日本近代史

2019年8月24日 (土)

先輩東條英機を侮辱した石原莞爾の受けた報復

 Kanji_ishiwara2 満州事変を起こし、満州国を作った発案者が石原 莞爾で、実行したのが板垣征四郎。関東軍は、昭和6年(1931年)23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の軍を率いて、日本本土の3倍もの面積を持つ満州を占領。
 現在、中国の柳条湖事件記念館には、事件首謀者として、板垣と石原二人のレリーフ(浮き彫り肖像画)が掲げられている。
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 満州国を作ったという歴史的な事実について、その善悪を言う前に、まず、日本という国が過去に何をしたか、私たちが知らないと、話にならない。ということで、近代日本に何が起きたか、何をしたか、それを知ろう!ということで、
石原 莞爾を取り上げる。

 

石原 莞爾の生い立ち。
 
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山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として誕生。
莞爾=にっこりと笑うさま。ほほえむさま。意味は(にこやかな様子)であるが、キレもの過ぎて、笑っている印象は少ない
 長男、次男が亡くなり、莞爾が事実上の長男。四男は1940年6月に航空機事故で殉職。 五男は一歳で亡くなり、六男は昭和51年まで西山農場で暮らす。

 

 幼年期は乱暴な性格。しかし利発な一面もあり、校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績で、また三年生の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。 また小児時代は病弱で、麻疹ハシカ、種痘を何度か受ける。近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、将来の夢は「陸軍大将になる」と言っていた。 

 

明治35年(1902年)に仙台陸軍地方幼年学校に合格し、ここでは総員51名の中で一番の成績。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などは不得意。 

 

 三年後、明治38年(1905年)には、陸軍中央幼年学校に入学。(陸軍幼年学校は、旧制中学1年から旧制中学2年修了程度に受験資格を与えた。)
 
石原は、図書館に通って戦史や哲学、社会科学などの書物をよく読んだ。「国柱会」設立した田中智学の法華経に関する本を読み始めた。(「国柱会」=純正日蓮主義を奉じる宗教右派)また東京に在住していたため、晩年の乃木希典や大隈重信の私邸を訪問、教えをこうている。
 明治40年(1907年)陸軍士官学校に入学。勉強は教室と自習室で済ませ、学科成績は350名中で3位、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。

 

 士官学校卒業後は原隊復帰し見習士官の教官として厳しい教育訓練を行った。軍事学以外、広く哲学や歴史の勉学にも励んだ。南次郎(昭和9年、第8代朝鮮総督。内鮮一体化を唱え、①民族語の復活 ②朝鮮語教育の推進 ③創氏改名など進めた)からアジア主義の薫陶を受けた。 

 

 連隊長命令で、陸軍大学校を受験。
 陸軍大学校の受験科目:初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史など、各科目三時間または三時間半で解答する。
 石原は受験に対して、どうせ受からないと試験前は全く勉強しなかった。普段の部隊勤務をこなし、試験会場に一切の参考書を持って来なかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学。
 

 

 今まで図書館で独学していた石原には、陸軍大学の宿題も楽にこなした。残った時間は、思想や宗教の勉強に充てた。石原の戦術知識は高く、討論でも教官を言い負かすことがあった。
 大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業(30期、卒業生は60人)。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。(北越戦争=戊辰ボシン戦争:薩摩藩・長州藩の新政府軍と、奥羽越列藩同盟(旧幕府勢力)が戦った日本の内戦)
 

 

 石原 莞爾「卒業論文」ポイントは、長岡藩兵は継之助の巧みな用兵により、新政府軍の大軍と互角に戦ったが、長岡城を奪われた後、逆襲に転じ、夕刻、敵官軍の意表をついて八丁沖渡沼作戦を実施し、長岡城を奪還。これは軍事史に残る快挙“河井継之助”の小を以って大に勝つ作戦である。 

 

  昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領。アイディアは石原莞爾、実行統率が板垣征四郎と考えられる。

