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2014年9月 5日 (金)

上杉鷹山ヨウザン(米沢藩)の “領民のため”の産業育成、現代に生かそう!

000014 上杉鷹山ヨウザンは、米沢藩の借金をなくすには、領民の懐が豊かになれば、藩の財政も豊かになる。領民に“産業育成”を勧めた。実収を増やして、手元にお金が増えることが、一番。一生懸命働けば、働いただけ、収入が上がる。それが絶対必要。鷹山は、藩の財務状況をよくすることと同時に、庶民の懐を慮った。
 今の日本政府は、国債の1000兆円の借金を全然気にしてないのは、まるで鷹山の前の藩主のようだ。足りなければ、借金すればいいという考えに似ている。

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 各家庭で、和紙つくり、絹織物は、今でもやれそう。家庭でやれる産業を増やせば、家と庭のある“家庭”が実現できそう。本来人間は、そういう生き方をすると、ゆとりある生き方ができる。
 その意味で、上杉鷹山ヨウザンの業績を振り返ってみよう。

 江戸時代中期、米沢藩上杉家は、借財が20万両(現代なら約150億~200億円)に累積、石高が15万石(実高は約30万石)であったにも拘らず、他藩とは比較にならないほど人件費割合が高く、藩財政に深刻な負担を与えた。会津120万石から米沢藩は石高15万石になったにもが、家臣6,000人が仕え続け、その上、前藩主・重定は、名家ゆえ、豪奢な生活を改められず、藩財政が窮乏して、藩領を幕府に返上しようした。
 そこで、再建を任されたのが、養子の上杉鷹山である。
 

 幕府命令で、宝暦3年、上野寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)洪水被害が藩財政を直撃した。 

 上杉鷹山は、どうしたら財政を立て直しができるか、専門家の意見を聞いた。産業に明るい竹俣当綱や財政では莅戸善政を重用した。藩財政の改革には、藩士に実情を知らせるべきだと信じていた。前藩主時代からの家老らは、藩の財政を知ったら、藩士がやる気を失うだろうと、反対したが、鷹山は、藩士全員に藩財政のマイナス情報を共有するべきだと考えた。藩士全員を集め、正直に財政状況を伝えた。000016 このことは、藩士に危機感を持ってもらい、いかにしたらこの危機から脱却できるか、考えてもらう機会になった。そのため、目安箱を設置し、意見募った。そうしたら、344通の意見、提案が集まった。000046 その中から、採用できる意見を採用し、提案者を担当に置き、そのプロジェクトを実行した。 

 その中の一つ、●“用水路の整備計画”がある。
 最上川上流に堰をつくり、32キロに渡り用水路を建設して、水不足なくし、約70ヘクタールの水田に水を供給した。六年がかりで、33の村落に水を給水した。これは、米の増産に役立ち、藩の財政を助けた。
000044 また、それまで江戸での生活費1500両を一気に209両余りに減額、奥女中50人から9人に減らし倹約した。

 上杉鷹山は、就任した当初、幕府から命ぜられる普請事業を回避する幕臣へ運動費が捻出できず、江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、その結果1769年(明和6年)に多額の出費が生じた。

 江戸時代は飢饉の頻発した。
 米沢藩は、※“宝暦4年の飢饉”(1754)などの経験から、上杉鷹山による改革が開始され、1774年に飢饉時の対応策が打たれていた。※宝暦の飢饉:大洪水による凶作(宝暦4年)、また翌年宝暦5年は冷害による凶作と2年続けての凶作となった。
 

 近隣他藩は江戸への廻米を強行したが、米沢藩は、米のある越後と酒田から11605俵仕入れ、領内人口約10万人が1日2合で約90日分の米を領民に配布した。米沢藩は、そのほかに領民に代用食の指導をして餓死者を出さなかった。 

“宝暦の飢饉”の十数年後、天明2年(1782年) ~1788年(天明8年)にかけて“天明の大飢饉”が起きた。近世(江戸)四大飢饉の中で、最大の飢饉である。原因は、浅間山、アイスランドのラキ火山等の噴火とエルニーニョ現象による冷害。 

 天明3年(1783年4月13日)には岩木山が、同年7月6日(8月3日)には浅間山が噴火、各地に直接被害を与え、日射量低下で冷害を引き起こし、農作物は壊滅した。このため、翌年から収獲がなく、深刻な飢饉状態となった。0722
 天明3年(1783年)には、江戸川の下流、葛飾柴又流域に死体が流れ着0723いて、その遺骸を葬った。
 浅間山噴火川流溺死供養碑 
 所在地 葛飾区柴又五丁目9番

浅間山噴火川流溺死供養碑 天明3年(1783):

