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2015年9月23日 (水)

天狗党の末路、横田元綱の墓、彼らの行動は今どう評価する?

 岐阜県中津川市に、実戸を“さんと”と読む場所がある。昭和21年ころ、西生寺の墓地が、その実戸にあって、母の墓へお参りの帰り道、歩いていると、広い敷地にぶつかった。(移転前の話し)
 平らな砂地にしっかり囲って「横田元綱」と書いてある墓碑があった。なにか特別な場所に見えた。しかし、特別感は感じるが、小1の私には、誰の墓か、見当もつかなかった。あれから、幾星霜
02178というと大げさだが、やっと天狗党の浪士の首塚だとわかった。

 「横田元綱」の塚は、今は移転して、中津川駅からまっすぐ上って、中央道のバイパスと交差するところに移転している。小さく片隅に追いやられた印象である。
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 天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、明治維新のたった四年前、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵し、水戸藩内外の尊皇攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。Tw  (茨城県)水戸藩第8代藩主・徳川斉脩が没し、次期藩主の斉昭擁立、水戸藩内は、激派武田耕雲斎が執政となって、藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。このまま進めば、長州、薩摩と並んで、尊王攘夷で明治政府の中心になれたはずだった。
 翌文久3年(1863年)3月、一橋慶喜が上洛に際し、実家水戸藩から、藩主徳川慶篤に武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎など、後の天狗党の乱の中心メンバーが従った。小四郎らは京都において、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものにした。
 

 幕閣内の対立などから横浜鎖港が一向に実行されない事態に憤り、藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、幕府に即時鎖港を要求するため、非常手段をとることを決意した。元治元年(1864年5月2日)、66名で筑波山で兵を挙げた。

 当初は無理やり軍資金を集めたり,乱暴を働いたりして、人々の反感をかうことがあった。そのため、一行は規律を厳しくし、泊まった宿にはきちんと金を払って、そうして整然と木曽路を通過していったと、島崎藤村『夜明け前』には書かれている。
Photo
 伊東潤さんの「義烈千秋」にも、天狗党の行動は書かれている。特に、加賀藩に投降してから幕府の田沼玄蕃が到着してからの厳罰には、容赦ないものがある。

幕末の連絡不行き届きなど、齟齬があって、助けられる命を殺している。内戦の結末もひどいものだ。
また、中仙道の中津川には、天狗党に理解があって、手厚く接待をして五平餅、きしめんを食べさせた。町の有力者が平田国学の仲間で、横田元綱の墓碑があるが、このことは、作者の耳目には届いていないようだった。

 京都の将軍慶喜へ訴えることを主目的にして西へ向った。その途中に、上州下仁田(群馬県)と(長野県)信州諏訪湖近くの和田峠で、幕府の指示で途上の藩が兵を出してきた。 

 上州下仁田(群馬県)において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦した。(11月16日)激戦の末、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走した(下仁田戦争)。
 また、11月20日には(長野県)信州諏訪湖近くの和田峠において高島藩・松本藩兵と交戦。双方とも10人前後の死者を出したが、天狗党が勝利した(和田峠の戦い)。
 

  そこで、中津川の有力者(国学者平田派)が天狗党に肩入れいていた事実がある。
 また、長州の藩主毛利敬親が中山道で京都に向う途中、桂小五郎(木戸孝允)が待ち構え、藩の方針を尊王攘夷で倒幕に転換させた中津川会議があったといわれる。これも、平田国学の同士中津川のインテリ層が応援していた。
 

 「横田元綱」は、元治元年(1864年12月18日)水戸浪士ら(天狗党)の謹皇倒幕参加し、ここの和田峠で高島藩・松本藩兵と交戦。元綱は敵の首級2つを取ったが、敵弾を受けて重傷を負う。これ以上同行出来ぬと悟り、父に介錯を頼んだが、父は己が手を下すに忍びず、同門の松井四郎に介錯を依頼し切腹した。(18歳)
 「横田元綱」の父は首を渋紙に包んで、天狗党の一行と伴に中山道を西上し美濃国の中津川宿へ到達した。

 中津川宿は、当時平田篤胤による平田国学が盛んな尾張藩領であった。天狗党が中津川宿を通行することは、既に伊那谷の平田門人から中津川の平田門人に連絡されていた。
 中津川宿の平田国学者市岡殷政は、尾張藩の許可を得て、天狗党最高幹部の武田耕雲斎、藤田小四郎、田丸稲之衛門、山国兵衛達を中津川宿の本陣に入れてもてなし、その他の天狗党一行も中津川宿の人達から歓待を受けた。
 

 中津川宿に入って浪士たちはびっくりしました。
 何故かと言えば、これまで通ってきた宿場では、幕府側からのお触れが行き渡っていたから、「天狗党」と聞いて女子供はすべて逃げ出し、宿になった家の者たちも恐怖の色を浮かべていたのである。このときの様子は、中津川宿に居あわせた京都呉服商伊勢屋久兵衛が送った手紙に残されている。
   
