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2017年11月

2017年11月12日 (日)

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2017年11月 7日 (火)

中学生日記 昭和28年から30年 同窓会で昔話を語る

 数え年で「傘寿の同窓会」を郷里岐阜県中津川市へ帰り、湯舟沢のクワハウス華更紗で同窓会。そのとき、話したのは、中学生時代のことであった。小学生時の思い出とともに中学生時代。その後、50代で亡くなったA君との交流について語った。

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 昭和28年(中学2年)
 中2~3担任は、中津高校創立者の間家の孫にあたる間太利先生。女の独身先生(38歳)であったので、反抗期の我々と波長があうか、そのことで波乱あり。数年前、98歳で他界。
 
0372
5/29 栄町三井金物店(現在ビジネスホテル栄)にテレビ設置、もちろん白黒TVをYツーちゃんと見に行ったら、栃錦と吉葉山の結びの一番、吉葉山の勝ち。中継アンテナ基地もきちんとできていないから、雪が降っているような画面であったが、中津で初めてのテレビである。
6/16 深夜、栄町旭パン工場から出火、12軒が類焼。寝巻きのまま出かけ、中津川駅の端から眺める。翌日は現場へ英語の塾へ行く前に見に行った。歩数で数えたら68歩。見当では40メートルくらい類焼、焼け跡は独特のにおいだった。
8/03 近くの川でウナギを捕まえた話、全く個人的な話題なのに、意外と「どうした?」と興味もっていた。(そうか、これは、赤字の評があった。太利先生に提出した日記という話をするのを忘れた)
9/29 乙姫岩は遠足した。先生は38歳、16貫の体型だったコロ。日がカンカン照りで「帽子をかぶらないと、はげるよ」と注意された記憶を語る。
10/09 青木、安江両君が、10円玉三個つかって髪の毛を抜くイタズラ。
10/14 映画「夜明け前」を旭座で見た。「前代未聞、前代未聞」と言って隣のおじさんが青山家へ入ってくるシーンが印象的であった。最後、青山半蔵は、座敷牢で狂って死ぬ。
11/10「生きている兄」長尾先生、音楽の時間に、長い作文を録音で聞かせた。北海道で遭難した兄を偲んで書いた優秀作文。
11/29 秋の文化祭で演劇「ウイリアムテル」O君、迫真の演技、本田先生の批評。
あのとき3年1組が「とししゅんは」と印象的な声で愛ちゃんが・・・桃源郷
6組は「クリスマスキャロル」で、勝野が印象的だった。
昭和29年
3/01 間先生宅へ勉強を教わりに行って上がらず、逃げ帰り、フジスポーツ運動具店S君宅へ上がった。「魔弾の射手」レコードを聴いた。
3/07 文集「鉄の玉」作成、黒塗り(反戦思想と男女交際記事を学校から禁止)
3/11 K納君の腕の骨折、M得君と相撲していて、
3/20 生徒会選挙 浅野勇生徒会長当選。会計T時子(応援弁士N育子)ここまでが中二、一年間の話である。
 
