死の招き

2019年8月24日 (土)

“海軍乙事件”「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)二流日本軍高官の起こした

1944ttack 憲法は、社会の実態と合うように改定するべきだと思うが・・・それには、自民党、政府閣僚、官僚等が信用できればという条件がつく。それは、戦争中から、政治にタッチできる人たちの行動には、数々のウソがあるからだ。
 その典型に“海軍事件”という事件がある。それをご説明したい。高官がゲリラの捕虜になり、その上、最高機密の暗号、今後の作戦計画を奪われて、それを口ぬぐって、直後の
「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)をアメリカに読まれて、ボロ負けになった責任を取らなかった。0016・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 これはすでに、ブログ「海軍事件と福留繁参謀長」で紹介した。が、重要なテーマであるから、繰り返して提示したい。現代社会では、似たことが行われている。
 それは、サッカーFIFAの金銭授受問題、あるいは、習近平の一番信頼していた側近の中央委員が腐敗していた問題等、人間の欲は切れないものかもしれない。
2151海軍事件:1943年(昭和18年)4月18日に、前線を視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、山本が死亡した事件。★★海軍事件:1944年(昭和19年)3月31日発生。
 情勢悪化により、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇で作戦本部の移動を図った。途中で低気圧に遭遇し、連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将の乗機は行方不明、二番機はセブ島沖に不時着し、福留ら9名は泳いで上陸したが、ゲリラの捕虜となり、1944年3月8日作成された新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書等、最重要軍事機密を奪われた事件。
★戦時中の意識はこんな感じだ。

 本日のテーマは、「海軍
事件」にまつわる問題点を洗いざらい考えてみたい。

 「海軍事件」は、アメリカ軍の暗号解読力に負けた事件で、それを日本側が気付かず、終戦まで知らなかった・・・。問題にしたいのは、事件で山本五十六が殺されたのち、彼より能力の低い指揮官が継ぎ、日本軍は士気が低下すると読まれているのが、戦後明らかにされている。
 米軍情報部は日本軍の暗号解読に成功して、山本の視察の経路と予定時刻は米軍の把握。
 ニミッツは会議を開き、山本五十六が無能な敵将であれば生かしておくほうが味方に利益で、山本を殺害すべきか検討した。検討の結果、真珠湾攻撃の立案者として人望の高い山本は戦死すれば日本軍の士気が低下する。後任として山本より能力の高い指揮官がつく可能性は低い、とニミッツは山本の殺害を決断。
 米軍は日本軍の暗号解読に成功している事実を日本側に悟られないよう、偶然の撃墜であったかのように発表を装っている。

 その結果、問題は、「海軍事件」は起きている点である。
 そのような「海軍乙事件」の詳細を国民的なテーマとして、日本社会では議論されていないから、同じような二流人物が出てきて、同じような事件が繰り返されているのだ。

 

   事件概要
 1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲の後、1944ttack_2 連合艦隊は拠点としてパラオを利用していたが、同年3月にアメリカ連合軍の大空襲を受け、総司令官古賀古賀峯一ら司令部要員は、3月31日、飛行艇(二式大艇)でミンダナオ島のダバオへ移動を図った。このとき、事件が起きた。

 

  途中で低気圧に遭遇し、連合艦隊司令長官 古賀峯一が乗っていた一番機は行方不明となり、司令部要員7名を含む全搭乗員とともに古賀司令長官は殉職し、元帥の称号が与えられた。古賀の殉職は、しばらくは国民に隠されて、同年の5月5日に発表された。

 

 二番機もセブ島沖に不時着し、搭乗していた福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員3名(他、山本祐二作戦参謀、山形掌通信長)を含む9名は、泳いでセブ島に上陸したが、米軍指導のゲリラに捕虜となった。
 福留繁参謀長らは、3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった最重要軍事機密を大急ぎで、かばんと共に川に投げ込んだが、すぐに現地ゲリラに回収された。
 参謀長以下、連合艦隊司令部要員は、拘束時に大した抵抗もせず、自決も、機密書類の破棄もしなかった。この書類が敵に渡った場合の重大性にピンときていない。命に代えても守らなくてはならないという必死さが伝わってこない。

 

 このあたりの態度も、兵士には、軍人勅諭で「俘虜となるなかれ」と捕虜になることを禁じているが、上層部の人間は死をおそれているように見える。あるいは、国際捕虜の取引が出来ることを知ってか、抵抗もしないのは、ちょっと解せない。 

 

 元々フィリピンはアメリカの植民地であり、住民の感情は親米的であった。そのため、日本によってフィリピンの支配が続いていた間も、アメリカは潜水艦から連絡員を送り込むなどして現地のゲリラと連携し、その組織化に手を貸していた。
 日本側のセブ島の守備隊長は、ゲリラのリーダーに対して、「解放しなければ報復を加える」と、取引に応じるようにゲリラ側を脅した。このことにより福留等は解放された。
 しかし、機密資料の入ったカバンはゲリラに没収され、作戦計画書等の機密文書は、ゲリラからアメリカ軍に渡り、ブリスベーン郊外の連合国軍翻訳通訳部で、アメリカ陸軍情報部(Military Intelligence Service, MIS)の要員によって翻訳された。(Wikipedia)
 

 

