趣味にしていた。「鳥にもプライバシーがあるだろう」との私のヤジにも負けず、多趣味であった。
 彼は卒業後は、日本最大の会社へ入り、昇進より趣味の充実をめざしていた。
 そして、自分の考えや見聞を書いて個人新聞を作った。その個人新聞が「さわやか」という名前である。毎月友だち100人以上に発送していた。時には、B4サイズが数枚入っていると、一通分が150円にもなる。紙代+郵送費だけで、ウン万円は必要だった。笠置山麓出身の(元国語の先生)奥方は黙って許していた。
 会社の方針で、整備士を育てる学校を作ると決まると、彼は率先して、立候補した。学校設置から生徒募集の業務に熱中した。会社の本流から外れることを望んだ気配があった。そのころ、中津川市の“七夕トーク”イベントに出ようと誘われて、一緒に宿泊して翌日の意見発表会に出席して、市民大勢の前で「七夕トーク」をした。
 
 そして、三人の息子たちは、立派に育ち、ますます趣味に没頭できるようになった。
 ワンダーフォーゲルの仲間と、世界中の山岳トレッキングを始めた。南米のマチュピチュの報告は「さわやか」新聞に満載であった。
 彼が遭難したのは、ヨーロッパ、オーストリアとスイスの間にある山岳地帯である。これはすでに、報告しているので、そっちを参照してほしい。
01
 最初は、車いすを駆使してあちこち歩きまわっていた。頸椎骨折だから、首から下がマヒはしていたが、頭は正常でいろんなことをトライしようとしていた。彼の細君は数年前の亡くなっていたが、彼が障碍者になってから、妻の趣味でもある短歌を習い始め、皇居の歌会始に投稿していた。それが生きがいものなっていた。
 
 震災後、神戸で単身赴任していた頃、同窓の誼で宿泊しさせてもらった。その夜は、港の船の中で船上パーティを企画してくれた。それには男子4人、女子4人だったとおもうが、それを全部彼のおごりであったと思う。
 そのころの写真でもあると、もっとよくわかるだろうが、今手元にあったら、元気な様子が見えるだろう。ま、そのうちに。
 愛知用水の恵みでできた湖、ボートレース場にもなっている場所を案内してくれた。広々した景色を見ながら、なんでも許してくれた妻を失って失意のどん底であった。 
10017  朝起きると、「おかあさん!」と、妻の写真に手を合わせて「むにゃむにゃ…今日も一日見守ってください」と祈っていた。オープンに自分の行動は見せていた。これがみんなに好かれる理由だったと思う。
 
 中学・高校生時から友人、僧侶になったA、高校トップ成績で入ったK、大学寮の隣室で肉腫で苦しんだT、松下電機のマレーシア工場長を務めたH、岐高卒の才能あふれるS、そして、いい思い出をくれて、付知出身の
彼も彼岸へ行ってしまった。
本州製紙の工場長の息子Kも事故で車椅子生活を経て亡くなった。
 この世の此岸がだんだん寂しくなる。
 誰も死なないなら、地上は人間であふれてしまう…と、誰か冗談を言っていたが、死んでいくのも生き方の一つだ。
 生きていると、生きている辛さがある。人間はそういう間で苦しみながら、ついでに重荷を背負っている。
 
 万博見学、万博ボランティア、ゴルフ、ハイキング、英会話、短歌教室、海外の高原歩き等の多趣味を満喫していた最期の年であった。
  ロッキーに堅香子(かたかご=かたくり)の花うつむきて恥じらふが如我らを迎ふ
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2017年9月19日 (火)

僧侶で医師の末期すい臓がん死を記録 NHK

000009 栃木県益子町の西明寺の住職の子に生まれた田中 雅博(たなか まさひろ)さんが、余命会数か月と知ったNHKの撮影クルーが、彼の死を最後まで記録した。
NHKの現場の人がひるみそうになるところを、当事者の田中さんは、葬式まで撮影しなさいと勧めてくれた。死を達観している僧侶でも、死を悟ると達観の正体がはがれて取り乱す人もいるという。
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 1000人を超える患者の死を看取ってきた医師が、がんで余命わずかと宣告された。看取(みと)りのプロが体現する「理想の死」とは?亡くなるまでの450日間に密着。
始まりは2年前の12月。末期のすい臓がんで余命わずかと宣告された医師田中雅博さん(当時69)。医師として、僧侶として終末期の患者に穏やかな死を迎えさせた「看取りのスペシャリスト」。
 しかし、次々と想定外の出来事が…。看取りのスペシャリストが見せてくれたありのままの450日の記録。
  主治医は、同じく医師であり僧侶である妻の貞雅(ていが)さん。夫の最期をどう看取るか、ふたりの葛藤の日々が続いた。000023
 田中 雅博(たなか まさひろ、1946年 - 2017年3月21日)栃木県芳賀郡益子町の西明寺で生まれる。父親の勧めで医師を目指し、東京慈恵会医科大学を卒業。国立がんセンターで研究所室長、病院内科医として勤務。大正大学に進学し、仏教を7年間学び、西明寺を継いだ。
 住職を務め、「病院にもスピリチュアル・ケアワーカーが必要」と1990年、境内に入院病床を備えた普門院診療所兼介護施設を建てた。2014年10月、末期の膵臓癌が発見、その後肝臓に転移。017年3月21日、死去。70歳没。
 栃木県益子町の普門院診療所で、妻貞雅と夫婦で緩和ケアを実践してきた。
患者の最期の意思を確認し尊重すること。また、がん患者の死の恐怖を取り除くために僧侶として耳を傾けた。
000026  3年前、田中にもすい臓がん(ステージ4b)が見つかり、肝臓やリンパにも転移。田中は患者から”死に方”を学んだから死ぬのは怖くない。田中夫婦はお酒が好きで、末期がんが見つかってからも変わらない生活を続けていた。
2017年1月18日、今年に入り田中の病状は急速に悪化。1月27日、田中は自分の葬儀のために用意した曲を聴いていた。
 田中は、父の急死を機に実家の寺を継ぎ、43歳で境内に診療所を開設。医師として患者の苦痛を和らげ、僧侶として患者の話に耳を傾けてきた。そして自分ががんになってからは自分の話も聞いてもらいたいと思ってきた。
000013 田中はDNR(=蘇生措置を拒否する意思)を示していた。DNR以外にも苦痛を抑えるための持続的鎮静という措置を望んでいた。彼は妻貞雅に苦痛に耐えられなくなったら眠らせてくれ、と伝えていた。
 2月3日、田中は言葉が出なくなった。田中は、親友の僧侶に葬儀の依頼を話していたが、言葉がうまく出てこず混乱していた。翌日も、混乱した状態はひどくなった。
「お願いします」と繰り返す田中に、取材者は「眠らせてくれ」と言っているように感じた。2月5日、「がん患者語らいの集い」に来た田中は「眠らせてください」と言い続けた。診療所に戻った田中は涙を流した。
 2月19日、田中に持続的鎮静を開始した。
 2月23日、貞雅は麻酔薬を止め、1日2回、田中を目覚めさせていた。貞雅は彼が少しでも長く生きられるように、無理でも体を動かさせた。また、点滴だけでなく、田中に好きなアイスを食べさせた。貞雅はなぜ自分は医師なのにガンの早期発見ができなかったのか、などと悔しがった。
 3月21日、取材陣に貞雅から「今朝7時20分 逝きました」というメールが来た。貞雅は心臓が止まったとき、つい心臓マッサージをして蘇生措置をしてしまったという。
葬式まで全部撮影しなさい、と言っていた田中の言葉通り、取材者は葬式まで取材を続けた。
 田中が取材者に教えてくれたことは「死はきれいごとではない、思い通りにいかない。人は一人では生きていけない、だから一人では死ねない」こと。
 妻の貞雅は、出棺の時に「火葬場には行けない」という。NHKの取材クルーは、望遠レンズで妻の貞雅を狙っていた。玄関で一人泣き崩れる貞雅。それまで、夫の前では強い妻を演じていたのが、崩壊した一瞬であった。
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2016年8月16日 (火)

