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2014年11月19日 (水)

織田信長が義弟浅井長政を討ち果たす理由 日本の歴史

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Masa3 織田信長が浅井長政に妹お市の方を嫁がせたのには、それだけの信頼をしていただろうし、その同盟関係を堅固にしたい理由があるはずだ。
 それが、なぜお互いに戦う間柄になったのか。

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A1_2 信長の妹お市の方は、信長家臣団の連中には憧れの的で、秀吉など手の届かぬ憧れスターだっただろう。
 小谷城の落城でお市の方が救われると、筆頭家老、柴田勝家を始めとして、特に秀吉は、彼女をなんとかモノにしたかった。しかし、お市は、足軽から昇進した秀吉は下品で見てくれが悪く、大嫌いだった。
 秀吉が信長の後継者になると、お市は柴田勝家こそが織田政権の後継者だといわんばかりに嫁いだ。秀吉の攻撃で北ノ庄城が落城するとわかって、柴田勝家は、「落ち延びて生延びたらどうだ」とお市に勧めた。しかし、生き延びたら秀吉の慰み者になるとわかっていて、救出を望まなかった。よほど、秀吉を嫌っていたのだろう。

(お市の方が、秀吉の妻となって、権力を握る
チャンスがあった・・・。歴史上の北條政子、日野富子のような権力を握り、世の中を動かす物語ができた。戦国女性にはそういう考えが浮かぶようには育っていない、残念ながら)

Map1_2 浅井長政(生まれは、滋賀県長浜市石田町)の領地、北近江は、朝鮮半島からの渡来人が多く、先進知識や技術を持つ人が多かった。縄文時代、弥生時代から土着の人々多い他の地域より、北近江は文明開化された土地であった。また、この地域の田は肥沃で、魚も琵琶湖から取れる。その生産物、魚を京都大阪へ運んで売ることで蓄財できる家が多かった。 

 また、北近江は、“惣村(そうそん)”と呼ばれ、自治を尊重して、大名からの強制的に支配に非常に反発した。村の入口、東西南北を封じて村全体を囲いの中に置き、警察権、裁判権を村で握っていた。封建大名にとっては、この北近江は支配の難しい地域だった。 

Nari 石田三成も近江長浜の出身だった。秀吉に拾われ、小姓(秘書)を経て、関が原の戦いを企画した彼は、簿記の技術をもっていて、経理に明るく才覚があった。この技術があると、大きな企画、イベントの運営の見通しが利く。

 近江周辺には、石田三成、浅井長政のような文化度が高い人がいることと、自治の村、惣村そうそんが多いことは、渡来人の子孫と関係があるのではないか。
 明らかに、尾張の田舎出身の加藤清正や福島正則の武断派とは違う行政能力をもっていた。それが役立つときはいいが、鼻につく態度になると反発を買う。
 

 長政の父の代に六角氏に負け、六角氏に臣従する立場になっていた。その頃、長男である長政が六角氏の領内で生まれた。
 浅井長政16歳のときに、六角氏を打ち破り、ようやく独立の国となった。重臣らがその戦術に感心したという。浅井長政は、この惣村の多い村を浅井家の領地としてまとめたのは、長政の人徳と行政手腕によるところが多い。
 信長には、「浅井長政の
行政手腕」が魅力であったのだろう。
 強圧的な武力で民を抑える信長とちがって、長政は、領民に信頼され慕われていた。その才能に信長は惚れ、その才が必要と感じたのだろう。それゆえに妹お市を嫁がせて、義兄弟となった。

 信長は義弟浅井長政を大いに期待していた。
「このたびは浅井氏と組んで 将軍のお供をし 日本を残らず従えたい」(総見記)と長政に語り、信長の意気に感じた長政も、これで北近江も安泰になると、その点で利害が一致した。
 

 浅井長政24歳は、信長の上京で同行して、京へ道で、六角氏が障害になっていたのを信長がこれを追い払う機会になった。六角氏は長政に追われて、比叡山へ遁走した。従って、京への交通の要衝が自由になった。 

 信長は京に残り、長政は小谷城へ戻った。
 信長は、京の将軍を助けて、政治・経済改革を行った。
①関所の廃止、楽市楽座で、近江の産物を京都へ運ぶのに関所でカネ払ったり、京・大阪で店を出すのも制限されていたのが、まったく自由になり、経済的な発展が起こった。
 

 天下攻略の「天下布武」の大号令・・・これを信長の頭の中で描いて、信長が長政には事前の相談もなく、あと上意下達のつもりで進めた・・・。
 ここで、浅井長政を参謀にして進めるつもり、浅井家と織田家の合併でも宣言したら・・・事態は変わっていただろう。

 越前の朝倉氏(浅井家の盟友)を攻めるという情報が浅井側に入った。事前の諜略を秀吉にさせたら、だいぶちがったのではないか。秀吉には、参謀の黒田官兵衛も半兵衛も健在だったはずだろう。

