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2015年11月17日 (火)

半藤一利「母を語る」100歳まで生きた男勝り、NHK深夜ラジオ

Photo 母は頭のいい人で、しかも死ぬまでボケることもなかった。
 やる気のある人だった。女学校卒業したのち、お産婆さんになろうとして、御茶ノ水の近くにある産婦人科病院のお産婆学校に通って助産婦の資格を得た。産婆という手に職を持って、ウチの父親と結婚した。(NHK深夜ラジオのダイジェスト)

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 両親から「二人は、どうして知り合ったか」詳しい事を聞こうとすると、「ナナン、知らんぜ」と口を濁していた。
 父親は海軍の兵隊を病気で辞めて、恩給に年数が足りないから群馬県の警察官になった。そういう公職(伯母)につくと恩給の年数不足が補充される。群馬県に母のお姉さんが嫁いでいた先があり、「(私の)ソバにいいおまわりさんがいて、いい男だから、どうだ」と言って、妹に紹介しんじゃないか、と(想像している)。それ以外は考えられない。
 

 二人は、墨田区、当時そこは田んぼと畑だらけのところに所帯を持った。私は昭和五年1930年の生まれなんですが、東京府下南葛飾郡大畑村字吾妻の生まれ。東京子、江戸っ子といいますが、田舎っこである。80808 東京府南葛飾郡大畑村吾嬬(あづま)は、表示変更で向島区吾嬬町になり、現在は墨田区八広。こんにゃく稲荷と呼ばれる三輪里稲荷神社の前に家があった。
 近所の原っぱで相撲を取っていると、3つか4つだった王貞治さんがやって来たが、彼は“うっちゃり”ばかりやるので「敢闘精神がない」とコツンとやりました。後年、王さんに話しても覚えていないようだった。
 

 父は東京で商売を始めたが、母親はヤマトナデシコとは違って自分から何かをやる人で、亭主に食わせてもらうなんぞはとんでもない。「私は自ら働く」といって、そこで産婆さんを開いた。墨田区八広、宮里稲荷神社(通称こんにゃく稲荷)の前に家をつくり、そこに産婆の看板を上げた。
 時々、その近くへ行くと、「私はお母さんに取り上げてもらった者です」という人が五、六人います。とにかく、産婆さんの看板を上げて働き始めた。男勝りだったのでしょうね。
 

 当時としては、私には子供心にはおっかなに母親でした。勉強しろとか、そういうのではなく、こっちはすごいイタズラ小僧で、悪い事ばかりしていましたからね。長男ですが、大事にされた覚えはないです。次男、長女、三男と二つおきに昭和7年、昭和9年、昭和11年生まれたのですが、みんな二つか、三つで、みんな風邪引いて肺炎を起こして死んだ。私だけ生き残っている。
 
 その頃は、赤ちゃんは夜中に生まれるのかと思うくらい、夜中に生まれていました。
 そうすると、ガンガンと家の戸を叩いて、
「先生、先生、生まれそうだから、すぐ来てください」と、毎晩夜中にたたき起こされ、母親が出て行ってしまう。その後にウチの赤ん坊(弟、妹)が残るわけです。赤ん坊が布団をはいで裸で寝ていても、私は子供だから知らないで寝ているし、困ったことに、ウチのオヤジは大酒呑みで全然起きない。次から次と、生まれて死に、生まれては死にと三回やった。
 
 ついに、オヤジと母親がすごい大喧嘩になり、つまり「オマエがいい気になって、“名産婆”だといわれて、夜中に行って自分の子どものことをすっぽかしているから、みんな死んでしまうのだ」、と。母親は負けずに「ナニ言ってんだ!オマエさんが毎晩酒なんか飲んでいるからだ」
 
 その頃、半藤産院は、助手さんが三人もいる大きな産院になっていたが、三人目の弟が亡くなったとき、父親と母親がまた大喧嘩した。二人で大喧嘩、何べんもやっていました。三人目を亡くしたとき、さすがに母親も、ふっと思ったのでしょう。スパっと半藤産院を辞めた。
 一番上の助手の人に半藤産院を譲って、「私は引く」といって、まだ三十代だったと思いますが、辞めた。
 

 それから、子供3人を次から次に生んだ。
 私は10歳違いの弟がいて、2歳違いの妹がいて、2つ違いの弟がいる。本当は7人兄弟ですが、真ん中の3人が抜けている。
 長男の私だけ一人は生き延びたのは、その頃は、産婆さんがはやっていなかったから、母も夜家にいたんじゃないですか。私が三つか、四つになったころから、「生めよ、増やせ」で、ものすごく出産が多くなった。
 私も覚えていますが、毎日のように、家の戸を「ガンガン」と叩いて、母は呼ばれて出かけていた。名産婆と言われるくらいの産婆だったのです。
 