能レポーター・梨元勝「恐縮です!」七回忌が営まれた

 Bbvtiky 芸能レポーター・梨元勝「恐縮です!」と前置きしながらも、著名人にマイクを突きつけ、ズバッと斬り込んだ梨元勝。65歳で他界してから6年が経った。ともに仕事をした朝日新聞社の後藤洋平が回想する。

1944年12月1日東京都中野区で生まれる。5歳から埼玉県与野市に育つ。埼玉県立浦和西高等学校を経て、法政大学社会学部社会学科卒業。出版社・講談社の契約社員として女性誌『ヤングレディ』の記者を務めた後、芸能リポーターに転身した。
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「そんなことを言うのなら、就職の一つでも紹介するのが先輩というものでしょう!」と切り返したところ、1週間後に彼が『ヤングレディ』記者の仕事を持ってきた。このような縁で始めた仕事だったが、梨元は芸能リポーターは天職だと話す。その後、長年に渡り精力的な活動を見せたが、2010年(平成22年)8月21日午前5時19分、肺癌のため東京都渋谷区の病院で死去。配偶者福田 玲子 子供梨元麻里奈


 2002年、俳優の杉浦太陽が大阪府警に傷害と恐喝の容疑で逮捕された。私は“被害者”が偽った内容の被害届を出したことによる「誤認逮捕」であることを独自につかんだ。
 所属事務所の社長に電話をした際、こんなやりとりがあった。
「マスコミは、太陽君が悪者だと散々うそを書いた。あなたの取材にも応じない」
「誰だったら、信じて取材に応じますか」
「梨元勝さんだけ。あの人は所属事務所の大小や力関係で、芸能人の扱いを変えない。他の人は信用できない」
 私は、すぐさま梨元の携帯電話を鳴らし、泣きついた。梨元は「事情はわかった。そういうことなら力になりましょう。ちょっと待っていてください」と、協力を約束してくれた。

 約10分後、事務所の社長から私に連絡があり、「梨元さんから、あなたのことは信用できると聞いたから話す。
 逮捕容疑の当日、杉浦は大阪から離れた場所で撮影があり、そもそも現場に行けるはずがなかった」と、丁寧な説明を受けた。
 私は府警に通告のうえ、翌日の朝刊で特ダネ記事を書いた。勾留されていた杉浦は数日後に釈放され、不起訴処分になった。

 あのスクープは、梨元の力を借りなければ絶対に記事にできなかった。梨元にしてみれば、新聞に載る前に「自分がつかんだネタ」として先に発表することもできたわけだが、そんな不義理なことはせず、私に花を持たせた。ありがたいことに、その社長と私は、今でも付き合いが続いている。

 梨元の真骨頂は、癒着や、圧力に屈することへの嫌悪を、はっきりと口にし、態度で示したことだった。
 テレビ局としては、ワイドショーの放送内容で、有力タレントを抱える芸能プロダクションとの関係を悪化させたくない。制作側から「あの事件や、あの所属事務所のタレントについては発言を控えてほしい」などとたびたび梨本は求められた。そのつど「視聴者が興味を持つ話題なのに、自主規制するのはおかしい」とワイドショーの降板を申し出た。

 そんなとき、家族にはいつも「明日から番組には出ない。でも、生活のことは心配しなくていいから」と告げ、文筆業で生活をつないで他局からのオファーを待った。
 そのため在京キー局のすべてでレギュラー番組を経験したが、徐々にテレビでの活躍の場は少なくなっていった。
 なぜ、そこまで自らの信念を貫き通せたのか。