 福留 繁の人物像について、
福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日 - 1971年(昭和46年)2月6日):日本の海軍軍人。海軍兵学校40期。海軍中将。
 1891年2月1日、鳥取県西伯郡(現大山町)の農家に生まれる。1905年年4月鳥取県(現米子東高校)に入学。四里(16キロ)の道を歩いて通学。海軍を志したのは、「学資のいらない軍人学校」ということからだった。
1909年9月11日海軍兵学校に40期生として入校。
1912年(大正1年)7月144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生。
1924年12月1日、少佐、海軍大学校甲種24期に入校。
1926年(大正15年)11月25日首席で卒業。1929年、中佐。
1930年(昭和5年)12月1日人事局員。1932年(昭和7年)12月欧米各国へ留学。1933年(昭和8年)11月15日海軍大佐、連合艦隊首席参謀兼第一艦隊参謀。1934年(昭和9年)11月15日軍令部第二課長。1935年10月30日軍令部第一課長。1937年7月支那事変勃発。1938年4月25日支那方面艦隊参謀副長。1938年(昭和13年)12月15日長門艦長。
1939年(昭和14年)11月15日海軍少将へ進級、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長。
 連合艦隊司令長官山本五十六大将が合同訓練の際に「あれ(飛行機)でハワイをやれないか」と呟いた際に、傍にいた福留参謀長は「それよりは、艦隊全部を押し出しての決戦の方がいいと思います」と言った。


 福留は戦略戦術の神様と称えられていた。しかし、海軍主流の大艦巨砲主義者で、新しい航空戦、情報戦への理解に欠けた。日本海軍の成績重視教育で、教科書通りの戦術・戦略で柔軟性に欠けていた。福留は、近代戦を任せられる人材とはいえなかった。しかし、海軍甲事件(山本五十六の死)後、連合艦隊司令長官に就任した古賀峯一海軍大将から、
1943年(昭和18年)5月23日連合艦隊参謀長に任命された。
 
 このとき、すでに日本にとって戦況は不利となっていたが、戦術戦略の神様とまでおだてられた福留は、
あ」号作戦のような伝統的な艦隊決戦以外有効な作戦を打ち出せなかった。

 

 福留らは、ゲリラに対して警戒心を持たず、拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄もしなかった(かばんを川に投げ込んだが、すぐに回収された)。W_back_up_link  日本軍は、ゲリラと交渉して福留を解放。帰還した福留は、海軍次官沢本頼雄中将らから事情聴取を受けたが、福留本人は、徹底して機密書類紛失の容疑を否定。

 当時の日本では、敵の捕虜となる事はこの上ない恥だったが、ゲリラに福留繁中将が捕縛された事を「捕虜にならなかった」と不問になったから、 戦後も福留は、GHQで戦史編纂の担当者大井篤のところに出向き、
「君や千早が機密書類が盗まれたと言っており、迷惑している。こんな事実は全くないんだ。」と述べた。大井は「盗まれたのは事実です。お帰り下さい。」と追い返したと言う。

 

  福留繁は優秀な成績で、海軍大学校甲種を首席卒業。よくあることだが、政府中枢の地位を占めている人物が犯す犯罪である。大阪地検の●●特捜部長は、部下がフロッピー作成日付変更を報告したにもかかわらず、自分の罪を認めない方針で戦うとしている。 ●●特捜部長 前田検事 塚部貴子検事

 これは、この福留参謀長と同じく、「組織が守ってくれる」と信じているようだ。日本の運命に関わるマリアナ沖海戦の情報が完全に漏れていると知って、そのまま戦ったら日本は大敗北することを知っていたのは、重大犯罪である。「不作為」というより、むしろ「作為あり」ではないか。

 

 

 

 

 

 機密書類が奪われた容疑を徹底否定→海軍上層部は機密書類紛失は不問→6月第二航空艦隊司令長官に栄転。
 栄転して、現場を離れて、


「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)は情報漏れ→それを元に米軍は十分な対策を立て、日本軍は一方的な敗北

 


 この機密文書が奪われたために、日本海軍が計画した「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)の情報が詳細な部分までアメリカ軍に漏れ、アメリカ軍は、それを元に十分な対策を立てていた。

 マリアナ諸島に侵攻するアメリカ軍を日本軍が迎撃した本作戦では、日本はアウトレンジ戦法による航空作戦を行うが、アメリカから「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄されるほど一方的な敗北。

マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法 ~三重県・鈴鹿海軍航空隊~  [1]  連合艦隊が総力を挙げて臨んだマリアナ沖海戦
[2]  隠蔽されたミッドウェーの敗戦
[3]  読まれていた切り札、アウトレンジ戦法
[4]  飛行訓練もできないまま迎えた、マリアナ沖海戦
[5]  アウトレンジ戦法の破綻

 
日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて、出撃潜水艦の多くも失う壊滅的敗北し、空母部隊による戦闘能力を喪失した。011_2  ●大負けに負けても、「重大戦局」程度の記事↑作戦がアメリカに漏れていたとは、国民も知らなかったのだ。Repsoul_02 その後、日本の支配下にあったマリアナ諸島はアメリカ軍が占領し、西太平洋の制海権と制空権は米国に握られた。その結果、サイパン陥落により日本本土への戦略爆撃が開始された。Map_21 これは福留参謀長の重大な背信行為。特に連合艦隊参謀長という最高責任者として、日本を裏切った利敵行為の罪は重い。敵前逃亡以上の罪だ。惨敗している海軍を涼しい顔でみているのだから、役人は凄い神経をしている。