 昼間は家のことはちゃんとやっていた。お料理、家事はほかの人に任せることはなかった。助手さんがいましたが、産婆の助手でお手伝いさんではなかった。間に合わなくて、お手伝いさんが入ったが、それまでは自分でやっていた。
 弁当でもなんでも、母親の作ってものを持って行っていた。茨城県の味付けですから、ちょっと味が濃いですね。父親は新潟県ですから、もっと濃いですね。今私の家は、塩気のない薄い、ウチの家内(末利子、妻=夏目漱石の孫)がものすごい健康に気を使っていますから。子供のころは、どれでも、物凄いしょっぱくて食えないような味付けで食べていました。
 着るものも、母親が縫っていました。

 

 勉強やれとかは一切いわない母親でしたが、小学校一年生のときに、手ぬぐい一本肩にかけていると裸ではないと主張して、母親にこっぴどく徹底的にやられました。
 勉強はいい成績だったが、操行(行儀作法)はいつも丙だった。父親は、「中学を受けて落ちたらすぐ奉公に出すぞ」と成績表を見て叱った。向島あたりの小学校では、卒業するとすぐ奉公へ出る子供は多かったから、「奉公に出す」といわれたときは、さすがの私も、「奉公だけはなんとか勘弁してもらって中学へ行こう」と思っていた。「オマエの操行では入れない」との父の言葉はずっしり来た。
 あのころは、筆記試験がなくて、内申書と口頭試問で入っていたから。それで、私は先生に「操行がなんとかなりませんか」とお願い行った。「そういう態度が、操行が悪いのだ」といわれた。「なにも言わないで直せば、乙にしてやる」といわれた。

  小学生の頃、戦争が(昭和16年)始まりました。
 世間では、日本軍は勝つ勝つとやっていましたが、父親は一般の大人のように褒め称えていませんでしたから、さすがに母親も心配しまして、当時憲兵とか、特高警察が聞きつけて、ないかがあると困ると思って、母は父親を区会議員にさせた。
 これは不思議な発想で、自分は産婆は辞めたが、父を区会議員にすれば、名誉職だから万が一のときにいいだろうと思って、俄然母親が活動を始めて、元産婆は人脈が広く、顔が利くから、エネルギッシュに出歩いて選挙運動した。小学校五年生ころには区会議員に当選し、戦争が終わるまで区会議員でした。
 

 太平洋戦争が始まったとき、外では言わないがウチの中で、「この戦争は負ける」と「こんな世界中を相手にする戦争を始めて、勝てるもんか」と言っていた。私の記憶では三回ですが、密告されて警察に踏み込まれ、警察に連れていかれた。しかし、すぐ帰って来られた。(名誉職の)ご利益があったのですね。
 父親は区議にはあまりなりなりたくはなかったのだろうが、母は、近所の名物の母親で、選挙運動はすごかった。ずっと父は名誉職をやっていた。
 

 昭和19年に疎開をしろということになり、弟妹の三人は私と10歳違いですから小さいので疎開の対象であった。母は「どうせ死ぬなら親子みんな一緒に死にたい」と言ってたが、父親は、「そんなのはとんでもない。子供達を戦争で殺すことはない、親の責任だ。疎開したほうがいい」ということで、母親と三人の弟、妹、弟は昭和19年の春、茨城県の母親の生まれたところに疎開した。東京に残ったのは父と14歳の私だけ。 

 あの頃は、男は数え15歳~60歳(女は18~40まで)までは国の為に尽くさなければならないから、疎開の対象ではなかった。私は対象外で中学に入っていたから、東京にオヤジと残った。
 オヤジは「(命を大切にして、火災を)消すなんて考えないで逃げろ」サンザン言ってましたが、オヤジの言い分はわかっていましたが、“この国は負けてなるものか”と思っていた。「消せる」と言われていましたから、焼夷弾がバアーと落ちたとき、必死に消していたら、逃げ遅れてしまった。火と煙の追われて、追いまくられてドンドン、ドンドン逃げざるを得なくて、川に向って走った。中川と隅田川とどっちかですが、私は中川にぶつかった。私は左へ行ったから中川に行ったから助かった。一緒に行った人で右へ行った人はみな隅田川、隅田川へ行った人は焼け死にました。私は中川へ行って、中川に落っこちて、焼け死ぬのでなく、溺死するところだったが、引き上げてもらって助かった。

 火災で家がなくなり、母親のところへ疎開した。
 茨城の母親とみんなのいるところに帰ったのですが、母親が(私は帰って来ないから)死んだと思っていたらしいですね。茨城の実家に着くと、ええっという顔しましたが、泣きませんでしたね。「ああ、生きていたの」という調子だった。
 茨城県は飛行場があるせいか、物凄く敵の戦闘機が乱舞していた。茨城県、千葉県周辺は。父は、新潟県のほうが安全だからそっちへ行こうということになった。一家揃って新潟県へ疎開した。
 20年3月10日に東京でやられているのですから、3月から7月まで四ヶ月茨城県にいて、7月16日か17日に新潟県に移り、終戦を新潟県長岡で迎えた。軍事工場で終戦の詔勅ラジオ放送を聞いた。
 家に帰ると、母親は畑仕事をしていた。ボクの顔を見て「負けちゃったね」とあっさりと言っていた。あまり母親はショックではなかった。ところが、父親がえらいショックだった。普段から、負けるとか、愚かな戦争だといっていたクセに、負けたのはえらいショックだったみえて、腰抜かしたような生きる気がなくなったように、全然やる気なくした。腑抜けになってしまった。
 

