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2015年3月 6日 (金)

朝ドラ「マッサン」金髪好きの大阪でエリー人気がすごい

 朝ドラ「マッサン」は終盤に近づき、撮影は北海道余市でクランクアップ、マッサンとエリーは泣きの涙で終えたようだ。 000004_2 1943年(昭和18年)10月、一馬(堀井新太)、ついに召集令状、赤紙が届いた。昭和19年頃からは、もう大人は日本が負けているのは知っていたが、徴兵は表向きは非国民の態度は取れない。
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 20歳はたちで、徴兵検査で甲種合格と言われると、うれしいのだが、そのあとには赤紙で出征していくのは、恐怖だから、若い人の出征はわりと悲壮感はないが、二度目の出征は、死を覚悟していた。太平洋の島々をアメリカに取られてからは、特にそうだった。子どもがいる家庭では、働き手を取られるから、悲劇だ。

 家の近くの20歳になった青年、幼児からみると、立派な大人だったけれど、白たすきをかけた青年が大人たちの激励に応えて胸を張る姿が印象的だった。しかし、あの青年、戦後帰ってきたのだったか、記憶にない。
0000000073 お国のためにやっと働けると喜ぶ熊虎(風間杜夫)。しかし、エマ(優希美青)は悲しみに暮れ、再会の歌「オールドラングザイン」を歌うのだった。熊虎は一馬の送別会で、オールドラングザイン(蛍の光)を歌うのだが、フィクションだからできるんだろうが、アレはない。 

000076 当時、英語は禁制語だったから、みんなトクトクとして、ストライクを“ヨシ”、ボールを“ダメ”といい始めた。岐阜県の片田舎の町では、英語新聞をとっているのは、教会の牧師「水垣」さんと英語の「菅井」先生(高校)、本陣の娘「市岡」先生の三人だけだといわれていた。
 戦後は、昭和21年過ぎから、若い進駐軍が町の文教政策に介入して、街中をジープで走りまわっていた。まだ若かった市岡先生が通訳としてついて回っていた。
 

 日本人は、あれほど「米撃滅」とか「鬼畜米英」と言っていたが、一般の日本人は、全然GHQに刃向かう人は誰もいなかった。寄らば大樹の陰だとばかりに、日本の思想や伝統を尊重する姿勢は全然省みられる気配はなかった。特に、田舎の町では、校長とか、警察とか、そういう支配階層の人には自信の欠如、ナニを根拠にすればいいのか、さっぱり分からないから、旧民法で守られていた父権が否定されて、尊敬どころではなかった。天皇陛下のことを、二十歳くらいの人は「テンチャン」と言ってはばからなかった。 

 うちの二階には、大学卒業したばかりの年頃の兄貴の友達が集まっていた。そこで、新体制の民主主義を吹聴する齢だから、一番戦後、威勢がよかた。今年90歳くらいの年齢だ。この年齢が、まあ、戦後の日本を牽引してきた感がある。その上の年齢は、完全に自信を失っていたから、戦後の民主主義を引っ張る役目だった。 

 幼児だった私たちにも、兄の友人には、今年から小学校の先生になった人とか、面白い人材が、小麦粉と何か混ぜてパン焼き器でつくって作ったし、カルメラで砂糖を膨らませたり、・・・話が脱線しすぎるから、その話はこれまでにする。

  出征した人は、テニアンにて戦死とか、墓場には、真新しい卒塔婆が立っているから、何処で死んだかわかる。退役軍人も、召集されてもう死ぬのが目に見えた。私の音楽の小川先生のお父さんは40歳に近かったはず、出征の朝、近所のお母さんたちは、みんな泣いていたという話を後日聞いた。 Img_4 歌「オールドラングザイン」(蛍の光)を歌う雰囲気ではなかっただろう。それこそ、軍艦マーチか、「海行かば」、「個々はお国の何百里」とはいうのは、悲劇ぽいし・・・、あのころのラジオでは「コレコレ杉の子、起きなさい・・・」★★「トントントンカラリと隣組」「回して頂戴 回覧板」という歌が流れてきたものだ。

 お山の杉の子★★唯一の娯楽はラジオだった。同時の空襲情報も、ラジオが頼りだった。

 一馬のために、マッサン(玉山鉄二)は一馬に(ウイスキー)ブレンド作業を教え始た。ハナ(小池栄子)は千人針を女性たちにお願いする。そして、父の熊虎は宴会を開き、ソーラン節を歌い、幼き日の映像を上映し場を盛り上げた。
 熊虎は一馬を迷いない気持ちで送り出してやりたい思いをエリー(シャーロット)に吐露する。エリーは、誰もが苦しみながらも一馬のために耐えているのだとエマに語り、エマは一馬を送り出す覚悟を決める。そこで、英語の蛍の光を歌うことを決心する。

  マッサンの事実、史実はどうなっていたのか、それを知りたいと思って竹鶴 政孝のことを調べた。

竹鶴 政孝(たけつる まさたか、1894年6月20日 - 1979年8月29日):広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。会社経営者。ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖でもある。これらの業績から「日本のウイスキーの父」と呼ばれる。20131118_330986 1962年、イギリスのヒューム外相が来日した際、“一人の青年が万年筆とノートでウイスキー製造技術の秘密を全部盗んでいった”という意味の発言をしたといわれている。もちろんこれは竹鶴に対する賞賛であった。このとき話題に出たノート(竹鶴ノート)はしばらく所在不明であったが、のちに竹鶴が当時所属していた摂津酒造(1964年10月、宝酒造に吸収合併)関係者の子孫が保存していることが分かり、ニッカウヰスキーに寄贈された。

 スコットランドに滞在中、竹鶴はグラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生イザベラ・リリアン・カウン(通称エラ)に頼まれて末弟のラムゼイ・カウンに柔道を教えていたが、その姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め、1920年1月8日結婚。
 しかし、ラムゼイを含むリタの家族のほとんどに反対されたため、教会ではなく登記所で2名の証人と登記官の前で宣誓するだけの寂しい結婚式であった。当時では珍しい国際結婚だった

 同年11月、リタを連れて日本に帰国。結婚については実家の家族にも反対されるが、最終的にいったん竹鶴が分家するという形で一応の決着をみた。結婚後、摂津酒造に程近い現在の住吉区帝塚山に新居を構えた

 1934年3月1日、後続の技師が育ってきたこと、竹鶴が帝王教育を任されていた鳥井の長男・吉太郎に一通りの事を教え終わったこと、最初の約束である10年が経過したことから、竹鶴は寿屋を退社。4月、北海道余市町でウイスキー製造を開始することを決意(現在の余市蒸溜所)、資本を集め、7月に大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任した。
 筆頭株主は加賀証券社長加賀正太郎。加賀の妻は1924年以来、竹鶴の妻のリタから英会話を学んでおり、竹鶴が事業を始めることを聞いた加賀は他の2人の出資者と共に竹鶴を支援することにした

 1940年、余市で製造した最初のウイスキーを発売。社名「大日本果汁」の「日」「果」をとり、『ニッカウヰスキー』と命名する。直後、ウイスキーは統制品となり、日果の工場は海軍監督工場となる。この後終戦までは配給用のウイスキーを製造した

NHK大阪放送局 まっさんトークショー★

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