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2017年9月18日 (月)

満州第七三一部隊(関東軍防疫給水部本部)の真実 NHKスペシャル準拠

国家の意思による戦争について、過去の事実を伝える人が減ってしまい、私には肩書も権威もないのですが、「大東亜戦争」「太平洋戦争」を語らなければと、痛感しています。まあ、古い人間の愚痴だと思って聞いてくれたら、ありがたい。Ws000002

伝聞として、資料を読んで知ったことを語るとすると、他人の文章や体験をわがことのごとく語ると、著作権とか、個人の権利を侵すことになるだろう。それをあえて、国民の遺産、財産としてだれでも引用できる(デジタル、バーチャルの)歴史博物館にしていきたい。と、改めて伝えたい。

虫さえ「キャー!」と騒ぐ都会の女性に、七三一部隊の真実を見ろと言って、直視できるだろうか。

以上、書き始めるにあたり、平和憲法、戦後教育を受けて育った人間として、日本の来し方行く末を「書いてみたい」と、ブログ再開にあたり・・・ちょっと言っておきたいと・・・。

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000005 秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊は、日本帝国陸軍の研究機関のひとつ。満州に拠点をおき、防疫給水=兵士の感染症予防や衛生的な給水体制の研究を主任務とする。同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあったそのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行った。 

 

 1932年(昭和7年)8月に陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室が開設された。同時に、満州への研究施設の設置も着手、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)ハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。

 1936年(昭和11年)423日、関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案され、同時に関東軍軍馬防疫廠も編成されている。

 

000017  人体実験の被験者は、捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称され、その中には、一般市民、女性や子供が含まれていたという[34]。ジャーナリストの西野瑠美子によれば、731部隊が性別、年齢層、人種を超えた、幅広い実験データを必要としたためであり、女性マルタは主に性病治療実験の材料になったという[35]。
731部隊の人体実験に関わった上田弥太郎は、自らの研究プロジェクトに関する手記の中で、マルタの様子について次のように言及している。
 すでに立ち上がることさえできない彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、足を動かすたびにチャラチャラと鈍い鉄の触れ合う音をたてる。同胞を囲んで8つの眼がかたずをのんで見守っているが、誰も口を開く者はいない。(中略)ここに押し込められている人々は、すでに人間として何一つ権利がない。彼らがこの中に入れば、その名前は胸につけられたアラビア数字の番号とマルタという名前に変わるのだ。私たちは、マルタ何本と呼んでいる。
 000004 高い外壁で囲まれ、コンクリート造りの特設監獄(「マルタ小屋」と呼ばれた)に一度収容されると、脱出は極めて困難であったといわれる。石井四郎付き運転手であった越定男は、野外の安達細菌爆弾実験場で脱出を試みたマルタたち40人をトラックで轢き殺したとして、次のように証言している。「一度、縛られていたマルタおよそ40人が、お互いに縄をほどき合って、散り散りになって逃げたことがあります。しかし、遠隔地の空港ですから、逃げおおせる場所はありません。トラックで次々に彼らを轢き殺しました。前輪でひっかけたり(中略)、轢いた時は衝撃を感じました」。(元隊員の郡司陽子の証言

 

 マルタの人数は、3,000人以上とされる。731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は、2007年に「毎日2〜3体、生きた人を解剖し(中略)多い時は1日5体を解剖した」と証言(ハバロフスク裁判、川島清軍医少将731部隊第4部長の証言)

 

000005_2  元731部隊員で中国の撫順戦犯管理所に1956年まで拘留され、帰国後は中国帰還者連絡会(中帰連)会員として活動してきた篠塚良雄は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」に配属され、ペスト患者の生体解剖に関わった。篠塚は帰国後、高柳美知子との共著の中で、中国人の生体解剖の様子を語っている。

 

「ワクチンなしでペスト菌を注射されたその男性は、2、3日後には、高い熱が出て顔色が悪くなり、その翌日くらいには瀕死の状態で顔が黒っぽく変わっていき、この男性はまだ息のある状態で裸のまま担架に乗せられ、私たちが待機している解剖室に運ばれてきました。

