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2015年2月24日 (火)

教団幹部は、なぜ人生をオウムに尽くしてしまったか?再掲載

Omu6_2  オウム裁判は、11月21日の遠藤誠一被告への最高裁の判決をもって終了する。オウム真理教で起訴されたのは、189人に上る。死刑の判決が出たのは、松本智津夫死刑囚ら13人、5人が無期懲役となった。

オウム真理教から続く教団(現Aleph)には、麻原死刑囚への崇拝する信者は多く残っている。公安当局によれば、1000人を超える。その後も、事件を知らぬ若い人が入会しているらしい。カルトだと言っても、それがブレーキにもなっていない。今日の若者の心に、何か現実の癒しか、何かを与えられないからだろうか。
麻原彰晃オウム真理教 上祐史浩の立場
オウム麻原は、どう弟子を説得し従わせたか
高橋克也逮捕、さて「ひかりの輪」「アーレフ」は   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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  53f88861 町を歩いていたら、文庫本「平和を愛する世界人として」【文鮮明】を手渡された。文鮮明は立派な人だ、と言われても、“文鮮明=統一教会”と知らなければ、美しい言葉に惑わされる。「そうですか。」になってしまう。

319_largeかつて合同結婚式で桜田淳子が結婚して、日本中が驚かされた。派生団体の“国際勝Photo_2 共連の女の子が駅前で花束売りつけていた。タレントの飯星景子が入信して、父親飯干晃一【ジャーナリスト】が必死に取り戻した例も知っている。
 父には『われら父親は闘う 娘・景子を誘いこんだ統一協会の正体』(ネスコ、1993)という著書もある。(余計な話であるが)
1998年、コンピューター技術者の男性と結婚、翌年離婚。カルトと分類される宗教には、いろいろ問題がある。

 カルトへの妄信で人生をむちゃくちゃにした人がいる。ナニを信じていいのか、わからない混沌の中、オウムの幹部たち、今どんなことになっているか、それを急に調べてみる気になった。まだ、活動している人がいる。

Ws000002 ●麻原 彰晃(あさはら しょうこう、本名:松本 智津夫(まつもと ちづお)、1955年〈昭和30年〉3月2日 - ):宗教団体オウム真理教(現Aleph)の元代表、教祖。日本の国家転覆を企てたテロリスト、一連の事件他による死刑囚。自称、日本唯一の「最終解脱者」。自ら作詞作曲、歌うシンガーソングライター。
1996年(平成8年)6月19日以降、宗教団体「アレフ」に一旦改組され、再度改称「Aleph」に改称。宗教団体Alephでは、尊師・グルの呼称の使用、麻原の「生誕祭」や肖像の掲示を公然と行う。教団は日本支配を画策しており、その憲法草案の中では神聖法皇と呼称されていた。また、神や死者の声が聞こえる霊能者であるとも自称。

Zenkoku06102621380701_file_01 ●上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年(昭和37年)12月17日 - ):宗教団体ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧「オウム真理教」)元代表。オウム真理教でホーリーネームは、マイトレーヤ正大師 オウムの顔、教団内では「外報部長」等の役職でスポークスマンの役割を果たす。
 当時、巧みに詭弁を弄することから「ああいえば、上祐」といわれた。オウム真理教では男の一番弟子であった。身長は175cm。オウム真理教時代に幹部の中で麻原彰晃にNOといえるのは上祐だけといわれた。のちにロシア支部長に赴任するが、これはこのことが災いしての左遷といわれた。
福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)出身。早稲田大学高等学院卒業、
早稲田大学卒、同大学院理工学研究科修士課程修了。フジテレビアナウンサー軽部真一は高等学院・早大の同級生。
1980年代 大学在学中、ディベートサークルの活動を通じて、苫米地英人と面識があった。大学時代より超常現象などに強い興味を持ち、オカルト雑誌『ムー』掲載されていた麻原彰晃の記事からオウム神仙の会に入会。大学院を出た後宇宙開発事業団に就職するも1ヶ月で退職し、当時の恋人都沢和子と共に出家信者となる。その後彼女を麻原に献上。
1989年、坂本堤弁護士一家殺害事件前、教団に批判的な存在(坂本氏)をポア(殺害)について、麻原から一度意見を求められた際、上祐は暴力行為ではなく自らの広報活動によって、批判勢力の影響を和らげるべきだと強く反対。その後、謀議は反対する石井久子や上祐を除いて行われた。坂本堤弁護士一家殺害が起きると、上祐は、教団が起こした事件だと察し、麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。