 妻の玲子さん(70)が言う。
「主人を支えていたのは、『自分こそがお茶の間の代弁者だ』という信念ただ一つでした。理不尽なことが重なるたび、その決意は固まっていったのです」
 テレビへの失望が大きくなるにつれ、梨元はインターネットに可能性を求めた。05年、「今後は一方通行でマスに情報を伝える時代から、『個』が発信する時代へ変わる」と、自身の芸能情報サイト「芸能!裏チャンネル」を立ち上げる。

 長女の麻里奈さん(36)はこう話す。
「今では、芸能人が自分のブログなどで都合のいい情報だけを流すのが当たり前になりました。父が生きて仕事を続けていたなら、こうした現状とどう向き合ったのかを見届けたかったですね」 

 梨元が叫び続けた「視聴者の期待に応えることが最優先。自主規制は駄目!」という言葉が、風化するどころか、ますます輝きを増しているように思えてならない。
 七回忌を前にした7月31日、東京都内の寺院で、親族のみの七回忌法要が営まれた。※週刊朝日  2016年8月26日号
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2016年8月 6日 (土)

寺内正毅元帥の次男寺内毅雄陸軍大尉妻あや子が殉死&坂田山の心中

 寺内正毅(てらうち まさたけ)元帥で総理の次男、寺内毅雄陸軍大尉は1929年(昭和4年)病死したのだが、その枕元で、通夜の夜、妻あや子は後追い自殺。昭和4年(1929年)の新聞号外が、葛飾郷土博物館の壁に張ってあった。7199 時の元帥で総理の御曹司で、スポーツマンで士官学校卒のエリートと名家の美女のカップルの二人は、憧れの有名人であった。その美女が、夫の死を悲しんで後追い自殺とは、話題にならないはずはない。

 その枕元で妻あや子が、同日に拳銃、将校用ブロウニング六連発で右胸を打ち抜き殉死して話題となった。
「かくするのが私の道」と夫の名刺の裏に記した遺書
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 昭和一桁の純愛事件は、他にもある。昭和8年(1932)には、坂田山の心中・・・純愛心中が、一転、猟奇事件に変わる。01_2 昭和8年(1932)年5月9日午前10時、岩崎家所有の松林の中で若い男女の心中死体を発見。男性は慶應義塾大学の制服姿で、女性は錦紗の和服姿の美人。前日の5月8日夜に現場に到着、昇汞水《写真現像溶剤)を飲んで服毒自殺を図ったものと思われた。

 高貴な身なりであったため、神奈川県警察部は直ちに捜査を開始し、まもなく身元が判明。男性は慶應義塾大学理財科の学生(24歳)で、華族調所広丈の孫であった。女性は静岡県の素封家の娘(22歳)で現在の頌栄女子学院中学校・高等学校に通学していた。

 二人はキリスト教の祈祷会で知り合い、交際を始めた。男性の両親は交際に賛成していたが、女性の両親は反対。別の縁談を進めようとしていた。
 二人の死体は、遺族が引き取りに来るまで、町内の寺に仮埋葬されることになった。
 ここまでなら、お気の毒にとで終わる話しが、埋葬した墓から女性の遺体が消えたのだから、大変。

 東京日日新聞(1932年5月13日)
 翌日5月10日朝、寺の職員が線香をあげようとしたところ、女性を葬った土饅頭が低くなっているのを発見、掘り起こしたところ、女性の死体が消えていることが判明。辺りには女性が身に付けていた衣服が散乱していた。これにより、単なる心中事件から一転して「女性の死体が持ち去られる」猟奇事件へと発展した。

 警察は変質者による犯行と断定し、大磯町消防組も協力して一斉捜索が行われた。翌日5月11日朝、墓地から300m離れた海岸の船小屋の砂地から発見された。町の火葬場職員が犯人として逮捕された。警察は女性の死体の検死を行い、「死体はなんら傷つけられていなかった」と発表した。
01_3
 亡くなった女性の遺体はきれいだった(つまり、処女だった)という警察の発表により、新聞各紙は二人がプラトニック・ラブを貫いて心中したことを盛んに報じた。
 特に東京日日新聞は
「純潔の香高く 天国に結ぶ恋」の見出しを掲載した。

 この「天国に結ぶ恋」は坂田山心中を象徴する名文句となり、事件は、ロマンチックに美化され映画や歌が製作公開され人気を博した。事実に近い映画も作られたが、そちらは人気が出なかった。

 以後坂田山で心中する男女が後を絶たず、同じ年だけで20組が心中、1935年(昭和10年)までの自殺者(未遂も含む)は約200人にものぼった。中には、映画を見ながら昇汞水を飲んで心中するカップルまで現れたため、映画の上映を禁止する県もあった。

 大掃除中に新聞記事を読み始めた感じで、つい過去の事件にのめり込んでしまった。

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2016年7月20日 (水)

永六輔を兄貴と思っていた私の哀悼の気持ち

 退位したいと漏らす天皇と同じ歳だから、永六輔が亡くなるの自然の摂理かもしれないが、精神的な支えだっただけに、淋しい。000125 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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カレ永六輔が紹介してくれたことで、思い出せるのは、今一つ上げるとしたら、
ころり寝ころべば青空
こんなにうまい水があふれてゐる
さてどちらへ行かう風がふく
どうしようもない私が歩いてゐる
雨ふるふるさとははだしであるく

 「山頭火」の自由俳句だ。初めて聞いた 「山頭火」の俳句には圧倒された。そういう引き出しを永六輔はたくさん持っていた。
000147 反骨精神の固まりだ。早稲田精神とも相通じていて、野坂昭之、五木寛之、大橋巨泉、いじわるばあさんの●●、早稲田の中退・退学の昭和8年生まれだ。

