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2016年6月 9日 (木)

「人間佐藤一斉の悩み」(風詠社)かくれた彼の青春の蹉跌

郵便受けにドスンという音がして、なにか書籍でも来たのかと行ってみると。従兄弟のT彦さんからの郵便物だった。02 中に入っていたのは、「人間佐藤一斉の悩み」(風詠社)という本だった。以前、岐阜県恵那郡岩村町出身なら、「佐藤一斉」のことを知っていると思って、ハガキでT彦さん聞いたが、ご存知なかった。
 
佐藤一斎「言志四録」人生訓: nozawa22
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 今回、この本の著者、ペンネーム美濃吾作、本名を見るとTさんの弟Hさんだった。大蔵官僚だった彼とは余り接点がなかったが、「美濃」を冠したペンネームを使うとは、故郷に恩返しのような意識があるようだ。Hさんは、昭和30年ころ、高校生の雑誌「蛍雪時代」旺文社の募集した作文で最優秀賞をとった経歴がある。

02_2 儒学者佐藤一斎は、「言志四録(げんししろく)」で
少にして学べば壮にして為すあり。
壮にして学べば老いて衰えず。
老いて学べば死して朽ちず
。」「三学戒」
(少年時代に学べば壮年になってから役に立ち、何事かを為すことが出来る。壮年のとき学べば老年になっても気力の衰えることはない。老年になって学べば、死後もその名が朽ちることはない)と書き残している。そのプレートが岩村の町のあちこちに掲出されていると聞く。

 こんな名文句を吐く人は、どんな人生を送ったのか。学者として王道を歩んだのか・・・と疑問をもったが、Wikipediasを見ても何も参考になることは書いていない。

この本を見たら、佐藤一斎の二十歳頃には、岩村藩の江戸屋敷に藩主候補の兄貴分、四歳違いの松平乗衡とつるんでいた。浅草寺の裏の吉原遊郭大門の外側で、辻斬り遊びをしていたと書いている。遊郭で大金を浪費する青年を捕まえて、峰打ちをして、青年に「お前の遊んだ金は、店の金か、自分の身銭か」と聞いて、自分の貯めたカネといえば、「汗水たらして稼いだカネを吉原の女郎につぎ込んでしまうとは、何事だ」と説教し、店のカネを使い込んだといえば、「そんな不心得ものには、天誅だ」と、再度、峰打ちをした。

 岩村藩の江戸屋敷は、日本橋浜町(今の人形町)にあったから、吉原まで、歩けば1時間くらいの距離だった。しかし、この辻斬り説教強盗のうわさは江戸中に広がり、青春のヒトコマとしてやったつもりが、公儀にも知れてしまう様相になって、猛ソレはできなくなった。

春、さくらの見ごろの頃、松平乗衡がお気に入りの娘を三人を口説いて舟遊びに誘った。娘たちを誘うのは、一斉の役目だった。船頭を除いて三人乗りの小舟で、船頭を雇わないで一斉が櫓を操った。隅田川へ。川幅も広く波も穏やかであったので、船頭のほかに四人乗っても大丈夫だろうと考えた。

 お女中たちも花を愛でつつ、おしゃべりしたり、花見弁当を広げていた。お酒も入ってにぎやかになって、日ごろの謹厳振りから開放されていた。殿も櫓をこぐ一斉に声掛けた。
「おーい、一斉(当時は幾久蔵)、お前も呑め。さくらが満開でこんな気分のよい日はないぞ」
 酒の入った杯を持って立ち上がり、一斉のほうへ移動しようとした。そこへ運悪く、大きな運搬船がすれ違った。その大波がうねりとなって、彼らの小舟を大きく揺らして水しぶきがかかる。お女中たちは、「あれぇ」と、舟べりをつかんだり、立ち上がろうとした。舟のバランスが崩れて、重心が大きく偏って・・・定員を超えて乗っているから舟は浸水して、転覆してしまった。

「殿、あぶない!」
 殿を支えようとしたが、そのまま水中に落ちてしまった。殿を助けるだけで精一杯で、お女中たちは振袖で着飾っていたので、水を含んだ着物の重みで浮き上がることもでいなかった。三人ともに溺死した。男二人は近くの船に助けられたが、女三人は隅田川の藻屑と消えてしまった。

 藩主の嫡男乗衡と家老の嫡男がしでかしたこの不始末は、誠に重大であった。場合によっては、公儀から藩の取り潰しもあるかもしれない。この件は、折をみて幕閣におとりなしを願い出るほかない。それまでは、両人には謹慎をもうしつける、ということだった。

 一斉は、殿には何の過ちはなく漕ぎ手の一斉の不注意から起こったことで、腹を切ってわびるつもりであった。藩内にはかん口令が敷かれていたが、当日の事件の様子は川岸から丸見えであり、人の口には戸を立てられず、岩村藩の家老が取り調べを受けることになった。岩村藩は松平家の治める藩であり、きちんとした裁きをしないと他の大名に示しがつかない。しかし、お取りつぶしまでいくと、大事になって幕藩体制にヒビが入りかねない。

