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2016年3月24日 (木)

ファミリーヒストリー“壇蜜”として仕事できているか、祖先と比し。

000050壇 蜜(だん みつ、1980年12月3日 - ):タレント、女優、グラビアモデル。本名は齋藤 支靜加(さいとう しずか)。身長 158 cm/ 体重 ― kg/ スリーサイズ85 - 60 - 89 cm / カップサイズE/靴のサイズ23.5 cm 。所属事務所はフィットワン。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・000004_2 トレードマークの長い黒髪と妖艶な雰囲気で注目、映画、テレビのバラエティ番組などに多く出演。
 この種の扇情的なポーズは、
「付き合うなら告白する方とされる方のどちらがいいか」の答えは「(告白というイベントにはこだわらないという意味で)どちらもいらない」とのことで、近くにいて次第に相思相愛になっていくというのが理想。(『週刊少年マガジン』のインタビュー)というコメントからすると、びっくりポンだ。演出以外の感想はない。

  芸名“壇蜜”は仏「壇」、「蜜」はお供え物の意味。男性誌のグラビア以外にも女性誌でも人気を博している。また日本舞踊坂東流師範。

  ツアーコンダクターの父親と保育士の母親を持つ。 母親の実家がある秋田県横手市で生まれ、幼少の頃に東京へ移住。
 まず、父と母の出会いは、母が保母の資格を取っている最中、父の命日に合わせて秋田へ帰っての帰りの東北線の車中で、いつもなら座るところがある車内は団体客が大勢で席を探していたら、ツアーコンダクターの父が「どうぞ」と自分の席を譲ったのがキッカケだった。秋田娘特有の色の白さに目がいった。東京へ着いた数日後に、礼の電話を父の旅行会社へ電話をしたんだそうだ。それ以降、ずっと交際が続いて結婚に至る。積極的な母だ、そういう意味では、娘の“壇蜜”も積極的だ。

  父方のルーツを辿ると、仙台藩の武家の出だと分かる。父方の親戚の家の資料が仏壇の下から出てきた。資料を扱う専門家も驚くほどだった。000031 盛岡藩の県境であるので、伊達藩の岩谷堂城の守りに武士150人が派遣された。000016  伊達藩側の中に小頭斉藤姓、壇 蜜(齋藤 支靜加)の父方の祖先がいた。武術、剣道の指南として含まれていた。000022
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伊達藩の財政状態は非常に悪くて、江戸上屋敷の幕が買えないのを見た斉藤さんは、仲間を集めてやりくりして幕を献上したそうだ。000047 つまりは、人格者で信頼の厚いタイプの家系だといえる。

 印象が強いのは、母方の祖父正悟である。正悟は教員の父親の後妻の子だが、その後妻が死んでしまい、父は11人の子沢山で、0000552歳(多分数えで2歳だろう)で養子に出された。正悟の生まれた翌年は、東北地方は未曾有の凶作になって、000057出された際には、養母にはお金をつけて養育を頼んだはずだった
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が、あまり優しくされていなかった。
 伊藤家の(小柄な)養母は棒を持って追いかけていたと、近所で見ていた人がいう。伊藤家は、複雑すぎて、隣家の人曰く、どの子がドコから来たか分からんらしい。が、農業専門学校を出て農林省の事務所に入所したのだから、養母は養子を虐待したわけでもないだろう。

 就職口としては、悪くないから、多分成績はよかったのだろう。20歳で、同じ年の女性とすぐ結婚した。早く幸せな家庭を築きたい思いが強かったのだろう。その思いが強すぎて、逆に食い違いが生じで、前妻とは妊娠がわかったころに
不仲になった。産まれた絹子は、兄夫婦に養子に出して別れた。
 その後、壇蜜の祖母(隆子)と結婚した。
000107_2 多分離婚問題で悩んでいる最中、隆子(19歳)はアルバイトで、正悟の事務所に勤めた。その隆子の指導と世話役を正悟が任された。一年も勤めたのだろうか。設計図を描いたりする仕事の指導を受けていたが、隆子は苦手だったという。

 そのうちに、正悟は離婚したと聞いたが、隆子はアルバイトをやめて、没交渉であった。用事で隆子の家に訪れて要件を果たしたあと、暫くおしゃべりで盛り上がったという。それからも、度々彼女の家に寄って話して行った。が、そのうちに、「結婚してください」と告白をして、彼女から承諾を得た。000089 離婚を経て、幸せになった彼だが、前妻との間の子絹子を気にしていた。後年、兄夫婦の家を訪れて何かと買い与えている。それは、正悟の手帳に書かれた言葉でわかったが、この手帳は仕事のことが書かれているのだと思って、40数年間、隆子は覗いていなかった。000107_3 絹子も、正悟を父とは思わなかったので、幼い彼女を相手にからかって遊んでくれた程度の意識しかなかった。
 手帳の中の父は、自分のような淋しい思いをさせたという罪滅ぼしの気持ちを持っていたのだと、絹子は気付いた。もう亡くなってしまったからどうしょうもないが、父正悟を見直すと、目に涙をためて語っていた。
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 手帳には、几帳面な文字で、子供と過ごせる幸せを繰り返し書いていた。(二番目の)妻隆子にも、感謝の気持地が綴られていたので、それを見て、隆子は胸の抱きしめて涙ぐんでいた。隆子が子どもの洋服を作っていると、それをじっと眺めているのだった。
 その幸せは短く、彼は40歳で糖尿病で急に亡くなった。

