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2015年8月17日 (月)

特攻震洋隊は“美しい国”のためより、新日本再建設に尽くせ

八月十五日、「ポッダム宣言の受諾で日本が降伏したと天皇が詔勅で語った」ということが、日本は負けるはずがない、そう信じ込まされたと洗脳された国民は、「負けるものか!」憤慨する向きは多い。これが軍人となると、始末悪いわけだ。
 それを“敗戦(ポッダム宣言の受諾)”を納得させる役目が案外いないところが、日本国民は命令なら守るが、(自国民を悪くいうのは辛いが)各自が理解するという点となると、判断力が弱い。

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 昭和20年8月の半ば、政府の先遣隊がマニラへ米軍進駐の相談に呼び出されていた。000254 まだまだ、戦争中の興奮は冷めていない人は多い。戦争中の軍人は、“日本が負ける”なんて選択肢はないから、負けたと聞いたら、動転する。戦争を止めるという選択肢のない人は意外と多いんだ。000195000224 政府と参謀本部の責任者は、終戦のプロセスを作るために四苦八苦していた。
 陸軍のトップにとっては、戦争を止めるということは、切腹と同義だろう。阿南陸軍大臣は終戦と同時に割腹自殺した。東條は収監のためGHQの車が来ると、
拳銃自殺を図った。(逃げの自殺ではなく、生きて全責任をとる態度を示してほしかったな)

 日本国内は、玉砕するまで絶対戦う分子がウヨウヨいて、今進駐軍のアメリカが来ては、大混乱になると政権側は思っていた。だから、米軍の進駐を遅らそうとしていた。
 しかし、アメリカは、ソ連が日本占領に一枚加えろと言って来ていたので、急いで日本Occupy占領を完了して、ソ連を排除したかった。
000264 ソ連の軍隊は、八月十五日は日本側の回答であって、ミズーリ号の調印までは、戦争中という解釈・・・で、どんどん占領地域を増やしていた。その辺の解釈が日本政府には理解が・・・なかったようにも見える。

 確か、厚木飛行場から、特攻機みたいなのが飛び出した。
 1945年8月15日に、厚木海軍飛行場で第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が起こした騒乱事件。太平洋戦争(大東亜戦争)での日本の降伏を受け入れず、連合国軍と徹底抗戦する目的で起こされ、米内光政海軍大臣、寺岡謹平海軍中将、高松宮宣仁親王が説得に当たるが納得しなかった。しかし小園がマラリアにかかり国立病院機構久里浜医療センターへ運ばれ、監視下に置かれ、8月20日にの菅原英雄中佐によって武装解除され、21日に反対者も、6日後に鎮圧された。青年将校以下69名も四年から八年以下の禁錮刑に処せられた。

 震洋隊という、自爆テロをイスラム過激派の戦闘手段になっているが、最初にやりだしたのは、日本の戦術。負け戦になると、若者を騙してその気にさせる手を上司は考えた・・・。
 というと、悪いことに聞こえるが、昔は「郷土を守る」「父母を安心して暮らせる“美しい国日本”のために命を捧げる」人たちがいた。今の青年みたいに「戦争はいやだ!」とは言わなかった・・・と、偉い議員が言っていたが。

特攻艇震洋 SuicideBoatの戦果: nozawa22
チャゲChageの父は18歳で「震洋」の特攻隊員

 第132震洋隊で隊長渡邊中尉の部下であった茂市さんを取材したからわかったことである。で渡邊中尉の部下であった茂市さんを取材したからわかったことである。000015 第132震洋隊は、海の特攻隊で全員が死をもって突撃をしようとする訓練を受けている青年たちだから、國に殉ずる多感な人たちだから、負けた日本を自分の責任くらいに思っていたかもしれない。
 ポッダム宣言の受諾した日、夜、混乱状態にあった隊員は砂浜に集まって、敗戦を受け入れるくらいなら、自決しようと行動を起こしかけていた。
 「自爆しよう」という話しもでた。具体的にいうと、震洋の船首にある250Kの爆薬で、それを爆発させて自決しよう!と話しが決まりそうだった。
 その夜は、まれに見るきれいなお月様が出ていた。みんな涙を流しながら、お月様を見て考えていたと思います。
 
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 そこへ駆けつけたのが渡邊中尉でした。中尉は涙を流しながら、語った。
「無駄死にするな。その力を新日本再建設に尽くせ。 最大限努力するのが唯一つの道ではないのか!」
 隊員たちはただ黙って渡邊中尉の話しを聞いていた。黙って考えた末、特攻隊員たちは納得した。自決を思い留まることにした。
 渡邊中尉の一連の行動が、15日以降、特攻隊員たちの張り詰めていた空気を大きく変え始めた。これは、半田中尉の第134震洋隊でも、同じように空気が変わったという。

