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2014年8月26日 (火)

「遠い約束」背景 満州四分の三捨て 関東軍 最終防衛ライン

 昭和18年頃までは、満州・中国戦線では、優位にあったが、昭和19年から戦局悪化と共に満州にいた関東軍は、フィリッピン・サイパン・硫黄島・沖縄などの南方方面に転用された。また日本防衛のために九州・本州へ移動配備された。
 満州の日本軍(関東軍)は、昭和19年後半は、満州の日本軍は間引かれてもぬけのカラで、かつての強い関東軍はいなかった。

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4808 昭和20年の早いうちに、17歳~40歳の満州の日本人は、“根こそぎ徴兵”で集められ、素人速成兵士にされた。しかし、関東軍と共に武器は太平洋戦線に行き、武器庫はカラッポの状態であった。義父は満州の公務員であったが、この時期に徴兵されてまもなく終戦、新京にソ連軍が進駐してきた。
 ドイツが降伏し、イタリアが降伏している現状では、日本の敗色濃厚の段階で、ソ連が参戦してくるのは明らか、良識ある軍部参謀は、ソ連の参戦に備えよ、と叫んでいた。 

 多くの国民は、“日ソ不可侵条約がある”から、ソ連がすぐ侵攻を予期していなかった。ソ連が約束破ることは考えない日本国民の人のよさを衝かれた。
 
ソ連にとっては、8月15日は終戦の調印をしていないから、終戦とは認めていない・・・という理屈で、強行に日本侵攻を進めた。特に狙ったのは、満州における工場、機械とか、産業を振興できる資源を取り外してソ連領へ運んだ。シベリア開発の人材を狙った。

 ソ連が侵攻してくると、日本人は、真っ正直に「名誉ある降伏、全員そろって降伏するんだ」、と疑いもせず、ソ連軍の指定する小学校の広場へ武器を持って集まった。ソ連は武装解除の後、「帰国させる」とだまして、裁判も取り調べもなく、働ける日本人を「シベリア送り(重労働)」に連行した。

 満州ができたときから、全満蒙開拓団や一般在満者などを屯田兵と考えて、ソ満(ソ連と満州)国境沿いに(ソ連侵攻の防衛に当たらせる)入植させていた。しかし、日本軍首脳部は、ソ連軍の侵攻した場合、それらの地域は“放棄”と決めていた。かつ、満州の大半を放棄して、 最終防衛ラインで食い止める計画があった。
 それが、新京を頂点にして、大連→新京(連京線)、新京→図門(京図線)をラインにして、持久戦にもちこみ、日本軍全般の作戦を有利に導こうとした。
4810  つまり、全満州の四分の三を捨て、新京を頂点とし朝鮮国境を底辺とする三角地帯を防衛し(併合した朝鮮=日本領土守ろう)とした。満州引き上げの悲劇は、この最終防衛ラインの以北にいた人々で起きた。

 多くの国民は“日ソ不可侵条約”があるから、ソ連参戦はないと信じていた。あるいは、「(ソ連の侵攻は)早ければ八月~九月ごろ」と、専門家の予想はあったが、主流(首脳部)は楽観論であった。
 しかし、当のソ連は、原子爆弾を落とす計画もアメリカから伝えられていたので日本降伏は近い考え、「終戦になってしまっては、ソ連の利益が少なくなる」と、アセって早めて参戦してきた。

 昭和20年8月8日夜、ソ連参戦と情報が伝わると、満州四分の三を捨てる関東軍の計画に沿って、一斉に軍関係者の家族はもちろん、役所関係は、一斉に逃げ始めた。これは、ソ連に情報が伝わるから、隠密に行うと言う意味で「秘密保持」という意味で“●●静謐”という用語で、一般人の移動を抑えた。つまり、東北(満州)開拓団は、軍の庇護から置き去りにされた。
 終戦後までは、軍が何をやり、何をしなかったか、国民は何も知らなかった。今も、近代日本史を学んでいない
国民は多い。満州奥地にいた開拓団の入植者は、日本の敗戦さえ知らされていなかった。

 では、なぜ関東軍は国境地帯の開拓民、一般在満者の安全がないがしろにされたか。軍の考えとして、国境地帯の日本人が大量に移動すれば、全満に不安動揺が起こり、ソ連の参戦の時期が早まるという恐れを抱いたためで、(退却の決断した場合)開拓民・一般人の戦略的に放棄すると決定していた。(本来、軍の仕事は、こういう国民の命を救うことじゃないか?)
 ソ連参戦に伴って、へき地の開拓民・一般人は日本軍から無視され、そのことで、多くの悲劇的な出来事が起こった。軍部・政府の不作為の罪を問う仕事が、70年過ぎても行われていない。http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/MikikanRepo.html
(国立国会図書館の所蔵資料)
 

 「麻山マサン事件」(哈達河ハタホ開拓団)を紹介。
 昭和二十年、根こそぎ動員によって、ハタホ開拓団に残っていた者は、病弱者か、老幼婦女子であった。満州東安省鶏ねい県庁から、日ソ開戦直後八月九日、ハタホ開拓団本部に避難命令が発せられた。
 すでにソ連軍の空襲により、鉄道は遮断されていたので、開拓団員約一千名は荷馬車で鉄道のある牡丹江に向け徹夜で逃避行を始め、十二日ごろ麻山に達した。
 哈達河(ハタホ)開拓団を襲った第一極東方面軍(ソ連軍)は兵力約50万・戦車1974両で、けた違いの兵力であった。ソ連戦車隊の進撃を避けて進む開拓民の避難の前に、(日本軍と共に満州の治安を守った)満州治安軍が避難民に襲って来た。
 先頭グループが約300名、中央グループが約500名、後方集団が約400名の、三つの大きなグループに分かれた。先頭と後方とでは、7~8キロ離れていた。
 