Image001 ●村井 秀夫(むらい ひでお、1958年12月5日 - 1995年4月24日):オウム真理教幹部。ホーリーネームはマンジュシュリー・ミトラ、ステージは正大師。省庁制が採用された後は科学技術省大臣だった。教団では麻原に次ぐナンバー2、科学技術部門最高幹部と見られていた。大阪府生まれ。子供の頃はSF少年であり、また望遠鏡で星を観察するのが趣味という親から見て全く手の掛からない子供であった。
1977年、
大阪大学理学部物理学科入学、同大学院修士課程を卒業後、神戸製鋼に入社したが、1987年オウム真理教に入信し正大師になる。入信理由は「かもめのジョナサン」の心境になったから。オウム真理教教祖麻原彰晃の側近の一人。坂本弁護士一家殺害事件・松本サリン事件・地下鉄サリン事件など、教団が起こした事件の中心人物。
1990年の衆議院議員総選挙に東京都第8区から真理党公認で立候補、落選。教団が報道される中でもスポークスマンとして登場。
1995年4月23日(村井秀夫刺殺事件)東京都港区南青山の教団東京総本部前で山口組系羽根組組員、右翼団体構成員徐 裕行(在日韓国人)に刺され、翌24日午前2時33分に
死亡。6月、オウム出版『巨星逝く-悲劇の天才科学者村井秀夫』(カセット・テープつき)出版された。
 村井の死により、村井が知りうるオウム事件に関する供述が聞き出せなくなり、事件解明を遠のかせた。死亡により村井本人は起訴されなかったが、オウム幹部の裁判という形で村井のオウム事件への関与が認定された。

Dd77f0c1_2  ●青山 吉伸(あおやま よしのぶ、1960年3月9日 - ):大阪府柏原市出身の元オウム真理教幹部。元弁護士。ホーリーネームはアパーヤージャハ。教団内でのステージは正悟師で、教団が省庁制を採用した後は法務省大臣だった。京都大学法学部卒
1988年、通勤により起きた腰痛治療のために、オウム真理教の主催のヨガ道場に通い始め、麻原彰晃の著作を読むようになった。
1989年に入信、翌年に出家。教団顧問弁護士を務めた。本人談によれば、この修行で腰痛が快癒したという。
1990年10月に国土利用計画法違反事件で逮捕された後に保釈される。
1995年3月に地下鉄サリン事件が起こり、一連のオウム真理教事件の教団信者らが逮捕されると、弁護士という立場を生かして勾留している信者と接見した。検察に自白をしていた被疑者たちは、青山と接見すると、急に自白を拒むようになった。捜査幹部は青山が弁護士という立場で接見交通権を悪用して「修行が足りない」等と脅して、オウム事件の露見を阻止しようとしていたと主張している。
1995年5月3日、上九一色村の肥料会社社長に対して、サリンを撒いたと告訴したが、逆に青山が肥料会社社長への名誉毀損の罪で5月4日に逮捕される。
教団と対峙していた滝本太郎弁護士をサリンを用いて殺害しようとし、滝本弁護士サリン襲撃事件に滝本弁護士を呼び出す役割を果たしたとして、殺人未遂の罪で起訴。2002年2月、東京高裁において
懲役12年の刑が確定した。すでに出所している。

Hayashi5 ●林 郁夫(はやし いくお、1947年1月23日 - ):元オウム真理教幹部。元医師。教団が省庁制を採用した後は治療省大臣だった。地下鉄サリン事件の実行犯。ホーリーネームはボーディサットヴァ・クリシュナナンダ。

1947年、品川生まれ。父親が医師、母親が薬剤師の開業医の家に生まれた。小さい頃から思いやりのある子といわれ、人助けがしたくて医師の道を選ぶ。専門は心臓血管外科。慶應義塾中等部から慶應義塾高等学校を経て
慶應義塾大学医学部に入学。テニス部に所属し、上達につながるのではと考えて、本で見たヨーガを1日15分取り入れる。
 医学部卒業後、慶應義塾大学病院、栃木県済生会宇都宮病院、国立療養所晴嵐荘病院(現・茨城東病院)などに勤める。臨床医として癌などの死病の患者と接するうちに、現代医学や科学が乗り越えられない「死」に対して深く考えるようになる。

1977年、桐山靖雄の本に感化され、阿含宗の正式な信徒となり、約10年在籍したが、自身の修行の成果が出ないと悩んでいた。
1978年、アメリカデトロイト、サイナイ病院外科研究所に留学、1981年帰国後、栃木県済生会宇都宮病院、茨城県東海村の国立療養所晴嵐荘に再び勤めるが、手術は出来ても人の心は救えないと悩んでいた。同時に予防医学の重要さを認識するようになり、心臓病などはストレスと深くかかわっていると認識し、患者にヨーガ、瞑想法、呼吸法などを紹介していた。
1987年、オウム真理教への入信 書店で麻原彰晃の著書と出会う。信者のヨーガやツァンダリー、インドの伝統医学、オウム食(菜食)などを用いた修行メニューによる具体的な成就記事などに強く衝撃を受け、傾倒していく。

1989年オウム真理教に入信、1990年5月に麻酔科医であった妻、子供達と共に一家で出家信者になった。出家の際、目黒に所有していたマンションを売った額を含めた全財産8000万円、車2台を布施として寄付した。「師長」になり、東京都中野区にあった教団付属医院(AHI)の院長に就任。1994年には治療省大臣。教団の犯罪に従事する信者の指紋消去手術を行った行為などがワイドショーで報じられた。

