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2015年2月26日 (木)

二二六事件と鈴木貫太郎、妻たか&昭和天皇の聖断、阿南の死

きょうは、二月二十六日、いわゆる二二六事件の日だ。NHK歴史ヒストリアからヒントを得た、多様な色付けがある寸借エッセイです。000062 二二六事件で鈴木侍従長邸へ乗りつけた反乱軍の兵士によって、夫鈴木貫太郎が銃弾4発を受けて、倒れた。000008「とどめ!」と兵士が言うのを聞いて、鈴木貫太郎の妻たかは、
「とどめは止めてください」と叫び、夫の命を救ったという。
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 たかは、戦後、近所の人に乞われて、二二六事件の話をした。「その時の話をするとき、手が震えて顔は紅潮していたと、それを録音した人がいう。

“十何人ぐらいの兵隊さんが入ってきて
「閣下でありますか」って聞いているのです。
「ああ、そうだ」「わたしは鈴木だ」って言って「何事が起こってこんな騒ぎをしているのか。話したらいいじゃないか」

000015 これには兵士たちは返事をしないですよね。
 私(妻たか)のところには、二人の兵士が剣付き鉄砲で、座っているんですからね、どうすることも、動くこともできないけど。すると
(兵士が)「ヒマ(時間)がありませんから撃ちます」
 鈴木に銃弾4発が撃ち込まれた。
 兵隊さんたちの方はね「とどめ、とどめ」と大きな声で言ったんです。
私が見ていると、まだ主人が息をしていますからね、別れでも、ひと言生きているうちに言いたいと思って
「とどめだけは、どうか待ってください」
 安藤大尉がそれを聞いて
「とどめだけは残酷だからよせ」
000010 安藤さんが私(妻たか)の側に来てね「奥さんですか」っていうから「そうです。何ごとがあってこんなことになりましたか」って、聞いたのです。
「陛下の考えていることと我々躍進日本を志す若い者との意見の相違です」って”

 反乱軍の引率してきた
安藤隊長は「とどめはしないでいい」と言って、兵士たちは、貫太郎の倒れた姿に礼をして去って行ったという。妻の機転で鈴木貫太郎は命が救われた。 

 額に一発、心臓横に一発、腹に一発、肩に一発。辺りは血の海で、治療にきた医師が足をとられて転ぶほどだったという。それでよく助かったというが、これは初期手当てをたかが手早くしたからだ、という医師の見方だ。 

 東京帝国大学教授菊池大麓の推薦で、二十二歳の足立たか(東京女子師範学校付属幼稚園教師)が、幼少時の迪宮(みちのみや/昭和天皇)明治天皇の皇孫御養育掛となった。
 帝大教授の先生が推薦というだけあって、夫貫太郎の危機にも動揺しないで、治療に当たる度胸は据わっていたのだろう。
000053 侍従長木戸孝正から新任の養育掛として紹介されると、
 
「足立たかと申すか」と、数え五歳の昭和天皇は声をかけたことが記録されている。五歳の幼児であっても、既に威厳を具えた言葉遣いを身につけていた。
000055 天皇の威厳を既に有している迪宮も、他方では母親の暖い肌を慕って、今日着任したばかりのこの養育掛に実の母に対する如くに甘える一人の坊やにすぎないとわかり、彼女は気が楽になったという。足立たかは、1905年(明治38年)から1915年(大正4年)まで、養育掛を勤めた。役目を終えたのち、大正四年、三十二歳の年に、やもめぐらしをしていた鈴木貫太郎海軍少将に嫁ぐ。000061 この経緯があって、昭和天皇は、侍従長・総理時代の鈴木に、「たかは、どうしておる」、「たかのことは、母のように思っている」と、語ったと言う。

 鈴木貫太郎は、日露戦争、日本海海戦のときには、第四駆逐隊司令として、ロシアのバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で撃沈する華々しい功績を挙げた。そのため連合艦隊参謀秋山真之から「(功績が多いから)1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた。貫太郎のめざましい
働きのジョークだっただろうが。000029 彼は、軍人が政治に介入するべきではないとしていた。

 終戦時の陸軍大臣阿南 惟幾(あなみ これちか)は、1929年(昭和4年)から昭和8年当時、天皇の鈴木貫太郎侍従長の部下として、侍従として仕えた。阿南は、鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その気持ちは終生変わるところがなかった。
 しかし、戦争最高指導者会議で陸軍を代表して意見を述べるときは、戦争継続を主張して止まなかった。