 お市を嫁にもらった際、浅井家と織田家は同盟の取り決めをしていた。朝倉を攻めるときは一報をもらう約束になっていた。それを信長は秘密裏に決めて、実行へ移すとは、浅井家に対する重大な違反行為であった。

 信長の朝倉攻めは、長政には、苦渋の選択であった。
 浅井家と朝倉家とは古くから緊密な関係であった。
長政には、織田に味方するか、朝倉につくか、二者択一の苦しい選択だった。信長は、お市の兄でもあるが、朝倉を見捨てることもできない。
 板挟みの苦しさは、体験しないとわからないだろうが、長政は悩み抜いた末、朝倉に味方して、信長を滅ぼす“乾坤一擲”のチャンスと決断した。

 長政は考えた。
 今、信長は浅井と同盟を結び、長政は手を出さない、少なくとも傍観するだろう、と判断して、信長は油断している。今を逃しては、信長を滅ぼすチャンスはない。
「長政、信長を討って取るべし」(
総見記』(『織田軍記』)
 そこで、朝倉と浅井の挟み撃ち、織田信長は
最大のピンチとなった。

 Thjjope52v 信長は、朝倉と浅井、両軍にはさまれた、と知るや、「恥も外聞も考えず」大軍を置き去りにして、九死に一生、信長は京都へ身一つ、馬に乗って逃げた。殆ど家来を置き去りにして逃げた。
 この常識はずれの大将が逃げ出したので、
残念、浅井軍は信長を討ちもらした。
 信長が朝倉と浅井両軍に挟まれたことを、お市の方が「両端をしばった小豆枕」を信長に送って知らせた、というエピソードはここである。

 織田、徳川軍を無事に返すために、殿軍しんがりを務め、名を挙げたのがサル秀吉だった。
 秀吉は、浅井、朝倉軍から攻撃を一身に受けて、一ケ月もかかって辛うじて逃げて帰った。信長の元に戻ったときは、飲まず食わずの必死の逃走だから、げっそりとやつれていたという。
 

 これで長政は、完全に信長と断絶してしまった。
 数ヶ月後、信長は体勢を建て直し、北近江姉川に着陣した。Photo_2 信長軍に徳川軍が合流して、およそ3万、浅井・朝倉軍1万3000、元亀元年1570年6月28日、姉川の合戦が始まった。
 

C848af0856e6f475 朝倉へは徳川軍が攻める。浅井軍は信長軍本陣を攻めた。朝倉軍が徳川軍に攻められ後退したので、徳川軍は信長軍の援軍となると、浅井軍が挟まれ形勢不利となり、浅井長政は撤退して小谷城に逃げ帰った。長政は小谷城に篭城して、信長軍はそれを取り囲むべく北近江に来た。

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長政は、 急峻な地形にある小谷城に籠もった。
 落城をさせられないから織田軍は、手こずった。その間に長政は、信長に立ち向かうべく、
「ご迷惑、御大儀ながら、ご用心くださるように お願いいたす」
 近隣北近江の有力寺院10箇所に通達を出して、立ち上がりを依頼した。
 

 その長政通達は、僧侶から地元信者・農民へ伝えられた。
 そこで、北近江へは侵入占領し、自治を侵す信長軍に百姓一揆で反抗した。浅井長政と“農民、住民との信頼”がそこで大いに生きたと考えられる。そこで、その騒乱のスキに、長政の浅井軍は、小谷から京を見下ろす比叡山延暦寺に陣を敷いた。
 

 ここから、長政は、信長包囲網を造り始めた。Photo_7 信長軍の焼き討ち、殺人は、強圧的な仏教徒たちの生活を脅かす行動だった。現状の安寧を願う一般人、仏教徒には、浅井長政の行政に信を置いていた。ところが、信長の革新的な政策、旧守破壊は理解されていなかった。
 明智光秀にしても、浅井長政にしても、人々の安寧は現状肯定の保守思想であった。その現状を破壊する革新思想が織田信長の狙いであった。日本の歴史で、始めて革新政権ができる時であった。
 

 この信長の描く新しい世界観を理解している人は、当時殆どいなかっただろう。信長家臣団の多くも、旧弊破壊につながる命令を涙を呑んで、殺戮を行った。味方も理解できていない「新しい世界観」実現のために、信長は突き進む力があった意味では、天才的な革命児であった。

  それを実行する権力・武力を信長がもっていたわけだ。それで、現代に続いたら、今の日本はどうだっただろう。
 ところが、信長の改革は秀吉で揺り戻しがあり、揺り戻しは、家康で鎖国までしてしまう。楽市楽座などかなり骨抜きになる。関所は無料ではあったが、人間の自由解放にはならなくなった。
 

