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2015年5月 4日 (月)

ノモンハン事件(昭和14年)から何も学ばないまま、太平洋戦争に突入

 ノモンハン事件なぞ、私の生まれる前の事件だし、と普通はソレで終わるが、司馬遼太郎がそれにかかわったと何度も書いているから、どんな事件だったのか、気になっていた。7474a07_400・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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 ノモンハンとは違うが、「人間の条件」の五味川純平は、1943年召集を受け、満州東部国境各地を転々とした。1945年8月のソ連軍の満州侵攻時には、所属部隊はソ連軍部隊(100数十人)の攻撃を受けて全滅に近く、生存者は五味川以下4名だったという。4407Nomonhan2

 司馬遼太郎は、自己紹介のように語っている。
私は、大学の中途で卒業証書をもらい、軍隊に取られ、中国東北部(満州)の中心四平という街の戦車学校にいました。22歳になるまで軍隊におりました。
 私は戦車兵でしたから、その間、自分の戦車と敵(ソ連)の戦車と違いを嫌でも考えさせられました。こちらの戦車はいかにも小さな大砲を積み、薄い鉄板を張ってあります。

 私の考えたことは、この程度の軍備を持った国が、なぜこんなに大きな戦争を始めたのか、始めたのはよほどバカか人か、真に国家を愛さない人々か、とにもかくにも正気でない人々だっただろうということでした。自己や自国に対して、この程度の認識しか持たない人々によって日本はつぶされた。バカな国に生まれてしまった、という感じがありました。」
 最初のノモンハンの衝突では、ペイペイだったという。
 司馬遼太郎は、日本陸軍の戦車隊長であった。陸軍が最後まで戦車隊を虎の子のように大切にして、昭和20年5月、戦況が悪くなると、満州にいた戦車を日本へ船に載せて移動させ、最終決戦の武器として栃木か群馬に温存したから生き残れたと、語っている。
Mongolia_2 1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争で、1930年代に大日本帝国とソビエト連邦間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。 満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。

  ノモンハン事件(1939年(昭和14年)5月~9月)は、満州国(日本の傀儡国家)とモンゴル(ソ連の傀儡国家)の国境紛争、そのバックに日ソ両国がついていて、実際には日本軍とソ連軍の両国がぶつかったわけである。Img_0 そこで日本軍が勝てば、その紛争は収まったかもしれないが、…。機械化部隊のソ連軍に対して、機械化対策ができていない日本軍は、とても、ソ連軍の侵攻には対抗できないだろう。

  1931年(昭和6年)に満洲事変で満州国が建国されると、ソ連は東の満州国を脅威に感じた。西にもナチスドイツという脅威を抱えていたソ連は、日本への防御壁を作ろうと考えた。
 目をつけたのはモンゴル人民共和国であった。かつては世界中を畏怖させた(チンギスハーンの)モンゴルも、この時代は清王朝に支配されていた。Mongolia_orthographic_projection_sv しかし、辛亥革命で清王朝が崩壊すると、1913年にモンゴル人民共和国として独立を宣言した。ソ連は、独立したばかりのモンゴルを日本へのクッションとして利用しようとした。ソ連スターリンはモンゴルのソビエト化を進めた。指導者を粛清し・・・スターリンは、やることがスゴイですね。その他、詳細は省略。

  話は満州の関東軍、満州国の首都新京の関東軍参謀部ではある方針が発表された。満州国とモンゴルとの国境争いに関内容は以下の通り。

 「満ソ国境紛争解決要綱 」
●国境が確定していない地域は、現場の指揮官が自主的に国境線を認定してよい
・防衛上必要があれば、一時的にソ連領に侵入してもよい

 

 以上、強硬な日本軍の方針を押し付けようとした。
2cf6 この方針を決定したのは、辻正信(つじまさのぶ)という人物だ。
 この人物は、太平洋戦争でも作戦立案をして、戦後には逃亡後に帰国して国会議員にもなった。 国会議員任期中に旅行に出かけ、行方不明になったままだ。
  関東軍が出した“要綱”は、日本本国政府の“ソ連との紛争を避けたい方針”を完全に無視したものであった。要綱が出されてから2週間後、 1939年(昭和14年)5月11日に、満州国軍(日本軍)とモンゴル軍(ソ連軍)が大規模な戦闘を行いノモンハン事件に発展する。
 

