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2017年9月24日 (日)

隣りの家のフクの肉は、うまかった。

25 恵那山は、中津川駅から見ると 目の前の山である。だから、中学の校歌にも歌われ、恵那山はもう我々のしみついている存在である。中津川市と恵那山は切っても切れない関係で、生まれたときから、続いている。
 昭和20年3月過ぎ、米軍に硫黄島を奪われてから、B29が毎日定期便のように、恵那山の上に現れた。中津川市から見ると、B29 は恵那山の真上を飛んでいて、飛んだ航跡が雲のような筋をたくさん残した。その航跡が多すぎて、青空が曇りのようになることもあった。
 地元の人は、空襲警報が鳴っても、慣れっこになって、米軍機を眺めていた。うちの家族も、二階の窓を開けて恵那山の上を眺めていた。日本軍の飛行機が迎撃して戦いになることはめった無かったが、時には日本軍の戦闘機が戦いを挑み、米軍の後尾につけて追い掛けると、地上から拍手したりした。後尾につかれる米軍機はと逃げ出した。足が速かった。
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 恵那山の上で戦っていると、子供心に思っていたが、角度からすると、駿河湾に空母に乗せられた艦載機が日本の都市を空襲にきて、相模湾の上空に舞い上がった姿が見えるのだと、大人が説明していた。
 新聞は、夕刊がなくなり三紙合同になり、夫が出征した家のIさんのお母さんが配達していた。新聞がななり溜まっていて、新聞紙をノートと交換してもらえると喜んで交換して、たぶん10冊もノートをもらったように記憶している。
 
 そのころ、空襲で動物が脱出を恐れて、軍の指令で上野動物園では、猛獣は射殺とか、象は餓死をさせた。食料は乏しくて、名古屋の東山動物園も大型動物は処分されていた。民間の家で、愛玩用に犬を飼うのは、近所の手前、憚れれることだった。隣りのF岡さんでは、柴犬のフクを飼っていた。時々、我が家に顔を出すこともあったので、フクは顔見知りの仲であった、国道沿いの我が家も、隣りのF岡さんも、農家ではないから、配給以外の食べ物を獲得するのは必死であった。
 
122008_9_dog_49_2  フクの肉をボールにいれて、奥さんが持ってきたのは、夕方だった。
隣りの家のフクは、時々塀の隙間をくぐってウチにもきたから、知っている。ごく普通の茶色の短髪の柴犬である。戦前には毛の長いスピッツが来るまでは、短い毛の犬ばかりだった。(画像はイメージです)
 しかし、その犬を処分しなければならないのは、社会の空気があったのは、確かだ。犬を飼っている家はなかった。飼っているとすれば、鶏だ。
 そうだ、うちにはヤギを飼っていて、ヤギの乳を飲まされて、育ったといわれた。
 国道のうちには、鶏小屋が庭にあり、ひよこから飼っていた。卵をよく産む白色レグホンの卵を抱かせて・・・。鶏も一年に一回巣篭って一か月は抱卵時期には、餌は食っても卵を産まないから、はやく抱卵時期を終わらせる工夫をした。瀬戸物の卵を抱かせるとか。地面に腹をつけて腹を冷やさせるとか。素人の養鶏にも工夫が必要な知識であった。
 10羽くらいを群れで一緒に飼っていて、雄が鶏冠が伸びだして、こいつが雄、後多くが雌となって卵を産む。メスだと思っていたのが雄だという場合もある。
 夕方、F岡さんが、フクを殺したからと、ボールに入れて「いちばんいいところを持ってきた」と、フクの肝臓をどんぶりに一杯くらいをくれた。姉は、玄関に正座して隣りの奥さんの話を聞いていた。19歳の姉は、母が入院中は我が家の主婦をしていたので、近所向こう三軒両隣の主婦の仲間に入って、戦時中の配給や金属供出の仕事を懸命にこなしていた。
 主婦は、十人近くいたが、主人が出征している家や出征はしないもう45歳以上の家など、または、鉄道機関区で必要とされる人はいた。多種多様な家の主婦に囲まれて、19歳主婦代行は、鍛えられたと思う。大人の会話を4歳位の私は、黙って聞いていた。
 姉は、この数日前には、たぶん近所の人から蚕のむつをたくさんもらって、グツグツ煮て佃煮にしようとしていた。ムツは池の鯉の餌にするものだから、嗅いでみれば、今も昔も匂いは同じだからわかるが、生臭いし、とても食べれたものではない。まずい。
 たぶん、酒を入れて生臭さを消して、味付けに砂糖がいるのではないか。折角労苦を重ねて出来上がったムツの佃煮は、誰も食べたがらないから、どうしたのだろう。姉も自分の作った料理は、私には何も説明しないで、消えていた。鶏のエサにしたのかも。
 F岡さんから頂いた肉は、夕飯のとき、すき焼きになって出された。
 しばらく食べていない肉の味に飢えていた我が家の人たちは、夢中になって食べた。ごはんも麦飯だったと思うけど、実においしかった。
  なんで、あんなに大量の肉をくれたのか。考えてみるに、愛していたフクを食うということが、出来なかったのだと、だいぶ経って、ようやく思い至った。
 
 腹一杯になった夜は、卓袱台をかこみ、結構騒いだり歌ったしていた。母はいないし、父は出征しなかったが、仕事が遅くなり父も帰って来なかった。けれど、姉、兄二人、すぐ上の姉など5人と赤ん坊いたから、にぎやかで、ちっとも寂しくはなかった。
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