Itagaki 二人の関係を表すエピソードがある。
 参謀部の北満演習旅行があったとき、 このとき石原莞爾は「戦争史大観」の講演を行い、板垣大佐をはじめとする関東軍参謀の面々が聞いていた。
 その日の夜、石原がホテルの寝床でふと目を覚まし、トイレにたったとき、板垣大佐の部屋の窓には明かりが灯っており、戸が半開きになっていた。明かりに誘い込まれるように板垣大佐の部屋に入ると、大佐は一心腐乱に何やら書き物をしている。
板垣「おお、君か。どうしたのだ。こんな夜更けに」
石原「板垣大佐、何を書いておられたのですか」
板垣「君が昼間の講演で語った戦略理論が、あまりにもすばらしい内容で深い感銘を受けたのでそれを忘れないようにと思って、要点を思い出しながら整理し、まとめているところなのだ」 
 まったく先輩、後輩の垣根のない、板垣の純粋な心、素直な姿勢が見て取れる。
 石原はこのとき「板垣大佐の数字に明るいのは兵要地誌班出身のためのみと思っていた私は、この勉強があるのに感激した」と後に出版した「戦争史大観」に書いている。

 

Imgmanchukuo084 満州国の建国スローガンは「王道楽土」「五族協和」。それが石原 莞爾の中で、満蒙独立論へ転向していく。日本人は、国籍を離脱して満州人になり、日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。冷静に考えてみれば、日本人が“欲”を出して独占を考えないで、五族の協力が可能なら「東洋のアメリカ」は理想の実現である。
1 その実、裏では、石原独自の最終戦争、日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための「民族協和」であったと指摘する研究者もいる。
 

 

04_2 その後、満州国は日本の敗戦と共に、崩壊する砂上の楼閣であったように言われるが、「理想国家」を夢想した、人類の実験であった・・・という面も持っていた。 

 

 二・二六事件、昭和11年(1936年)の際、石原莞爾は、参謀本部作戦課長であり、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にあった。
 この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて、参謀本部へ登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため、登庁することができた。
 安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて石原の登庁を陸軍省入り口で阻止したが、
「何が維新だ、陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ!」と、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。

 

 満州事変以降、関東軍は内地中央の方針を無視する態度が目立つようになった。
 1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう、石原莞爾は説得に出かけた。
 現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

 

Mutouakira武藤章:(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、昭和の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
1913年(大正2年)陸軍士官学校(25期)を卒業。
1920年(大正9年)陸軍大学校(32期)卒業。

 盧溝橋事件=支那事変(日中戦争)開始時、1937年(昭和12年)7月には、ここでも参謀本部作戦課長の武藤などは、不拡大方針をたてた上司の作戦部長石原莞爾とは、反対に対中国強硬政策を主張。

 

 石原は「早期和平方針を達成できない」と判断し、最後の切り札として近衛首相に
「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したが、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。

 

 石原は、“戦線が泥沼化する”と予見して不拡大方針を唱え、在華ドイツ大使トラウトマンを介して中華民国政府との和平工作を行ったが、この石原莞爾の方針は当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢は反対し、参謀本部から関東軍の参謀副長として左遷された。これ以後、東條英機との確執は激しくなった。

 

 石原莞爾は、昭和12年(1937年)9月に関東軍に戻り、参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。1940年(昭和15年)に満洲国から勲一位柱国章(勲一等瑞宝章に準ず)が贈られた。
 
 翌年の春から、東條英機が関東軍参謀長に着任。東條参謀長と石原参謀副長は、満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。

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東條 英機(明治17年(1884年)7月30日~昭和23年(1948年)12月23日):
日本の陸軍軍人、政治家。陸軍大将。
明治38年(1905年)陸軍士官学校を卒業
大正元年(1912年)~大正4年(1915年)陸大を卒業

 

 石原 莞爾(明治22年(1889年)1月18日~昭和24年(1949年)8月15日): 明治40年(1907年)陸軍士官学校に入学 大正4年(1915年)~大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業(30期、卒業生は60人)

 石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。

 

 気性の激しい石原莞爾は、東條の5歳年下であったが、以後、東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと罵倒、事ある毎に東條を無能呼ばわりした。
 一方東條の側も、石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原を「許すべからざるもの」と思っていた。
 東條の根回しにより、昭和13年(1938年)に
石原は関東軍参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に左遷され、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長にされた。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。

 

