« 「馬医」は「トンイ」の李氏朝鮮、善悪、出世の仕掛けは同じ。 | トップページ | 花粉症の点眼薬と内服薬 その効果、 »

2016年3月17日 (木)

シベリア抑留 近現代史①マンガで知る基本知識

01 若い女性漫画家“おざわゆき”が自分の祖父から聞き取った事実を表現した画期的なマンガ作品。ちばてつやが“賛”を贈っている。

マンガ本の題名は「凍りの掌」(氷の手)と読ませている。零下20°、30°を表現するのに、“凍りの”と言わないと表せないが、とにかく、現代の日本からは想像しにくい世界だ。人間としての尊厳を吹き飛ばす環境にいたことは確かだ。
 
「凍りの掌」は、シベリア抑留の基本知識は押さえている。今後、多くの人に読んでもらえるように、願っている。

日本の将来は、シベリア抑留の記憶から 
日本人 ①勤勉 ②権力には弱い ③論争しない
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ブログランキングに★クリックお願いします★」
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います
 お気に入りに追加  ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

03 ①なぜ、日本兵が満州からシベリヤへ連行されたか?
 大きな理由として、規則や命令に従順な日本人の性格がある。
 ソレを見込んで、日本兵が
武器を引き渡し丸腰になった途端、彼らソ連軍は態度が変わった。
 
「ダモイ トウキョウ」と盛んに口にして、日本兵は外の見えない貨車にギュウギュウ詰め込まれた。その後、貨車に
乗せて北へいく。韓国の釜山から行くなら、南下するのが普通。それに疑問に思わないように“釜山は戦闘で破壊され使えない”という。常にウソを聞かされ・・・半信半疑でいるところを「ダモイ、ダモイ」と聞かされた。ダモイ=帰国のロシア語。

日本人の特色(イワン・コワレンコKGBの日本人観)
①集団主義の国民、勤勉な国民
②日本人は約束すれば、それを実現するために遂行する。文化的にも高いが、権力には弱い
③この国民性は、日本人管理に役立った。日本人はまず論争を一切しない。命令には「はい、そうですか」との返事以外は聞いたことがない。
④「日本人は強く出れば、引き下がる」という。
 (コワレンコの自伝「対日工作の回想」 )
04②貨車から下りて海を見ると、日本の船で帰るのだと思っていたところに、ソ連の船だ。ドイツ人なら、「だまされた!」と大騒ぎになるところだが、日本人の優しさだろう。従順にソ連の言い分を聞いてしまっている。

③ソ連と日本はどういう取り決めをしたか、さっぱりわからないのが事実である。日本の参謀本部からソ連に抑留の取り決めをダレか、やっているのだが、正直にダレも戦後70年経っても告白していない。
05 ソ連のシベリア開発に労働力として、抑留日本人を利用しようとスターリンが号令をかけたということになっているが、それが事実か、はっきりしない。日本人代表が“日本人抑留”の言質を与えたのではないか。日本兵の抑留前に、大本営の代表として瀬島龍三がクレムリンへ行って話し合いをしている。
 向うのペースで話し合いになって、瀬島龍三は囚われの身になっている。

不毛地帯(山崎豊子)主人公モデル瀬島龍三
「不毛地帯」主人公壱岐正=瀬島龍三の経歴

  瀬島龍三は、1945年7月1日、関東軍作戦参謀に任命され、満州へ赴任。
 日本の降伏後、8月19日、ジャリコーウォでソ連軍と停戦交渉を行う。日本側は、関東軍参謀長秦彦三郎、瀬島作戦主任(中佐)、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第一極東司令官キリル・メレツコフ元帥、同会議委員シュチコフ大将であった。
 このとき瀬島は軍使であったので、内地に帰還することは可能であったが、同年9月5日、関東軍総司令官山田乙三陸軍大将や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。
 この交渉の際、“日本人労力提供について密約が交わされた”という説が伝わっているが、瀬島は否定している。 
 その後、瀬島はシベリアで11年間抑留された。
 本来将校である捕虜は、労働の義務のないにもかかわらず、強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。瀬島は後に「佐官が左官になった」とシャレとして述懐している。