 審議の結果、事件の主たる責任は、佐藤一斉にあると断じて、彼は藩籍を剥奪し追放になった。侍の身分を離脱させることになった。殿の方は身分はそのまま、当面謹慎せよという処理であった。これは温情のある裁きだった。佐藤一斉は、切腹せよという沙汰があるかもと、覚悟していただけに救われた思いだった。

 士籍を離れた一斉は、学問で身を立てるしかないと考え、名前を捨蔵と名を改めた。捨蔵と改めたとき21歳(数え)、殿から呼び出しがあり、上方への遊学を勧められた。殿も彼が全部責任を被って藩籍を剥奪されたことの気にかけていた。

 易学、数理、天文を学んだ。半年ほどしたとき、師匠皆川淇園の娘から「江戸から来た人にはだまされないようにといわれていたが、佐藤一斉様はたいへんまじめで、勉強熱心と父もほめています」という出だしで、彼に「私をいかが思っていますか」と手紙をもらった。特段問題のある文面ではない。かつても一斉だったら、「据え膳食わぬは、男の恥」とばかりに受けて立ったにちがいない。しかし、今は事件のあったあとだ。学問で身を立てるしか今後がない。
 娘に真情に心をあつくなりながら、娘の文を師匠淇園に届けた。

 淇園は娘を呼び激しく叱責した。娘は恥ずかしさと口惜しさで一杯になり、そのまま裏の井戸に身を投げた。
 一斉は娘の死を知り、師匠にも迷惑を掛けたことを悟り、予定を切り上げ大坂へ戻った。

 大坂で、陽明学を中井竹山(懐徳堂)に学び、上方での修業を終えて江戸に戻ると、殿は林塾への入門を勧められた。

 26歳(数え)で、幕臣の娘と結婚した。最初の結婚がとても琴瑟相和し、趣味に合って三人の娘をなした。これが妻を亡くし、一番妻に似た娘も失って・・・それから二人目の妻とは離婚し、三番目の妻とは長くくらしたが、どこかぎこちない関係であった。

 佐藤一斉の学問とは関係ない部分の経歴を辿ったが、
「言志四録(げんししろく)」で
少にして学べば壮にして為すあり。
壮にして学べば老いて衰えず。
老いて学べば死して朽ちず
。」「三学戒」を語る裏にこのような歴史が彼にはあったことを知るのは、知識に厚みを与えると、思う。

 経歴はWikipediaにも書いてない。岩村にある一斉塾の理事長から聞いたようなことが書いてあった。岩村藩の家老の家系であったが、士籍を失ってから岩村へも寄っていない。
 T彦さんの家系は、家老といわれても、知らなかったのは仕方がないのかも。 一斉には大きな引け目になっていたのかもしれない。今は、岩村市民の誇りになっているが、本人にとっては、岩村は遠くあるふるさとだったようだ。
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佐藤 一斎(さとう いっさい、安永元年10月20日(1772年11月14日)- 安政6年9月24日(1859年10月19日))は、美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。諱は担。通称は捨蔵。字を大道。号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒。

安永元年10月20日(1772年11月14日)に佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の岩村藩邸下屋敷内で生まれた。生家は佐藤方政の子孫の系と伝えられ代々藩の家老を務める家柄だった。一斎も寛政2年(1790年) より岩村藩に仕え、12・3歳の頃に井上四明に入門し長じて大坂に遊学、中井竹山に学んだ。

寛政5年(1793年)に、藩主・松平乗薀(のりもり)の三男・乗衡(のりひら)が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ、当主(大学頭)として林述斎と名乗った。一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門する。文化2年(1805年)には塾長に就き、述斎と

共に多くの門弟の指導に当たった。

儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)に述斎が没したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、広く崇められた。当

然、朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。門下生は3,000人と言

われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂、池田草庵、東沢瀉、吉村秋陽、安

積艮斎、中村正直、林鶴梁、大橋訥菴、河田藻海、竹村梅斎、河田迪斎、山室汲古、北條悔堂など、いずれも幕末に活躍した英才がいる[1]。同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。

また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄」では、無実の罪で窮地に落ちい

った渡辺崋山を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々(特に明治以降)「言行不一致」と批判される事となった。

安政元年(1854年)の、日米和親条約の締結交渉では、大学頭・林復斎(述斎の六男)を補佐している。安政6年9月24日(1859年10月19日)、88歳で死去。長男・慎左衛門の娘・町子(まち)は田口卯吉・木村鐙子の母親(異父姉弟)となり、鐙子の名前は一斎の命名による。また、三男・立軒の次女・士子(ことこ)は、実業家の吉田健三に嫁ぎ吉田茂の養母となった。

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