 以後、大学で講義したりの生活をしていたが、東條の指示で憲兵がスパイのように付きまとっていた。そのいちいち報告が東條へ伝わっていた。石原は、A級戦犯になるべき身であったが、体が病魔に冒され、免れた。A級戦犯の処刑昭和23年12月より長く生きたとはいえない昭和24年8月15日に病没した。

 

 東條は、敵対するライバル、あるいは東條の意向に逆らう人材を徹底的に消していく話はいくつか聞く。その代わり、自分の意向に従う飼い犬同様な人材を重用した。
 東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称される。
三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二
四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄

 

 田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、評判のよくない、且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因と思ふ」と名指しされた。
 田中隆吉(兵務局長)は、東條の腰巾着と揶揄され、戦後は一転、連合軍側の証人として、東京裁判であることないこと証言したとして評判が悪い。
 富永は、東條の陸軍大学校教え子で、東條陸軍大臣時、仏印進駐の責任問題で、二人の将官が予備役編入処分される中、人事局長に栄転し陸軍次官も兼任。のち、富永は(戦況悪化で)フィリピンで特攻攻撃を命令、自らも特攻すると訓示したが、富永自身は病気(胃潰瘍)を理由に戦場離脱、台湾で温泉保養する。評判悪い男。帝国陸軍最低の将官との評価である。


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“海軍乙事件”「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)二流日本軍高官の起こした

1944ttack 憲法は、社会の実態と合うように改定するべきだと思うが・・・それには、自民党、政府閣僚、官僚等が信用できればという条件がつく。それは、戦争中から、政治にタッチできる人たちの行動には、数々のウソがあるからだ。
 その典型に“海軍事件”という事件がある。それをご説明したい。高官がゲリラの捕虜になり、その上、最高機密の暗号、今後の作戦計画を奪われて、それを口ぬぐって、直後の
「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)をアメリカに読まれて、ボロ負けになった責任を取らなかった。0016・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 これはすでに、ブログ「海軍事件と福留繁参謀長」で紹介した。が、重要なテーマであるから、繰り返して提示したい。現代社会では、似たことが行われている。
 それは、サッカーFIFAの金銭授受問題、あるいは、習近平の一番信頼していた側近の中央委員が腐敗していた問題等、人間の欲は切れないものかもしれない。
2151海軍事件:1943年(昭和18年)4月18日に、前線を視察中の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の搭乗機がアメリカ軍戦闘機に撃墜され、山本が死亡した事件。★★海軍事件:1944年(昭和19年)3月31日発生。
 情勢悪化により、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇で作戦本部の移動を図った。途中で低気圧に遭遇し、連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将の乗機は行方不明、二番機はセブ島沖に不時着し、福留ら9名は泳いで上陸したが、ゲリラの捕虜となり、1944年3月8日作成された新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書等、最重要軍事機密を奪われた事件。
★戦時中の意識はこんな感じだ。

 本日のテーマは、「海軍
事件」にまつわる問題点を洗いざらい考えてみたい。

 「海軍事件」は、アメリカ軍の暗号解読力に負けた事件で、それを日本側が気付かず、終戦まで知らなかった・・・。問題にしたいのは、事件で山本五十六が殺されたのち、彼より能力の低い指揮官が継ぎ、日本軍は士気が低下すると読まれているのが、戦後明らかにされている。
 米軍情報部は日本軍の暗号解読に成功して、山本の視察の経路と予定時刻は米軍の把握。
 ニミッツは会議を開き、山本五十六が無能な敵将であれば生かしておくほうが味方に利益で、山本を殺害すべきか検討した。検討の結果、真珠湾攻撃の立案者として人望の高い山本は戦死すれば日本軍の士気が低下する。後任として山本より能力の高い指揮官がつく可能性は低い、とニミッツは山本の殺害を決断。
 米軍は日本軍の暗号解読に成功している事実を日本側に悟られないよう、偶然の撃墜であったかのように発表を装っている。

 その結果、問題は、「海軍事件」は起きている点である。
 そのような「海軍乙事件」の詳細を国民的なテーマとして、日本社会では議論されていないから、同じような二流人物が出てきて、同じような事件が繰り返されているのだ。

 