 大山軍医少佐から「はじめよう」の命令がでました。

 細田中尉が、目でメスをわたすように私に合図します。足かせ手かせで固定された男は、カッと目を見開き、この凶行を確かめるように首を回しましたが、体の自由はききません。男は無念の涙を目にたたえ、天井の一点を見つめています。何か叫びを発しようとしているようですが、乾ききった口からは声は出ず、わずかに口を動かすだけです。男の首をなで回していた細田中尉が、右手のメスでズバリと頸動脈に沿って切り下げました。血がジューッと流れ出しました。

 男は、ペスト病の苦しみと、切りさいなまれた痛さで首を左右に振り回します。そのたびに顎にかかっている首かせが食い込み、ついにガクリと首をたれ失神しました。私はあわてて血を抜き取りました。

 ビタカン(ビタミン剤とカンフル剤を混合したもの)を4本打っても、男の鮮血を絞ることはできません。「鬼子ッ!」男は憎しみの火と燃える一言を絞り出すとスーッと顔色が代わり、呼吸が止まりました。

「解剖刀をよこせ」細田中尉は、解剖刀を逆手に握ると、上腹部から下腹部へ得意然として切りさいなみ、骨を切るノコギリを引いて肋骨を引き切り、内臓の全部を露出させました。」
 

 生体実験では、日本人が犠牲になることもあったという。

 篠塚はペストに感染した友人の少年隊員であった平川三雄の生体解剖に立会った時の様子を、次のように語っている 。
「平川三雄は、すでに特別班の隊員によって真っ裸にされ、解剖台にかつぎ上げられているところでした。

 うつろに開かれた眼には涙が溢れ、口をダラリと開けてハーハー苦しそうに息をはき、そのたびごとにビクビク腹を波うっていました。

「少佐殿、少佐殿」平川の必死な叫びが、部屋にむなしく響きます。私の頭の中には、石井部隊に入隊するとき、「三雄と仲良くしてやってネ」と私の手に小さなくだもの籠をわたしてくれた平川の母親の顔が浮かびました。また、それ以来、共に過ごした生活が渦を巻いて脳裏に押し寄せてきました。

「助けてやりたい」そう思った私の手が、止血剤を取ろうと薬物箱に伸びようとした瞬間、平川の全身をつつきまわして検査していた大山少佐の命令がかかりました。「はじめろッ」

 江川技手は、解剖刀を逆手に握ると上腹部を刺しました。「助けてくれーッ」平川の口からうめきがもれると、江川技手の手が震えました。「その態はなんだ」後ろから一喝を食った江川技手は、サーッと解剖刀を下にひくと、かえす刀で胸部の皮膚をさきはじめました。血は解剖台の血流しを通じて、下にボタボタ流れ出しました。「畜生!」平川の口から、血をしぼる叫びが出ました。それと同時に、解剖台上に内臓がズッズーッとはみ出て、彼は絶命しました。」
(篠塚は、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている。田辺敏雄は、こういった中帰連関係者などの証言について、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を自己批判させられた者の証言として、信憑性を疑問視している)。
 

 

 731部隊では、ガス壊疽えそ実験、凍傷実験、銃弾実験など、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか。どのように治療すれば回復させることができるのか。生理学的な研究も頻繁に行われた。

 

 731部隊の女性隊員郡司陽子は、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されたことを示す証言を聞き出している。

「やがて特別出入口から、「丸太」たちが、1回に2、30人、看守に護衛されて出てきた。一列に数珠つなぎにされている。中国人、ロシア人、ときおり女性の「丸太」も混じっていた。服装は私服のままだった。

 覆面トラックから「丸太」たちは降ろされ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられ後ろ手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。

「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「丸太」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「丸太」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。

 

 まもなく低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機が、鈍い爆音とともに「標的」の中心の棒をめがけて、20キロ爆弾、30キロ爆弾を投下した。「ドカーン」という爆発音が、自分たちの耳にひびいてきた。

 爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場にかけつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。そこは、「丸太」の地獄だった。「丸太」は、例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた者、顔といわず身体のあちこちからおびただしい血を流している者‐あたりは、苦痛のうめき声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった。

 

 そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。

 爆弾の破片の分布や爆風の強度、土壌の情態を調べている隊員もいた。自分たちもまた、てきぱきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行われた。「丸太」は死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた」


 マルタを強制して性行為を行わせ梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて、再び性行為を強制した。