 杉田玄白著書『後見草』(のちみぐさ)で、全国で数万人(推定で約2万人)が餓死したとが伝えるが、失政の咎(改易など)を恐れ、諸藩は正確な被害を公表しなかったので、実数はわからない。特に、弘前藩(津軽藩)は、死者が十数万人に達したと伝えられ、逃散した者も含めると、藩の人口は半分近く減ったという。飢餓と共に疫病も流行し、全国的には1780年~86年の間に92万人余り人口が減った言われる。92万人は東日本大震災の2万人死者行方不明者と比べて、46倍の巨大な災害である。000019 米沢藩では、鷹山の改革の効果で、飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったという。しかし、実際は、誇張で、天明3年からの7年間に4695人の人口減少がある。

鷹山の推奨した飢饉の食べ物を“かてもの糧物”という分かりやすい書物にまとめている。
 現代では、食べ物がない飢饉は想像しにくいが、その当時の庶民には、現金収入もない状況で、農作物もない状態では、道、山、野原の草木を食べることになる。手当たり次第食うことになる。それを調理法、毒物を食わないように、丁寧に教えている。野ニンジン、こごみ、・・・調理して醤油を掛ければ、現代人が食べても美味しい。ウコギの垣根も、若葉は食用で苦味があるが、高温の湯や油で調理して現在でも食べられており、根の皮は五加皮という滋養強壮剤になる。

 米沢藩の産業になったのは、●和紙である。
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こうぞ(楮)を家の周りに植えて、その皮をむいて、その原料を煮つめて、どろどろの原料をすき、一枚一枚和紙にする。
 涼冷な気候では、こうぞ、みつまたは育ちやすく、米沢藩では適していた。藩から原料を領民に提供し、原料を加工し、製品にして納品する。コレを藩で買い上げを保証した。一生懸命働けば、確実に収入が上がる。田んぼで米を生産すると同時に、和紙製造は副収入になる。副業でずっと生活がらくになっった。
 藩全体で、相当の収入になった。
 

 米沢藩で、鷹山が提案した産業は紅花、藍、硫黄、等53にもわたる。
 その中で、米沢の代表的な、大きな産業になったのは、●絹織物である。

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米織りで、巨額の富を築いたものもいる。自由に販売できることから、これを鷹山が率先して家庭設備を整え、生産した。それを{トリセツ}にして、藩内の領民に指導した。

 米沢の絹織物で、ブランド化できた製品がある。それが“透綾”(すきあや)と呼ばれる、夏用の透ける絹織物である。000074 下級藩士の某が発明して、カレは、年間数千万円に相当する現金収入があり、千両箱を山のように積んで、年を越したという。個々の努力で収入が増えるという見本である。

 藩全体で、品質を落とさないように、品質管理を厳重に行った。生産者別に氏名がわかるシステムにして、信用を確保していた。この“透綾”(すきあや)によって、米沢藩は、10万両(200億円)を越える税収が藩に入った。

 我が国で最も古く公娼制度の廃止にも取り組んだ。これは鷹山の愛の治世の方針に基づき、寛政7年(1795年)公娼廃止の法令を出した。 公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったが、鷹山は「欲情が公娼によって、しずめられるならば、公娼はいくらあっても足りない。」とし、廃止しても何の不都合も生じなかったという。

上杉 鷹山(うえすぎ ようざん/治憲はるのり、1751年9月9日 - 000069
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1822年4月2日):江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君。諱は初め勝興、後に治憲。隠居後の号“鷹山”が知られている。
 宝暦元年(1751年)、高鍋藩江戸藩邸にて秋月種美と春姫(黒田長貞の娘)の次男として誕生。幼名は直松。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。宝暦9年(1759年)、この時点でまだ男子のなかった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが祖母瑞耀院である。

 上杉 鷹山、文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。享年72(満70歳没)Americahttp://www.bestsuppli-kan.com/180/

 米沢藩が借金を返済し終えたのは、上杉 鷹山の死去の翌年であったという。日本政府は、国債1000兆円の借金でも、なお赤字予算を組み続けているが、大きな天罰が落ちるに違いない。

アベノミックスで、経済再生を期待しているが・・・

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“宝暦の飢饉”の十数年後、天明2年(1782年) ~1788年(天明8年)にかけて“天明の大飢饉”が起きた。近世(江戸)四大飢饉の中で、最大の飢饉である。原因は、浅間山、アイスランドのラキ火山等の噴火とエルニーニョ現象による冷害。

 天明3年(1783年4月13日)には岩木山が、同年7月6日(8月3日)には浅間山が噴火、各地に直接被害を与え、日射量低下で冷害を引き起こし、農作物は壊滅した。このため、翌年から収獲がなく、深刻な飢饉状態となった。

投稿: 天明3年 | 2014年9月19日 (金) 22時58分

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