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2016年4月20日 (水)

朝ドラ『とと姉ちゃん』は、『暮しの手 帖』の創業の軌跡を描く

 2016年度(平成28年度)前期放送のNHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』は、大橋鎭子=常子をヒロインのモデルとして『暮しの手 帖』の創業の軌跡を描くフィクション作品となる。000036・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 2015年7月に2564人の応募者の中からオーディションで選考され、8月24日に『ごちそうさん』で朝ドラ出演経験のある高畑充希に内定。朝ドラでは、常子たち一家は、浜松を離れ、母の実家深川、木材問屋にようやく落ち着いたところだ。000021 今後、どういう発展展開で、雑誌「暮らしの手帳」になっていくか、楽しみだ。フィクションだから、かなり史実は違うだろうが。若い西田征史の脚本が、どこまで大橋鎭子と花森安治の心情に迫れるか、ここが一つの決め手になる。

 大橋 鎭子(おおはし しずこ、1920年〈大正9年〉3月10日 - 2013年3月23日、93歳で没):日本の編集者、エッセイスト。暮しの手帖社社主で元社長。雑誌『暮しの手帖』を創刊した。妹大橋芳子も同社創業メンバーで、エッセイスト

 日本製麻勤務の父と、小樽育ちで女子美術学校出身の母のもとに、東京麹町の榊病院で生まれ、父親の転勤のため、1才で北海道に移住。父親が肺結核になったため、東京に戻り、小学5年生の時に父が死去。5年間、父の療養所を求めて、伊東、鎌倉、大森などを転々とし、家族で看病に明け暮れる。大井町に落ち着き、父が1930年(昭和5年)に死去、11歳でその喪主を務めた。

 東京府立第六高等女学校(現都立三田高等学校)を1937年に卒業。後輩の石井好子とはその後も交流が続く。日本興業銀行(調査課)に勤務する。3年で退行し、日本女子大学に入学するが1年で肺結核となり、学業を断念。

 大学を中退して、創刊されたばかりの日本読書新聞に入社。日本読書新聞、昭和30年代に一時購読した記憶があるが、あまり面白みが感じられなかったな。
 大橋鎭子は、戦争末期の休刊時も戦後の復刊時も、常に編集部に所属した。防空壕の中で自分が見たい・知りたいと思うことを本にすれば女性に喜んでもらえると考えた。
 戦後、復員した田所太郎が編集長に復帰すると、「雑誌を創刊し、お金持ちになり、母や妹を幸せにしたい」と相談する。彼の旧友花森安治を紹介され、知り合った。

1946年、花森、鎮子と横山啓一で『衣装研究所』を東京銀座8丁目に設立して社長となり、妹晴子、芳子も協力し、服装提案雑誌『スタイルブック』を創刊。

そうだ思い出すのは、型紙ガ折り込まれた雑誌があった。その型紙通りに生地を裁断して作るドレスができあがった。友達の中野家子が裁縫を手伝った。
 創刊号が大ヒットしたら、同じような雑誌が30誌、40誌と出て、本家本元の鎮子の雑誌は売れ行き不振になった。
000002_2 そこで、1948年(昭和23年)9月には花森編集長の元で『美しい暮しの手帖』(後の『暮しの手帖』)を創刊すると、またまた大ヒットした。

 生活者、消費者の立場に立って、市販された商品を中立の立場に立って安全性、品質をテスト下結果を記事は大評判になった。1968年(昭和43年)からは季刊誌(年4回)から隔月発行になった。

 広告は自社書籍のみで、企業から広告は受けず、厳格な商品テストの公表は、製品メーカーにも大きな影響力を与えた。この中立を保つのは、発行部数とか、収入を度外視して取り組まないとできないワザだ。
 商品の広告等は、消費者は迷わせている現今のありようからすると、隔世の感がある。兄嫁が『暮しの手帖』愛読者だったので、私も学生寮でも取ろうと言ったらバカにされた。アレは女性の本だった。

花森 安治(1911年10月25日 - 1978年1月14日):日本の編集者、グラフィックデザイナー、ジャーナリスト、コピーライター。生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者として、その名を知られる。

1911年、兵庫県神戸市に生まれる。東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、学生新聞の編集に携わる。卒業後、伊東胡蝶園(のちのパピリオ宣伝部に入社、広告デザインに携わる。太平洋戦争に応召するが、疾病により除隊、その後は敗戦まで大政翼賛会の、国策広告に携わる。

 当時の代表的な標語欲しがりません 勝つまではは、大政翼賛会と新聞3社による「国民決意標語」の募集に、東京在住の男性が娘の名前で応募した作品を花森が採用した。この点に関して、花森は一切弁明をしなかった。

 終戦後の1946年、大橋鎭子(社長)と共に衣装研究所を設立し、雑誌『スタイルブック』を創刊。そして1948年に、生活雑誌『美しい暮しの手帖』(後に『暮しの手帖』に改題)を創刊。
 生活者の側に立って提案や商品使用実験を行うユニークな雑誌で、中立性を守り、企業広告を一切載せない、という理念の元に今日まで発行。
 編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、『暮しの手帖』表紙画は、死の2日前まで、全て花森の手によるものである。豪放な性格、反骨精神と奇矯で真摯な行動でも知られ、おかっぱ頭やスカート姿を貫いたのもその一端である

西田征史(にしだ まさふみ、1975年5月22日 - ): 日本の脚本家、俳優、演出家。所属事務所はQueen-B。東京都出身。学習院大学法学部法律学科卒業。身長177cm。血液型B型。
 
高校卒業後に芸人を目指してホリプロのオーデションを受け合格。
1995年に佐野忠宏(現・コトブキツカサ)とお笑いコンビ「ピテカンバブー」を結成するかたわら、大学に通いながら俳
優としての活動も始めた。1999年に解散し、芸人をやめた。

 2000年から、舞台の脚本・演出を手がけるようになった。その後、芸人時代に親交のあった小林賢太郎(ラーメンズ)の演劇作品に俳優として舞台に立っているときにプロデューサーの目に留まり、その繋がりで脚本のコンペティションを受けることとなり、映画『ガチ☆ボーイ』(2008年)の脚本に抜擢された。
2012年、初のオリジナル小説『小野寺の弟・小野寺の姉』を出版。この作品はのちの2013年に自ら舞台化、2014年には
映画化され、自ら原作・脚本・監督をつとめ、第39回報知映画賞・新人賞を受賞。テレビ小説に脚本家として憧れを抱き、同枠を執筆したいとかねてより公言していた。2016年上半期の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の脚本を担当

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