 ゲリラの捕虜となった福留を解放するため、日本軍はゲリラと交渉し、福留らは釈放され、帰還した福留は、海軍次官沢本頼雄中将らから事情聴取を受けた。
 福留本人は、徹底して機密書類紛失の容疑を否定した。(紛失を焼却したと言い逃れたのか、不明)身内が身内を調べるのだから、いつの時代も、取調べは甘くなるだろう。
一般兵士には敵の捕虜となる事は許さなかったが、福留繁中将がゲリラに捕縛された事を「捕虜にならなかった」と不問にした軍のやり方も、ズルい。警察官の不祥事を警察が庇う例に似ている。これじゃあ、公務員のやることを一般市民が信用しない。

  戦後30年経過後、米国が公開した文書の中から機密書類が米国に渡っていた証拠が発見された。福留が自分の失敗を隠蔽していたことが明らかとなった。
 軍人でありながら、自ら
自分の非、罪、咎をを認めるという習慣がないのは、どうなんだ!秀才、優秀な武人がこうした範を示していいのだろうか。彼が、意思がつよく、勤勉であったことが、こうした徳と結びつかないのは、教育上の大きな課題である。

 

 

 

 福留 繁、明治24年(1891年)2月1日 - 昭和46年Fukudome_shigeru(1971年)2月6日)。福留 繁、昭和46年、90歳まで長命を保った。多くの二十歳前後の兵士が昭和20年前に死んでいるなか・・・。

 

  山本五十六が嫌う典型的な「頑迷な鉄砲屋」で、日本海軍の成績重視教育の賜物ともいう思考と人物像に加え、教科書通りの戦術、戦略しか立てられず、柔軟性に欠いていた。古賀長官就任時点で、福留は新しい近代戦を任せられる人材とはいえなかった。

 

  あとから福留の欠陥を指摘しても、直るものではないし、この戦争の責任を問えるわけでもない。しかし、現代に置き換えて、官僚の態度と比較してみると、何か似たにおいがする。典型的な刻苦勉励、成績至上主義の秀才には、新しいアイディアは生まれない現代にも、官僚組織の中で、新しい“海軍事件”が生まれる可能性がある。そんな警告にしてみたい

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海軍乙事件 福留繁参謀長 マリアナ沖海戦
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戦場からの恋文(中日新聞社)フィリピンで散った 青山ふゆ先生の夫

 中津高校OBには、「旭陵新聞」が年に一回は送られてくる。そんな新聞、タマタマ一年以上前のもの読んでみると、恩師の訃報が載っている。今回、高一、高二で接した花田春雄(数学)、高橋照子(音楽)、土屋甲子朗先生が、熊崎公平(高3担任)先生が鬼籍に入られた。03_203_303






 

02 
熊崎公平(高3担任)先生は
弔辞 熊崎公平先生
被爆死体片付けた 広島高師の学生:
 公平先生には、銀座のライオンで一杯ゴチになったことも、同じ町内(本町)だったので、お母さんの焼き芋屋にはお世話になった・・・。

 

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 その横には、青山ふゆ先生の出版が報告されていた。
「戦場からの恋文」=私家版「防人通信」(青山フユ先生)のリメイク版らしいが、フィリピンで戦死した夫の手紙が・・・とあるから、先生のことも知りたいと図書館にリクエストしたら、昨日借りることができた。

 

01
A_21 郷里の高校恩師だから、なにも言わなくてもわかる人にはわかるが、一般の人にわかりやすくいうと、
 “顔の輪郭”と“くぐもった発音”が、(よく言えば)桃井かおりに似ている。もちろん、昭和30年代、授業中に桃井かおりの雰囲気や匂いはないが。

 

 

  青山ふゆ先生は、地元の中津女学校を卒業して東京女子師範(お茶の水女子大)卒というめった輩出しない才媛・・・昔、女子に東大という選択肢あれば入ったかも。稀有な才女だった。岐阜師範はあったが、田舎女学校から東京女子師範は珍しかっただろう。だからか、めった褒めることがなかった気がする。
 そして、昭和30年代、中津高校の国語教師を続けていた。てっきり、オールドというかハイミス先生だと勝手に思っていた。国語の先生には、もう一人、東京女子大卒の歯科医院のお嬢様先生がいたから、生徒の目はそっちに行っていた。

 

Photo_4 夫の青山泉と言う人の家系は、苗木藩(親藩)の士族の系統の分家らしい。幕末、平田篤胤の廃仏毀釈の国学系思想が中津宿の周辺は盛んだった。そのとき、中津の中心人物に青山という姓が出てくるが、この運動に係ったか、その辺はわからないが、中津にはありがちの姓である。幕末の思想で動いた人物、中津では、間、市岡、青山などがある。

 

 青山泉は、苗木小学校を卒業したのち、長野県立木曽山林学校へはいった。修業年限四年、旧制中学と同格で、1923年(大正12年)卒業後は国の林野局か、府県の林野部局に配属される。彼は、当時、日の出の勢いのあった、東京駅を請け負った大林組に入って、理工技術系サラリーマンとなった。