   事件概要
 1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲の後、1944ttack_2 連合艦隊は拠点としてパラオを利用していたが、同年3月にアメリカ連合軍の大空襲を受け、総司令官古賀古賀峯一ら司令部要員は、3月31日、飛行艇(二式大艇)でミンダナオ島のダバオへ移動を図った。このとき、事件が起きた。

 

  途中で低気圧に遭遇し、連合艦隊司令長官 古賀峯一が乗っていた一番機は行方不明となり、司令部要員7名を含む全搭乗員とともに古賀司令長官は殉職し、元帥の称号が与えられた。古賀の殉職は、しばらくは国民に隠されて、同年の5月5日に発表された。

 

 二番機もセブ島沖に不時着し、搭乗していた福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員3名(他、山本祐二作戦参謀、山形掌通信長)を含む9名は、泳いでセブ島に上陸したが、米軍指導のゲリラに捕虜となった。
 福留繁参謀長らは、3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった最重要軍事機密を大急ぎで、かばんと共に川に投げ込んだが、すぐに現地ゲリラに回収された。
 参謀長以下、連合艦隊司令部要員は、拘束時に大した抵抗もせず、自決も、機密書類の破棄もしなかった。この書類が敵に渡った場合の重大性にピンときていない。命に代えても守らなくてはならないという必死さが伝わってこない。

 

 このあたりの態度も、兵士には、軍人勅諭で「俘虜となるなかれ」と捕虜になることを禁じているが、上層部の人間は死をおそれているように見える。あるいは、国際捕虜の取引が出来ることを知ってか、抵抗もしないのは、ちょっと解せない。 

 

 元々フィリピンはアメリカの植民地であり、住民の感情は親米的であった。そのため、日本によってフィリピンの支配が続いていた間も、アメリカは潜水艦から連絡員を送り込むなどして現地のゲリラと連携し、その組織化に手を貸していた。
 日本側のセブ島の守備隊長は、ゲリラのリーダーに対して、「解放しなければ報復を加える」と、取引に応じるようにゲリラ側を脅した。このことにより福留等は解放された。
 しかし、機密資料の入ったカバンはゲリラに没収され、作戦計画書等の機密文書は、ゲリラからアメリカ軍に渡り、ブリスベーン郊外の連合国軍翻訳通訳部で、アメリカ陸軍情報部(Military Intelligence Service, MIS)の要員によって翻訳された。(Wikipedia)
 

 

 福留 繁の人物像について、
福留 繁(ふくとめ しげる、1891年(明治24年)2月1日 - 1971年(昭和46年)2月6日):日本の海軍軍人。海軍兵学校40期。海軍中将。
 1891年2月1日、鳥取県西伯郡(現大山町)の農家に生まれる。1905年年4月鳥取県(現米子東高校)に入学。四里(16キロ)の道を歩いて通学。海軍を志したのは、「学資のいらない軍人学校」ということからだった。
1909年9月11日海軍兵学校に40期生として入校。
1912年(大正1年)7月144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生。
1924年12月1日、少佐、海軍大学校甲種24期に入校。
1926年(大正15年)11月25日首席で卒業。1929年、中佐。
1930年(昭和5年)12月1日人事局員。1932年(昭和7年)12月欧米各国へ留学。1933年(昭和8年)11月15日海軍大佐、連合艦隊首席参謀兼第一艦隊参謀。1934年(昭和9年)11月15日軍令部第二課長。1935年10月30日軍令部第一課長。1937年7月支那事変勃発。1938年4月25日支那方面艦隊参謀副長。1938年(昭和13年)12月15日長門艦長。
1939年(昭和14年)11月15日海軍少将へ進級、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長。
 連合艦隊司令長官山本五十六大将が合同訓練の際に「あれ(飛行機)でハワイをやれないか」と呟いた際に、傍にいた福留参謀長は「それよりは、艦隊全部を押し出しての決戦の方がいいと思います」と言った。


 福留は戦略戦術の神様と称えられていた。しかし、海軍主流の大艦巨砲主義者で、新しい航空戦、情報戦への理解に欠けた。日本海軍の成績重視教育で、教科書通りの戦術・戦略で柔軟性に欠けていた。福留は、近代戦を任せられる人材とはいえなかった。しかし、海軍甲事件(山本五十六の死)後、連合艦隊司令長官に就任した古賀峯一海軍大将から、
1943年(昭和18年)5月23日連合艦隊参謀長に任命された。
 