 国境地帯から撤退する関東軍の将兵たちが、開拓民をどんどん追い越していく。貝沼団長は彼等に保護を求めたが、「軍の命令で牡丹江に移動している。開拓団を保護する余力などない」と、そのまま去っていった。
 このころ、先頭グループは既に、中国軍とソ連軍に攻撃を受けていた。攻撃され、手足まといになる自分の妻子を射殺した男性も続出した。彼等の多くは家族を射殺したのち、ソ連軍への「斬り込み攻撃」を決意し、中央集団にもどり貝沼団長に事態を報告。
 団長貝沼洋二氏(東京都出身)は、進退きわまる最悪の事態に陥ったと推定し、団員の壮年男子十数名と協議し、
婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ。と通達し、
同日午後四時半ごろから数時間にわたって、男子十数名が銃剣をもって女・子供四百数十名を突き殺した。

この後、男子団員はソ連軍陣地に切り込むことになっていたが果たさず、間もなく終戦を迎え、一部の人々は生きて祖国の土を踏むことになったのである。

★紹介
「満州分村移民昭和史」著者:渡辺雅子彩流社
ISBN978-4-7791-1598-1
 
 このような麻山事件と同じようなことは随所におこっているのである。即ちソビエト侵攻時だけでも、戦死や自決によって全滅した開拓団は十指に及び、一部落全滅や十名以上の犠牲者を出した開拓団を加えるとその数百団を数え、犠牲者の数は一万名に達している。
 また一般在満者を含めると、終戦までに三万人を超えた犠牲者がでたといわれている。そして、百二十万に余る邦人は都・辺境の部落で冬を越すことになったが、仕事がなく、金がない百万の「難民」は、寒さと飢えと病気(主として発疹チブス)で死亡者続出し、昭和二十一年の春まで、実に十三万五千名の犠牲者を出すことになったのである

 “関東軍が開拓民・一般人を放棄をした”と、終戦後多くの日本人たちは非難したが、しかし、政府の立場は、私たちの生命・財産は守ることは、二のつぎなのである。どの国の軍隊でも一端戦争が起こると、あくまでも戦争の作戦が優先される。

 今、我々は過去の日本軍には、文句は言えるが、現在自民党の進めている“原発政策”、“集団的自衛権論議”が起きても、経済というニンジンをぶら下げれば、国民なんか、うまく誘導される。国民の意識が、この程度ということだろうか。一般国民の反対多数の考えを安倍政権は取り入れてしまう。この現状は、悲しいことに、戦前と日本は変わっていない。4811 満州での死者25万人という数、不幸の尺度として、東日本大震災の死者行方不明者2万人を基準に考えている。つまり、東日本大震災の12倍以上の人災が起きたのだと考えると、満州の出来事の大きさが分かりやすいかもしれない。4812 現代人は、この尺度を使うと、物事が理解しやすくなる。広島と長崎の被爆死者の合計と同じくらいが、満州からの引き上げでは犠牲者を出したのだ。日本が中国に与えた犠牲者のことを忘れてはいけないが。

 と言う現状で、「遠い約束」の悲劇が起きたのである。

 ドラマ「遠い約束」は、終戦後、旧満州の難民収容所に入った増田昭一さんが実体験を基に描いた「満州の星くずと散った子供たちの遺書」「戦場のサブちゃんとゴン」「約束」(すべて夢工房)が原作。

著者(
増田昭一)の略歴
昭和20年3月 県立小田原中学校 卒業 大学入試のため渡満す。父満州第2634野戦兵器廠部隊長(陸軍少将)夏休みの休暇をとり牡丹江の自宅に帰る。
 ソ連軍の攻撃を受け、志願兵として最も激戦地として有名な磨刀石付近の戦闘に参加し、戦車攻撃寸前に、ソ連戦車砲の射撃にあい意識不明となる。その時右手首の知覚神経を切断す。猪股大尉の率いる第1大隊750名が肉弾戦をおこない(8月13日)戦車総計40両を破壊す。

 関東軍の中尉・戸田英一(松山ケンイチ)、小学校教師・水野有希子(二階堂ふみ)ら大人たちの目線。
 
4839 教師・水野有希子が中国人に嫁にいく前日のパーティー。

 子供たちは、父を兵隊に取られ、母を亡くした教師有希子の生徒役(13歳、加藤清史郎)。連続テレビ小説「花子とアン」で花子の子供時代を演じた山田望叶(もちか)が出演。

 過酷な状況の中で飢えをしのげずにまんじゅうを盗み、何が何でも生き抜こうとする子供たちの姿や、仲間のために自分の持ち物を売って食べ物を手に入れる行動には胸が締め付けられ、涙が抑えられない。4823 物乞いのために、一番幼い子が歌を歌う。4849 幼い子が中国人にもらわれるシーン。40年後に、英一がこの子が日本に帰国して会う。生き残ったのは、この子だけ。

 番組冒頭では、原作者増田さんが暮らした難民収容所(長春第七中学)があった地域紹介があり、時代説明が親切で分かりやすい。
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