1995年、地下鉄サリン事件の実行犯として千代田線にサリンを撒布し2人を殺害、231人に重軽傷を負わせた。同年の4月8日に石川県穴水町の路上で放置自転車を盗んだ容疑(窃盗罪)で逮捕された。事件直後、林は麻原彰晃が「地下鉄の騒ぎでオウムが疑われてるのは心外だ」と発言したことで、麻原に対して不信感を抱いた。逮捕後も麻原の「シヴァ神にポアされて良かったね。マントラを1万回唱えなさい」などの発言で、不信感を持った。

5月6日に地下鉄サリン事件の全面自供を始めた。逮捕当初、林は「警察とオウム真理教との戦いだ」と発言し、断食を宣言するなどの行為があったため、死刑を免れないと思われた。
 その後、捜査に協力的な点や、公判の中で遺族・被害者側が改悛の情があるとして、必ずしも死刑を求めなかったこと、サリン散布の実行犯であることを捜査側が関知していない段階で、自ら告白した点、罪の呵責に喘いでいる点などを考慮し、検察は林の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかになったことが、自首に相当するとの判断を下した。このため検察は死刑ではなく無期懲役を求刑したが、無差別大量殺人事件の実行犯に対し検察側が自発的に求刑を軽減するのは極めて異例のことである。
1998年5月、東京地裁で
無期懲役の判決が下る。

 
検察側も林側も控訴せず、一審で確定し、千葉刑務所に現在服役中。その後、地下鉄サリン事件の他の4人の散布役は全員死刑が確定したことから、地下鉄サリン事件の散布役の中ではただ一人死刑判決を免れることになった。後に、サリン事件で亡くなった被害者の名前を毎日念仏で唱えていると報道された。
『文藝春秋』に手記を発表。その中で、麻原が持つ学歴コンプレックスから高い学歴をもつ自分に敢えて汚い仕事をやらせた、と解釈している。手記の印税等は被害者への救済金に充てられている。

Pn2009062701000628___ci0003 ●早川 紀代秀(はやかわ きよひで、1949年7月14日 - ):兵庫県出身の元オウム真理教幹部。ホーリーネームはティローパ。教団内でのステージは正悟師で、省庁制が採用された後は建設省大臣だった。麻原の信頼が厚く、数々の犯罪に手を染め、裏の実行部隊トップといわれた。神戸大学農学部でバイオを学び、大阪府立大学大学院では緑地計画工学を専攻。修士論文は「ユートピア都市論」であった。修了後、大手建設会社に勤務。公金横領が発覚しクビになる。

1986年に阿含宗を退会し、オウム神仙の会に入会。青年層が多いオウム幹部の中にあって数少ない中年であり、教祖の麻原よりも年上である(麻原よりも年上の幹部としては他に林郁夫がいる)。
1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件は、TBSのスタッフが坂本堤弁護士のオウム批判のインタビュー映像を放送直前に早川に見せたことがきっかけとなった(TBSビデオ問題)。オウムの政界進出を主張し、第39回衆議院議員総選挙の教団幹部の立候補を推進した。

 熊本県波野村の国土利用計画法違反事件で逮捕、保釈されている。保釈中も教団幹部として3年余に21回ロシアを訪れた。この訪問中、1994年6月に大型ヘリコプター「ミル17」をロシアから購入している。
1995年4月に、拳銃を別の車に移し変えようとしたところを不法侵入罪で逮捕。教団が初期に起こした殺人事件など計7事件で起訴され、一審で死刑判決。控訴、上告はともに棄却され、2009年7月17日、
死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは6人目。
ヘリコプターによるサリン散布計画(11月戦争計画)の根拠として、早川ノート、早川メモというものが一時期話題になったが、本人によれば、実は岐部ノートであるとされる。

20111256 ●遠藤誠一(えんどう せいいち、1960年6月5日 - ):元オウム真理教幹部。北海道札幌市出身。ホーリーネームはジーヴァカ。教団内でのステージは正悟師で、1994年6月に教団に省庁制が採用されてからは厚生省大臣になり、後に第一厚生省大臣(第二厚生省大臣は土谷正実)。院獣医学専攻修了。この時、獣医師の資格を取得。京都大学大学院医学研究科博士課程中退。専攻はウイルス学。博士課程中退とともにオウム真理教に出家した。
1988年に教祖の麻原彰晃が出版した著書「マハーヤーナ・スートラ 大乗ヨーガ経典」の広告では、遠藤は、「一切のものは原因と結果の連続に過ぎない」という麻原の言葉に、長く心を縛り付けていた重荷から開放されるような安らぎを感じ、ここまで真理を公開した麻原に何とか報いなければならない気がしたと述べている。
事件への関与、坂本堤弁護士一家殺害事件のきっかけの一つになった「血のイニシエーション」で麻原彰晃のDNAの効果の是非が話題になったが、麻原のDNAを培養した人物でもある。第7サティアンに隣接したプレハブ建物・ジーヴァカ棟を研究施設として与えられ、ボツリヌス菌、炭疽菌、ペスト菌などの細菌兵器の培養をおこなっていた。サリンの製造においては土谷正実とともに中心的人物であった。