 このとき、すでに日本にとって戦況は不利となっていたが、戦術戦略の神様とまでおだてられた福留は、
あ」号作戦のような伝統的な艦隊決戦以外有効な作戦を打ち出せなかった。

 

 福留らは、ゲリラに対して警戒心を持たず、拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄もしなかった(かばんを川に投げ込んだが、すぐに回収された)。W_back_up_link  日本軍は、ゲリラと交渉して福留を解放。帰還した福留は、海軍次官沢本頼雄中将らから事情聴取を受けたが、福留本人は、徹底して機密書類紛失の容疑を否定。

 当時の日本では、敵の捕虜となる事はこの上ない恥だったが、ゲリラに福留繁中将が捕縛された事を「捕虜にならなかった」と不問になったから、 戦後も福留は、GHQで戦史編纂の担当者大井篤のところに出向き、
「君や千早が機密書類が盗まれたと言っており、迷惑している。こんな事実は全くないんだ。」と述べた。大井は「盗まれたのは事実です。お帰り下さい。」と追い返したと言う。

 

  福留繁は優秀な成績で、海軍大学校甲種を首席卒業。よくあることだが、政府中枢の地位を占めている人物が犯す犯罪である。大阪地検の●●特捜部長は、部下がフロッピー作成日付変更を報告したにもかかわらず、自分の罪を認めない方針で戦うとしている。 ●●特捜部長 前田検事 塚部貴子検事

 これは、この福留参謀長と同じく、「組織が守ってくれる」と信じているようだ。日本の運命に関わるマリアナ沖海戦の情報が完全に漏れていると知って、そのまま戦ったら日本は大敗北することを知っていたのは、重大犯罪である。「不作為」というより、むしろ「作為あり」ではないか。

 

 

 

 

 

 機密書類が奪われた容疑を徹底否定→海軍上層部は機密書類紛失は不問→6月第二航空艦隊司令長官に栄転。
 栄転して、現場を離れて、


「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)は情報漏れ→それを元に米軍は十分な対策を立て、日本軍は一方的な敗北

 


 この機密文書が奪われたために、日本海軍が計画した「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)の情報が詳細な部分までアメリカ軍に漏れ、アメリカ軍は、それを元に十分な対策を立てていた。

 マリアナ諸島に侵攻するアメリカ軍を日本軍が迎撃した本作戦では、日本はアウトレンジ戦法による航空作戦を行うが、アメリカから「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄されるほど一方的な敗北。

マリアナ沖海戦 破綻した必勝戦法 ~三重県・鈴鹿海軍航空隊~  [1]  連合艦隊が総力を挙げて臨んだマリアナ沖海戦
[2]  隠蔽されたミッドウェーの敗戦
[3]  読まれていた切り札、アウトレンジ戦法
[4]  飛行訓練もできないまま迎えた、マリアナ沖海戦
[5]  アウトレンジ戦法の破綻

 
日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて、出撃潜水艦の多くも失う壊滅的敗北し、空母部隊による戦闘能力を喪失した。011_2  ●大負けに負けても、「重大戦局」程度の記事↑作戦がアメリカに漏れていたとは、国民も知らなかったのだ。Repsoul_02 その後、日本の支配下にあったマリアナ諸島はアメリカ軍が占領し、西太平洋の制海権と制空権は米国に握られた。その結果、サイパン陥落により日本本土への戦略爆撃が開始された。Map_21 これは福留参謀長の重大な背信行為。特に連合艦隊参謀長という最高責任者として、日本を裏切った利敵行為の罪は重い。敵前逃亡以上の罪だ。惨敗している海軍を涼しい顔でみているのだから、役人は凄い神経をしている。

 ゲリラの捕虜となった福留を解放するため、日本軍はゲリラと交渉し、福留らは釈放され、帰還した福留は、海軍次官沢本頼雄中将らから事情聴取を受けた。
 福留本人は、徹底して機密書類紛失の容疑を否定した。(紛失を焼却したと言い逃れたのか、不明)身内が身内を調べるのだから、いつの時代も、取調べは甘くなるだろう。
一般兵士には敵の捕虜となる事は許さなかったが、福留繁中将がゲリラに捕縛された事を「捕虜にならなかった」と不問にした軍のやり方も、ズルい。警察官の不祥事を警察が庇う例に似ている。これじゃあ、公務員のやることを一般市民が信用しない。