 八月十八日、震洋幹部の一人(佐官)が船でやってきて
「最後の一兵になるまで徹底抗戦せよ」と迫った。
000123 この時、異を唱えた人物がいた。
 部隊を率いる渡邊國雄中尉である。第132震洋隊隊長。隊長とはいえ、20代の若者である。それでも、毅然と要求を拒否した。元隊員の証言に基づくと
「海軍は最後の一兵まで、敵と戦うんだ。敵が上陸してきたら、突撃して残った兵は剣山に武器を持って篭城する」(「黒潮の夏 最後の震洋特攻林えいたい」)

  これに対して、渡邊中尉は冷静にこう応えた
「それは少佐殿の個人の考えですか。それとも、司令の命令ですか?
 司令の命令なれともかく、何の連絡も受けていませんので、今日のところは、お引取りください」
000120 当時、渡邊中尉の部下であった茂市光平(87=当時17歳)はいう。上官の命令に背けば、罪に問われる時代、渡邊中尉の取った行動は、大きな勇気と覚悟が必要であったはずと考える。茂市さんは、当時の渡邊中尉のことを思い出すように目をつぶって語った。
「佐官と尉官のギャップがアル中で、そういうことが言えるということは、相当の気持ちを持って当たらないとできないことだと思うのですよ。すごい方だと思います」

 渡邊中尉は、昭和18年に慶応大学を卒業し、その半年後、海軍に入隊。第132震洋隊の隊長に任ぜられたの昭和20年5月である。茂市さんら若い隊員からの信望が厚く、温厚で気さくな隊長であった。
 おとなしい方でガミガミと言わないし、話しをするうときは向うから寄ってきて、話されますし、普通、一兵卒と将校さんでは、相当な〈身分の)開きがあるワケなんですけど、そんなことは感じさせない方でした。
000121 徹底抗戦を唱える上官幹部に対して、その命令を突きかえしたのは、第132震洋隊隊長渡辺中尉だけでなく、第134震洋隊隊長 半谷達哉中尉も同じ行動をした。第134震洋隊は、隊長半谷達哉中尉以下47名の部隊。配備されていた挺は「震洋5型(二人乗)」000037
Photoこの第128隊は、高知夜須だが、第134震洋隊は、土佐清水あたりを範囲としていた。

 軍の制度に詳しい吉田裕〈一橋大学大学院〉教授によると、渡邊中尉のような事例は全国各地にあったという。こうした指揮官たちに共通の背景があることに注目している。
 一番大きいのは、(士官学校等の兵学校でなく)一般大学出身の将校ということです。大正期の教養主義の名残りもあるし、厳しくなったとはいえ、自由主義的な雰囲気のあったなかで育ってきたこと。つまり、軍隊以外の世界を知って人たちですよね。現場指揮官の判断がそういうときには大きいですから、柔軟な思考のできる人たちだったので、敗戦ということ、ポッダム宣言の受諾という事意味が、八月十五日の段階でわかっているわけですから、それ以上抗戦する、抵抗することに対して、意味がないという判断が出来た人たちだったと思うのです。

 その頃の日本は、どんな状況であったか。アメリカの飛行機が自在に飛んでいた。

 昭和20年6月末、沖縄で牛島中将が自決したあと、米軍に降伏した形になった。その後、島民の方々は戸惑っていた。
 私の幼児だった友人(宜野湾)が戸惑っていると、学徒出身の将校が来て、白旗を作って米軍基地へ行けば助かるよ、と教えてくれたそうだ。
「それで、今、命がある」と語っていた。
「その将校は、そのことを教えたあと自決した(ようだ)」と、悲しい結末を話していたが。学生出身の兵士は、ポダッム宣言の意味も、捕虜は虐待はされないのが国際常識だということを知っていた。

 あの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と言い出したのは、陸軍大臣東條英機の戦陣訓(1941年1月8日)からだ。
「生きて虜囚の辱を受けず」という一節、軍人・民間人の玉砕や自決などの一因となった。
 日本は、俘虜の待遇に関する条約=ジュネーヴ条約を調印しながら批准しなかった。1942年1月29日、日本政府はスイス、アルゼンチン外交代表に対し「適当なる変更を加えて (mutatis mutandis) 同条約に依るの意思ある」との声明を発表した。日本流に解釈を加えて・・・という意味だろうか、どうも意味が分からない。