 当時、戦争になったらいい位置で出征したいという意識があった。一年志願入隊をすると、除隊するとき、予備少尉になって、本当の戦争で徴兵された場合、平の兵隊にならないで済む。二等兵と少尉では、天と地ほどの差がある。チョット世渡り上手の家族は、一年間志願入隊をしておく。
 軍隊としては、下級指揮官が欲しいから、知識学歴のある信頼に足る男子が、士官学校ではなくても、少尉になれる道があった。ただし、生活衣服代として、一年間で240円を支払う必要があった。もっとアレな人は、軍の経理学校に入って、主計将校になる道を選んだ。砲弾の落ちる戦地には行かないで済むというが、そう甘くはない。戦後活躍した人には、そういう人が多い。一方、特攻の生き残りも、活躍した。

 

0404_2 青山ふゆは、中津市坂本小学校教師の父加藤龍三、かく夫婦九人兄弟の長女。父の転勤のよって、恵那郡長島→久須美小→美濃福岡小→中津高女→東京女子師範(御茶ノ水女子大)→愛媛県の師範学校女子部教諭兼舎監。
 青山泉は、苗木小学校→長野県立木曽山林学校(四年)卒業後は東京駅を請け負った大林組のサラリーマン。

 

 二人の出会いは、ふゆが愛媛県立師範学校で教諭しているとき、坂本へ夏季休暇で帰省した帰り、中津の“すや”へみやげを買いに来た。そのとき、“すや”赤井九兵郎に嫁いでいた四姉照を苗木に住んでいた青山泉が訪ねていた。ふゆの話し方、振る舞いに、ぜひ彼女を紹介してほしいと姉照に頼んだのが最初だという。

 

707 姉は「東京女子師範(御茶ノ水女子大)卒の才媛が苗木に来るわけないでしょ」と言っていたが、二人を会わせると、彼の風貌と文学の造詣が深いことにふゆのほうが好きになったようだ。
 身長は書いてないが、泉は体重70数キロというから、昭和のはじめでは大柄だ。ふゆ先生、国語国文の話ができる男性にめぐり合って、会話が楽しかった。親しく話せば話すほど、度量の大きさに気持ちが傾いて行ったに違いない。というのは、推測であるが。

 

「戦場からの恋文」内容を読むと、夫泉さんの文面には、何を書いても通じるんだという融通無碍の雰囲気がありありだ。相手が才媛ではあるが、朋友、親友の仲間意識があり、昔の男性にありがちな・・・でなく、近代の男女関係で書かれている気がする。

 

 二人は、昭和10年3月28日、中津の梅信亭で挙式。
 愛媛の学校は退職し、彼の仕事で浜松の百貨店建設があり、暫くは浜松に専業主婦として、
この楽しかっただろう。浜松の百貨店建設が一段落し、その三年後、名古屋市千種区元古井町の借家に居を移した。それから愛知淑徳高等女学校へ勤務し始めた。

 

 昭和17年に召集令状が来て、実質7年で結婚生活は終わった。3月17日に岐阜駐屯地を出て、広島の宇品港から出航し、フィリピンのルソン島に着く。そこで訓練を受けて、パナイ島に赴く。Photo このときから、二年半、ふゆとの手紙のやり取りが続く。04_3 たったの二年半、戦地に送ったふゆの手紙は一切ないが、泉から来た手紙類は彼女に寄って大切の保存されている。

 

 最初に届いた『戦場からの恋文』1号は、穏やかであったが、2号では大変なことが書いてあった。パナイ島イロイロ病院に入院中とある。パナイ島上陸一週間くらいのとき、66 部隊がトラックで進行中、地雷を踏んで横転したところをゲリラに銃撃され、青山泉少尉は右腕を撃たれ静脈を切って大出血。腹に巻いているサラシで止血しながら、左手でピストルを打って撃退した・・・とある。応戦中に中隊長以下応援が来て、事なきを得たという。右中指と薬指がうまく動かないが、二三年すれば、大丈夫だとケガに負けない文章である。二日後にイロイロ病院へ入院。

 

 戦地から届く手紙は、まとまって届いたり、あるいは、特に、制海権、制空権を日本軍は失っているから、出したはずの手紙が届いていないことが多いはずだ。昭和19年10月が最後になった。

 

04_4 文通できたのは、内容的には普通の兵士なら書けない内容を伝えているが、これは青山泉が検閲する側の責任者にいたからだと「戦場からの恋文」の監修者がいう。
 私家版「防人通信」から、中日新聞社出版となったとき、監修者がついた。監修者宮地正人は千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館学芸員、舘長。私が見た「
佐倉連隊にみる戦争の時代 : 」(2006年)展示会を取り仕切った責任者のようだ。
 監修者がつくと、資料の文章で内容チェック、読みが深い。さすがであると感じた。
 フィリピンの島々には、結構広い島がいくつかあって、ヨーロッパのオランダとか、アメリカからも移住者がいて、日本が統治している間には、彼も楽しい生活があった面もある。