  戦後30年経過後、米国が公開した文書の中から機密書類が米国に渡っていた証拠が発見された。福留が自分の失敗を隠蔽していたことが明らかとなった。
 軍人でありながら、自ら
自分の非、罪、咎をを認めるという習慣がないのは、どうなんだ!秀才、優秀な武人がこうした範を示していいのだろうか。彼が、意思がつよく、勤勉であったことが、こうした徳と結びつかないのは、教育上の大きな課題である。

 

 

 

 福留 繁、明治24年(1891年)2月1日 - 昭和46年Fukudome_shigeru(1971年)2月6日)。福留 繁、昭和46年、90歳まで長命を保った。多くの二十歳前後の兵士が昭和20年前に死んでいるなか・・・。

 

  山本五十六が嫌う典型的な「頑迷な鉄砲屋」で、日本海軍の成績重視教育の賜物ともいう思考と人物像に加え、教科書通りの戦術、戦略しか立てられず、柔軟性に欠いていた。古賀長官就任時点で、福留は新しい近代戦を任せられる人材とはいえなかった。

 

  あとから福留の欠陥を指摘しても、直るものではないし、この戦争の責任を問えるわけでもない。しかし、現代に置き換えて、官僚の態度と比較してみると、何か似たにおいがする。典型的な刻苦勉励、成績至上主義の秀才には、新しいアイディアは生まれない現代にも、官僚組織の中で、新しい“海軍事件”が生まれる可能性がある。そんな警告にしてみたい

海軍軍令部はどんな反省をしたのか 
ミサイルとMDに戦争の悲惨さはない 
陸軍中佐沼田正春 幼い息子に遺訓

太平洋戦争 開戦から学徒動員まで 
嗚呼 満蒙開拓団 岩波ホール盛況なり 
橋本艦長 回天出動せず 真夏のオリオン 
海軍乙事件 福留繁参謀長 マリアナ沖海戦
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2019年8月18日 (日)

終戦に真近に名古屋空襲、テニアンからB-29毎日発進

 アメリカ軍が、1944年(昭和19年)7月、サイパン島などマリアナ諸島を制圧し、日本本土は毎日空襲が始まった。サイパン、テニアンが以後の日本本土空襲の基地となった。
 テニアン島(Tinian):北マリアナ諸島の島の一つ。面積は約100平方キロメートルで、サイパン島からは約8キロメートルの距離。現在はアメリカ合衆国の自治領である。

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IslandsSaipan337_4

 

 

 

 

 

 

 

 
 1944年(昭和19年)7月24日にテニアン北部
Tinian_mariana_islands_1945の海岸から上陸、8月2日に同島を占領した(テニアンの戦い)。
 その後、ハゴイ飛行場は拡張整備され、島の東部にはウエストフィールド飛行場(現テニアン国際空港)が建設されて、本格的な日本本土空襲を行う前線基地となった。
 1944年(昭和19年)11月以降、連日のように日本に向かう B-29 が、この島を離陸していった。1945年(昭和20年)8月6日の広島、8月9日の長崎への原爆投下作戦の B-29 もここから発進した。
 米軍の飛行機B29による名古屋など、都市空襲が行われるようになったのは、アメリカ軍がサイパン・テニアンを制圧してからである。

 この頃から、どこの家の軒先にも(焼夷弾用に)砂袋を吊り下げていたし、防火用水のカメが置いてあった。ぼうふらがわくから、釣って来た魚を飼っていた。

 