1995年4月26日、富士山総本部に立てこもっていたところを発見され、土谷とともに逮捕される。松本サリン事件の実行犯、地下鉄サリン事件の共同正犯、VXガス襲撃事件などで殺人及び殺人未遂などの罪で起訴された。
2002年10月11日の第一審、2007年5月31日の控訴審ともに死刑判決が下され、2011年11月21日上告審である最高裁第1小法廷において上告を棄却され
死刑判決が確定した

Es ●新実 智光(にいみ ともみつ、1964年3月9日 - ):愛知県出身の元オウム真理教幹部。ホーリーネームはミラレパ。教団内でのステージは正大師で、教団が省庁制を採用した後は自治省大臣だった。1986年のオウム真理教の最初に開かれたセミナーから出席し、岡崎一明や大内利裕と並ぶ古株。坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件の実行犯。地下鉄サリン事件では運転手役。2010年2月に死刑が確定

愛知県立岡崎東高等学校、
愛知学院大学法学部卒。学生時代は、その風貌から「空海」というあだ名をつけられたこともあった。友人にも恵まれ学生生活も楽しむが、高校生時代より精神世界に興味があり、多くの宗教団体に入信する。麻原の言う「苦を感じなければ修行の道に入らない」との鉄則を高校時代から感じていた。これは新実の顔に生まれつきの傷があったため、その傷を「苦」と感じていたためである。

高校時代に、その団体に入れば傷や病気が治ると信じ、ある宗教団体に入信するが、教義は「入信しない者の魂は、神の意思によって滅ぼされる」というものであった。新実は、そこには何ら神の愛はない、単なる神のエゴイズムに過ぎぬと感じ脱会する。これは新実にとって、最初の宗教への挫折となる。
 その後は、読書に打ち込んだり、仙道的なことや瞑想を行うが次第に宗教から遠ざかり、空手など肉体的鍛錬に興味が移る。
 大学時代 友人の勧めで大学時代の終わりに、再び別の宗教団体に入信するものの、同様に「よいことをしない魂は滅びる」との教義に「存在というものは、この神々の将棋の駒に過ぎないのか、いつでもその神々の意思によってなくなるのだろうか」との思いをいだく。しかし、新実は「私は決してそうではない、私たちには本当の力があるはずだ、神と同じレベルの魂が内在するはずだ」と感じるに至る。このため、神が持つとされる霊力を自分自身も持ちたいと考えるようになる。
 このときにオカルト雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』などで麻原彰晃の空中浮揚の記事が目にとまり、ヒヒイロカネのプレゼント
に応募したことがきっかけで正月のセミナーに参加する。大学4年生のとき、オウムの前身「オウム神仙の会」へ入会。大学卒業後は食品会社へ就職するが、二度も自動車事故を起こしたことから、「魔境へ入り込んだ」と信じ込み、会社を半年で退職し出家。
 オウム入信後 麻原に惹かれたのは、他の宗教の多くが「神の啓示を受けた」とするものが多いのに比し、麻原は自分自身で修行をし苦難を乗り越えた
「どこにでもいるような人」であったからだという。最初のセミナーで、新実はその雰囲気が自分自身が求めていたものと直感する。そこでバイブレーションに浸りながら修行することで身体の浄化作用を実体験し、宿便が出たり、体調の回復を実感する。この神秘体験によって、深く麻原に帰依するに至る。当初は半信半疑であったもののその考えは180度転換する。

 シャクティーパットにより、アストラル体の浮遊を感得し、体が痺れ多大な至福感を覚える。このときに「麻原に一生付いていくほかない」と確信する。このときの体感を「生死を越える」に詳しく書いている。麻原に礼を言い、道場へ行くと、突然肉体のクンダリニーが昇り、シャクティー・チャクラーが起こる。ムーラ・バンダ・ウディヤーナ・バンダが起こり、その後背中の方が盛り上がり、首のところでジャーランダラ・バンダが起こり、頭の方へすっと抜けた感じがした。これ精神集中やマントラを唱えるだけで自分自身で抑えられないほどに、すぐに起こるようになる。新実自身によれば「この霊的な変化が本当に自分の内面で起こったことをきっかけとして、やっと信に目覚めさせてもらった」らしい。

 新実は前世に並々ならぬ興味を持っており、他の信者とも前世を話題にすることが多かった。ある女性信者に宛てた手紙では「91カルパ(宇宙の創造、維持、破壊の周期を教団では1カルパと定義していた)前にあなたと夫婦だった」と書いていた。麻原の4女の松本聡香(ペンネーム)を追い回しては「さとちゃんはどこから来たの」と聞いていたが、聡香が1度だけチベット密教のカギュ派の僧侶の名前を思いつきで答えたところ、逮捕されたあとに面会に来た信者に伝え広めた。

1987年12月3日、24歳のときにオウム真理教内の独房に2週間こもり、クンダリニー・ヨーガで成就したと麻原彰晃に認定され、ミラレパのホーリーネームを授けられる。
1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件では坂本一家殺害の実行犯として坂本家に進入し、坂本の妻(当時29歳)を絞殺した。
1990年の衆議院議員選挙に東京10区から出馬し落選した。