 性行為に立ち会ったという元隊員は、「目の所だけが開いている白い袋のような帽子を、頭からすっぽりかぶり、白衣を着て、まわりに立っておった。4、5人が見ている前で、セックスをさせたんですよ。モーゼル拳銃を構えているから拒否することはできないわけですね。」と語っている。(西野瑠美子とのインタビュー)

 

 マルタが性病に感染すると、その経過を丹念に観察して、1週間後、3週間後、1ヶ月後における病気の進行状態を確認した。研究者は性器の状態など外部的兆候を観察するだけでなく、生体実験を行って様々な内部器官の病気がどの段階に達しているかを検査した。

000010  乳児を氷水の中に漬けた際の温度変化が記録されていることから、実験中のレイプにより生まれた乳幼児、あるいは731部隊に捕えられる前から妊娠中だった女性マルタが出産した多くの乳幼児が凍傷実に使用されたものと西野は考えている。(731部隊の研究員吉村寿人(京都府立医科大学の学長)が戦後に発表した論文)

 1945年8月9日のソ連軍の満州への侵攻直後、731部隊の施設建物が大量の爆薬によって破壊された。常石敬一は、この破壊は証拠隠滅であったとする。秦郁彦は、終戦時には、生存していた40~50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたと推測している。

000012主要なメンバーは帰国してしまって、ソ連軍侵攻まで残務整理をしていた隊員が捕虜として裁判にかけられた。

 

 元隊員の越定男によれば、マルタは青酸ガスを噴出させて殺害するか、銃で脅しながらマルタ2人を互いに向かい合わせ、首にロープを巻き、その中央に棒を差し込んで、2人にねじらせることで殺害した。

 作家の森村誠一は、マルタの毒ガスによる集団殺戮を目撃したとする以下の元隊員の証言を聞き出している。
「マルタの中の数人は毒ガスで死にきれず、鋼鉄製のドアをたたき、苦悶のうなり声をあげのどをかきむしって苦しんでいた。特別班員がゆっくりと近づき苦悶するマルタを胸に向けてモーゼル拳銃の引き金を引いた。殺したマルタの足を引っ張って、7棟横にあった大きな穴の中に、次々と死体を放り込み、ガソリンと重油をかけ、火をつけた11日の午後だったと記憶している。

 731の焼却炉は、生首の標本や細菌培養の寒天、膨大な書類や器具を焼却するためふさがっていて、マルタの死体はなかなか燃えなかった。しかし撤収は一刻を争う。浮き足立った特別班員らは死体焼却作業の半ばで土を掛け、逃亡したため、土の中から手足が突き出ており、とても証拠隠滅の役を果たしていない。

 部隊幹部がこの状況を見て『もう一度死体を掘り出し、完全に焼いてしまえ』と命令した。目をむいて硬直しているマルタの死体を掘り出す役目に当たった隊員らは、吐き気をこらえながら作業を続けた。」

 また、元隊員の篠原鶴男は、マルタの処理のことを次のように証言している。

 「明けて10日、ロ号棟の監獄の部屋に私たちは、12号まである監獄の爆破作業にとりかかりました。12号室の壁に爆薬をしかけるために入ると、白っぽい壁に血書を見ました。

 

 12階の「陳列室」をはじめ第一部各課研究班には、ホルマリン容器に入った生首、腕、胴体、脚部、各種内臓の標本が、伝染病の種類や病状ごとに計1000個ほど保存されており、これらは夜陰に乗じて松花江に投げ捨てられたという。さらに、増産を重ねてきた各種細菌のストック、夥しい数のネズミ、数億匹のノミ、解剖記録、病理記録、細菌培養記録などは掘った穴に集められ、重油で焼却されている。その後、施設建物が大量の爆薬によって破壊された。

 

 厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だ。この間、19428月から19453月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られる。
 1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は810日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは815日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判000006 で戦争犯罪人として訴追された

 

 石井四郎は日本への帰路において731部隊員と家族に対し、

「戦争は負けた。俺は、君たちみなを故郷に送り返す。帰郷したお前たちが731部隊の秘密を漏らすようなことがあったら、この石井はどこまでも、草の根をわけても捜すぞ。」と悪魔のような形相で叫んだ。(731部隊付き看護婦赤間まさ子証言)

 

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