 昭和20年になると、日本の形勢が悪くなって、B29の飛来が多くなったと感じた。
 空襲警報が出ると、町中に聞こえるサイレンが不気味に響き・・小学生は帰宅指示が出る。すると、小1の姉たちは学校から帰ってきた。
 田舎の町には、爆撃目標がないから爆弾は落とさないと言われていたが、それでも、警戒警報、空襲警報、警戒解除と、何通りものサイレンが決まっていて、子供でも聞き分けていた。
 昭和20年になると、米軍のB29爆撃機が編隊で定期的に来るようになった。8 恵那山(2191メートル)の上空で飛んでいると見えたが、地上(中津川市内)から見ているから、実際には、100キロくらいな離れた浜松~静岡の上空だった。それが本当に分かったのは、大人になってからだった。02 日本の上空に米軍B29が飛来すると、恵那山の上に見えた。すると、恐いものみたさに、家族は二階に集まって、窓から恵那山上空に繰り広げられていた敵機の編隊飛行を見ていた。朝から天気がよく、恵那山の上はすっきりした青い空だった。大抵は、米軍機は悠々と日本上空を飛んでいた。木曽山脈の南西端にある恵那山の上空がB29の排気煙で薄曇り状態になった。
 日本の戦闘機が迎撃している様子は、めったなかったが、米軍
機は危ないとサッサと逃げてしまった。

 

 5788_4昭和20年1月9日の午後二時頃講員大勢で西宮大祭の準備中、空襲警報発令さるやB29は約60機の編隊にて本土に侵入し、各方面に分かれて空襲に移る。主力を以って名古屋に向かい、途中浜名湖上空に於いて空中戦となる。
 その空中戦が恵那山・川上(かおれ)の上空に見え、B29撃墜のさまも手に取る如く見え、実に壮観を極む。中に敵機2機は中津方面に向って遁走し来り。頭の上と思われる所より真東へ遁走す。」
 (「西宮神社百年記念誌」より)
この記録にあるように、「浜名湖上空に於いて空中戦で、敵機2機は中津方面に向って遁走」と、さも愉快そうに記すのは、負けが込んでいる証拠だ。

 

  この頃、橋(四つ目川)の欄干から金属をはがしてしまったから、みっともない姿の橋になって、昭和40年過ぎまで、放置された。今はおしゃれな橋になっている。学生服のボタンや帽子につける校章さえ瀬戸物で代用していた。アイロンは電気でなく、炭火を入れるのだった。

 

  敗色が濃くなった昭和19年の暮れ12月と翌月1月に大地震があった。昭和19年(1944)12月7日午後1時40分前に起きた東南海地震は、関東大震災を超えるマグニチュード 8.0の大地震だった。被害地は静岡・愛知・三重の東海三県をはじめ、長野・山梨・岐阜・和歌山・大阪・兵庫などに及び、1,223 人の死者・行方不明者など大きな被害。続いて、1945年(昭和20年)1月13日午前3時38分に、三河地震が渥美湾を中心にマグニチュード7.1の直下型地震が起きた。死者2306名 負傷者3866名 全半壊した家屋 23776棟。戦後になって、ウチのオヤジは「負け地震」だと、嘲笑していた。

 

 1944年(昭和19年)12月13日、早速、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機90機により、日本の航空用発動機生産高の4割以上を生産していた三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場(東区大幸町/三菱発動機第四工場、現在のナゴヤドーム及び名古屋大学大幸医療センター)に対する初の本格的空襲が行われた。天候等の関係から爆弾は工場に命中せず、翌1945年(昭和20年)4月7日まで執拗に7回の爆撃を繰り返し、工場を壊滅させた。爆弾は周辺の民家、多くの民間人が巻き添えになった。

 3月19日午前2時頃、B-29爆撃機230機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、151,332人が罹災した。死者826人、負傷者2,728人に上り、家屋39,893棟が被災した。

 空襲の夜、真夜中に起こされて寝間着の上に何か着せられて外へ出た。祖父母の家の防空壕へ避難するために父に負ぶわれて四つ目川の土手から空を見た。根ノ上の山の上辺りの雲が夕焼けのように赤くなっていた。名古屋が空襲で町が燃えているのだと、父が語っているのを背中にいて聞いていた。
 中津川から80キロ離れているから、普段名古屋が見えない場所なのに、空はつながっていることを痛感した。明るくなった空はまるで、数キロの隣りの感じがした。東南海地震の後、名古屋の大空襲だから、大人の多くは精神的に参ったはずだ。
Nagoya 中区、中村区、東区など市の中心部は焼け野原となり、1937年(昭和12年)に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅の焼け焦げた姿が遠くからでもよく見えた。名古屋駅(1945年3月19日)屋上には高射砲の陣地があったが、全く届かなかった。