 中津川宿では、町人全員が本陣の辺りに集っていた。そこでは「天狗党」の隊員に五平餅が出され、きしめんが用意されていた。五平餅は「御兵もち」、きしめんは「義士めん」と書かれて、住民は歓待した。
「さあ食べて、食べて」
 その声を聞いて、天狗党の面々は感激したと伝えられている。    不思議に思い、目付役が騎馬で宿内を回って 「どうして中津川宿の人々は我々を歓待するのか」藤田小四郎に尋ねた。
「この(中津川の)人々残らず御同士(平田国学)の方々にて」と答えたという。
 越前で天狗党の浪士は全員処断されたが、その途中で天狗党浪士を歓待したのは、中津川宿だけ。浪士は、五平餅などで腹を満たしたが、それ以上に心が満たされた宿場であったと思ったに違いない。尾張藩の後盾を得ていたので、幕府も賊軍である天狗党を歓待した中津川宿を処罰することは出来なかった。
 
 和田峠の戦闘で戦死した天狗党幹部「横田元綱」の首級の埋葬を市岡殷政らに埋葬を依頼した。
 市岡は、その事が明るみに出れば自分にも咎めが及ぶことを覚悟で、密かに同じ国学者の間秀矩、肥田九印兵衛(通光/中津川庄屋)とともに、「横田元綱」の首を大泉寺に持って行き、市岡家の墓所に密かに埋めた。大正天皇即位の大礼が行われた際に、従五位を賜り大正5年(1916年)に墓碑が建立された。

http://sinsaku.access21-co.jp/17sonota-tengu.html

横田 藤三郎(よこた とうざぶろう1847-1864)
重傷を負い自刃した横田藤四郎の子/弘化4年、下野真岡の商人横田藤四郎太郎の三男として生まれる。小川郷校に学び、父や兄藤太郎らから尊皇攘夷思想の影響を受ける。医学を志し、真壁青木村の医家大和田外記の下で医術の基本を学んだ。元治元年、藤田小四郎の呼びかけにより、父と共に筑波山挙兵に参加。天狗党の西行に同行し、和田峠の戦闘で敵弾を受けて重傷を負う。これ以上同行出来ぬと悟り、父の介錯で切腹した。
変名:横田巳之助、横田元綱 墓所:中津川市中津川横田元綱墓



 天狗党一行は、伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み、美濃の鵜沼宿(岐阜市隣り)付近まで到達したが、幕命で彦根藩・大垣藩・桑名藩・尾張藩・犬山藩などの兵を出し、街道の封鎖したため、やむなく,天狗党は中山道を外れ北方に迂回して、越前・若狭(いずれも福井県)を回っていくルートをとる。
 すでに暦は12月。荷をつけた馬や大砲をひいて、雪におおわれた難所の峠を越えていくのは不可能かと思われたが,一行は奇跡的に峠を越え,越前に入ることができた。

 1万数千人ともいわれる諸藩の勢力がせまり,一行が新保(しんぼ,現在敦賀市内)という小さな村落にたどり着いたころには,一行をすっかり取りかこんでしまった。しかも,たのみにしていた一橋慶喜が,その追討軍の指揮を取っているという。

 天狗党の首脳は,ついに,先に進むことをあきらめ,新保のすぐ近くに陣をしいていた加賀藩に降伏した。京都へ向けて出発してから50日余り。一行の長い旅も終わりを告げた。
 

 降伏した天狗党の一行は,まず敦賀の寺に収容され,肥料用のにしん蔵に移された。火の気もふとんもないうす暗い蔵の中では,厳しい寒さと粗末な食事が原因で,20数人が病死した。 

 間もなく、江戸から出張してきた幕府の若年寄田沼意尊(おきたか、老中田沼意次の子孫)による取り調べが行われ、天狗党一行に対するきびしい刑が決められた。
・死罪…………352人。武田・藤田ら。
・島流し………137人。
・水戸藩渡し…130人。
 

 安政の大獄でさえ,死罪はわずか8人だけである。この類を見ない大量処刑に驚いた薩摩藩の大久保利通の日記に「このむごい行為は,幕府が近く滅亡することを自ら示したもの」と記している。 

 出身地の天狗党が壊滅した水戸藩は、保守系の諸生党が実権をにぎり,革新系の“天狗党”首謀者武田耕雲斎の一族をことごとく死罪にするなど、藩内の天狗党側の人材を次々と処刑した。 

 しかし、時代は大きく動いていた。
 薩摩藩・長州藩は討幕への動き、ついに幕府は滅亡する。
 水戸藩でも,天狗党側が実権を取り返し、諸生党側に対する血生ぐさい復讐が行われた。逃げ出した諸生党は、水戸城をめぐる戦いで敗れ、全滅してしまう。こうして水戸藩では、幕末の激しい争いの中で多くの人材が失われ、明治の新政府に、1人の高官も出せなかった。

 天狗党の人々が敦賀で処刑されてから、ちょうど100年後の1965年、水戸市と敦賀市は姉妹都市の提携を結んだ。それ以降、毎年両市の小学生の交流会が行われ、天狗党の悲劇を今に伝えている。


中津川市本町 歴史の鼓動
赤報隊 御一新、年貢半減 

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