Pn2009070___ci0003 ●井上 嘉浩(いのうえ よしひろ、1969年12月28日 - )は、元オウム真理教幹部。京都府京都市左京区出身。ホーリーネームはアーナンダ。教団内でのステージは正悟師。高校1年時に阿含宗入信。京都の私立洛南高等学校卒業後、日本文化大学法学部に入学するも直後に出家し、夏休みに同大学を中退。非常に信心深く、修行に際しては同じ行を繰り返し行うことで知られていたことがワイドショーに出演した元信者の告白などで語られている。ワイドショーでは水中クンバカの行を行い、5分30秒も水中で結跏趺坐を組み続ける姿も放映された。
 地下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。また、教団が省庁制を採用した後は諜報省次官としても抜擢された。その背景には教団代表麻原彰晃の寵愛があったという。5月15日、目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件で特別手配されていたが、秋川市で発見され、公務執行妨害の疑いで現行犯逮捕される。乗っていた車の中から爆発物の原料となる物質が発見された。
 駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件、被害者の会会長VX襲撃事件、目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件、地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件に関与したとして起訴。地下鉄サリン事件を起こすことを決定したリムジン謀議では、教団への捜査の攪乱のために毒ガスを使用することを最初に提言した人物であった(謀議の途中で硫酸に変更する提言をしたが、最終的にサリン散布が決定された)。
 第一審では死刑の求刑だったが、目黒公証役場事務長事件では監禁罪を認めたが致死罪を認めず、地下鉄サリン事件では連絡役に留まるとして無期懲役判決が下った。オウム真理教事件において死刑求刑に対して無期懲役判決が下ったのは初めてであった。検察が控訴し、控訴審では目黒公証役場事務長事件の監禁致死罪を認め、地下鉄サリン事件の現場指揮者ではないが総合調整役として無差別大量殺人に重要な役割を担ったことを認定して死刑判決を受けた。2009年12月10日に上告棄却、2010年1月12日に上告審判決に対する訂正申し立てが棄却され、
死刑が確定した。
 かつて麻原の妻である松本知子に口答えしたために、麻原から厳しい肉体的罰を受けて、一週間ほど立つのにも苦労した経験があったことを公判中に語った。
 ウパーリこと中村昇と並んで教団内での2大プレイボーイといわれた。出家後まもなくして幹部に抜擢されたが、個室で女性信者の面談をするようになるとクレームが殺到した。当初、他の幹部は信じなかったものの、その数が50名を超えたことから麻原彰晃が注意をした。一方、井上はある女性幹部と交際していた。オウムの教義ではこれは破戒に当たるため、女性幹部は懺悔をするために麻原の元へ行ったが、麻原は一方的に井上を擁護したことから、女性幹部は、自分の記憶がおかしいのではないかと考え込んでしまった。

関連事件 [編集]薬剤師リンチ殺人事件
駐車場経営者VX襲撃事件
会社員VX殺害事件
被害者の会会長VX襲撃事件
目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件
島田裕巳宅爆弾事件
地下鉄サリン事件
新宿駅青酸ガス事件
東京都庁小包爆弾事件

9c15 ●土谷 正実(つちや まさみ、1965年1月6日 - )は元オウム真理教幹部。東京都出身。筑波大学大学院化学研究科修士課程修了。有機物理化学を専攻。ホーリーネームはボーディサットヴァ・クシティガルバ。教団内のステージは正悟師で、地下鉄サリン事件の3日前に尊師通達で昇格した。1994年7月に教団に省庁制が採用された後は第二厚生省大臣だった。
 土谷はサリンやVXガスの生成、LSDの合成における中心人物で、中川智正や遠藤誠一らとともに教団での薬物密造に関与していた。
 東京都立狛江高等学校から筑波大学第二学群農林学類へ進学。卒業後は同大学院化学研究科へ進学。修士課程2年の春入信。1991年9月に出家。
1993年8月にサリンの大量生成方法を完成させた。中川智正たちと同年11月にサリン600グラム、12月にはサリン3キログラムを製造し、94年2月にはサリンを含む30キログラムの溶液の製造にも関係した。山梨県上九一色村の第7サティアンのそばに専用のプレハブの実験棟クシティガルバ棟を持ち、サリン生成実験をしていた。製造の指示は、主に麻原彰晃や村井秀夫から出されていたとされている。

1994年5月には遠藤誠一とLSDの合成に成功し、同年7月にはVXガスの製造を開始した。
土谷らが製造したサリンは1993年12月18日の池田大作サリン襲撃未遂事件、1994年5月9日の滝本弁護士サリン襲撃事件、同年6月27日の松本サリン事件などに使用された。
1995年1月に、土谷は保管していた物を廃棄した。 同じく中間物質(土谷が分析し確認したもの)は、この時に廃棄した。
VXガスは1994年12月2日の駐車場経営者VX襲撃事件、12月12日の会社員VX殺害事件、1995年1月4日のオウム真理教被害者の会会長VX襲撃
事件などに使用された。

