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2016年4月13日 (水)

二度目の『花神』(かしん) 「尊皇攘夷」はダシに使われた。

1fgf_2 『花神』(かしん) は、一度数十年前に夢中で読んでいるが、ディテールを忘れている。蔵六は、イネの家庭教師をして、イネが何かのバツとして蔵六の髪をシャボンで洗う。石鹸が眼に入る痛さをガマンする・・・蔵六とイネの関係を記憶していた

201206161430046ac 伊予宇和島藩城下に神田川原という侍屋敷があり、そこの小さな一軒に妙齢のおイネさん一人で住むのは不用心。もう一人だれか用心棒を住まわせたほうがよいと、村田蔵六が、という話になった。
 女の人が一人住むところへ、まだ三十手前の蔵六も一緒に住む。「村田蔵六なら大丈夫だ」と言われていた。堅い人間で、男として名誉なのか不名誉なのかはわかりませんが、そういうわけでおイネさんと村田蔵六は一時期、一緒に住んだことがある

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An75591 上野寛永寺に篭る彰義隊にアームストロング砲で、本郷台地から打ち込む・・・その発想、新技術と軍制の力を信じる村田蔵六、なかなかの魅力だ。

 蘭語を適塾で学ぶ集中力には、圧倒される。その語学力で、軍隊技術、造船技術を訳して、Uku1見たことのない蒸気船を伊予宇和島藩のために作った。

  『花神』(司馬遼太郎の長編歴史小説)。
 日本近代兵制の創始者大村益次郎(村田蔵六)の生涯を描く。1969年(昭和44年)~1971年(昭和46年)『朝日新聞』夕刊に連載された。 あらすじ[編集]  周防国吉敷郡(現山口市)の百姓医の家に生まれた村田蔵六は、大坂適塾に入り、抜群の成績で塾頭に。故郷防長に戻った蔵六は、田舎では変人扱いされていた。

  黒船来航・開国開港など時代が大きく変化し、ずば抜けて洋書を読解著述ができる蔵六は、伊予宇和島藩(伊達の支藩)の軍艦建造に招かれ、その後、洋学普及のため、江戸で私塾「鳩居堂」を開き、幕府の研究教育機関(蕃書調所、のち開成所)でも出講する。 

 Eda73f_3長州藩志士桂小五郎は、蔵六を長州藩士として、軍政改革の重要ポストに就けた。尊皇攘夷など狂奔な活動を続ける長州藩に、文明開化を重んじる蘭学者で洋学者(福沢諭吉)たちの視線を承知しつつ、蔵六は時代の花神(花咲か爺)としての役割を担っていく。

 高杉晋作の没後、村田蔵六は奇兵隊を倒幕に向け再編成し、幕府による長州攻撃に対して、新式軍制と武士階級を除いた庶民軍によって、撃退した。その後、薩摩藩の動きと共に、長州代表として新政府の事実上の総参謀を務め、戊辰戦争の勝利に貢献し、明治維新確立の功労者となった。さらに維新政府の兵部大輔として軍制近代化の確立を進めてゆく。  

Saigou長州は、「尊皇攘夷」をエネルギー源として、倒幕を進めてきたが、いつのまにか、「攘夷」を言っていては、外国に追いつけないと気付いていたが、これを言うと倒幕エネルギーを統合できないので、軍制は機能重視の西洋式の変えた。「尊皇攘夷」の旧態依然の体制にはない新組織になった。しかし、トップに立つ村田蔵六は、綿服と羽織袴だったという。

一方で、旧来の思考でしか判断のできない者(海江田信義・大楽源太郎など)からは、激しい憎悪が投げ掛けられた。村田蔵六は、薩摩藩の西郷隆盛を新組織、新技術とは相反する存在だと断じて、重視しなかった。心情的に崇める対象になっていた西郷を数理、技術的な論理から無視した。
 

 村田蔵六の技術者の観点から、必要と不必要を峻別していくと、日本人の伝統的な情で結びつく魂とか、崇拝の精神が排除されて、新政府の根本が固まると考えていた。突如、長州の田舎百姓出身の村田蔵六が、機能の上で軍制トップに立ったから、嫉妬の渦に巻き込まれた。
 革命と言う明治維新までの武闘でのし上がった志士は、功績で顕官の地位に着いたが、行政の能力もなく、見識もない武闘派は、能力の発揮する場もない。少しでも、後から来た者が上の地位について、待遇がよかったりすると、暗に陽に嫉妬して邪魔をする。
 

 ということで、処世術は一顧だにしない村田蔵六の態度には、西郷隆盛、大久保一蔵と親交のあった、初期からの志士海江田信義は、怒りを左右にぶちまけていた。さらに偏見嫉妬、批判は深まり、遂に配下をして京の宿泊先で襲わせた。 

 村田蔵六は、死の床にあっても、やがて来たる「西南戦争」を予感し、新製の大砲(四斤砲)を用意しろと遺言を残し、最後まで技術者実務家を通し生涯を終える。 

 戊辰戦争
 
1868年(慶応4)戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府側との間に16か月余にわたって戦われた内戦。
 鳥羽・伏見の戦いに負けた幕府は、江戸へ逃げ帰った。
 新政府軍は、四月江戸城を接収、上野の彰義隊を鎮圧、次に関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟の諸藩を会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌年5月、最後、箱館五稜郭を陥落させ、内戦は終った。
 これで、明治“絶対主義国家”への途が開かれた

 戊辰戦争が終結すると、武闘派の出幕は終わった。しかし、日和見していた出遅れの志士が、例えば、海江田信義など、旧来の思想「尊皇攘夷」を掲げて、西洋思想へ移ろうとする方針に反対する気分屋攘夷に集まってきた。

 鎖国の思想「尊皇攘夷」が、幕府の開国方針にぶつかって・・・それは、西洋の軍隊に蹂躙される長州の敗北と英国軍の薩摩砲撃で、技術の差では叶わないと知った途端、誰も「尊皇攘夷」を捨てたとははっきり言わないが、明らかに方針は幕府と革命軍の思想に差はなくなった。
 幕府が負けたら終わりかというと、それが革命軍には、日本全土をクリーニングしないと、新しい政府にはならないと思う西郷には、江戸を火の海から救う・・・というか、妥協して明治政府は始まった。

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