●最短で学芸員資格を取得する方法
 大学で「博物館概論」や「博物館情報・メディア論」などといった博物館に関する授業の単位を19単位、専門分野の単位(専門はは歴史系)「考古学」や「民俗学」の授業などを10単位取り、また、「博物館実習」として4年生の夏に一週間前後、博物館へ実習すると、卒業と同時に資格を取得。 この方法では、試験などはなく、大学で必須単位を取るだけで資格が取得できる

 最後はどうなったのか、昭和20年9月23日、マラリアと栄養失調で餓死・・・とある。捕虜収容所に入っていたのか、不明だ。病院死のような印象である。死後の妻の日記は短い・・・たぶん、手紙は長いものだったはずだ。

 

〈おまけのエピソード〉
 女性から手紙が兵隊にくると、回りの先輩が冷やかして囃し立てて、手紙の全文をみんなの前で朗読させたと聞いたことがある。女っ気が少ない戦場の乱暴な楽しみだったかもしれないが、イジメ、プライバシーまるでない・・・兵舎だった。と聞いた。
 青山泉は
少尉だから、下のものがアレコレ言える立場ではないからよかったかもしれないが、イロイロ言われることはあっただろうね。やっぱり、二等兵はつらいよ。やはり尉官レベルで出征したいものだ。

 ふゆさん、愛する夫への思いは切ないものがあだろうが、仕事を持つ女の強さか、偉丈夫の彼のことを「子」と言って、掌に載せて愛でるかのような表現で書いてある。さすがふゆ先生、感情を抑えている。

 

 青山ふゆ先生、授業には一切夫、彼のことは言わなかった。昔の女性、そういう面を一切出さないでやっていたのだね。先生の国語で「寒山拾得」をまとめる司会役に私が当たった話・・・結局、私では授業が進まず終わりになった話、覚えている?どっかに書いたから、探してください。
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2019年4月14日 (日)

末期がんの僧侶で医師(田中雅博)の悟り方、もがき方、死の迎え方

 朝日新聞 2015年12月4日 (金)に「末期がんの僧侶で医師」田中雅博さんのインタビューが掲載されていた。一般に新聞記事をコピペはできないようにされているが、あるブログを見たら、記事全体が載っていた。
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02_3 人は病と闘い、生き抜こうとする。それでもいずれは、どうしても死が避けられなくなる。そのとき何を感じるのだろう。希望を見いだすことはできるのか。栃木県益子町の内科医で僧侶でもある田中雅博さんは、がんに侵され、余命わずかの身。自分の死を見据え、日本の医療からこぼれ落ちているものを問いかける。03  《陶器で知られる栃木県益子町。田中さんは、1300年近い歴史のある西明寺(さいみょうじ)の住職だ。
 昨年10月、極めて深刻な段階の膵臓(すいぞう)がんが見つかった。手術したが、今度は肝臓に転移した。今秋、寺で行われた法要の際、別の僧侶に「どうか長生きしてください」と声をかけられると、素っ気なく「それは無理です」と答えた。》

 プロフィール 田中雅博(たなか・まさひろ)
 1946年栃木県益子西明寺生まれ。東京慈恵会医科大学卒業。国立がんセンター研究所内分泌治療研究室長および病院内科医師を併任。1983年大正大学仏教学部編入。1983年、実父が急逝し、実家の西明寺を継ぐため同センターを退職。大正大学大学院で仏教を学び住職に就く。その後、僧職を務めるとともに、同大学院博士課程単位取得退学、西明寺境内に普門院診療所建設。西明寺境内やその近隣に、医療施設や老人介護施設を建設し、僧侶としてまた医師として地域医療や地域福祉に力を入れてきた

 

 

 