1994年8月、村井秀夫の指示のもとに青酸やホスゲンの製造にも関与し、製造されたホスゲンは同年9月20日の江川紹子ホスゲン襲撃事件に使用された。
1994年から開始されたLSDや覚醒剤を用いたイニシエーションにも、土谷らによって合成されたLSDが使用されていた。
1995年4月26日、第2サティアンの地下の隠し部屋で、指名手配中の女性容疑者をかくまったとして、犯人隠匿容疑で遠藤誠一ら7人と現行犯逮捕された。後の供述から、7つの事件への殺人罪などに問われ再逮捕、起訴された。
公判の人定質問で職業について「麻原尊師の直弟子です」と答えたが、現在は「現在の麻原氏にはついていけない」「一審中はAへの信仰を捨てなかった」としている。罪状認否では薬物密造事件は認めたが、他の事件で無罪を主張した。2003年7月14日、検察側は論告で「麻原彰晃の頭脳として、悪魔に魂を売り渡した殺人化学者。教団で唯一、サリン、VXの生成方法を確立して大量無差別殺人を可能にした。被告なくしてはサリンなどの化学兵器はなく、無差別大量殺人事件もなかった。刑事責任は松本被告に準じた存在」として死刑を求刑した。この求刑はオウム真理教事件の裁判では一審判決の求刑としては最後の求刑である。弁護側は「殺人にVXガスやサリンを使うとは知らずに生成に関与させられただけで殺意はなく、事前共謀にも参加していない」と無罪を主張した。
2004年1月30日の第一審は手配信者の隠匿の罪は無罪としたが、「松本事件では捜査段階の供述で他の教団幹部らが不特定多数を殺害しようとしていることを認識していたと供述している点から犯行を幇助する意思があった」「地下鉄事件では捜査段階の供述で自分が製造したサリンが近い将来に地下鉄を含む東京都内で使われることを知っていたと判断でき、松本事件とは異なり共同正犯の責任を負う」と他の6事件で有罪とし、死刑判決を言い渡した。
2006年8月18日の控訴審は控訴を棄却して、死刑判決を維持。
2011年2月15日、最高裁第3小法廷は被告側の上告を却下。同3月8日、最高裁第3小法廷は死刑判決に対する被告側の訂正申し立てを棄却し、
死刑が確定

J01 ●岐部 哲也(きべ てつや)はオウム真理教の元幹部。ホーリーネームはマハーカッサパ。大分県出身。省庁制が採用された後は「防衛庁長官」となる。
大分県で生まれた。
高校卒業後は美術専門学校でデザインを専攻した。卒業後はデザイン会社に就職しデザイナーをしていた。愛称は「テッちゃん」

1987年に教団前身のオウム神仙の会に入信した古参信者で、入信後もオウム真理教の出版物の装丁など、デザイン関係を手がけていた。
写真撮影の技術にも優れており、有名な「麻原彰晃の空中浮揚」写真も岐部が撮ったという。
1990年の第39回衆議院議員総選挙に真理党公認で、当時の東京都第10区から立候補している。

1995年4月8日に自動小銃の部品を隠すために無断で地下駐車場に侵入した建造物侵入罪で逮捕された。裁判の結果、
懲役1年の実刑判決を受け、 翌年に府中刑務所を出所した。
その後、教団には戻らず家族と一緒に過ごした。
2004年7月7日、警察庁長官狙撃事件に関与した殺人未遂罪の容疑で逮捕されたが、証拠不十分で7月28日に釈放され、9月17日に不起訴となった。

T_tky201111140601●中川智正(なかがわ ともまさ、1962年10月25日 - ):元オウム真理教幹 部。岡山県出身。ホーリーネームはヴァジラ・ティッサ。麻原彰晃の主治医。菊池直子が逮捕後、一番慕っていたとの手記が発見される。
1977年岡山大学教育学部附属中学校、1980年岡山県立岡山朝日高等学校、1988年京都府立医科大学医学部医学科卒業。大学では柔道部に所属し大学祭の実行委員長を務めるなど、明るく温厚で実直な人柄から交友関係は広かった。

1988年2月にオウム真理教に入信。入信直後も人格的な変化は見られなかった。
1988年5月に医師免許を取得し翌月から大阪鉄道病院に研修医として就職、勤務態度は真面目だった
1989年8月末、周囲の反対を押し切り退職し出家。
逮捕後の手記では、人の死に際し、表向き沈痛な表情の上司や同僚らが、何事もなかったように談笑する姿への失望が、退職とオウムへの傾倒の理由のひとつであった事を述べている。
1995年8月22日医師免許取消処分。

(坂本堤弁護士一家殺害事件)。
午前3時、中川は他の幹部のあとより坂本の自宅へ入る。先頭は新実智光と端本悟、中川は一番後ろだった。
ドアは開いており、最後に入った中川はドアを閉めた際に音を立ててしまい、他の幹部に「静かにしろ」と叱られる。家族3人が川の字になって寝ていた。緊張で胸がどきどきしどおしだった。中川は坂本に注射。その後、1歳長男龍彦にも手をかける。目を覚まして泣かれ、「なんとかしろ」と言われ、あわてて座布団をかけ、口をふさぎ殺害。

