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2016年4月12日 (火)

高砂駅前周辺の取材 捨てる神あれば、拾う神あり・・で、ホッ。

  特集東部 高砂駅前周辺の取材を始めないと、記事が遅れてしまうと、人に会うことが楽しいといいのだけど、話しを聞こうとすると、相手がどう出るか、プレッシャーがある。

  取材コーディネーターがいないと、自分で聞きまわるのはストレスが溜まる。営業に近い気遣いが必要だ。記事を書くだけなら、記者の書くだけだが、書き始める前に取材が重荷になっている。
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 先週、駅前●●●屋の窓口で、母親から店の歴史とか、聞いてほしいと話をしておいたのだが、今日行って見ると、風向きがおかしかった。古いことは忘れたということで、一切答える気はない様子だった。おかあさんの様子とか、聞こうとすると、
今時、そういうことは答える必要はない」と、妙に頑なな態度。「もういいでしょう」と、最後通牒のようなセリフを言われて、期待していた取材は出来なかった。

 こういう肝っ玉の小さなことを正当化する人が、何かフツウみたいで、世間を狭くしている。 

 次に、洋菓子店へ行くと、50代の洋菓子職人の息子さんだと思うが、彼が誠実に答えてくれたが、高砂駅が現在地に来てから生まれているから、高砂の歴史を知らないようだった。20分もいたか、どの程度で終わりだ。 

 隣りの不動産店、店構えは手が入っていないが、堅実で、豊かな経営と聞いていた。躊躇したが、思い切って入って、旧高砂駅について聞いてみると、 図面を書きながら話して頂いた。01 活き活きと話してくれて、取材が楽しかった。Sさん、町の写真集、2万円で買って持っていると問わず語りで話していた。趣味として、町の歴史を愛しているようだ。
 Sさん、中学生の頃、金町の塾へ行っていたので、旧高砂駅をほとんど毎日利用していたから、記憶に留めている。下りホームにテレビが据えつけてあり、塾帰りには
テレビを見るのが楽しみだった。
 
 旧高砂駅の駅舎は大倉工場が今のヨーカ堂のところの向えにあった。その後、終戦直後には篠原工場といった時期もあった。大倉工場の前は戦時中は、ここに防空壕があった。
 

 Sさん宅では、夏は氷の製造販売をしていて、冬は和菓子製造をしていた。昭和7年から戦争中、砂糖の配給がなくなって、和菓子はできなくなった。風月堂よりずっと前から、和菓子製造をしていた。 05 この旧高砂駅のことを知っている人が少なくなった。
 ホームにテレビが置いてあって、金町の塾に行っていたので帰りに駅に降りてみるのが楽しみだったとSさんは語った。また、駅の中に新聞売店があって、「新聞買いに行きます」というと、駅の中に入れたとか。

 昭和20年3月10日に東京大空襲があったその日、
 Sさん宅は、駅から100メートル以内で近かったから、“強制疎開”の名目で壊された。
 製氷の機械ごと破壊されて、井戸から水をくみ上げるモ-ター、パイプ、機械類とか、軍に一切供出させられ、金属は全部持って行かれた。氷をつくるアンモニアのニオイが凄かったのだが、
子どもの目からすると、軍に奪われた感じだった。酷いもんだと思った。
 その後は、高砂小学校の近くに借り家住まいをした。


 ウチで仕事ができなくなったので、父は(京成)お花茶屋にあった大日本機械と言う軍需工場へ働きに行った。男はみんな軍事工場で働いていた。
 戦争末期、ボクが5歳だったから、昭和20年の6月か7月になって、父は40手前で、徴兵されて佐倉へ入隊した。外地へ連れて行かれる前に、京成佐倉だから終戦になってすぐ帰ってきた。 

 今高砂北口にある交番が、戦争中は、南側に交番があった。
 その線路際に台があって、その上に焼夷弾の本物が置いてあった。それは、信管が外して、中の焼夷弾に布切れが付いていた。実物で国民に防空意識を持たせるためだったろうが、警察官が恐かった時代だったから、あまり近くで見るのはできなかった。

17  このバス通りで、7の日が縁日で、夜店が並んだ。今では、夜店が並ぶのは考えられないが。今昔の感がある。

 終戦後は、ウチの父と母で食料品を始めてここで商売をした。不動産業という職業ができて、すぐ「花美志」と言う名前の今の宅地建物の不動産業になった。

 今はどこを探しても、映画館はないが、昭和30年代までは、網代葬儀店の隣り、和装品を扱う「ジョイフル恵利」の場所に高砂映画館があった。戦前、戦中は、日本軍の強い場面を写した映画がよく上映されていた。
 戦後は、「野菊の墓」、「二十四の瞳」「青い山脈」などを上映したので、見に行った人は多い。
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