« 社会への異論・反論・オブジェクション | トップページ | 中東メルトダウン(解説) 酒井啓子インタビュー/中高生へ解説 »

2015年6月 9日 (火)

寺山修司が九条映子に出したラブレター

01
 世の中が安保騒動の中、1960年7月10日、松竹の映画監督篠田正浩さんから九条映子に突然の電話。
「エコ、出て来られない? 引き合わせたい男がいるんだ。エコちゃんのファンなんだって」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「★読んで頂いたら、★1日1度クリック」 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います お気に入りに追加 
ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 02 第一信は「仕事うまくいっていますか?これからまいにち手紙をかくつもり」という手紙ではじまった。男は、手紙を書くことで愛を確かめる楽しい時間だった。彼女を思うひと時が・・・毎日、毎日、書き続けた。

01_2紹介されたのが映画『乾いた湖』の新進のシナリオライター寺山修司だった。
 ここで寺山との出会い、恋愛、そして結婚までの軌跡を数々のラブレター、往復書簡、を中心に展示している。
短歌「九條映子をみつめる」の中から一首。
「わが家の見知らぬ人となるために水甕抱けり胸いたきまで」

 中学校の修学旅行は東京だった。二重橋や銀座を見学し、そのあと浅草国際劇場でSKDのレビューを見た。3階席のいちばん遠いところから、踊り子たちの華やかなラインダンスを観て、たしかに東京の一端に触れたように気がした。
 そのことを九條さんに話し、
「ぼくね、九條さんのダンス観たよ」
「嘘よ、時代が違うもの」。ええ、じつはそうなんです。
「寺山がね、浅草で踊っているわたしを見て、それで見初めたなんて云うけど、あれ、ぜったい嘘よ」。
でも、ぼくにはそれが嘘とは思えない。寺山さんだって修学旅行で浅草国際劇場のレヴューを見たかもしれない。故郷、そして東京。あそこには「望郷」の匂いがあった。

 

Loveletter_bn550x300 それはともかく、寺山さんが浅草国際劇場を舞台に活躍していた九條さんを見初め、恋をしたことは確かだ。こうして始まったふたりの愛。今回の展覧会は、そんなふたりのなれ初めからはじめてみようと思う。ぼく=テレヤマ・ワールド代表笹目浩之(52)。

 第二信 きみはいまどこで遊んでいるのだろうか。と思うと気がかりでペンも進まない。

 第三信 今夜はなぜだか、きみがそんなに遠くにいるという気がしないんだ。 

第五信 早く帰っておいで。02_2それから、毎日毎日、寺山修司は九条映子に手紙を書き続けた。02_3
寺山修司直筆のラブレターを公表するには、彼らの関係が、常識に捕らわれない、愛にあふれた言葉と生き様が、誰かの生きる力になるんじゃないか。と笹目さんは話す。

ラブレターは24通、原稿用紙77枚が、最近見つかった。しかし、第4信だけが見つかっていない。なぜか。笹目さんは「きっと、恥ずかしかったんでしょう」という。

第4信は、九条さんが書き残していた。最後に「紙上でキスを送ります」とある。

略歴 九條今日子(くじょうきょうこ)(本名:寺山映子)
Kujyo01jpg3881935年10月22日 東京・麻布生まれ。三輪田学園卒業後、松竹音楽舞踊学校を経て、九条映子の名でSKD(松竹歌劇団)の舞台にデビュー。松竹映画に移り「黄色いさくらんぼ」(野村芳太郎監督・1960年)など青春スターとして活躍する。
1963年 に寺山修司と出会い結婚。
1967年、寺山修司、横尾忠則らと共に「演劇実験室 天井棧敷」を創立し劇団の初演『青森県のせむし男』を製作。1970年に寺山修司と離婚後も寺山の仕事をサポートし続け、82年の最終公演『レミング:壁抜け男』まで全舞台の製作を担当。また、カンヌ映画祭コンペティション出品作品『田園に死す』(1974年)、『さらば箱舟』(1984年)などの映画プロデューサーも務めた。
1983年に寺山修司が亡くなった後は、1997年に創られた『三沢市寺山修司記念館』の設立に力を注ぎ、寺山作品の著作権管理を行い、全国各地で講演を行っていた。著書に『ムッシュウ・寺山修司』『回想・寺山修司 百年たったら帰っておいで』などがある。株式会社テラヤマ・ワールドの共同代表取締役。三沢市寺山修司記念館名誉館長。三沢市観光大使。
死亡日 平成26年4月30日
死因  肝硬変による食道静脈瘤破裂

01_3
寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は日本の歌人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」の異名[1]をとり、上記の他に俳人、詩人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。

1935年(昭和10年)12月10日、父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。八郎は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。ハツと元妻・九條今日子によれば、青森県弘前市紺屋町生まれとされる。当人は「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」などと記しているが、寺山のこうした記述には多分に創作が混じっているといわれる。戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、産後保養していたため」という。ただし戸籍の出生が正しいとの説もある。本籍地は青森県上北郡六戸村(現・三沢市)。