 3人の遺体を車に乗せ富士山総本部へ向かう。その車中、中川は怖くて何がなんだか分からず目をつぶっていたが、体の震えが止まらなかった。総本部に到着した時には呆然としていたが、麻原から「顔色が悪いね」といわれる。
 この事件のあと、中川は麻原の側近に取り立てられ、その後の一連の事件に関わっていくことになる。
 坂本弁護士の事件はいちばんショックであったが、そのあとは断れば自分もそういう目に遭うのだと思うようになる。


中川智正手記
「宗教は人の心に平安をもたらし、人と人をつなげ、平和な社会を築く肯定的な作用があるが、その半面、自らの正しさを強調するあまり、独善的・排他的になったりもする」と持論を展開。「(負の面が)極端な形で出たのが、一連の事件だったと思う」と分析した。
 

Images ●松本 知子(まつもと ともこ、- ):オウム真理教元幹部(出版事業を行っていた株式会社オウム社長)にして、麻原彰晃こと松本智津夫の妻。ホーリーネームはマハーマーヤ、のちにヤソーダラーへ変更となる。旧姓は石井(石井久子とは血縁関係はない)。

千葉県立木更津高等学校卒業後、浪人し、代々木ゼミナールに通う。予備校時代に麻原彰晃と知り合い、
大学進学を断念し結婚

オウム真理教  麻原がオウム真理教を立ち上げる中で、妻として献身的にサポート。麻原との間に男2人、女4人の子を作る。石井久子、三女アーチャリーに続き3番目に正大師となり、教団内でも重きを成していった。教団が省庁制を採用した後は、郵政省大臣となった。

 一連のオウム事件の発覚に伴い、薬剤師リンチ殺人事件で逮捕、起訴される。1998年5月14日の第一審で懲役6年の判決を受け、1999年9月9日の控訴審、2001年6月26日の上告審では
懲役6年の判決を受けた。和歌山刑務所にて服役し、2002年10月15日に刑期を満了出所した。

  出所後は教団に戻っておらず、2006年半ばまでは教団との関わりは薄いと見られていた。ところが、2006年7月20日、アーレフ信者の容疑にかかわる家宅捜索の報道を通じて、松本知子と三女を中心として松本家が信者からの資金援助を受けていたことが明らかとなり、加えて、8月に四女が教団との関係を断つためとして、松本家を離れて江川紹子に未成年後見人になることを依頼し、江川が承諾したことが報じられ、こうしたなか、教団が2002年12月以来松本家に「松本知子作の絵画の使用料」を名目として継続的に資金提供してきたことまで報じられた。

 こうした経緯を経て、2006年9月20日、教団が契約に基づいて2002年12月以来松本家に月40万円を絵画の使用料として支払ってきたことを、分裂状態の反代表派に属するアーレフ広報部、上祐派広報部の双方がともに認める見解を発表した[3]。以後の支払いを打ち切るか継続するかについては、両派で意見が対立し合意に達しなかったため、契約は継続されているという。

 なお、上祐史浩は2007年3月発表のインタビューにおいて、絵画の使用料契約が当初から実質的に生活援助であったことや、その後信者から松本家への資金提供の流れがあったことを認め、また反代表派の信者が松本知子を含む松本家の人々と個人的接触をしてその意向が教団に反映される、といった形で松本家が実質的に教団に影響を与えていると述べ、四女の告発を事実として認めている。

2007年3月20日の報道によると、教団元信者の男性から松本家の子ども4人が住居提供を受け、海外旅行や私立学校への入学などの大きな出費をする一方で収入の裏付けとなる勤労実態がないことから、公安当局は男性が1000万円以上になる生活費を丸抱えしており、男性が隠れ信者の可能性があるとみているという。
 また、アーレフ広報部が生活支援については否定する一方、以前から報じられている松本知子への絵画使用料については認め、見直しを含めた検討をおこなっているとしていると報じている。

Ishii ●石井 久子(いしい ひさこ)は、元オウム真理教の幹部。
短大を卒業後、保険会社に入社。その後、会社の同僚だった飯田エリ子に誘われ、オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」に入会。その後、保険会社を退社して出家。教団の中ではかなり早い段階で正大師となった。

1990年の第39回衆議院議員総選挙には真理党から東京都第3区から立候補したが落選した。省庁制を採用した後は、大蔵省大臣となった。1995年に一連のオウム真理教事件が発覚がきっかけとなり、
教団を離脱した。

Iida2 ●飯田エリ子(いいだ えりこ)は元オウム真理教幹部。神奈川県横浜市出身。血液型はO型。ホーリーネームは始めラクシュミー、後にサクラー。教団内のステージは正悟師で、省庁制が採用された後は東日本の信者を統括する東信徒庁長官だった。
最古参のメンバーで、まだ家庭的で和気藹々としたヨガサークル「オウム神仙の会」を石井久子とともに作っていた主要人物である。
一般人を勧誘して入信させる才能はオウム真理教信者中№1であった。