昭和29年(中学3年)
4/09 転校生N穂波、初登校。
4/12 小木曽独行(聾唖者)の講演会、聞き取りにくい話だが、生きる意気込みだけは伝わった。
4/21 「心臓破りの丘」(映画)旭座で見る。
4/20 根ノ上高原へ遠足
4/22 「恵麓新聞」二中わんぱく少年、K先生部顧問、 
4/26 反省学習(数学)100点とったのは8名いて、それが本日出席者5名入っていた。入っていない人には差別になるか、気になる記録である。T時子、N純子、H昇、I和子、N育子、私、+1名。
5/02 休日を利用して「次郎物語」第一部、第二部読む。次郎の母お民が乳が出ないので、お浜に預ける。五年位たって次郎を返してもらうが、お浜が恋しい次郎は・・・
6/18 「禁じられた遊び」映画を旭座で見る。
   このころ、「本州製紙」の工場見学
7/20 ホームルームの議長がHであったが、進め方が独断的であった。
7/27 午前10時30分からプール監督に行った。橋場先生が見えた。監督日誌をつけて帰った。
9/06 二中開校6周年記念式
9/17,18京都、奈良、修学旅行へ 台風14号、最悪な天候であった。(松島さんが盲腸で急病で校長の付き添いで帰る)
9/27 台風15号、青函連絡船洞爺丸ほか数隻が沈没の大事故。
9/29 運動会 朝は雨降っていたが、運動会が始まると晴れてきた。
    応援団長で、声がかれた。
10/3 PTA連合運動会 またもや、応援団長で、声がかれた。
10/8 後期生徒会役員立候補の立会い演説会。司会進行を担当。
10/11浅野君と成人指定の映画「どぶ」と「愛」二本立てを見に行く計画。
   後日見て、売春映画で、乙羽信子が薄汚いと感じられ仕方なかった。
10/16~一週間、職業実習期間、これも、それぞれの立場から思い出があり、発言多し。
10/23 HR運営委員会、先生イジメをする計画を語る反抗期の三年生。
10/30 映画「破戒」を見た。部落民の身分を隠して丑松は教師だったが・・・
11/01 学校劇「恩讐の彼方」企画、脚本作成から浅野君の活躍。
 A勇、K勝也、S原英亮、Nら、男ばかりの劇だったが、
11/02 落合のトンネルの上の「見晴公園」で写生大会。距離は、乙姫岩より近い。
11/17 生徒工場裁断機で、M君指切断。(アルバム作成中)
11/18 旭座で「二十四の瞳」を見た。“浜辺の歌”が印象的だった。
11/26 練習。雨の一日。11/29・12/01(PTA総会で披露)
 長いキセルであばずれの女役をやった彼女の親が、ウチN尾さんの母に「あんな役」と嘆いていた話など、半世紀越しで聞いた。
12/08 文集「岐路」の作成開始 100部作成予定で、半分を販売計画
12/18 土曜日だったので、A君宅へ午後2時から午後7時まで、たっぷり話し込んできた。
    帰りの中村用水路脇を自転車で走るのはこわかった。
12/21 深夜の火事、中部電力の火災
昭和30年
3/01 文集「岐路」錐で綴じて完成 その後、キリをつかってダーツで遊ぶ。
3/11 卒業記念の会食会、二中ケーキ、N育子、お富さんを歌う。
      中川先生、村の壷に酒を集めたら、水ばっかりと言う話
3/18 (中津)高校入学試験雨。大雨の中、高校の坂を上る。
 

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  今回、私の故郷中津川市へ帰ってきました。
メインの用事は同窓会でありましたが、
中学2年で3年までの二年間の担任(間太利先生)の家も伺ってきました。姪ごさんがいるだけになっていたが、ちょくちょく伺っていた昔のままでした。
 今は、写真と明かりがともる仏壇に手を合わせて、ひと時を過ごして参りました。
 
 同級生のお母さん、母親が女学校の同期である。したがって、私たちは同期の子たちで、太利先生は、自分の子供のような心境で接していたと想像している。
 先生の家は、中津川市の目抜き通りで、江戸時代以前から、祖先は名家として名が通っている家柄だった。島崎藤村の「夜明け前」、幕末志士に協力する活躍ぶりが触れられている。また、三代前の当主間杢右衛門は、町を見下ろす旭丘に、岐阜県で二番目に古い「(中津)女学校」を作り県に寄付。今の県立中津高校になっている。
 
