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2015年6月22日 (月)

戦場からの恋文(中日新聞社)フィリピンで散った 青山ふゆ先生の夫

 中津高校OBには、「旭陵新聞」が年に一回は送られてくる。そんな新聞、タマタマ一年以上前のもの読んでみると、恩師の訃報が載っている。今回、高一、高二で接した花田春雄(数学)、高橋照子(音楽)、土屋甲子朗先生が、熊崎公平(高3担任)先生が鬼籍に入られた。03_203_303






 

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熊崎公平(高3担任)先生は
弔辞 熊崎公平先生
被爆死体片付けた 広島高師の学生:
 公平先生には、銀座のライオンで一杯ゴチになったことも、同じ町内(本町)だったので、お母さんの焼き芋屋にはお世話になった・・・。

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 その横には、青山ふゆ先生の出版が報告されていた。
「戦場からの恋文」=私家版「防人通信」(青山フユ先生)のリメイク版らしいが、フィリピンで戦死した夫の手紙が・・・とあるから、先生のことも知りたいと図書館にリクエストしたら、昨日借りることができた。

01
A_21 郷里の高校恩師だから、なにも言わなくてもわかる人にはわかるが、一般の人にわかりやすくいうと、
 “顔の輪郭”と“くぐもった発音”が、(よく言えば)桃井かおりに似ている。もちろん、昭和30年代、授業中に桃井かおりの雰囲気や匂いはないが。

  青山ふゆ先生は、地元の中津女学校を卒業して東京女子師範(お茶の水女子大)卒というめった輩出しない才媛・・・昔、女子に東大という選択肢あれば入ったかも。稀有な才女だった。岐阜師範はあったが、田舎女学校から東京女子師範は珍しかっただろう。だからか、めった褒めることがなかった気がする。
 そして、昭和30年代、中津高校の国語教師を続けていた。てっきり、オールドというかハイミス先生だと勝手に思っていた。国語の先生には、もう一人、東京女子大卒の歯科医院のお嬢様先生がいたから、生徒の目はそっちに行っていた。

Photo_4 夫の青山泉と言う人の家系は、苗木藩(親藩)の士族の系統の分家らしい。幕末、平田篤胤の廃仏毀釈の国学系思想が中津宿の周辺は盛んだった。そのとき、中津の中心人物に青山という姓が出てくるが、この運動に係ったか、その辺はわからないが、中津にはありがちの姓である。幕末の思想で動いた人物、中津では、間、市岡、青山などがある。

 青山泉は、苗木小学校を卒業したのち、長野県立木曽山林学校へはいった。修業年限四年、旧制中学と同格で、1923年(大正12年)卒業後は国の林野局か、府県の林野部局に配属される。彼は、当時、日の出の勢いのあった、東京駅を請け負った大林組に入って、理工技術系サラリーマンとなった。

 当時、戦争になったらいい位置で出征したいという意識があった。一年志願入隊をすると、除隊するとき、予備少尉になって、本当の戦争で徴兵された場合、平の兵隊にならないで済む。二等兵と少尉では、天と地ほどの差がある。チョット世渡り上手の家族は、一年間志願入隊をしておく。
 軍隊としては、下級指揮官が欲しいから、知識学歴のある信頼に足る男子が、士官学校ではなくても、少尉になれる道があった。ただし、生活衣服代として、一年間で240円を支払う必要があった。もっとアレな人は、軍の経理学校に入って、主計将校になる道を選んだ。砲弾の落ちる戦地には行かないで済むというが、そう甘くはない。戦後活躍した人には、そういう人が多い。一方、特攻の生き残りも、活躍した。

0404_2 青山ふゆは、中津市坂本小学校教師の父加藤龍三、かく夫婦九人兄弟の長女。父の転勤のよって、恵那郡長島→久須美小→美濃福岡小→中津高女→東京女子師範(御茶ノ水女子大)→愛媛県の師範学校女子部教諭兼舎監。
 青山泉は、苗木小学校→長野県立木曽山林学校(四年)卒業後は東京駅を請け負った大林組のサラリーマン。

 二人の出会いは、ふゆが愛媛県立師範学校で教諭しているとき、坂本へ夏季休暇で帰省した帰り、中津の“すや”へみやげを買いに来た。そのとき、“すや”赤井九兵郎に嫁いでいた四姉照を苗木に住んでいた青山泉が訪ねていた。ふゆの話し方、振る舞いに、ぜひ彼女を紹介してほしいと姉照に頼んだのが最初だという。

707 姉は「東京女子師範(御茶ノ水女子大)卒の才媛が苗木に来るわけないでしょ」と言っていたが、二人を会わせると、彼の風貌と文学の造詣が深いことにふゆのほうが好きになったようだ。
 身長は書いてないが、泉は体重70数キロというから、昭和のはじめでは大柄だ。ふゆ先生、国語国文の話ができる男性にめぐり合って、会話が楽しかった。親しく話せば話すほど、度量の大きさに気持ちが傾いて行ったに違いない。というのは、推測であるが。