 ――余命わずかであることを公言されていますね。011  「抗がん剤の副作用がひどくなっています。特に手足のしびれ。茶わんを落としたり、つまずいたりします。もう副作用の限界ですから、抗がん剤は効果を期待できる量が使えずにいます。検査結果やデータから、来年3月の誕生日を迎えられる確率は非常に小さい。もう少しで死ぬという事実を直視しています」
 「つい先日、孫が生まれたんですよ。女の子です。どこまで成長を見ることができるか。あと3カ月くらいかな、あるいはもっと短いかもしれない、と考えてしまいます。複雑な思いですね。人の死は思い通りになりません。私も順番が来たわけです」
 ――僧として、医師として、ずっと「死」の問題を考えてこられました。自身の死は怖くない、とおっしゃるのかと。
01  「そんなことはありません。生きていられるのなら、生きていたいと思いますよ。私には、あの世があるかどうかは分かりません。自分のいのちがなくなるというのは……。やはり苦しみを感じますね。いわば『いのちの苦』です。自分というこだわりを捨てる仏教の生き方を理想とし、努力をしてきました。生存への渇望もなくなれば死は怖くないはずです。ただ、こだわらないというのは簡単ではありません」
 「かといって死んでしまいたいとも思わない。生きられるいのちは粗末にしたくありません。一方で、自分のいのちにこだわらないようにする。そのふたつの間で、『いのちの苦』をコントロールしているわけです。死の恐怖や不安と闘うというよりは、仲良くしようとしている感じでしょうか」
 《寺に生まれたが、前住職である父親の勧めで医学の道へ。25歳で東京・築地の国立がんセンター(現・国立がん研究センター)で研修医となった。》
01_2  「最初に受け持った患者さんは若い女性でした。がんが体中に転移し、どんどん悪くなっていく。『私は死ぬんでしょうか』と聞かれました。どう答えますか? 科学ではどうしようもないんです。それ以来、たくさんの患者さんから同じように問われ続けました。でも、何もできなかったんですよね……。そうした苦に応える人が病院にいない、と若いときから感じていました。患者は誰に話していいか分からず、看護師や病室を掃除してくれる人に、不安を打ち明けることがあるんです」
 「私は進行がんが専門で、がんセンターでは内分泌部治療研究室長も務めました。医学はいのちを延ばすことを扱うわけですが、そのいのちをどう生きるかという問題にはまったく役に立たない。体の痛みを止める医師が必要であるのと同じように、『いのちの苦』の専門家が必要です。それがほとんどいないのは日本の医療の欠陥だと思います」
 《田中さんが言う「いのちの苦」は医療分野で「スピリチュアルペイン」(spiritual pain)と呼ばれる。世界保健機関(WHO)でも議論され、生きる意味の喪失や死後への不安などが含まれるとされる。
 キリスト教文化を背景とした欧米の多くの病院には、これに対応する専門職がいる。田中さんは1980年代から、日本でも「スピリチュアルケア」(spiritual care=いのちのケア)が必要だと提言。ローマ法王庁が呼びかけた国際会議にも4度招かれ、海外の実情を学んだ。》
02  ――いのちのケアとは?
021  「欧米では、病院に配置された聖職者がスピリチュアルケアに携わっていることが多いですね。自分の宗教や考えは押し付けません。患者の話を聞くことに徹し、いのちがなくなる苦しみを分かち合おうと努めます。どんな人生であったとしても肯定し、価値を見いだしてもらえるよう促す。人間の尊厳にかかわる仕事です」
 ――死が迫ると、後悔などの感情も起こりそうです。

022_2  「それらも受け入れ、最後の最後まで人生の『ものがたり』を形づくる手伝いをする人が必要です。それを含めての医療であるべきだと思います。科学では何もできなくなったときこそ、非常に多くのことができるはずです」
 「人というのは、元気なうちは自己の欲望にとらわれたり、怒ったり、他人を差別したりするものです。
 しかし死が避けられないとなったときは、そうしたことから
023離れて、自分のいのちを超えた価値を獲得するチャンスでもあります。いのちより大事にしたいもの。それは信仰を持たない人にとっても、自身の『宗教』だと思うんですよ。それに気づくことができれば、その大事なもののために残りの時間を生きることができるのではないでしょうか」

 「欧米でスピリチュアルケアにあたる人は宗教だけでなく、哲学や医療などもしっかり勉強しています。ただ、ある人は『知識があるだけではだめだ』と話していました。むしろ、死にゆく患者さんに大事なことを教えてもらうという態度で臨むのです。非常に高度なことですね。人格的にも優れていなければならないでしょう」
 《国内でも専門家を育てる動きがある。全国青少年教化協議会が資格認定する「臨床仏教師」もその一つ。95人の受講者から絞られていき、今春、6人が初めて認定された。約1年半の養成課程では田中さんが内科を担当する診療所も協力し、実習を受け入れた。しかし、医療現場はまだ本格的な導入には慎重だ。》


 ――医療の現場には宗教に対する違和感もあるようです。スピリチュアルケアをする人は宗教者でなければいけませんか。
 「必ずしも宗教者でなくてもいいと思いますよ。欧州では哲学畑の人もいるそうです。ただ、仏教は私たちの死生観に何らかの影響を与えていますから、日本では少なくとも仏教の知識は欠かせません。もし病院で僧衣に違和感があるなら、制服を作ってもいい。ローマの病院でスピリチュアルケアに携わる人に会ったら、白衣を着ていましたね」
 「臨床仏教師の候補者を実習で受け入れた際、ある患者さんは症状が進んで話ができず、筆談でした。候補者に『あなたの考えは浅い』と厳しいこともお伝えになりました。それでも何時間も筆談して、最後は『また来てください』とお書きになった」

021_2 「WHOは緩和ケアについて身体の痛みだけでなく、心理的な側面と(より根源的な)スピリチュアルな側面を総合的に扱う、としています。イタリアのスピリチュアルケア従事者は、死期が迫ってからではなく入院時にすぐ会いに行くと話していました。病棟責任者らの許可もいらず、自由に病室に出入りできるそうです。そういうシステムはいいですね。患者には面談を受ける権利と断る権利を保証しなければなりません」
 ――それにしても、ご自身は穏やかな表情ですね。
022_4 「ぐったりして休んでいることも多くなっていますが、まだ黄疸(おうだん)は出ていません。黄疸が出ると、頼まれている原稿の執筆や講演は難しいので、できる限りのことをやっておきたいと思っています。いま、何でもないことが非常にありがたい。晴れた日はいいなぁと思うし、雨の降る日もいいなぁと感じます。やはり生きているというのはいいことですね03_2    
 ■取材を終えて
 死が避けられなくなったとき、家族には心配をかけまいと「死ぬのが怖い」といったことを口にしない人がいるのではないだろうか。家族もまた、あまりに重い問いは受け止めきれないかもしれない。そうした気持ちを丸ごと受け止めてくれる第三者がいたら、患者と家族にとって貴重な選択肢となりそうだ。
 日本でも、一部の緩和ケア病棟などには宗教的な問いにも対応できる専門家がいるが、全体ではまだまだ少ない。病院にとっては実習を受け入れてみるだけでも、「患者の本当の幸せとは」「そもそも医療とは」と立ち止まって考える契機になるに違いない。(聞き手・磯村健太郎)