「くり煎餅が不当表示である」と公取から煎餅屋さんが言われて、永六輔に「何とかしてほしい」と訴えたそうだ。それをラジオで説明していた。
“駄菓子に近いのだけど、くり煎餅という煎餅があるのだけど。くりの形をしてんの、
ところが、この煎餅にはくりが入っていないのに、くり煎餅っていうのはおかしいって、公取(公正取引委員会)からクレームが入ったのですよ。
「永さん、なんとかしてください」
 お役人と闘うというってことがあった。
 ボクも交渉の場へ行きました。
ウグイス餅にウグイスは入っていませんよ。
 キリン麦酒にキリンは入っていませんよ。
 ブルドックソースにブルドッグは入っていません

 お役人が法律を決めるときに、文化ってことを考えていない。
 零細企業ですよくり煎餅屋さんなんて。

 くり煎餅! くり煎餅という名称を「日本文化」と考えていくのが60才以上だったら、普通だけど、今の風潮は許さないのかもしれない。  法律っていう条文にしなくても、不文律という決まり、常識をもって解決すると考えるべきだ。息苦しい社会にしている。

 法律、条例が毎月、毎年多くなって、一度一掃しないと、動きが取れなくなってしまいそうだけど、どうなんだろう。000155 淋しさには耐えられる
 悲しさにも耐えてみよう
 苦しさにも耐えてみて
 耐えて耐えて

 耐えてられないのは、虚しさ
 虚しさ空しさ
 虚しさが 耐えられるのは

 ともだち あなた 戦う心

 
永 六輔(えい ろくすけ、1933年4月10日 - 2016年7月7日)は、日本のラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家。元放送作家、作詞家である。本名は永 孝雄(えい たかお)。晩年の所属事務所は「オフィス六丁目」だった。角刈り頭と細長い顔がトレードマーク。長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)、麻理の長男で孫の育乃介は俳優。藤本義一とは遠戚である。

1933年、代々東京・元浅草の最尊寺の住職父の子として生まれた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日本外国人17代目と自称。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた。東京都下谷区(現・台東区)の国民学校。1944年、長野県北佐久郡南大井村へ学童疎開、そこで終戦を迎えた。000128 1946年に長野県立上田中学校(旧制)入学、翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオ組み立てグループを作る。そのリーダーが渥美清。

 この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿する。また、1948年から淀川長治主催「東京映画友の会」のメンバーであった。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に『日曜娯楽版』の三木鶏郎にスカウトされ、メンバーとして放送作家としてデビュー。早稲田大学文学部を1952年に中退。

 これは、ラジオに届いたはがき。永さんは、届いたはがき1万通にラジオで読めなかった人には、全員返事を書いたという。それで腕を悪くした。ラジオのパーソナリティ相手遠藤泰子が紹介していた。
000167 「さよなら」だけが人生だと言ったのは、坂口安吾だというが、そういう気持ちになるときがある。
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2016年7月10日 (日)

ファミリーヒストリー 矢野顕子 母の死に方に会津藩の武士魂 見る

矢野 顕子(やの あきこ、女性、1955年2月13日 - )は、日本のシンガーソングライター。アメリカ合衆国ニューヨーク州在住。000025 東京都に生まれる。幼少期を青森県で過ごす。青山学院高等部中退。医師である父の開業にともない、3歳で青森に転居。中学まで青森市で過ごす。青森市浪打の青森明の星高等学校付属ピアノ教室でピアノを習い始める。鍵盤にカミソリを立てて演奏するという厳しいレッスンだったという。
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 母方の曽祖父が、幕末の会津藩の殿、松平 容保が江戸で謹慎するときも、000042000038_2最後まで付き添っていた7人にふくまれていた優秀な人材だったようだ。
その後、会津藩は青森に斗南藩(となみはん)としてゆるされたが、その会津藩の教育を続ける校長になった。息子も孫も校長になっている。

 その子孫が矢野顕子の母(鈴木淳)。000010その母は、65歳くらいで胃がんの末期になったとき、手術は断り、死を受容する文面が残っている。000005「この度 寿命によりお別れする事となりました。
 幸い家族・友人・趣味に恵まれ楽しく過ごさせていただき感謝申し上げます
 この先は宇宙の塵となり、自然の大環境の中に組み込まれ、やがて他の生命誕生に参加する事でしょう

 雪ひとひら川面に映る灯をとりに

 御献花ありがとうございます
 平成十三年二月十二日
             鈴木 淳」
 コノ挨拶状を死の前に用意していたという。この死を受け止める覚悟を見て、こうでなくちゃいけないとヒシヒシを感じた。000036_2
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2016年5月28日 (土)

オバマ演説(広島)英文と日本語(エキサイト翻訳)

よくアメリカ大統領が広島へ来た。アメリカ大統領が共和党だったら、とても実現は無理だったと思う。あと数ヶ月しか任期がないからこそ、やれたことだ。人生も残り少なくなったら、思い切って、勇気を出して主張すべきはしなければならない。

広島市の平和記念公園での演説で「核兵器なき世界」への決意を表明するオバマ米大統領=27日午後5時49分(代表撮影)
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 Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.
71年前は明るい雲ひとつない朝、死において空から低下し、世界は変更された。ライトのフラッシュおよび火の壁は、都市を破壊し、人類が、自身を破壊するための方法を所有しているのを証明した。

Why do we come to this place, to Hiroshima? We come to ponder a terrible force unleashed in the not so distant past. We come to mourn the dead, including over 100,000 Japanese men, women and children, thousands of Koreans and a dozen Americans held prisoner.
 なぜ広島にし 私達 、この場所に来るか?私達は、過ぎて遠い において解放されたひどい力を考えるために来る。私達は、100,000人を超える日本人男性、女性と子供、数千人の韓国人、およびダースアメリカ人 拘束囚人 を含む死にを悼むように来る。

Their souls speak to us. They ask us to look inward, to take stock of who we are and what we might become.
それらの人は私達と話す。彼らは、私達に、鑑定する 誰の私達のareのおよび もの 私達がなるかもしれない ために中であることに見えるように頼む。