さて、ノモンハン事件の戦況は、ソ連崩壊後に、ソ連内部資料が次々と公開、いままでは日本軍の惨敗という評価がされていたが、新しいソ連の資料によると、ソ連軍の被害も決して小さくなかったことが分かってきた。000002 ソ連軍の装甲車1:18という差でわかるように、ソ連は機械化部隊を導入している。ソレに対して、日本軍は歩兵を多用して勝とうとしている。日本軍は、人海戦術で、人間を武器にして、戦車の下へもぐり込んで、火炎瓶を投げ込むと、ガソリン車の戦車は炎上する。日本軍兵士は、戦車のハッチを開けて、火炎瓶を投げ込むという、決死の攻撃で戦果を上げたという。U1937_01 それが戦車が重油を使うとか、ハッチを開けられないように接着してしまうなど、日本軍対策を重ね、機械化装甲車で生身をさらす日本軍を殺戮し続けてた。それを日本軍は兵士補充だけで、機械化の対策が遅れていた。通信傍受とか、戦略の練り直しを怠っていたと、戦後になって反省がでている。2922520 そのノモンハンの戦闘で大きく損害を受けたにも係らず、戦車の改良が行われず、鉄板の厚さは、ソ連軍の三分の1程度で、日本軍の大砲の弾は弾き返され、ソ連軍の大砲は操縦席に貫通するといわれた。

   私(司馬遼太郎)は戦車兵でしたから、その間、自分の戦車と敵(ソ連)の戦車と違いを嫌でも考えさせられました。こちらの戦車はいかにも小さな大砲を積み、薄い鉄板を張ってあります。
 私の考えたことは、この程度の軍備を持った国が、なぜこんなに大きな戦争を始めたのか、始めたのはよほどバカか人か、真に国家を愛さない人々か、とにもかくにも正気でない人々だっただろうということでした。自己や自国に対して、この程度の認識しか持たない人々によって日本はつぶされた
。(司馬遼太郎)

 夜襲で先方に襲い掛かる方法をとって、最初はソ連軍もビックリして逃げ惑い、日本の戦果は上がった。が、敵もバカではないから、それに対応したトレンチを何本も掘って、一番目の濠を突破されても、次の濠で仕留める。それで、日本軍は、何度も同じ方法を繰り返し、人的被害を多くした・・・という。それを精神力で突破させるなど、いわゆる根性でやればやれるとする伝統を作ってしまった。
 その精神を今次大戦に持ち込んで、アメリカ軍相手にも行った。ソ連軍相手に、彼らが日ソ中立条約を破って進軍したときも・・・、グチを言ってもしかたがないが・・・。
 まるで、裸に日本刀を差して飛び込むような
倭寇の戦いで、近代戦に勝てると、参謀幹部は思っていたのだろうか。

 以上のように、日本軍は歩兵主体だったのに対し、ソ連軍は戦車・装甲車などの機械化部隊を主体として戦った。日本軍はソ連軍に対して苦戦し、結果として日本軍は敗退したが、ソ連軍にも多大な被害が出たのは確かで、逃亡兵もソ連軍にはかなりいたらしい。ソレを知ったのは、最近の話だ。

 日本軍は、海を越えて運ぶから、重い装備の戦車や装甲車が少なかった。代わりに速射砲を対戦車砲として、配備していました。日本軍兵士の練度は高く、次々とソ連軍戦車を破壊した。また、伝統の肉弾攻撃も繰り広、その手段たるや凄まじい。
①ソ連軍の戦車通り道に穴を掘る
②兵士が火炎瓶もって穴に隠れる
③戦車が上を通ると、
④穴から突撃して火炎瓶投げつける
 ガソリン燃料のソ連軍戦車ものすごく燃えたそうだ。もちろん、この方法は、日本軍兵士側に多くの犠牲を出したのは当然だが、当時の日本では、兵士一人で戦車一台仕留めれば、うまくいったと考えた。

 ノモンハン事件は、航空機の空中戦も激しく行われた。日本の九七式戦闘機は単葉機(羽が一重)でありながら、

Ki27 複葉機にも劣らない運動性能を発揮し、ソ連のI-153、I-16という戦闘機相手に大活躍した。単葉機はスピード重視で、世界は単葉機主体に移っていった。

 ソ連の被害も大きい。
  将校ジューコフは、スターリンにこんな報告書を送っている。「司令部の無能・準備不足のため大きな損害が発生した」 
 この報告書のため、現場指揮官は代わってジューコフが現場指揮官に就任。この時期からを第二次ノモンハン事件と呼ぶ。
 ジューコフは司令部をハルハ川の高台に移動させ、5月の戦闘に参加した将校たちを解任し、空軍力と戦車の増強を要請した。

 要請された以上のソ連軍は軍備を強化した。その情報は日本軍も得ていた。しかし、日本参謀本部は、大した対策も講じずに実戦経験の乏しい編成されたばかりの師団である第23師団を主軸に軍を展開した。

 日本軍はハルハ川を渡って、ソ連軍陣地に奇襲をかける計画を立てました。Efield しかし、戦車を渡すために川にかけた急造の橋が壊れ、戦車が渡河できず、結局は歩兵主体で戦闘することになった。奇襲をかけた日本軍を待ち構えていたのは、400台もの戦車。しかし、5月の戦闘同様に、歩兵は自らを犠牲にし田火炎瓶で、ソ連戦車部隊に大打撃を与えた。半数以上のソ連戦車が撃破された。