 浅井長政の通達「ご迷惑、御大儀ながら、ご用心くださるように お願いいたす」と、近隣北近江の有力寺院10箇所に通達を送った効果が出た。
 南近江、大阪石山本願寺、長島で一揆が起こった。
 すると、近畿から各地で反信長の檄が飛んだ。これに応えて
益々、僧侶や住民一揆が増えて行った。ゲリラ戦法で、信長の兵力は分断されて、勢いが弱くなった。長政の信長包囲網が成功、順調に広がって、信長は動きが取れなくなった。
 

 信長には、戦いには負けても局面転換の戦略があった。
 6ヶ月も経った12月になった頃、正親町天皇による講和勧告が出た。
「遺恨を止めて和睦を朝廷と幕府のため、和睦をなすべきであ」
  これは、信長の戦略であった。Photo_9
 つまり、長政の性格としては、市民に長く土地を荒らし、迷惑をかけられない、と思うに違いないと信長は考えた。これは、長政の真っ正直な、市民を大事にする性格を読んだ信長の策略であった。天皇や将軍を利用した謀略を用いた。
 

 浅井長政は、天皇の命令は逆らえないと勧告を受け入れた。合戦を続け秩序の破壊になる。それを避けたい平和愛好の長政の考えを信長は読んで、巧妙な手を打った。 

 長政と妥協したのち、一ケ月後、信長は動いた。
 まず、南近江に障害を作って、関所封鎖、港の封鎖し、浅井長政軍が京都へ出られないようにした。近郊の寺院等と浅井軍との連携を断ち切った。Photo_10 これで、大阪石山寺本願寺や長島町の叛徒との接触、援助できないようにした。信長軍は、長政に味方する巨大勢力とを分断して、その後、比叡山延暦寺の僧侶や女子供を皆殺しをした。
(元亀2年(1571年)、延暦寺の武力が天下布武の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう通達、これを拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちを開始。
1 これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧侶が殺害された。この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている
 “ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとある。つまり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていた”と、見られる)
 

 信長は、講和を利用して戦略を図る、その最たるものだ。講和は時間稼ぎで、講和といえば、長政は応じてくる。
 その長政の和平に対する油断、このスキを信長は待っていた。
 このまじめ一方の青年長政は
「講和すれば、次のステップで平和に近づく」と考える、と信長は踏んだ。信長と長政の差が、延長PK戦の結果が、ここに現れた。
  だまし合い、これが戦争であり、政治だと割り切らないと、信長に勝てない。


Masa3_2 浅井長政の肖像画はふけて見えるが、29歳だ。妻お市、長女茶々、次女初、江など子供は信長に返し、浅井長政は、小谷城と共に自刃して消えていく。
 脚本家田渕久美子が「江」で書いた言葉だろうが、長政は、「そなたと生きられたこと 誇りとするぞ」と小谷城から落ちる市の方へ言葉をかけた。夫の言葉をお市は心に秘めて、兄信長の庇護の下に下った。
 

 浅井長政が、信長の革命を継承して、天下統一をしたら、「たら」は歴史ではありえないが、日本どんな社会になったのだろう。
 戦国乱世の覇者には、良識の男浅井長政より、権謀術数ができる男織田信長が向く。長政は地方自治向きか。
 

 天正元年(1573年)、長政が自害後、小谷城から浅井長政の長男万福丸は、家臣団によって万福丸は落ち延びたが、信長の探索によって捕らえられた。
 信長の命を受けた羽柴秀吉の手により、万福丸は美濃関ヶ原で磔(田楽刺しの説も)に処された。しかし、お市の方は「秀吉の指示で殺された」と信じていた。柴田勝家の北ノ庄城で共に救助を求めなかったのは、そのあたりに理由があるという説がある。
 

 浅井長政の長男万福丸10歳(当時の感覚なら、今の中学生レベル)だった。将来長政以上の才能と人望があると思われる。肖像画は何も残っていない。

浅井 万福丸(あざい まんぷくまる、淺井 萬福丸、永禄7年(1564年)? - 天正元年9月(1573年10月)):近江国の戦国大名・浅井長政の嫡男として誕生。
 
万福丸は織田信長の妹お市の方の入嫁以前の出生とされ、長政には、六角氏重臣・平井定武の娘とも婚約しており、側室の存在も確認されていた。万福丸と次男は、継母となった市の養子となった説(『浅井氏家譜大成』)や、市の入嫁時期を永禄4年(1567年)とする見解を示す説がある(太田浩司『北近江の戦国史』)。
 江戸時代後期に成立した『翁草』によれば、天正元年(1573年)、万福丸は長政の家臣団によって落ち延びたが、信長の探索によって捕らえられ、市の助命嘆願もかなわず、信長の命を受けた羽柴秀吉の手により、美濃関ヶ原で磔(田楽刺しとの説)に処された。享年10歳とも。 

 長女茶々は大阪城炎上で豊臣家と共に死んだが、三女江は秀吉の養女として、二代将軍徳川秀忠に嫁いで、三代将軍家光を生んだ。浅井家は亡んでも、長政の血は家光の中に脈々と続いている。ちょっと不思議な印象である。 

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