文化女子大附属杉並高校を経て、
文化女子大学短期大学部生活造形学科を卒業し、デパート店員を経て、日産火災海上保険に入社。1984
年、健康のためにヨーガ教室鳳凰慶林館に通い始め、会社の同僚であった石井久子を誘いオウム神仙の会に入会。その後、保険会社を退社して出家した。

1987年初め頃には同教団信者の岡崎一明と恋愛関係にあった。1990年の第39回衆議院議員総選挙には真理党から東京都第11区から立候補したが落選した。
1995年の目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件では監禁致死罪に問われ逮捕、起訴された。一連のオウム真理教事件指名手配犯らの、逃走幇助の指揮官だったともされている。
1996年10月26日の第一審では懲役7年、1998年9月10日の控訴審では
懲役6年6ヶ月の判決が下された。上告をせず刑が確定し、2002年8月25日に刑期満了で出所した。服役中の2002年3月に脳出血で倒れ、言語・記憶に深刻な障害を負い歩行もままならない。

Mai_200 ●都沢 和子(みやこざわ かずこ - ):オウム真理教の元幹部。東京都出身。ホーリーネームはウッパラヴァンナー。省庁制が採用された後は、「西信徒庁長官」となった。

 短大在学中、ESSに所属し、早稲田大学のESA所属の上祐史浩に出合った。
 短大卒業後、社会人となるが、恋人上祐史浩がオウム真理教に入信したことを知り、会社を辞めてオウム真理教に入信した。
入信後は、名古屋支部長などを歴任した。教団の出版物やビデオに出演し、信者を獲得していった。また、上祐史浩と別れ、石井久子らと同様、松本智津夫の愛人となる。教団が起こした事件が明るみに出た後、
教団を脱会した。

Okazaki2 ●岡﨑 一明(おかさき かずあき、1960年10月8日 - ):オウム真理教元古参幹部。ホーリーネームはマハー・アングリマーラ。
山口県立小野田工業高等学校工業計測科(現・電子計測科)に入学。高校の学費は奨励金で賄い、日曜日はゴルフのキャディーや遊園地のアルバイトや土方をやり、その収入で身の回りの生活用具をそろえ、養父母にタバコ銭も上げていた。

昭和60年3月頃、漢方薬剤師で鍼灸師から勧められ、阿含宗に入信。桐山靖雄から護宝塔を受け、千座行を始める。在家では解脱は無理など、更に1度、除霊した先祖の霊が再び取り憑くなど、欺瞞や詭弁が多く、桐山自身、解脱の方法が示せないことが分かり、脱退。

昭和60年夏頃、精神世界の雑誌『ムー』(学研)に麻原の空中浮揚の写真を見て、直接、麻原に会う。
「相当の悪業を積んでいますが、それでも解脱はできるのでしょうか?」と、今生で自己の解脱が可能か否かも尋ねた。
 すると麻原は、「はい、できます。あなたがそう思っている時点から、あなたの罪は消えています。それはもう、解脱を求めようとする時点から、その道に入っているんです。あなたにも解脱はできます。」と、麻原の言葉によって、
「ああ、この人は違うな。本物かもしれない。」と、入信の決意に変わった。それまで本物のグルを求め、新興宗教の教祖や神通力があるとされる著者、活動家に直接電話して、解脱や救済について問答し、確かめた。当時、そのだれもが傲慢な態度で、麻原のような指導者はいなかった。

1989年11月3日の朝、麻原に命令されて他の5人の実行犯と共に坂本の住んでいた横浜市磯子区洋光台のアパートへ。それぞれ役割分担をして出勤する坂本を待ち伏せていたが、当日が祝日であることを忘れており、坂本は家から出てこなかった。
 そこで、岡﨑が麻原の命令無しにアパートの鍵を調べて、施錠されていなかったことを知る。早川を通して麻原に知らせると、深夜に家族しかいなかったら「家族ごと殺害しろ」と命令される。岡﨑がもう一度調べて施錠されていなかったから、岡﨑らは午前3時頃に坂本一家殺害を遂行。岡﨑は坂本を絞殺した。その後、一家の遺体をそれぞれ別の場所に遺棄した。

 岡﨑の自首により「坂本堤弁護士一家殺害事件」は、オウムの犯行だと分かったために、「自首は成立」した。地下鉄サリン事件の実行犯だった林郁夫は自首による刑の軽減が認められて無期懲役となったが、岡﨑の公判では、自首の動機が罪の意識からではなく、脱走した教団から自分の身を守るためであったこと、遺族が極刑を望んだことから「自首による刑の軽減」は適用されずに、死刑の判決が下った。オウム真理教事件において、一番初めに
死刑が確定した人物である。

オウム教団重要メンバーの経緯を見る 
オウム真理教教祖麻原、死刑決定: nozawa22  
オウム真理教が目指したもの: nozawa22
 
麻原彰晃オウム真理教 上祐史浩の立場
 

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