戦時史料より
 硫黄島が玉砕した昭和20年4月以降、日本上空は米軍の空襲のし放題になった。
 
6月24日 132、134震洋隊宿毛へ進出
 6月26日 132震洋隊清水へ進出、134震洋隊柏島へ進出。
 6月29日 28日午前に越(清水高校対岸)より回航中の大発が敵飛行艇の機銃掃射を受けた。飛行艇の活動が極めて活発なので各基地は偽装と舟艇の行動に一段と警戒を。
 7月9日 敵潜水艦が沖の島燈台南方7キロにあり、砲撃に注意せよ。鵜来島で味方艦が銃爆撃される。
 7月17日 132震洋隊1隻、訓練中に尾浦崎で沈没。Photo_2 7月18日 「ダグラス」2機、「マーチン」1機が、宿毛湾海岸、航Pbm3s_ner
行中の漁船銃撃。「マーチン」は柏島上空から古満目上空に消える。
 7月19日 142震洋隊泊浦へ進出。
 7月20日 柏島、宇須々木方面への低空銃爆撃。
 7月24日 柏島に敵機約10機が7回銃撃。鵜来島方面に1機墜落。
 7月27日 当隊貨物船、福浦へ航行中、敵小型飛行機8機の襲撃、沈没。
 7月28日 132震洋隊の震洋が試運転中、敵機2機から銃撃、沈没、戦死1。
 7月30日 第8特攻隊司令部が宿毛に進出。

 特攻震洋隊員48名がここに配置され、この丘の麓の6本の横穴に震洋艇24隻を格納。大月町内では古満目に22魚雷艇隊、柏島へ半谷中尉隊長の134震洋隊、泊浦へは畠中尉隊長の142震洋隊が配置される。
 5型震洋艇は、長さ6メートルで2人乗り小艇。隊は隊長以下48人だから24隻が配備、呉の大空襲により工場被害を受け3隻の配備となった。B29c0 1945/6/17 幡多郡白田川村、大方町、高岡郡須崎町能見 爆弾5、焼夷弾101、銃撃5 死者1、重傷5、軽傷3、行方不明1 建物全焼6、船舶5 グラマン×6 A  (
以下、幡多郡Photo
 1945/6/18 沖の島 爆弾2、銃撃18   P51駆ける14 A 
 1945/6/28 清水町、下川口町 爆弾8、銃撃6 死者6、重傷2、軽傷1、行方不明1 船舶6 PBM×12 A 
 1945/6/29 奥内村 銃撃8 死者2、重傷3、軽傷2 船舶1 PBM×4 A 
 1945/7/2 宿毛町 焼夷弾130  山林3反 B29×6 A 
 1945/7/3 清水町 焼夷弾70   B29×Ⅰ A 
 1945/7/9 高知市、清水町、高岡郡宇佐町
 焼夷弾2、銃撃2 死者4、重傷5、軽傷6 建物全焼1、全壊1、半壊12 B29×1、PBM×2 A 
 1945/7/11 清水町、高知港外 銃撃5 死者3、重傷1、軽傷1 船舶1 PBM×2 A  Pbm3s_ner_2 1945/7/16 清水町 爆弾3、銃撃7 軽傷1 建物全壊1、半壊2 B29×1 A 
 1945/7/17 清水町 爆弾3、銃撃2 死者2、重傷2、軽傷3、行方不明2 船舶1 PBM×3 A 
 1945/7/18 清水町 爆弾1 死者1、重傷3 船舶1 PBM×3 A 
 1945/7/18 宿毛湾 銃撃   ダグラス×2、マーチン×1 B 
 1945/7/20 柏島、宇須々木 低空銃爆撃。    B 
 1945/7/23 清水町、白田川村 爆弾47 死者83、重症46、継承16 建物前回22、半壊19 B29×3 A 
 1945/7/24 県下29箇所 爆弾91、焼夷弾5、銃撃88 死者83、重症46、継承22 建物半鐘Ⅰ、前回65、半壊119、船舶1、山林2町 B29×3、グラマン×250 A  Photo_3 1945/7/24 東山村、八束村 爆弾2、銃撃 死者2、負傷1  B29×1、戦闘機 中村市史 
 1945/7/25 県下14ヶ所 爆弾57、銃撃22 死者3、重症3、継承6 建物前回31、半壊109 B24×1、グラマン×300 A 
 1945/7/28 県下13ヶ所 爆弾18 死者1、重傷4、軽傷6 建物全壊1、半壊4、船舶3、山林1畝 艦載機×1000 A 
 1945/7/28 清水町 銃撃 死者1 船舶1 敵機×2 B 
 1945/8/5 清水町 爆弾12   P51×2 A 
 1945/8/10清水町 爆弾5、焼夷弾8 重傷2 山林1反 B29×2 A 
 1945/8/14 三原村 爆弾4~5(不発弾)    三原村史

 典拠資料A=高知市民図書館「かつて戦争があった」

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