It is not the fact of war that sets Hiroshima apart. Artifacts tell us that violent conflict appeared with the very first man. Our early ancestors, having learned to make blades from flint and spears from wood, used these tools not just for hunting but against their own kind.
それは、広島を異なっているようにする戦争の事実ではない。人工物は、私達に、暴力的な衝突が非常に最初の人と出現したと言う。私達の早い祖先は、木材からの火打石と鎗からブレードを作るのを学び、ただハンティングを起こすことのためにけれども彼ら自身の種類に対してこれらのツールを使った。

On every continent the history of civilization is filled with war, whether driven by scarcity of grain or hunger for gold, compelled by nationalist fervor or religious zeal. Empires have risen and fallen, peoples have been subjugated and liberated, and at each juncture innocents have suffered -- a countless toll, their names forgotten by time.
 すべての大陸には、文明の歴史は金への穀物または熱望の不足により動かされるかどうかにかかわらず戦争によって満たされて、国家主義の熱情または宗教の熱心により強要される。帝国は上がり、落ちて、民族鎮圧および解放されて、個々の連結無邪気な子供で苦しんだ--時間までに忘れられたそれらの名前という無数の使用料。

The World War that reached its brutal end in Hiroshima and Nagasaki was fought among the wealthiest and most powerful of nations. Their civilizations had given the world great cities and magnificent art. Their thinkers had advanced ideas of justice and harmony and truth, and yet the war grew out of

the same base instinct for domination or conquest that had caused conflicts among the simplest

tribes, an old pattern amplified by new capabilities and without new constraints.広島と長崎のその残忍な終わりに達した世界大戦と国家で最も裕福に、最も強力に戦った 持ち 。それらの文明社会は世界大きい都市および壮大なアートを与えた。それらの思想家は、公正と調和と真実のアイデアを進めて 新しい機能および新しい制約により拡大された古いパターン 、それなのに、戦争は、最も簡単な種族の間の衝突を起こした支配または征服のための同じ基本の本能から生じた。

In the span of a few years some 60 million people would die: men, women, children -- no different than us, shot, beaten, marched, bombed, jailed, starved, gassed to death.

There are many sites around the world that chronicle this war -- memorials that tell stories of courage and heroism, graves and empty camps that echo of unspeakable depravity.

数年のスパンにおいて、約6000万人の人々が死ぬ:人、女性、子供--いいえ、私達、撃たれて、打ち延ばされて、行進して、爆撃されて、拘留されて、飢えていて、死ぬまでガスを入れられて違う。

この戦争を記録する世界中に多くのサイトがある--勇気の物語、および言いようもない堕落で反響する英雄的素質、墓、および空のキャンプを話す記念物。

Yet in the image of a mushroom cloud that rose into these skies, we are most starkly reminded of humanity's core contradiction -- how the very spark that marks us as a species, our thoughts, our imagination, our language, our tool making, our ability to set ourselves apart from nature and bend it to our will -- those very things also give us the capacity for unmatched destruction.

How often does material advancement or social innovation blind us to this truth? How easily do we learn to justify violence in the name of some higher cause?

Every great religion promises a pathway to love and peace and righteousness. And yet no religion hasbeen spared from believers who have claimed their faith has a license to kill.

Nations arise telling a story that binds people together in sacrifice and cooperation, allowing for remarkable feats, but those same stories have so often been used to oppress and dehumanize those who are different. Science allows us to communicate across the seas, fly above the clouds, to cure disease and understand the cosmos. But those same discoveries can be turned into ever more efficient killing machines.
まだ、これらの空に昇ったきのこ雲のイメージにおいて、私達は人間性の中心的な否定を最もはっきりと思い出す--どのように、種、私達の考え、私達の想像力として私達をマークするまさしくそのスパーク、私達の言語、私達のツール制作、自然から自身を目立たせて、私達の意志にそれを曲げる私達の能力--それらのまさしくその物は私達にたぐいまれな破壊の能力も与える。

何回 物質的な進歩 または社会的な革新が、私達をこの真実に盲目的にするか?私達は、どれほど容易に、あるより高い原因の名において暴力を正当化するのを学ぶか?

すべての大きい宗教は、愛情と平和と正義に、小道を約束する。それなのに、宗教は、殺すために、それらの信頼がライセンスを持っていると主張した信者から全然節約されなかった。

顕著な偉業を考慮し、国家は生じて、犠牲と協力において人々をバインドする物語を話すけれども、それらの同じ物語は、違う人々を圧迫し、人間性を失わせるためにそんなにしばしば用いられた。科学は、海を横切って私達が通信すること、病気を治療し、宇宙を理解するために雲の上で飛ぶことを可能にする。しかし、それらの同じ発見物はいっそうの効率的殺害マシンに変えられうる。

The wars of the modern age teach us this truth. Hiroshima teaches this truth. Technological progress without an equivalent progress in human institutions can doom us. The scientific revolution that led to the splitting of an atom requires a moral revolution as well.

That is why we come to this place. We stand here in the middle of his city and force ourselves to imagine the moment the bomb fell. We force ourselves to feel the dread of children confused by what they see.

We listen to a silent cry. We remember all the innocents killed cross the arc of that terrible war, and the wars that came before, and the wars that would follow.

Mere words cannot give voice to such suffering. But we have a shared responsibility to look directly into the eye of history and ask what we must do differently to curb such suffering again.

