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2015年3月26日 (木)

母105歳の死、わが母38歳の死を見て、私のゴールは

 母親が105歳で亡くなった方の通知を貰った。
「 ご母堂様がお亡くなりになり、ご愁傷さまです。ご母堂さまにはご冥福を・・・。」 と書きながら、わが母38歳の命が燃え尽きたときを考えると、人生の理不尽さを感じる。

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Nozawa22 母は、戦争中に結核菌による胸膜炎を発症して、子沢山の家庭、家事に、子育てに追い立てられてゆっくり休む時間がなく、体力のいちばんあるはずの30代後半、徐々に重症化させて、戦争が激しくなって、終戦間際に亡くなった。母の名は、皮肉にも“勝世”だ。その数ヶ月後に、日本が戦争に負けた。

 7人の子供を生んで、子育てで奔走中に、バッタリ倒れた名誉の戦死みたいなものだ。いくら体力の充実した30代の女性でも、朝から7人の子供に着替えから、食事、家の中の掃除、洗濯をやらなきゃならない。電気釜はないからカマドで火を起こし、薪でご飯を炊く。洗濯機がない時代は、たらいで洗濯板を使って洗濯。掃除機のない時代は、掃除は、はたきと箒で掃除。幼稚園も行かない年齢の子がいれば、トイレには連れて行かなければならない。
 これだったら、もう健康な人でも、クタクタになるだろう。胸膜炎を発症した母が休まずに続けたら、病状が悪くなるのも当然だ。その上、妊娠していて出産した。いくら体力が・・・と言われていても、あの当時“産めよ増やせよ、国の宝”と、日本中で叫ばれていたから、中絶もできない。母性の豊な女性ほど、中絶は出来ない気分だろう。

 家にいると、班長回ってきて、在郷軍人が指導者で防火演習、空襲のときの伏せ方を習ってきて、私に教えた。私は畳の上で伏せて、母から、両手で顔を覆って、目鼻耳口を一本ずつの指で抑えるのだ、と習った。これが、母から習った最後の教えであった。このあと、母は、数日して、大喀血をして、これ以上、子供の側にいては結核が伝染するということで、入院した。4歳くらいで母と離れていても姉がいたから、なんとなく時は過ぎていた。

 母は、自宅から10分くらいの場所にある、市内の“林医院”に入った。病院給食がないから、入院患者は、自分で七輪を庭に持ち出して自炊するのが当時のやり方だった。母は、小さい子供ばかりだし、上の姉はまだ学校へ行っていたし、近くの人をお手伝いに来てほしいと声を掛けても、「結核=肺病」の恐ろしさは、今のガンよりずっと伝染力があると信じられていたから、嫌がられていた。ダレも付き添いをしてくれる人は見つからなかった。

 子供である私とすぐ上の兄が、姉たちが作ったタマゴ粥を林医院へ運んで行った。母は子供に結核を移したくないから、子供たちにそっけなかった。その冷たさに物足りない気で、母のところへタマゴ粥を持っていくのに付いていかなくなった。
 母の弟が軍隊で病気して帰ってきて病院へ寄ってくれた際に、母が語った言葉を、私が二十歳過ぎに聞いた。
 子供に会えないのが淋しいと。もう一つは、私の父が見舞いに来ないから・・・ということを語っていたという。死の影におびえて、衰弱していくことがわかって泣いていたという。

 私は、4歳から5歳の頃、今なら三種混合という薬で予防する“百日ゼキ”に罹患していた。
 日ゼキに「魔王」が来る
 あのセキの苦しさは、息が止まるほど、何度もセキを続ける。薬を飲むとなんとなく収まるが、なかなか百日ゼキは収まらないで、寝巻きで一日過ごす日々が続いていたとき、突然、家の中が騒然とし始めた。

 家の中の家財が片付けられ、一部屋仕切りを外し、空き部屋になった。家の人は、ほとんどいなくなり、私は近所のお手伝いのオバサンだけになった家で、ぼんやりしていた。
 私には、何も伝えられなかったが、いつの間にか、仏壇が部屋の中央の置かれた。
 結核の母が病院で亡くなったのだ。

 高校生のとき、ある人が「ウチの母が、林病院へ知り合いの見舞いに行っていたら、隣りの部屋の人が亡くなった。」と、私の母の死と隣り合わせた話を聞いた。狭い町だから、そういう偶然立ち会うこともあるのかもしれない。
「可愛そうだった」と、その人の母親が感想を述べたという。ダレにも看取られなくて・・・、という。だから、死んだのちに、我が家に伝えられのだろう。昨日の深夜から、我が家は大騒動だったのだ。5歳の私は、百日ゼキでまだ完治していない状態で、寝かせられていたのだった。

 父も兄も姉も全員、焼き場へ行った。母の死に顔を見せるべきか、二番目の兄は、父に聞いていたが、私は置いていけ、ということだった。それに幼児だった弟はどこかに預けられていたのだろう。家はガランとした感じになった。留守居のおばさんが一人いるだけだった。すぐ上の姉もズーッといなかった。

 母の死は、突然やってきて、この影響が、子供の人生の大きな影響があるものだった。100歳まで生きた母親とは、親の死の大きさ、意味がまるで違う。
 でも、38歳の死も、105歳の死も、一期一会の人生、終わった。今度は私たち、生きているものたちの番が回ってくる。そのとき、オタオタしないようにしよう。マラソンのゴール・・・最後まで棄権しないで、胸を張ってテープを切りたい。人生が終わったとき、だれも悲しませない死に方をしたい。


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