 

 

 1945514_25月14日、B-29爆撃機440機による空襲で国宝名古屋城が炎上、家屋21,905棟が被災した。66,585人が罹災し、死者338人、負傷者783人に上った。

 これ以降、撃墜されたB-29の搭乗員は、戦時国際法違反(非戦闘員に無差別爆撃)の戦争犯罪で斬首死刑が執行された。
 1945年(昭和20年)6月9日に熱田空襲が行われ、愛知時計電機・愛知航空機の社員や動員学徒を含む2,068人の死者を出した。
 名古屋市へのB29の来襲は2,579機に達し、投下された爆弾の総量は14,000トンに上り、被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸、名古屋市は日本の他の大都市と同様に壊滅的に破壊された。

 

 木曽路(長野県)から名古屋へ向う陸軍の大隊(100人~200名)が中津の恵比須神社境内で露営したことがあった。神社境内の地面にテントを張って、宿泊するわけだ。トラックで輸送していたのかもしれないが、徒歩で名古屋へ向う雰囲気に見えた。トラックだったら、名古屋ぐらいなら一泊するはずはないから、行軍の練習のはずだ。

 

 この一行は、名古屋の空襲で被災復興を手伝う軍隊に間違いない思う。境内には多くの二等兵あたりが上官に叱られながら、夕飯の支度をしている様子だった。
 将校にあたる偉い人は、駅前通りの勝宗旅館に宿泊した。このことは、戦後、勝宗の息子に聞いた。馬肉も、牛肉もないから、(中津川の場合)どこの旅館も、山に鳥屋トヤを持っていてカスミ網を張って野鳥をとっていた。それが、海に近い旅館なら新鮮な魚、山がちな地方の旅館のもてなしだった。
 進駐軍が来てからは、カスミ網禁止、野鳥捕獲ができなくなり、岐阜県長野県は、捕鯨を禁止された日本の立場と全く同じ・・・。

 

 軍曹より上の将校は、旅館で美味しい料理を食べて・・・まあ、当時の常識としては、アタリマエだったろう。下っ端の兵士は、恵比須神社境内で夕飯の支度をしていた。

 

 調理する兵に向って
「寝ぐそ!」と、班長らしき兵が突然大声で呼びつけた。
 その先を見ると、一人の兵隊がこっちを向いた。気の弱そうな兵隊だった。社務所の近くで石積みのつるべ井戸の
水を汲んでいた。
 
 「ねぐそ!」「ねぐそ!」
 他の兵隊からも呼ばれて彼は孤立していた。完全にイジメである。多分、寝る前に便所へ行き損なって「寝糞」をしたのだろう。
 人格を踏みにじるようなあだなを平気でつける軍隊の日常をかいま見た。ずいぶん気の毒だったが、子供心には、しばらく、おかしいやら、気の毒やら・・・。これが軍隊の異常さ、帝国陸軍の現実だったのだろう。

 

 それから一年も経たないうちに、日本は戦争に負けた。
 終戦の詔勅がラジオから流れていた時、大人はみんなラジオの前に集まっていたのだろう。
 なぜか、幼児の私は一人中津水泳場の辺りを歩いていた記憶がある。私の周りに誰も人がいないようだった。シーンとして静かだった。近くの家からラジオからが聞こえてきた。  
「耐えがたきを耐え......」
 独特の節回しが響き、アブラゼミも安心して鳴いているようだった。
 数カ月して、わが家の中村にある墓の裏に、南方諸島「テニアン」にて戦死、という真新しい卒塔婆、墓標が建った。

 

追伸:こんな情報もわかった。
 7月26日には、エノラ・ゲイによる原子爆弾投下の前に、(名古屋)八事日赤病院付近への模擬原爆(パンプキン爆弾)投下して試験爆撃をしている。模擬爆弾の試験投下は、全国で約50発行われた。
1空襲警報発令 昭和20年中津川市:  
空中戦でB29遁走 昭和20年1月9日
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①講演者から1.5m以内でICレコーダーで録音。
②講演会場の自席でスピーカー通して録音。
 ①と②では、作業担当者には、大きな違いがある。①の場合は、ほとんど資料など必要ない。 ②は、聞き違いが生じる

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