000095 正悟30歳のとき、東京から一通の手紙が来た。それはまだ会ったことがない姉からだった。多分姉は10歳くらい上だっただろう。姉が養子(愛知)に出されたことは知ってはいたが、もう会えないものとあきらめていた。養家を出て、東京で芸者をやっていると書いてあった。妻の隆子は、ぜひ行って会ってくるように勧めた。
 その後写真を交換し、上京し姉と上野駅で会た。姉は浅草とか、隅田川べりを案内し、弟の食べたことのないものをご馳走した。正悟は帰ってきて、妻隆子に「姉は美人だった」と言っていた。度々隆子も伴って
上京したので、隆子にも他人の気持ちではなかった。
 正悟は(糖尿病)昭和45年、40歳で亡くなったが、生涯独身の姉も亡くなった。無縁仏になるのはかわいそうと、隆子が引き取った。000207
 それで、祖母の隆子は、淡々と語っていたが、000120 夫が早く病死し、残された子ども三人、長男正博、長女昌子、次女久美子を育てるために必死になって働いた。バー(スナック)を開き、それ以外にも、保険の外交だとか、パートにも出ていた。スナックの料理は、手作りであらゆる品を作って・・・。「私が働くしかなかった」と語り、当時はテンテコマイだったようだ。
 自分には、手に職がないゆえに苦労するから、手に職をつけなくてはと、長女昌子(壇蜜の母)には、(自分の苦労をさせまいと)くどいほど言った。長女昌子は東京へ出て紙問屋に勤めながら、夜間の保母養成学校へ通った。三年間で卒業すると、保母になった。

 ツアーコンダクターの父親と保育士の母親は結婚した。 昌子は、父の命日に合わせて秋田へ帰っての帰りの東北線の車中で知り合い、つまり、祖父の導きだった、と母は語る。
000136 その後、幸せな結婚生活が・・・過ぎて、現在は、出会いをNHKの取材に、夫をつつき、いい風に語るよう、促すアタリは、000159貫禄の肝っ玉母さんだ。色白の子で・・・と夫英夫は汗をかきかき語る。出会った当時は、彼は細身で昌子は少しふっくらした(卓球の)福原愛に似た少女だ。
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この二人に子どもができると、仕事復帰には悩みが出た。000143 しかし、祖母は、娘昌子が保母の仕事をやめないように、秋田のスナックを閉店して、東京に出て同居した。
 赤ちゃんの壇蜜と一緒に暮らす祖母は、幸せだ。 秋田の風習か、一升モチを背負わせて、
壇蜜が歩く姿は、000144 祖母にとっては最高の幸せを得たのが目に浮かぶ。

000213 父英夫は「2馬力のエンジンで働くから、我が家は安泰」と、祖母を我が家の一員として受け入れた。
 壇蜜は、幸せに進学して・・・ 昭和女子大学で英語科の教員免許を取得したが、自分が教師には向いていないと自覚して、
000148次に専門学校で調理師免許を取得。和菓子工場に勤務したのち、銀座のクラブでホステス。自分の心に納得がいかず、次に、知人の死をきっかけに冠婚葬祭の専門学校「日本ヒューマンセレモニー専門学校」へ通学。時に27歳になっていた。000154遺体衛生保全士資格(民間資格)を取得。

 この死者の化粧する作業着を家に持ち帰ると、母は、娘が持って来た白衣をバケツを外に置いて、不浄なものはそこへいれるように指示した。
000155 不浄の仕事をしている娘を、何でそんなことをするのか、受け入れることが出来ない自分がそこにいた。
 ある日、「“凄くキレイ、ほんとうによかったです”といわれたよ」っていったとき、ああ、人のためにちょっとはなったなって、娘を一人の人として認めてあげないといけないと母昌子は思った。
 次に、モデルとして雑誌の掲載されると、そこまで過激なポーズをとるのかな、と思うんですけど、むしろそこまで自分を出せる娘は凄いんじゃないかと思って。」と
 母は、それ以後、娘の応援に回った。

 娘は、モデルになって雑誌に載るようになっても、黙っていたので、父は、ゼンゼン気付かなかった。ある日、歯科医の待合室で、雑誌を開いて見ていた。000166 壇蜜という女優の過激なポーズを見ても「ウチの娘に似ているな」と思って見ていた。コメント本名「齋藤支靜加」を見てビックリ。娘に父は「薄着で風邪をひくな」とメールを打ったという。この滑稽さは父英夫のキヤラか。

 壇蜜は、今自分をどう見ているのか?000180「私の親やその上の人達が、恵まれない環境の中で生きてきたのに、私は恵まれている。正反対だなって、最初は思ったんですけど、“今壇蜜として生きていく”うえで、“壇蜜として仕事できているのかな”って、何か足りない何か枯渇しているって、私の前の代の方々のように“ソレ”は共通しているなっと思います」

 この枯渇感は、「伸びよう、伸びよう」という意識。
 親やその上の人達が同じ
「伸びよう、伸びよう」という壇蜜の内心を垣間見たような気がした。戦う道具は、外見、裸だったりするけれど、女性は一番武器になるものを知っている。男も負けチャおれない。その意識あるのだろうか。

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