Some day the voices of the Hibakusha will no longer be with us to bear witness. But the memory of the morning of August 6, 1945 must never fade. That memory allows us to fight complacency. It fuels our

moral imagination, it allows us to change.
現代の時代の戦争はこの真実を私達に教える。広島はこの真実を教える。人の組織で等しい進歩なしの技術進歩

は、私達を運命づけることができる。原子の分割を引き起こした科学の革命は、その上、道徳的な革命を必要と

する。

それは、私達がこの場所に来る理由である。私達はこの都市の中央でここに立ち、爆弾が落ちた瞬間に、想像し

ていることを自身に強制する。私達は、彼らが見るものにより混同された子供の恐怖を感じることを自身に強制

する。

私達は静かな叫び声を聞く。私達は、そのひどい戦争の円弧、および前に来た戦争、および続いている戦争を横

切ってすべての無邪気な子供が殺したことを覚えている。

単なる言葉は声をそのような苦しみに与えることができない。しかし、私達は、歴史の目を直接調査し、再びそ

のような苦しみを抑制するために、私達が何を違ったふうにしなければならないかを尋ねるために、共有された

責任を持っている。

いつか、被爆者の声は、証拠を支えるために、もう私達にない。しかし、1945年8月6日の朝のメモリーは決して

薄れるはずがない。そのメモリーは、私達が自己満足と戦うことを可能にする。それは私達の道徳的な想像力に

燃料を供給し、それは、私達が変わることを可能にする。

And since that fateful day we have made choices that give us hope. The United States and Japan forged not only an alliance, but a friendship that has won far more for our people that we can ever claim through war.

The nations of Europe built a union that replaced battlefields with bonds of commerce and democracy.

Oppressed peoples and nations won liberation. An international community established institutions and treaties that worked to avoid war and aspired to restrict and roll back and ultimately eliminate the existence of nuclear weapons.

Still, every act of aggression between nations, every act of terror and corruption and cruelty and oppression that we see around the world shows our work is never done. We may not be able to eliminate man's capacity to do evil, so nations and the alliances that we formed must possess the means to defend ourselves.

Among those nations like my own that hold nuclear stockpiles, we must have the courage to escape the logic of fear and pursue a world without them. We may not realize this goal in my lifetime, butpersistent effort can roll back the possibility of catastrophe.

そして、その決定的な日以来、私達は、私達に希望を与える選択をする。米国と日本は、同盟を作り上げたけれども、ずっと私達が戦争を通じて要求できる私達の人々のためにずっともっと勝った親交。

ヨーロッパの国家は、戦場を商業と民主主義の束縛と取り替えた組合を築いた。圧迫された民族と国家は、解放を勝ち取った。国際的なコミュニティは、戦争を避けるために働き、限定し、後退し、核の武器の存在を最終的に取り除くことを熱望した組織と条約を設立した。

それでも 国家の間のすべての幕の侵略 、すべての幕の恐怖と腐敗、および世界中で私達が見る残酷さと抑圧、私達の仕事を示す 決してされない 。私達は、悪をするために、人の能力を取り除くことができないかもしれない。従って、私達が形成した国家と同盟は、自身を防御するための方法を所有していなければならない。

核の資材を持っている私自身のようなそれらの国家の間には、私達は、恐怖のロジックを免れて、それらなしで世界を追跡する勇気を持っていなければならない。私達は私の生涯のこのゴールを実現できないけれども、持続的な努力により大災害の可能性は巻き戻されうる。

We can chart a course that leads to the destruction of these stockpiles, we can stop the spread to new nations, and secure deadly materials from fanatics. And yet that is not enough, for we see around the world today how even the crudest rifles and barrel bombs can serve up violence on a terrible scale.

We must change our mindset about war itself -- to prevent conflicts through diplomacy and strive to end conflicts after they've begun; to see our growing interdependence as a cause for peaceful cooperation and not violent competition; to define our nations not by our capacity to destroy but by what we build. And perhaps above all we must reimagine our connection to one another as members of one human race -- for this too is what makes our species unique.

We're not bound by genetic code to repeat the mistakes of the past. We can learn. We can choose. We can tell our children a different story, one that describes a common humanity, one that makes war less likely and cruelty less easily accepted.

We see these stories in the Hibakusha: the women who forgave a pilot who flew the plane that dropped the atomic bomb because she recognized what she really hated was war itself; the man who sought out families of Americans killed here because he believed their loss was equal to his own.

私達は、これらの資材の破壊を引き起こすコースをチャートで示すことができて、私達は新しい国家に広がりを止めて、狂信者から必殺の素材を守ることができる。それなのに、今日、世界中で、私達が、最も天然のライフルと樽爆弾でさえどのようにひどいスケールの暴力の上で役立つことができるかをわかるので、それは十分ではない。

私達は戦争自身についての私達の思考様式を変更しなければならない--外交を通じて衝突を防止し、それらが始めた後に衝突を終えるために努力するために;私達の成長相互依存を暴力的な競争ではなく、平和な協力のための原因と考えるために;破壊する私達の能力ではなく、私達が築くものによって私達の国家を定義するために。そして、たぶん、とりわけ私達は、互いの私達の接続を1人の人類のメンバーと再想像していなければならない--また、私達の種をユニークにするものがこれのためにである。

私達は、遺伝情報により、過去の誤りを繰り返すことを義務づけられない。私達は学ぶことができる。私達は選ぶことができる。私達は、違う物語、共通の慈善行為、それほどありそうではない戦争およびそれほど容易ではなく受け入れられて戦争するものを説明するものを私達の子供に話すことができる。

私達は被爆者においてこれらの物語を見る: 彼女が認めていたので原子爆弾を落とした飛行機を操縦したパイロットを許した女性もの 彼女が本当に憎悪した 戦争自身であった;彼がそれらの損失が彼自身と等しいと信じたので、ここで殺されたアメリカ人のファミリーの外で捜した人。

My own nation's story began with simple words: "All men are created equal, and endowed by our Creator with certain unalienable rights, including life, liberty and the pursuit of happiness."

Realizing that ideal has never been easy, even within our own borders, even among our own citizens. But staying true to that story is worth the effort. It is an ideal to be strived for, an ideal that extends across continents and across oceans.

The irreducible worth of every person, the insistence that every life is precious, the radical and necessary notion that we are part of a single human family: that is the story that we all must tell.

That is why we come to Hiroshima, so that we might think of people we love, the first smile from our children in the morning, the gentle touch from a spouse over the kitchen table, the comforting embrace of a parent.