 そういうことは、大人は知っていても、中二の我々には関心がない。見れば太目の中年オールドミス、中学生の特に男子には、印象は悪かった。なんで隣りのクラスは30代の男先生なのに、なんで?という印象だった。
 先生、教える教科は、数学と理科がメインだった。
 ピアノも弾けるから、クラスの主題歌を作ろうと言い出したのは、先生だった。朝の歌は決まらなかったが、「帰りの歌」中津川市の西に笠置山があり、“笠置の山も黄昏れて♪…”と、二年間歌ってから、帰っていた。文句をいいつつ、従っていた。
 先生の体重は、16貫目(3.75 ㎏×16=60㎏)あった。
 教育の場で生徒と戦うには、これくらいあったほうが良かったかもしれない。当時はダイエットなんて感覚はないから、太めは太めで個性で通っていた。
 四つ目川の花壇つくりで、クラスで作業していたとき、不真面目で作業をしないA君を叱りつけ、大柄な彼をぶっ飛ばした。中三の男子をリードするには、体力があればこそだと思った。
 私はホームルーム中、先生の説明を妨害して、ヤジを繰り返したら、教壇から下りてきて、一発頬をぶちかまされた。
 その日、先生は夜になって学校帰り、私の家へ来て、父と母に
「●君を、こういうわけで、ブってしまいました。すみませんでした」
と詫びているのが聞こえた。先生は、こうして叱りつけたあと、必ず、生徒宅へ放課後でかけて、しかりつけてぶっ飛ばした事実を親に謝罪していた。
 学校の校区は、円で描けば、半径でも40分~50分はかかるだろう。その生徒の家を知っていた。毎日のように、誰か休んでいたり、問題があれば家を回った。
 そのときは、先生ってこういうものだと思っていたが、授業以外の部分で並々ならぬ努力をしていたのだ。授業で勉強を教える部分より、授業外の生徒のケアに努力していた。と今になって痛感する。
 中学二年、三年生の頃は、先生の困ることを次から次と起こして、それを楽しんでいた。
 

 私たちの中学は、勉強より、イロイロな面の活動が盛んであった。
 文化祭で演劇をクラス単位で行った。二年では「ウイリアム・テル」、三年では「恩讐の彼方へ」(菊池寛)を行った。
 また、毎年クラス単位で文集も生徒が自発的に作った。「(二年)鉄の玉」「(三年)岐路」を製作した。勉強以外の面では、かなり充実していた。
 三年の文集作成過程で、集金していたお金が紛失して、編集委員として残っていた人に疑惑がかかり、
「机の上にカバンを置いて廊下に出なさい」と、
 一人ひとりにお金を盗んだ事実を確かめ始めた。先生一人でカバンを一個一個チェックして検査した。
 すると、「そんな疑惑を掛けるなら、編集委員を辞める」
 と生徒会長だったA君が言い出た。
 Aクンは、編集委員全員を引き連れて、ストライキ風に先生に反抗して立ち向かった。先生として、盗難問題を解決しなければならないし、文集作業の頓挫も困る。先生は授業の終わったあと、
編集委員の家を一軒一軒、夜遅く訪ねてきた。広い校区を先生は車ではなく、歩いて回っていたから、すごく大変な労力だった。
 盗難問題に疑惑で、「編集委員を辞める」というAクンの論理に疑問を感じていたので、私は「編集委員を辞めるつもりはない」と、訪ねてきた先生にいうと、ホっとした表情になったのが印象的だった。私の家を最後に(緑町の)自宅に帰るのだろう。
 お金の盗難疑惑は、先生の労苦で解決したが、犯人の個人名は最期まであいまいのままにして終わったが、父親が先生に謝罪しに来た姿を見かけたという情報で一部の人にはバレた。
 体育祭は、もちろん、遠足もある。クラス役員は、級長、生徒会議員、等の生徒会活動もある。生徒会会長にも立候補し、当選することもあった。
 
 先生は、中津女学校第25回卒業110名(昭和8年3月)の中にいる。うちの父の妹四季代叔母24回、美世叔母が26回卒業の間である。
 昔は17,18歳で
高等女学校を卒業すると、一年目から和裁を習い、料理とか、花嫁修業した。その間に、見合い写真が回り、数年のうちに結婚が決まるのが普通だ。
 ところが、女学校時代の同級生が花嫁修業しているのに、親の反対を押し切って大学へ行って教員になった。
 
 先生とは、私は大学へ行っている間も、社会人になったのちも、帰省するたびお目にかかって、いろんな話をしていた。
 生徒がその後、どうしているか、いつも世話し続けている印象がある。ご自身のことは放置して、生徒の結婚の世話や問題を起こした生徒の始末に奔走していた。そんな
公表できない話も、片手にあまる。両手を広げて受け止めるほどだ。

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