 別の“僧医”もいる。
「医として生きる」対本宗訓さん
医師免許を取得。現在“僧医”として研鑽中。
http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/41/jyoho41_tokushu1.htm


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2019年3月30日 (土)

おおきな木 シェル・シルヴァスタイン 世界一受けたい授業より

 賛否両論がある絵本として「おおきな木」(シェル・シルヴァスタイン)を 世界一受けたい授業で紹介していた。アジのある絵本だ。どこかで見た記憶のある内容だったが、母の愛を教えていた。
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000065_2
 昔、あるところにりんごの木がありました。
その木は少年のことがだいすきでした。少年は毎日木の下へやってきました。
木はだれよりも何より木はしあわせでした。000001

 

 時は流れ、ちびっこだったぼうやは成長していき、少年は木に会いに来なくなります。
木はひとりぼっちになることが多くなりました。

ある日、大きくなったぼうやが木のところへやってきます。

「いらっしゃい。昔のように木にお登って遊びなさい」と勧めても、ぼうやは言います。
「もう木登りする歳ではないよ。かいものが してみたい。だから おかねが ほしいんだ。 おこづかいを くれるかい」木は困りましたが、
「お金はないけれど、りんごの実をもって行きお売りなさい」と言いました。
少年は、リンゴを運んでいきました。000011 それで、
木はしわあせでした。

 暫く姿をみせなかった少年は、木のところへやってきました。
「おくさんももほしいし、それには家がいるんだ」
000015
 木は「私の枝を切って、家をつくればいいわ」と答えると、少年は、バッサバッサと枝を切ってもって行き、家を作りました。
000016
 木はしわあせでした。
 そのあと、ながーい間、少年は姿を見せませんでした。

 そのあと、年老いて少年は戻ってきました。

 『船をつくりたいんだ」というと、000021
 「私の幹を切って船をつくりなさい」木はついにその幹を与え、少年は船を作ると旅立ってしまいます。木は切り株になってしまいました・・・
000023

 
原作では「but not really」とあるが、
 それで、木はしあわせに・・・
 本田錦一郎の訳では作中の一箇所に「だけど それは ほんとかな。」と入る。村上春樹の訳では、000025_2“それで、木はしあわせに・・・なんて、なれませんよね”となっている。

 ずいぶん時がたって少年がまた戻って来ました。
 木は言いました。
「ごめんなさい。私には何もないの」

「ぼくには何も必要としないの。しずかな場所があればそれでいいんだ」

 

000030「古い切り株なら、休むにぴったりよ。いらっしゃい」

 年老いた少年はそこに腰を下ろしました。
 それで木はしあわせでした。

 

 リンゴの木と少年は友達であった。ともに遊び、心を通わせていた。しかし少年は大人になってゆきお金が必要になる。木は「私の果実を売りなさい」と言う。少年は果実をすべて持っていった。
 しばらくして、大人になったその子は家が必要になる。木は「私の枝で家を建てなさい」と言う。その子は枝をすべて持っていった。
 また時が経ち、男は「悲しいので遠くへ行きたい」と言う。木は「私の幹で舟を作りなさい」と言う。男は幹を持っていった。
 時が経ち、男は年老いて帰ってきた。そして「疲れたので休む場所がほしい」と言う。木は「切り株の私に腰をかけなさい」と言う。男は腰をかけた。木は幸せであった。

 
1本のリンゴの木が1人の人間に限りない愛を捧げる“究極の無償の愛”の美しくも悲しい物語。リンゴの木が大好きで、毎日やって来ては遊ぶ子ども、やがて大人になるにつれ、木を訪れる回数が減っていくが・・・
 突然、思い出したようにやって来ては、「~をくれるかい。」と
木に要求ばかり。子どものために身を犠牲にして尽くすリンゴの木。

最初、この子どもは「なんてやつだろう」と思ったが、決してリンゴの木は不幸な気持ちだったわけではないと、ハッとさせられた。
「それで 木はしわあせでした。」
というフレーズが、子どもの願いに応えるたびに出てきます。

愛を与えてばかりのリンゴの木。まるで、親離れしていく子を遠くから見守る親のような気持ちだったのでは。なかなか会えないのは、元気に暮らしている証拠。
時々思い出して会いに来てくれるだけで、嬉しい。 困った時は、力になってあげるよ。

 そう考えたら、なんだかリンゴの木が嬉しかったという気持ちが理解できるような気がする。子どもの心のどこかに、リンゴの木が存在している。 見えないけれど、心は繋がっている。 考えれば考えるほど奥が深いストーリー。大人向けの絵本のような気がする。
(30代・ママ 男の子9歳)