 戦争が長く続くと思って、新潟県の疎開してきて、お金があったのでしょうね、家一軒を建ててしまった。
畑も自分たちが食べるくらいの畑もあった。母親も畑を耕していたから、大根、ニンジンとか、いろんなものを作って生活には困らないようにできていた。そういうことで、父親がそういう虚脱して、やる気がなくなってしまった。それははっきり覚えている。
 母親は「あなたはそれでいいかもしれないが、(私や子供を指さ)この子たちのためには、こんなんじゃダメだ。(特に私を指して)一利は上の学校に行けるくらい頭のいい子の育っている。(私は、頭のいい子に育っていないですけど)上の学校に行かして、下のほうだって、これからどうなるかわからない。」と、父にタンカ切って、とうとう、母親が昭和20年12月暮に、「一人でも、この子達を東京へ連れて行く」と、一人で東京へ出て行って、正月10日過ぎに帰ってきて、「東京に家を建てきたから」という。とにかく、すごい行動力だった。
 「掘立小屋だけど、親子で住むには住める家を建ててきたから、さあ行こう」という。父は「オレは行かない」という。母は「下の三人を連れて行く」という。父はそこまでやられてしまうと、男はだらしないですね。女には叶わないですね。「オレも行く」と父も東京へ行く事になった。
「一利はどうする?」と言われ「オレは面倒くさいから、長岡中学が気に入ったから、長岡中学を卒業する。だから、一人でこの家に残る」それで、長岡中学卒業するまでこの家に残ることにした。近所の戦争未亡人の方に下に住んでもらい、食事を作ってもらい、二階に一人で暮らし通学した。
 

 長岡中学卒業するまで一人で住んだことは、却ってよかった。
 新潟県は当時は豪雪ですから、することがない。冬は11月くらいからミゾレが降ってきて、3月までは雪の中で、ホントのすることないから、勉強ばかりしてしまった。することないから、勉強したというはヘンですが、すっかり秀才組に入ってしまった。私一人残ったばかりに、同級生に松岡君がいて遊びに行くと小5くらいの妹(末利子、妻=夏目漱石の孫)がいた。
 

 その後、父はむりやり東京の戻って働いたが、大酒呑みだから、47,8で亡くなった。
 母は父親の始めた仕事を引き受けて一人でやりだした。下の弟、妹は10歳違いだから小さいので、この子たちを大学卒業するまではと、死に物狂いで働いていた。下の弟が家業を継ぐことが決まっていたが、母は元気な人でしたから、90歳まで事業を仕切っていて弟に譲らなかった。
 仕事を辞めたあとも、母は何かをやっていないといられないから、90から詩吟を始めた。詩吟に熱中して、師範に近いレベルまで極めていた。詩吟が健康にいいらしく「私は100歳まで生きるよ」と言っていた。
 私が「そんなにムリしないでいいよ」と言っていたが、実際100歳まで生きて、小泉総理のころ、金杯と賞状を貰った。それから、ぽっと自分で死ぬことにしたのでしょうね。百まで生きて望みを達したと思ったのか、もう「生きよう」としなかった。
 

 子供達の行き先も分かったから、病院でもうモノを食べなくなった。「少しは食べたほうがいいじゃない?」というと、黙って知らん顔していた。百歳と四ヶ月くらいで、望みを達したのではないですか。 

 父親は戦争に負けて虚脱してしまいましたからね、母親の闘志を見せないと、東京へ出てくることはありえなかったでしょうね。男勝りの自分の思い通りのことをやるんだということは、見せ付けられると、アレには叶わない。

 庶民の昭和史の原稿800枚の大作を書き終えたという話もされていたので、出たら読んでみようかな・・・半藤さんは85歳というが、まだまだかくしゃくとしているので安心した。

戦争を含めた歴史に興味を持ったのは、
 中学二年生でしたが、焼け跡にたって、ぼーっとしているとき、日本はどうしてこんな戦争をしたのかと思った。文藝春秋社に入って、編集者になって、名刺一枚で誰とでも会えるいい職業についた。まだ、戦争経験者が多く生きていましたから、戦争当事者や責任者が。会いに行くという事を始めたら、非常に面白くなって・・・。


ソ連が満州に侵攻した夏(半藤一利)① 
ソ連が満州に侵攻した夏②“日ソ不可侵条約”  

●昨日の深読みベスト5
ソフトバンク米国社債「おトクですよ!」大和証券 : 25
笑ってこらえてチョット昔の旅 世界自転車の旅: 16
キルギスの略奪結婚、女性の人権を支援:15u
代理出産問題 日本の現状 今後どうする?: 14
島倉千代子「この世の花」「人生いろいろ」咲き乱れ:14
山口あいりちゃん虐待死事件(横浜市磯子):14u
瀬戸内寂聴:どうしたら、いい女になるか :14u
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