We can think of those things and know that those same precious moments took place here 71 years ago. Those who died, they are like us.

Ordinary people understand this, I think. They do not want more war. They would rather that the wonders of science be focused on improving life and not eliminating it.

私自身の国家の物語は簡単な言葉から始まった:「すべての人は等しく創造されて、私達の創造者から、ライフ、自由、および幸福の追跡を含む一定の譲渡できない権利を与えられる。」。

私達自身の市民の間でさえ私達自身の境界内でさえ理想が一度も容易であったことがないことに気がつく。しかし、その物語に忠実なままでいることは、努力に値する。それ、大陸と海洋を横切って拡張する理想のために努力することが理想である。

すべての人、主張の削減できない価値 すべてのライフが貴重である 、根本的で、必要な観念 that 私達は単一の人ファミリーの一部である:それは、私達すべてが話さなければならない物語である。

それは、私達が広島に来る理由である。私達が人々について考えるように私達が愛していること朝の私達の子供からの最初の微笑み、キッチンテーブルの上の配偶者からの優しい感触、親の慰め抱擁。

私達はそれらの物について考えて、71年前ここでそれらの同じ貴重な瞬間が起こったと知っているかもしれない。死んだ人々 それらは 私達に似ている。

普通の人々はこれを理解し、私は考える。彼らはより多くの戦争を望まない。彼らは、科学の不思議の焦点がライフを改善し、それを取り除かないことに合わせられることを望んだ。

When the choices made by nations, when the choices made by leaders reflect this simple wisdom, then the lesson of Hiroshima is done.

The world was forever changed here, but today the children of this city will go through their day in peace. What a precious thing that is. It is worth protecting and then extending to every child.

That is a future we can choose, a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.

そしてリーダーによりされた選択がこの簡単な知恵を反映する時に国家により広島のレッスンにされる選択がされる時。世界はここで永久に変更されたけれども、今日、この都市の子供は平和のそれらの日を通り抜ける。もの である貴重な物 。保護し、それから、すべての子供に拡張することが値する。

それは、広島と長崎が核戦争の夜明けではなく、私達自身の道徳的なめざめの開始として知られている未来に、未来 私達が選ぶことができる, である。

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2016年4月28日 (木)

 秋山 ちえ子99歳 いい顔している。こういうオバちゃんでありたい。

12 人は40,50代までは、死を頭に描いていない。少なくとも、私は、そうだった。ところが、人は死ぬイキモノだ。それを最近気付いた。まあ、それは比ゆだけどね。
 ポロポロと亡くなる。アタリマエだけどね。明治生まれは殆どいない。そろそろ大正生まれも減った。ラジオ時代の申し子のような秋山ちえ子が亡くなった。
TBS「秋山ちえ子の談話室」という朝10時から5分間だけ、彼女の独壇場のスピーチだった。5分間、きちんと起承転結のある話をピタッと締めてみせた。話し方が上手だった。
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 これで、談話室を止めるといった回を聞いた記憶がる。2002年(平成14年)、あれは、何歳だったろう。85歳、それから、きょうまで生きてみせたのだから、すごい。99歳か。
 2016年(平成28年)4月6日、自宅で肺炎死去

 秋山 ちえ子(あきやま ちえこ、1917年(大正6年)1月12日 - 2016年(平成28年)4月6日):7 ラジオパーソナリティ、エッセイスト、評論家。本名、橘川ちゑ(きっかわ ちえ)。 
 宮城県仙台市出身。東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)を卒業後、聾唖学校の教師となる。この時、取材に訪れた川端康成と知り合い、北条誠を川端に紹介する。結婚後、中華人民共和国に4年滞在。
1948年(昭和23年)から1956年(昭和31年)まで、NHKラジオ番組『私の見たこと、聞いたこと』のレポーターを担当し、主婦の視点から見た日本の現状をわかりやすく説明した。1954年(昭和29年)にラジオ番組「私の見たこと聞いたこと」で第2回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞(ラジオに対して)。
その後ラジオ東京(現TBSラジオ)で『昼の話題』→『秋山ちえ子の談話室』のパーソナリティを1957年(昭和32年)から45年間担当した。
2002年(平成14年)に帯番組終了後、毎週日曜日に続編『秋山ちえ子の日曜談話室』として続いていたが、それも2005年(平成17年)10月2日をもって終了。
「当初から3年間限定と決めていました。どこかでパッとやめた方が自分の信条に合っています」このラジオ番組の回想録「風の流れに添って(ラジオ生活57年)」が2005年(平成17年)10月2日の放送最終日に講談社より出版された

彼女は、日本の良識を語ったが、どうだろう。影響が残ったのか。彼女のパーソナリティのロングライフ、長かったことは覚えているが、その内容が伝わってこない。この点がチョット残念だ。
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2016年4月24日 (日)

恩師千村昌幸(英語)最初の出会いConscious thatが第一声

Photo 高2の夏休み講習に出た最初の授業の、文章の最初の文章が“Conscious that”(=That以下を意識して)という分詞構文。Be(conscious that)のBeが省略された文章を先生は「コンシャス・ザット」と、発音が漢文調であった。
 先生の発音を聞いて、漢文の先生じゃないか、と思うほど英語的でなかった。名古屋(国立)大学=六高を出た学力のある先生だが、気取らない先生だったから、
生徒の間では「千村さん」と呼ばれていた。
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 旭陵会だより(同窓会新聞)に千村昌幸先生の訃報が載っていたが、まだ90歳には間があると思っていたが。9回生の吉田豊美君が追悼文をかいていた。906 彼は、大学では学生運動で60年の三井三池炭鉱争議にも参加していると書いているから、真剣な活動家だ。就職後も組合運動に関わったのだろう。

Photo_2 彼が、学生運動で三井三池炭鉱争議に関わり、恵那の教育に影響されていたとは、意外な印象を受ける。
 遠目から、ハンサムな彼なら女性にもてるだろうと思っていたが、一度もクラスが一緒にならず親しく話しをしたことがなかった。出身小中校も出身の町、大学はどこへ行ったかも、
彼の詳細は知らなかった