 とはいえ、日本軍も被害甚大、一度引いて体制を整え、両軍は一時距離を置く。
 7月、ジューコフは、スターリンに報告書を送っている。「日本軍兵士は練度がソ連軍兵士よりも高いが、装備が決定的に劣っている」 ソ連軍兵士は、日本軍が手強いために士気が低下していて、逃亡兵もいたようだ。 ここでソ連伝統の方法、戦車の乗組員が搭乗したあとに戦車の天蓋を溶接してしまうのだ。火炎瓶で燃やされたらオーブン状態・・・。オオ・・怖わ。

 ここでスターリンはある方針を決定した。この時期ヨーロッパにおいて、ナチスの脅威がますます強まって、日本とナチスの二正面作戦を恐れたソ連は、日本との短期決戦を決意。

 1939年(昭和14年)8月23日、スターリンはドイツと独ソ不可侵条約を締結。ドイツと防共協定を結んでいた日本は衝撃、8月25日、平沼騏一郎内閣は、日独同盟交渉の中止を閣議決定、8月28日に平沼首相が「欧州の天地は、複雑怪奇なる新情勢」と声明、総辞職。

 一方の関東軍司令部でも決定が下された。
 ソ連とは逆に、戦車部隊の撤退を決めた。日本の最新鋭の八九式中戦車であっても、
53 ソ連のBT-5などの戦車のほうが強かったので、日本は戦車を海を越えて運搬しなければならないので、重量などに制限があったことなどが原因として考えられる。被害が大きくなってきたので戦車部隊は撤退させた。日本の戦車では負けると思ったのだろう。

 ソ連増強後の8月の戦力比は、
増強後ソ連軍:51950人/日本:ソ連の比率
兵=1:6  砲=1:7  戦車=0:438  装甲車=0:385
 戦車、装甲車に関しては、絶望的な戦力差である。急に戦車、装甲車を増やせる工業力、つまり、国の総合力を考えるべきだ。

 戦線がこう着している間に、司令官ジューコフは大勢のスパイを満州に送り込み、日本軍の情報を集めた。スターリンの短期決戦要請を受けて、「20日早朝よりの総攻撃」を決定した。
 日本軍を油断させるために、陣地構築を装い、わざとモーター音や木を切る斧の音を聞かせて、長期決戦と誤解させた。

 8月20日早朝、ソ連軍の大軍が総攻撃を開始した。
 日本軍は果敢に戦うが、ついには壊滅。ソ連軍戦車も、ガソリンエンジンからディーゼルへと燃料を火炎瓶攻撃対策が完成して、日本軍の特攻効果が上がらなくなり、航空戦もパイロットの戦死など、撃墜率が低下した。

 8月28日レミゾフ高原の日本軍が全滅し、ソ連軍の勝利した。Efield 9月1日ソ連の新聞にて、戦勝が報じられた。その翌日2日の新聞の一面は、ナチスドイツのポーランド侵攻が報じらた。第二次世界大戦の開戦である。

 ノモンハン最終的な日ソ両軍の損害は、
日本軍
戦死:8632名 負傷:9087名
全損:戦車8両 装甲車7両(戦車は少ないから)
航空機:損害157機

ソ連軍
戦死:9703名 負傷:15952名
全損:戦車253両 装甲車144両
航空機:損害200~250機

 ノモンハン事件は、被害で言えばソ連軍のほうが大きく上回っているが、日本が勝ったとは言えないのは、国全体からいえば、損害によるダメージが違う。

 問題は、日本軍の戦後の処理である。
 歩兵突撃によって、ソ連軍戦車を撃破した成果を過信して、2年後に始まった太平洋戦争でも、同じ戦法人海戦術を多用してしまう。ノモンハンの結果は、敗戦というのに、関東軍の参謀達はまったく責任を取らなかった。首謀者の辻正信、関東軍の参謀達は、太平洋戦争でもムチャな指揮を執り、日本軍の犠牲を生み、誰もその責任を感じなかった。

 また捕虜についても、問題があった。
 ノモンハン敗戦後9月30日、ソ連軍に捕虜になった日本軍兵士に対する対応を国際捕虜条約の知識もなく、決定した。
「捕虜になった者には厳しく接し懲罰を与えよ」
 この捕虜になるぐらいなら死ねという方針は、太平洋戦争でも適用され、多くの軍人が自刃・手りゅう弾自殺を行う結果を生み出した。

 ノモンハン事件から、二年の月日があったのに、日本軍はノモンハンの教訓から何も学ばないまま、太平洋戦争に突入した。1941年(昭和16年)12月8日、日本の連合艦隊機動空母部隊は、アメリカ真珠湾に奇襲した。参考←   
 
モンゴル語では「ノムンハン」といい、「法の王」を意味する

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