1941年(昭和16年)、青森県八戸市へ転居。 八郎出征のため、ハツと青森県三沢市へ疎開。彼女はその後九州で働くために青森市の親類に修司を預ける。青森市マリア幼稚園入園。

1945年(昭和20年)、青森大空襲によりハツとともに焼け出される。9月に八郎がセレベス島で戦病死したとの公報を受け取る。終戦後はハツの兄を頼り六戸村古間木(現・三沢市)の古間木駅前(現・三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働く。米軍差し押さえの民家に移る。

1948年(昭和23年)、三沢市の古間木中学校入学。
 ハツが福岡県の米軍ベースキャンプへ移ったため、青森市内の叔父の映画館「歌舞伎座」に引き取られる。青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校。
1949年(昭和24年)、中学2年生で京武久美と友人になる。
 句作をしていた京武の影響から俳句へのめり込んでいく。文芸部に入り、俳句や詩や童話を学校新聞に書き続ける。
1951年(昭和26年)、青森県立青森高等学校進学。
 文学部に所属。「山彦俳句会」を結成し、高校1年生の終わり頃「校内俳句大会」を主催。全国学生俳句会議結成。俳句改革運動を全国に呼びかける。京武久美と俳句雑誌『牧羊神』創刊、高校卒業まで編集・発行を続ける。同期生に沢田教一がいた。

歌人からシナリオ作家へ
1954年(昭和29年)、早稲田大学教育学部国文学科に入学。山田太一とは同級。
 中城ふみ子の影響から短歌を作り始め、在学中から早稲田大学短歌会などにて歌人として活動。18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。混合性腎臓炎で立川の病院に入院。
1955年(昭和30年)、ネフローゼと診断されて長期入院となり、翌年、在学1年足らずで退学。

_b2poster処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受け、交際が始まる。1957年に第一作品集『われに五月を』、1958年に第一歌集『空には本』を刊行する。1959年、谷川の勧めでラジオドラマを書き始める。また、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと「若い日本の会」を結成、60年安保に反対した。

1960年(昭和35年)2月、第3作目のラジオドラマ『大人狩り』が放送される。同年、浅利が旗揚げした「劇団四季」で戯曲『血は立ったまま眠っている』が上演される。また、篠田正浩監督作品のシナリオを担当し、大島渚と出会う。25歳で母ハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。1963年(27歳)、松竹の女優だった九條と結婚し、ハツとの同居先を出る。

1960年代半ば以降からは学研の「高三コース」にて高校生の詩の選者を務めて多くの若い才能を掘り起こしたり、新書館の少女向け詩集レーベル「フォアレディース」を編んだりするなど、「青少年のカリスマ」としての位置づけを強めていく。1963年に『現代の青春論』(『家出のすすめ』)を刊行。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「★読んで頂いたら、★1日1度クリック」 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います お気に入りに追加 
ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Sponsored Link
 

Kanban2データ入力 
http://www.nozawa21.net/データ・名刺入力/

顧客名簿作成・名刺データ入力・DM宛名シール作成。様々な形式で作られたデータの同一形式での統一化。手書き原稿のデータ化。《→データ入力詳細へ  

  アンケート入力
各種調査アンケート集計
《→
アンケート入力詳細へ

  録音テープ起し
 講演・講義・取材・座談会など。様々な媒体の音声のデータ化。 オプションサービスとして、出張録音(機材持込可)・原稿要約いたします。 《→
録音テープ起し詳細へ》 
録音起こし依頼側へ  
講演などの録音は、
①講演者から1.5m以内でICレコーダーで録音。
②講演会場の自席でスピーカー通して録音。
 ①と②では、作業担当者には、大きな違いがある。①の場合は、ほとんど資料など必要ない。 ②は、聞き違いが生じる

 
Dropboxge_3 最近お勧めはDropBoxです。 
*ドロップボックスへ音声ファイルを入れると、即刻、デスクトップ上に届く。現在1回20GB(音声30時間)受付可。
 即日、専用ドロップボックスを用意します。
 バイク便より確実で早く、料金のご負担もない。
 (宅急便で、SDカード、CD、DVD送付でもOK。)
 
執筆代行 ゴーストライター (原稿作成)
 自身の経験・原案を一冊の本/講演スピーチに/
 
 著者からテーマを聞き出し、取材して“言いたいこと”を原稿作成。出版社・印刷所に出せる体裁に。《→執筆代行詳細へ                                                         

プライバシーマーク認証 研修済み 証明書番号1483
当社はベテランオペレーター40名
Microsoft Office User Specialist 有資格者


問い合わせ窓口 ←クリック

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

|

« 社会への異論・反論・オブジェクション | トップページ | 中東メルトダウン(解説) 酒井啓子インタビュー/中高生へ解説 »

恋愛」カテゴリの記事

日本の姿、文化」カテゴリの記事

死の招き」カテゴリの記事

生き方」カテゴリの記事

青春時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 社会への異論・反論・オブジェクション | トップページ | 中東メルトダウン(解説) 酒井啓子インタビュー/中高生へ解説 »