 Nenkinn06_2中津(岐阜県)の市内出身の高校生は、東小、南小も、『恵那の子の作文教育』でかなり免疫がある。高校で千村先生の左翼的な言葉にも、一歩引いて冷静にみていた。そんな記憶がある。彼のように即、左翼的言辞に影響受けなかったような気がする。
 T先生以下何人かの先生は、左翼思想の先生であることはわかっていたが、一方では、思想とは一歩離れた姿勢の「無思想・保守的な」先生もいた。社会改革を夢想する先生のほうが面白いから、そういう先生は人気があった。
 無着セイキョウ先生の『作文教育』の影響はかなり中津市でも強かった。その影響を受けたのは小学生だった。その洗礼を受けて何人かは、改革思想を持って高校に入っていた。彼のように、高校へ入ってから思想に影響受けるのは純粋だ。

 思い出すと、当時、モラロージという“最高道徳”という思想を盛んに言う友人が数人いた。直接影響は受けなかったが、“最高道徳”の団体があった。
 盛んに素晴らしい思想だと語っていた。仏教と儒教、キリスト教のいいところを取っているから・・・、高校のPTA会長のHさんの父親が責任者だとかも言っていた。モラロージの良さを盛んに吹聴していた仲間がいた。
 モラロージについては、欄外で説明

 高校三年生のとき、
千村先生は生徒会顧問として新聞の部室に出入りしていたから、親しくなった。心理学同好会を結成して、これもT先生に顧問やってもらったが、一回開いただけで、その後どうやって進めていいか分からずポシャッたが、先生に甘えていた。

 新聞部の顧問は千村先生は、生徒会の顧問をやっていて、生徒会長になったHが中学からの友で、我が家へ出入りして、会長やりながらタバコを吸うアレで、先生も呆れて返っていたが・・・まあ、それはソレとして。

 千村先生が、本町、横町、下町から左に曲がって(間酒造の裏)大正町に住んでいた。私の家、本町から行くと5分程度でいけた。途中、Nさんの家の前を通って、夕飯の済んだあと、7時頃かな、「こんばんわ、先生」といって、本を借りに行った。
 結構、先生宅へ平気で行ったものだった。先生、そのころ月給いくらだったか分からないが、昭和32年か322年ころ、「毎月書籍代は2000円は使う」と言っていた。
 先生宅に女の子の赤ちゃんが生まれた直後だった。
 奥さんが苗木小で桜木君の担任した、と自慢していた。アレは、彼が東大へ入った直後の会話だった。それを、「東大生に育て上げた」ようなニュアンスに聞こえたのか、千村先生は「バスか、電車に乗り合わせた」のと同じだと、混ぜ返していた。気さくな先生であったのは、確かだ。

 ホワイト・ピッグのあだなの英語の先生、
太利先生の親戚の間一族だが、一生懸命に自分の思想を伝えようとしていたのは、わかっていた。こうして、戦後の平和思想を伝えることが、先生の立場から言ってはいけないと今ならそうなっているが、その当時は、先生の使命だと思っていたようだ。

 今回の同窓会だよりには、他の糸魚川忠平、市岡玉枝先生が亡くなったことが書いてあった。残念だが、人生はそういうものだ。

 中津の町では、英語が使える人は、商業学校の菅井先生、教会の水垣牧師、あと旧本陣の市岡玉枝先生(女性)の三人だった。戦時中、田舎の中津川市で、英字新聞を取っているのは、三人だと新聞配達の人から伝わって、皆知っていた。

 市岡先生が一番若くて、このGHQのジープに付き添って、教育委員会などに行って通訳をしていた、と後に聞いた。昭和22年~25年ころだろうと思う。

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■「モラロジー」とは
(
http://moralogy.jp/?page_id=1293)
「道徳」モラル(moral)と「学」ロジー(logy)からなる学問名。日本語では「道徳科学」と言います。
 前身である道徳科学研究所の創立者廣池千九郎(法学博士)が、著書『新科学モラロジーを確立試みとしての道徳科学の論文』(昭和3年)の中で使った学術語(合成語)です。
■モラロジーの創建
 人間は長い歴史で、人間尊重の考えと豊かな文明を築いてきました。一方で、環境破壊、民族や宗教の対立、心の荒廃など、まさに地球規模の危機に直面しています。
 廣池千九郎は、これらを解決するためには私たち一人ひとりが自分中心の考え方を止めて、道徳心を高めていくしか方法はないと考えました。

 そこで、東西の諸聖人に共通する質の高い道徳に注目し、それを最高道徳と名づけました。質の高い道徳の実行とその効果を明らかにするために研究と実証を積み重ね、大正15年(1926)、新しい学問として「モラロジー」を提唱しました。

■育てたい3つの心
1.感謝の心

 大自然の恵み、また家庭や国の恩恵などに対する感謝の心は、自分の命はもちろん人や周囲のあらゆる命を大切にする尊厳性をはぐくみます。そして恩返しをしたり、社会や世界に貢献していく勇気を育てます。
2.思いやりの心
 相手の立場に立って考えることのできる思いやりの心は、人の喜びや悲しみ・痛みへの共感性をはぐくみます。そして自分を反省したり、相手を許す謙虚さや周囲に奉仕する深いやさしさを育てます。
3.自立の心
 夢や志に向かって、主体性を持って生きようとする自立の心は、家庭人、社会人、また国民としての責任感や使命感をはぐくみます。そして地域や国際社会に目を向けていくたくましさを育てます。
 
以上、「モラロジー」の説明。
 いいこと尽くめだけど、さあそれに従いなさいといわれて、どうする?思い切って、食いつけないのは、何が不足しているのだろう。自発の動機がないから?

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2016年4月 9日 (土)

ファミリーヒストリー nozawa22new

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