 母親である私はどうしてもリンゴの木に感情移入してしまいます。
  私の子供はやがて大きくなり、もう私と遊んでほしいとは思わなくなり、もっと違うものが欲しくなる。それでいい、それで普通だ。そういったことを考えるだけで胸が締め付けられ、切なくなる。
 少年に無償の愛を変わらず与え続けるリンゴの木は、私の理想であり、現実でもある。そして疑いもする。このリンゴの木のように無償の愛を与えられるのかしら?と。
そんな私に色々な事を想像させ、切なくさせる絵本でもある。
(47さんママ )

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 NHK経営委員長谷川三千子さんについて:
キューバ医療費タダ、医学部タダ、日本3400万円

信長が義弟浅井長政を討ち果たす理由
十三億人「中華圏」の世界征服戦略:
老人婚活 色とカネの最前線(女性記者ルポ):

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2017年9月19日 (火)

僧侶で医師の末期すい臓がん死を記録 NHK

000009 栃木県益子町の西明寺の住職の子に生まれた田中 雅博(たなか まさひろ)さんが、余命会数か月と知ったNHKの撮影クルーが、彼の死を最後まで記録した。
NHKの現場の人がひるみそうになるところを、当事者の田中さんは、葬式まで撮影しなさいと勧めてくれた。死を達観している僧侶でも、死を悟ると達観の正体がはがれて取り乱す人もいるという。
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 1000人を超える患者の死を看取ってきた医師が、がんで余命わずかと宣告された。看取(みと)りのプロが体現する「理想の死」とは?亡くなるまでの450日間に密着。
始まりは2年前の12月。末期のすい臓がんで余命わずかと宣告された医師田中雅博さん(当時69)。医師として、僧侶として終末期の患者に穏やかな死を迎えさせた「看取りのスペシャリスト」。
 しかし、次々と想定外の出来事が…。看取りのスペシャリストが見せてくれたありのままの450日の記録。
  主治医は、同じく医師であり僧侶である妻の貞雅(ていが)さん。夫の最期をどう看取るか、ふたりの葛藤の日々が続いた。000023
 田中 雅博(たなか まさひろ、1946年 - 2017年3月21日)栃木県芳賀郡益子町の西明寺で生まれる。父親の勧めで医師を目指し、東京慈恵会医科大学を卒業。国立がんセンターで研究所室長、病院内科医として勤務。大正大学に進学し、仏教を7年間学び、西明寺を継いだ。
 住職を務め、「病院にもスピリチュアル・ケアワーカーが必要」と1990年、境内に入院病床を備えた普門院診療所兼介護施設を建てた。2014年10月、末期の膵臓癌が発見、その後肝臓に転移。017年3月21日、死去。70歳没。
 栃木県益子町の普門院診療所で、妻貞雅と夫婦で緩和ケアを実践してきた。
患者の最期の意思を確認し尊重すること。また、がん患者の死の恐怖を取り除くために僧侶として耳を傾けた。
000026  3年前、田中にもすい臓がん(ステージ4b)が見つかり、肝臓やリンパにも転移。田中は患者から”死に方”を学んだから死ぬのは怖くない。田中夫婦はお酒が好きで、末期がんが見つかってからも変わらない生活を続けていた。
2017年1月18日、今年に入り田中の病状は急速に悪化。1月27日、田中は自分の葬儀のために用意した曲を聴いていた。
 田中は、父の急死を機に実家の寺を継ぎ、43歳で境内に診療所を開設。医師として患者の苦痛を和らげ、僧侶として患者の話に耳を傾けてきた。そして自分ががんになってからは自分の話も聞いてもらいたいと思ってきた。
000013 田中はDNR(=蘇生措置を拒否する意思)を示していた。DNR以外にも苦痛を抑えるための持続的鎮静という措置を望んでいた。彼は妻貞雅に苦痛に耐えられなくなったら眠らせてくれ、と伝えていた。
 2月3日、田中は言葉が出なくなった。田中は、親友の僧侶に葬儀の依頼を話していたが、言葉がうまく出てこず混乱していた。翌日も、混乱した状態はひどくなった。
「お願いします」と繰り返す田中に、取材者は「眠らせてくれ」と言っているように感じた。2月5日、「がん患者語らいの集い」に来た田中は「眠らせてください」と言い続けた。診療所に戻った田中は涙を流した。
 2月19日、田中に持続的鎮静を開始した。
 2月23日、貞雅は麻酔薬を止め、1日2回、田中を目覚めさせていた。貞雅は彼が少しでも長く生きられるように、無理でも体を動かさせた。また、点滴だけでなく、田中に好きなアイスを食べさせた。貞雅はなぜ自分は医師なのにガンの早期発見ができなかったのか、などと悔しがった。
 3月21日、取材陣に貞雅から「今朝7時20分 逝きました」というメールが来た。貞雅は心臓が止まったとき、つい心臓マッサージをして蘇生措置をしてしまったという。
葬式まで全部撮影しなさい、と言っていた田中の言葉通り、取材者は葬式まで取材を続けた。
 田中が取材者に教えてくれたことは「死はきれいごとではない、思い通りにいかない。人は一人では生きていけない、だから一人では死ねない」こと。
 妻の貞雅は、出棺の時に「火葬場には行けない」という。NHKの取材クルーは、望遠レンズで妻の貞雅を狙っていた。玄関で一人泣き崩れる貞雅。それまで、夫の前では強い妻を演じていたのが、崩壊した一瞬であった。
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