 ④何もない場所、あるいは壊れかかった建物を日本人で自分たちの収容施設を作って、監視された。もちろん収容所はたくさんあるから、それぞれ収容所によって事情が違うが。ソ連の属国(モンゴルなど)のような国で収容された場合は、案外ラクであったという人もいる。06⑤日本人は、器用で真面目に仕事をするという評判がある。徴兵される前は大工だったとか、左官屋だったという人がいると、彼の下で仕事を覚えて、にわか大工や左官になって、結構いい仕事をしている。09⑥シベリアの寒さには、日本人は体質的に合わないようだった。ロシア人の寒さに強いのは驚く。08 毎日、食い物は少なく、重労働を強いられて体力は衰弱していった。前の晩には元気だった仲間が翌朝は死んでいることはよくあった。07⑦日本の事情を知りたいということから、ソ連の肝いりで「日本新聞」が発行された。内容は、日本はアメリカの属国になっているから、それをソ連のような共産主義の国にするべきだと、思想教育が始まった。110212 そうすると、ソ連の思想に迎合する輩が、日本人リーダーになって思想教育を始めた。それをアクティブと言って、積極的な人が“優先的に帰国できる”という吹き込みがあって、いっせいに左翼思想に踊らされ始めた。
⑧赤化思想教育が収容所全体を包み込み、つるし上げが始まった場所もあったようだ。
1713 それが行き過ぎ、全員でイジメ、真冬の雪中に木に縛り付けて、死に瀕する(有名な)“暁に祈る”という処刑を行った事実が、抑留者が帰国後、国会で問題にされた。

⑨帰国が近づくと、最後までアクティブの幹部が、最後まで帰国者の思想をチェックした。16そして、船に乗って出航後は、今まで我慢していた連中が集団で、ソ連の背景がなくなって、船の中でアクティブ連中に殴りかかる事件もあったらしい。18 一方で、赤化左翼思想を信じた帰国者が、下船後、労働歌を歌って集団で行進する写真が新聞社によって撮られている。19 ソ連に収容されている間に、日本はアメリカによってヘンな国になっているから、帰国したら労働者中心の国家に作り変える必要があると多くの帰国者は信じていたらしい。すぐさま、共産党へ入党申し込みに行った人もいるらしい。それも数年後には、日本の現状に気付いて・・・覚めたという。

 そんな事情で、ソ連からの帰国者は思想的に赤だからと、企業に就職できない人が多かった。帰国のため、積極的に赤の思想を纏って
アクティブ活動したが、それが溶けるには時間が掛かった。

  シベリアで重労働と栄養失調で、帰国した人は、故郷についてからは体力を回復するには、数ヶ月から半年は、病人のように寝付いていたという。義父の場合、30代で帰国しても、衰弱していたから、それ以上の年齢の人はもっとダメージが大きかったはず。

●昨日の深読みベスト5
集団暴行容疑者 腰縄をはずし、逃走:20u
「綴り方」天才少女豊田正子の作文とその後:16a
「世界の村で発見 日本人」葛根廟事件 14
最後のサラメシ 43年の締めくくり 日替わりランチ:14a
婚活中、彼の誕生日、遠出ドライブ、どうしたら?:13

●是非読んで頂きたいベスト1
シリアの日本語教室からドイツへ移民:8

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ブログランキングに★クリックお願いします★」
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います
 お気に入りに追加  ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

|

« 「馬医」は「トンイ」の李氏朝鮮、善悪、出世の仕掛けは同じ。 | トップページ | 花粉症の点眼薬と内服薬 その効果、 »

ロシア問題」カテゴリの記事

戦争」カテゴリの記事

日本近代史」カテゴリの記事

死の招き」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「馬医」は「トンイ」の李氏朝鮮、善悪、出世の仕掛けは同じ。 | トップページ | 花粉症の点眼薬と内服薬 その効果、 »