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2015年3月20日 (金)

NHK90周年放送、大塚利兵衛92歳 青函連絡船洞爺丸が沈没、語る

Isk1989outsukarihei 元NHKアナウンサーの大塚利兵衛氏(92歳2015年)は、小川宏、八木治郎、木島則夫、野村タイジと同期という人だ。
 余談だが、江戸川土手沿いの金町関所跡を探していたとき、土手で昼寝していた人が、「ここだよ、小川宏さんの家だよ」と教えてくれた。昔は金町マンション(ウツで飛び降りしかけた)だったが、今は小さな静かな家に住んでいた。

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 深夜放送便を聴いていたら、ここ数日、放送90周年記念番組が続いていた。そこへ報道の元祖といわれる大御所大塚利兵衛(92歳)がゲストに来た。女性アナの緊張している空気が、放送を聞いていて伝わってきた。
 当人大塚利兵衛は、久しぶりにNHKスタジオに入ってきて、インタビューにされるのが、うれしそうだった。
 “どういう経緯でアナウンサーになったのか”と聞かれて、
 大塚利兵衛さん、「戦争から帰ってきて、何も目標がなくボーっとしていた」という。E14c07ce_2
 (文系の学生は、東條首相のとき、徴兵猶予がなくなって)学徒動員で、戦争末期の激戦の中へ放り込まれて、生きて帰れるとは思っていなかったが、
マレーシアで終戦を迎え、現地で捕虜となって刑務所に1年2ヶ月、ようやく日本に戻ったのが、昭和22年。
 帰って来てしばらくして、将来のために、勉強はしなくては、と大学(法政)へ復学したという。

 四年になったころ、学生課に「アナウンサー募集」の張り紙があったが、アナウンサーとはなんぞや、というほど、Profile_header外来語であった“アナウンサー”の意味もよくわかっていなかった。数人の学友と一緒に受験して、ただ一人、合格した。

 東京で研修を終えて、釧路(初任地)へ赴任した。
 昔は、ニュース時間は、1日4回、15分ほどあって、最初の10分が東京本局から流れ、残り5分が地方の割り当てで、札幌のアナウンサーが終わった後、2分30秒程度が地方アナウンサー釧路(大塚利兵衛)のしゃべる時間となっていた。
 そのニュース原稿は、共同通信からの配信されていた。だから、大塚利兵衛は、一日四回読むだけで、一日が無為に過ぎていたという。
 そのヒマの時間に、放送のすべてを学ぼうと、あらゆる部署に顔出して、教えを乞ったという。初任地の釧路では数ヶ月過ごして、札幌・・・東京へもどって、・・・。

 大塚氏は、ほぼ一貫してニュースを担当し、特に災害や事件などの現場から数多くの中継リポートを行って、報道の分野でアナウンサーの活動範囲を広げた。
 大塚氏は、災害報道で初めてテレビ中継された1959(昭和34)年の伊勢湾台風で、豪雨と高潮によって水没した名古屋市内の被災地から中継リポートをしたときの体験を次のように話している。_m_2_2「私は、リポートする前に、テレビカメラをのぞいてみました。
 カメラが広い光景を撮ったときに、どこまで入るか、ズームして寄るとどのくらい拡大できるかを確認したかったのです。
 もう1つ、大変悲惨な情景を目の前にしているのに、カメラが映し出した映像は、キラキラと光る水面の向こうに家や松の木があり、後ろの方には雑木林も見える、というきれいな風景でした。
 このため、この水の下には、実は人も、収穫直前の稲もみんな沈んでいることを、ことばで補わないと悲惨な現実は伝わらないことを思い知らされました
。」

 東京本局にいた、1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で、台風第15号により国鉄の青函連絡船洞爺丸が沈没した。Img12ec66a2zik1zj 遭難者は1155人(死者・行方不明者合わせて)という事故だと知って、東京NHKから総勢12名で、急遽北海道へ飛んだ。
 その時の大塚利兵衛の話は、臨場感のある話ぶりだった。
 30代前半の若さもあり、アナウンサーとして7、8年、知識も詰まっていただろうから、やる気十分だ。

 
 何でこの事故を覚えているかといえば、
 中学3年生で京都奈良の二泊三日修学旅行、出発の中津川駅では曇りだったが、台風15号が京都奈良を直撃し、北上、日本海へ出た。旅行中、バッチリ、二日目、三日目とも、台風の影響で全部雨、雨の散々な修学旅行だった。帰ってきてから、新聞記事と図を切り抜き手帳に貼って残している。
 