 阿南 惟幾(あなみ これちか、明治20年(1887年)2月21日 - 昭和20年(1945年)8月15日):日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。000154
 1945年4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。太平洋戦争末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において
戦争継続を主張したが、聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、8月15日に自害して果てた。
 近衛歩兵第2連隊長を経て東京陸軍幼年学校長となった。1936年(昭和11年)2月26日に
二・二六事件が発生し、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った。阿南は、幼年学校生徒への訓話で「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわるべきでないと説いている。
 

 最高戦争指導会議:小磯国昭内閣が1944年8月に、設置。設置目的は、戦争指導の根本方針の策定と、政府・統帥部間の連絡、一元的な戦争指導を行うこと。しかし、統帥部は政府による作戦指導への介入を拒み、一元的指導は実現されなかった。太平洋戦争での降伏声明から1週間後、1945年8月22日に廃止。

 敗戦濃厚になっていることは、客観的に見れば、毎日日本本土は空襲にさらされて、逃げ回る状態では、勝ち目はない。000074それを狂信的な勝利を望む一部の軍国主義者だろうか、必勝を掲げて、国民を叱咤し続けていた。

 最高戦争指導会議では、
000091000092





無条件という文言に反対する阿南陸軍大臣は、東郷外相と激しく対立していた。
 ポツダム(講和)宣言受諾を急げば、ソ連の中立条約を破棄して侵攻するのも防げたし、広島長崎原爆も避けることができた。最高戦争指導会議メンバーは戦争責任を問われるべきだ・・・と後世の我々は問うことができる。

 鈴木貫太郎首相は黙っているが、和平にいきたいというのは、全員、腹ではわかっていただろう。しかし、バックについている陸軍、海軍など、省庁の利益(主張)を外れて個人の言い分を主張できないから、役職として主張実績を見せるために・・・強硬論を述べ続けた。
 8月9日の御前会議中、広島に続いて長崎に原爆が落ちたとの情報が全員にもたらされたが、まだ、陸軍大臣阿南惟幾は降伏条件で折れなかった。

 一番強硬な阿南陸軍大臣は、会議の途中で抜け出して、陸軍に若い人たちが暴走しないか心配で電話をしていた。「希望の条件で進んでいるから、そのまま待機していてくれ」という意味のことを伝えていた。事態は、そうではなかったが、とにかく彼らの暴走で事態が収拾つかなくなることを恐れていた。

 天皇も午前会議前に、阿南だけを呼び、000148 国体護持を主張する陸軍をなだめるために天皇は「(国体護持に)確証がある」と言ったわけだ。そのことで、阿南は一応の納得できた。これで、阿南を会議中に強硬に主張することを止めた。

 阿南は(降伏調印に出席した)梅津美治郎参謀総長とともに戦争の継続と本土決戦を強硬に主張したが、昭和天皇の聖断によって最後には陸相として終戦の詔書に同意した。Mizuri2 
 終戦の詔勅に署名したのち、阿南は鈴木首相のもとを訪れ
「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」と述べた。

 首相は「それは最初からわかっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません」と答え、
阿南は「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」といい、愛煙家の鈴木に、南方の珍しい葉巻を手渡して去った。

 鈴木は「阿南君は別れを告げに来たんだね」とつぶやいている。
また阿南は、最も強硬に和平論を唱えて阿南と最も激しく対立した東郷茂徳外相に対しても、
「色々と御世話になりました」と礼を述べて去っている。
 阿南陸相は、御前会議で強硬に戦争継続を望んでる“イヤナやつ”の印象が強かったが、腹の底は、こんな気持ちだったのか、とようやくわかった。

8月14日午後には、陸軍省の道場で剣道範士斎村五郎と面会し、短時間剣道の稽古。
8月15日未明、陸相官邸で切腹(自害)して果てた。
 5時半、自刃、介錯を拒み早朝7時10分、絶命している。
自ら望んで二時間、苦しんで死んだ。この律儀さというか・・・。

 遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記されていた。
 「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」と辞世の句を残した。1938年(昭和13年)の第109師団長への転出にあたり、昭和天皇と二人きりでした会食の感激を詠ったもの。阿南の葬儀に昭和天皇は勅使を派遣していない。

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