「戦場からの恋文」内容を読むと、夫泉さんの文面には、何を書いても通じるんだという融通無碍の雰囲気がありありだ。相手が才媛ではあるが、朋友、親友の仲間意識があり、昔の男性にありがちな・・・でなく、近代の男女関係で書かれている気がする。

 二人は、昭和10年3月28日、中津の梅信亭で挙式。
 愛媛の学校は退職し、彼の仕事で浜松の百貨店建設があり、暫くは浜松に専業主婦として、
この楽しかっただろう。浜松の百貨店建設が一段落し、その三年後、名古屋市千種区元古井町の借家に居を移した。それから愛知淑徳高等女学校へ勤務し始めた。

 昭和17年に召集令状が来て、実質7年で結婚生活は終わった。3月17日に岐阜駐屯地を出て、広島の宇品港から出航し、フィリピンのルソン島に着く。そこで訓練を受けて、パナイ島に赴く。Photo このときから、二年半、ふゆとの手紙のやり取りが続く。04_3 たったの二年半、戦地に送ったふゆの手紙は一切ないが、泉から来た手紙類は彼女に寄って大切の保存されている。

 最初に届いた『戦場からの恋文』1号は、穏やかであったが、2号では大変なことが書いてあった。パナイ島イロイロ病院に入院中とある。パナイ島上陸一週間くらいのとき、66 部隊がトラックで進行中、地雷を踏んで横転したところをゲリラに銃撃され、青山泉少尉は右腕を撃たれ静脈を切って大出血。腹に巻いているサラシで止血しながら、左手でピストルを打って撃退した・・・とある。応戦中に中隊長以下応援が来て、事なきを得たという。右中指と薬指がうまく動かないが、二三年すれば、大丈夫だとケガに負けない文章である。二日後にイロイロ病院へ入院。

 戦地から届く手紙は、まとまって届いたり、あるいは、特に、制海権、制空権を日本軍は失っているから、出したはずの手紙が届いていないことが多いはずだ。昭和19年10月が最後になった。

04_4 文通できたのは、内容的には普通の兵士なら書けない内容を伝えているが、これは青山泉が検閲する側の責任者にいたからだと「戦場からの恋文」の監修者がいう。
 私家版「防人通信」から、中日新聞社出版となったとき、監修者がついた。監修者宮地正人は千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館学芸員、舘長。私が見た「
佐倉連隊にみる戦争の時代 : 」(2006年)展示会を取り仕切った責任者のようだ。
 監修者がつくと、資料の文章で内容チェック、読みが深い。さすがであると感じた。
 フィリピンの島々には、結構広い島がいくつかあって、ヨーロッパのオランダとか、アメリカからも移住者がいて、日本が統治している間には、彼も楽しい生活があった面もある。

●最短で学芸員資格を取得する方法
 大学で「博物館概論」や「博物館情報・メディア論」などといった博物館に関する授業の単位を19単位、専門分野の単位(専門はは歴史系)「考古学」や「民俗学」の授業などを10単位取り、また、「博物館実習」として4年生の夏に一週間前後、博物館へ実習すると、卒業と同時に資格を取得。 この方法では、試験などはなく、大学で必須単位を取るだけで資格が取得できる

 最後はどうなったのか、昭和20年9月23日、マラリアと栄養失調で餓死・・・とある。捕虜収容所に入っていたのか、不明だ。病院死のような印象である。死後の妻の日記は短い・・・たぶん、手紙は長いものだったはずだ。

〈おまけのエピソード〉
 女性から手紙が兵隊にくると、回りの先輩が冷やかして囃し立てて、手紙の全文をみんなの前で朗読させたと聞いたことがある。女っ気が少ない戦場の乱暴な楽しみだったかもしれないが、イジメ、プライバシーまるでない・・・兵舎だった。と聞いた。
 青山泉は
少尉だから、下のものがアレコレ言える立場ではないからよかったかもしれないが、イロイロ言われることはあっただろうね。やっぱり、二等兵はつらいよ。やはり尉官レベルで出征したいものだ。

 ふゆさん、愛する夫への思いは切ないものがあだろうが、仕事を持つ女の強さか、偉丈夫の彼のことを「子」と言って、掌に載せて愛でるかのような表現で書いてある。さすがふゆ先生、感情を抑えている。

 青山ふゆ先生、授業には一切夫、彼のことは言わなかった。昔の女性、そういう面を一切出さないでやっていたのだね。先生の国語で「寒山拾得」をまとめる司会役に私が当たった話・・・結局、私では授業が進まず終わりになった話、覚えている?どっかに書いたから、探してください。
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