 その台風で青森青函連絡船が沈没して、死者・行方不明者合わせて1155人という事故になった・・・

 洞爺丸事故(とうやまるじこ)は、
 1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で台風第15号により、国鉄の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故である。日本海難史上最大の惨事となった。I0
1954年(昭和29年)9月26日 時間22時43分ごろ
場所:津軽海峡 原因洞爺丸台風にあおられて沈没
死者・行方不明者合わせて1155人 Tugaru6
 大塚利兵衛らが到着した海岸には、名簿が置かれてあり、遺族の方は、生々しい遭難者の遺体を見て失神、卒倒する人、泣く人、わめく人・・・。その後、遺体は小学校の講堂に並べられた。
 すぐにも、大塚利兵衛は、伝えたかったが、放送機器が手元になく、現場で取材してそれが報道できないもどかしさを痛感した。FM放送ならすぐに伝えることができただろう。
 そんな話を深夜便放送のインタビューで語った。
 その体験が、大塚利兵衛の「報道の大塚利兵衛」となる原点だという。深夜の放送にもかかわらず、彼の語りは、手を抜いた語りではなかった。

 台風第15号(のち洞爺丸台風)は、函館海洋気象台によると、15時時点で中心気圧968ミリバール(ヘクトパスカルと同一)、時速110kmで北東に進んでおり、その後17時ころ津軽海峡にもっとも接近すると予想されていた。

A0254624_22383560 洞爺丸は、浸水は進み、発電機は次々に止まり、運転不能となり、左舷、22時5分頃右舷主機が運転不能。船長は、沈没を避けるため、遠浅の七重浜への座礁を決め、「機関故障により航行不能となったため七重浜に座礁する」と乗客に報じ、旅客に救命胴衣を着用するよう指示を出した。
 (実際には)函館港防波堤灯台付近の地点(337°、2500m)に、右舷側に約135度傾斜し、海底に煙突が刺さった状態、船体がほぼ裏返しになった。洞爺丸だけでも、乗員乗客あわせて1155人が死亡、行方不明となった。

 この事故では、
 国鉄本社での鉄道管理局長会議に出席する途中だった浅井政治・国鉄札幌総支配人と旭川・釧路の鉄道管理局長も犠牲となり、北海道遊説の帰途だった冨吉榮二元逓信大臣と菊川忠雄衆議院議員も遭難。また、元衆議院議員冨永格五郎や元宝塚女優佐保美代子などの著名人も犠牲者の中に含まれている。
 逆に、幸運な話もあった。
 当時中央競馬の調教師西塚十勝は、転覆した便の切符を持ちながらも私用で乗り遅れ、この便には乗船せず難を逃れた。また、漫才師Wけんじ(東けんじ、宮城けんじ)の二人も、東が深酒し乗り遅れたために難を逃れた。乗船が伝えられた川村善八郎衆議院議員も、誤報と判明し自身は遭難現場へと駆けつけている。

 七重浜に打ち上げられた時点で生存していた人たちが、海岸で力尽きて亡くなった者が相当数いた。こんなエピソードがある。31015751
「娘一家が乗船し遭難」との一報を受け、父親がショック死したが、娘の夫から、乗船せず無事という旨の電報が届いた・・・悲話も。

 一夜にして遭難した青函連絡船等5隻をあわせた犠牲者は最終的に1,430人にも上り、戦争による沈没を除けば、1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災に次ぐ、世界第3の規模の海難事故であった。青函連絡船は壊滅的打撃を受けた。まさに航路開設以来、また未曾有の大惨事であった


 大塚利兵衛アナは、
 日比谷公会堂で浅沼稲次郎さん(社会党委員長)が17歳の右翼少年山口二矢に刺殺された現場にいて、それをNHKの放送で実況し、声を残している。

 この立会演説会にはNHKが共催として参画しており、NHKのラジオ第1で中継がされていた。そのため、事件の一部始終はラジオを通じてそのまま同時に日本全国へ放送された。15時21分には事件の生々しい様子を収めた映像を放送した。

 大塚利兵衛アナは二階放送席にいて、山口二矢が檀上に上がって稲次郎委員長に突貫して行った姿をすべて見て、冷静に
「左胸と腹部の中間を短刀で刺し、メガネが飛び、体をくの字に曲げ・・・」と目の前で起きた事実をたんたんと実況した。

Im_photo03 当時新人アナだった加賀美さんが、この大塚利兵衛アナが語ったことを聞いていた、と放送90周年記念番組で語っていた。
 大塚アナは、面前で起殺事件を見て、おのれに向って「落ち着け、落ち着け」と手首に手を当て脈を見た。意識を下げてしゃべり始めたという。
 いつも大塚さんは、
「多く過ぎず、少くな過ぎず、淡々と語りかける」平常心を心掛けていたという。

 また、昭和34年、皇太子ご成婚の行進馬車を二重橋付近から実況放送したのも、大塚利兵衛アナ。

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コメント

今でも忘れられない事故 中学2年の秋でした

故郷様
 あの事故は、遭難者が多くすごかったですね。事故の体験者でしたら、その当時の様子を聞かせてください。

投稿: 故郷 | 2015年3月27日 (金) 20時31分

「洞爺丸の灯りが消えた」事故の第一報は七重浜駅からの鉄道電話です。

事故当時、函館付近は停電で暗闇、乗客は青森県側の明かりを目指し津軽海峡に泳いで波に飲まれています。

投稿: 325 | 2016年6月15日 (水) 08時56分

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