「代表的日本人」五人日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛。 内村鑑三
内村鑑三が選んだ「代表的日本人」5人、時代順には日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛となる。これを内村鑑三は逆に並べて一冊とした。
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内村鑑三は、無教会派のキリスト教信者である。ほぼ一生をキリスト教に埋没しつづけた人が、日本の代表をこのキリスト教とは関係ない人物を選んだのか。 このことについては、本書「代表的日本人」のドイツ語版のあとがきに内村自身がこんなことを書いている。 “私は、宗教とは何かをキリスト教の宣教師より学んだのではありません。その前には日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の神髄を教えてくれた。
何人もの(中江)藤樹が私どもの教師であり、何人もの(上杉)鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの(二宮)尊徳が私どもの農業指導者であり、また、何人もの西郷(隆盛)が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人に平伏す前の私が、形づくられていた。”
注釈:召されてナザレの神の人に平伏す=キリスト教を信仰する。
内村鑑三は札幌農学校に第二期生として入学すると、クラークらの強い感化力によって、第一期生はキリスト教に改宗していた。
初め内村は、(キリスト教に)改宗を迫る上級生からある信仰の押し付けに反抗していた。同期の新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついに「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。積極的な形ではなかったが、その後、急激に信仰にのめり込んだ。
そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。
明治11年(1878年)6月2日には、アメリカ・メソジスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。
在学中、内村は水産学を専攻し、明治14年(1881年)7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業。その後、北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当。勤務の傍ら、札幌に教会を立てることに奔走した。翌年に南2条西6丁目の家屋を購入し、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立。また、明治14年(1881年)10月に結成された札幌YMCAの副会長になった。ほどなく伝道者になるために県に辞職願を提出し、公務員の仕事を辞めた。
その後、明治16年(1883年)夏に安中教会を訪問した時に知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って明治17年(1884年)3月28日に結婚。しかし、半年後には破局離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑と言われている。浅田タケとの結婚が破局した後、両親と友人の勧めにしたがって、明治17年(1884年)に私費でアメリカに渡り、11月24日にサンフランシスコに到着する。
明治の初め、新日本の国民である人々、内村鑑三、新島襄、新渡戸稲造と宮部金吾にしても、20歳そこそこだろう。彼らは大人びいて、一人前に行動している。ただ、一気にキリスト教の信仰に飛び込んで、迷いがないように見える。
これでも、キリスト教に入るまえには、儒教について父親などに教えられているが、
内村 鑑三(うちむら かんぞう、万延2年2月13日(1861年3月23日)- 昭和5年(1930年)3月28日):日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。
無教会主義の教会ってどんなものかと思って、酒枝義旗教授の「待晨集会」(中野区鷺宮)ヘ行ったことがある。先生の説教が一時間以上、真剣に語る姿勢は分かるが、信仰の浅い学生にはきつい時間だった。誰一人ムダ口もなくシーンとしていた。
日本キリスト教会という組織の牧師と違って、地に根をはっている信者の真剣さを見た思いがした。
万延2年(1861年)、江戸小石川の武士長屋で高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として生まれる。三度自己を鑑みる意味で父が「鑑三」と名付けた。鑑三が5歳( 慶応2年1866年)頃、父宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。 「代表的日本人」五人の中の一人、中江藤樹を取り上げてみる。
中江 藤樹(なかえ とうじゅ、1608年4月21日(慶長13年3月7日) - 1648年10月11日(慶安元年8月25日))は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。
農業を営む中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛)に国替えとなり祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)祖父が死去し、家督100石を相続する。
1634年(寛永11年)27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)で、私塾を開く。これが、藤樹書院である。 1637年(寛永14年)伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになる。塾の名は、藤樹書院という。
やがて朱子学に傾倒するが次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。
1646年(正保3年)妻・久が死去。翌、1647年(正保4年)近江大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚する。 1648年(慶安元年)藤樹が41歳で亡くなる半年前に藤樹書院を新築した。 その思想は、時代を超えて西郷隆盛の思想となったと言われている。 その思想は、時代を超えて西郷隆盛の思想となったと言われている。
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