« 「花子とアン」アユムの死、疫痢。昔、子どもの突然死はよくあった。 | トップページ | ペリリューの戦い:1944年(昭和19年)玉砕 戦闘経過Ⅱ »

2014年8月14日 (木)

ペリリューの戦い:1944年(昭和19年)太平洋戦争の玉砕戦へⅠ

000024_2  太平洋には、日本の国益を絶対守らないといけないと思っていた“絶対国防圏”があった。そこにアメリカ軍が侵入してくるといけないから、ペリリュー島に東洋一の大きな飛行場を建設して、300機を常駐させていた。023天皇ペリリュー島 戦後70周年慰霊の旅 その意図を考える
・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「★読んで頂いたら、★1日1度クリック」 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います 
ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 開戦当初1941年~42年、アメリカ・イギリスは日本の突撃にタジタジしていた。真珠湾攻撃で大成果を上げた日本海軍航空機(九六式陸攻、一式陸攻)の雷撃及び爆撃は、真珠湾攻撃の直後、1941年12月10日、英国最新鋭プリンス・オブ・ウェールズと僚艦レパルスと共にマレー沖にて撃沈させた。
 これで、日本は「勝った!勝った!」と、勝ち誇った。このことが新聞やラジオで大々的に報道されたから、日本はこのまま勝ち進んでいくと国民は信じていた。
000011 準備不足だったアメリカが攻め込まれているだけで、国力の差が20倍も違う相手が本気で戦えば、日本人でも良識ある人なら、勝つのはムリだとならすぐ分かる。
 だけど、あの当時の雰囲気は「日本が負ける」と、言ったら「非国民!」と非難されてしまう・・・そういう時代だった。

 ペリリュー島守備隊長となったのは、中川州男 大佐である。
中川 州男(くにお、1898年(明治31年)1月23日 - 1944年(昭和19
年)11月24日):000012 日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
 熊本県出身。小学校校長中川文次郎の三男。玉名中学校を経て、1918年5月、陸軍士官学校(30期)を卒業、同年12月陸軍歩兵少尉に任官。歩兵第79連隊赴任の直後、盧溝橋事件の勃発により日中両軍は全面衝突し、同連隊にも動員命令が下され、実戦を経験。天津から山西省の保定会戦などでの野戦指揮官としての功績を認められ、連隊長より陸大への推薦、1939年3月、陸軍大学校卒業し陸軍歩兵中佐に進級。1941年4月、その戦功から功四級金鵄勲章を受章。1943年3月、陸軍大佐に昇進。
 同年6月、歩兵第2連隊長。同連隊第14師団が、満州から南方へ転用され、パラオ諸島へ。歩兵第2連隊は第15連隊の1個大隊と共にペリリュー島に配備、中川が守備隊長となった。
 赴任前、夫人に「任地と任務」を尋ねられ、「永劫演習さ」(帰還を望めない戦場)と答えた。
 

 1944年11月24日、ついに司令部陣地の兵力も弾薬も底をつき、司令部は玉砕を決定した。玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた。 

 大本営は、中川が自決する以前には、玉砕を許さず、「一億日本の戦意高揚に役立っているから、灼熱の闘魂にさらに拍車をかけ、持久戦に徹底せよ」と指示した。
 この時点では、全体に指示が伝わっていたが、隊長の自決したことで司令部崩壊してしまった。連絡が取れない部隊には、“持久戦に徹底”という伝達のまま、1944年11月24日以後は日本軍の組織的抵抗は終わり、米軍はペリリュー島の占領を果たした。

 戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びていた。ペリリュー島の戦闘は終了したのだが、日本が負けた・・・とは思わない兵士とアメリカ軍に「投降しよう」という兵士との間で、悲劇が起きた。000027 ぺリリュー島の戦友会「三十四会」(みとしかい)の責任者になっている上田喜代一さん94歳が、当時の思い出を書いている。取材に応じて語っている。000022「(上田さんの隣り20cmにいた)A(投降を上田さんに相談していた兵士)さんが、ウーッといって、仰向けに倒れた。何が起きたか、わからなかったが、“上田、わかったか?”と、(投降反対派の)兵士が言った言葉で、事情がわかった」 

 つまりは、しばらく戦闘がないのだから、アメリカ軍に投降してもいいじゃないか。という兵士がいたのだが、頑強に日本軍の戦陣訓「投降するなら死を選べ」という考えが一般的であった。ここで、上田さんに相談していたAが射殺された。という事件が起きて、それ以後、ずっと洞窟内で隠れて暮らした。

 昭和22年になって、投降の呼びかけが組織だって行われるようになった。Ws000022 上田さんが、置手紙を置いて、夜中、洞窟を飛び出して、走ってアメリカ軍のパトロールに保護された。この当たりは、詳細な記述がないが、語る人にまだ「投降はハジ」の意識があるようだ。

 将校に「国際法では、投降者を保護する」という教育が行われているか不明。日本軍兵士投降は戦陣訓により厳しく戒められる。日本軍は、敢闘精神の不足と敵への情報の漏洩を恐れた。外国軍の投降者に対して、日本軍は第一次世界大戦と日露戦争では、対外的に日本の意識の高さを国際的にアピールするため、捕虜を丁寧に扱った、と言われる。日清戦争では、中国兵は俘虜保護の意識がなく日本兵捕虜を虐待したので、日本側も清国兵俘虜を・・・。 

 上田さんは、アメリカ軍の捕虜になったのち、ペリリュー島の残留兵士に投降を呼びかけ、それに生存兵士全員が応じ、終戦後1947年4月22日に米軍へ投降した。この生き残りの34人は「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成した。

●●
ペリリュー島の戦闘経過●● 

過去日本軍の上層部の知恵って、傲慢だったよね
戦争の記憶に国民の共通記憶文化 「撮影禁止」は矛盾
しょうけい館(戦傷病者会館)、戦争傷跡“継承”造語。 
兵士たちの戦争 ガダルカナル白兵突撃  
キャリアの失言と愚将牟田口廉也:
  
兵士たちの戦争NHKルソン島死闘  
ルソン島で人肉を食う敗走日本軍 
初年兵を死地にやった上官 
ある憲兵の記録 日本人のDNA 
戦争を知る人たちの記録 

ビルマの竪琴(竹山道雄)VTR見る 
硫黄島からの手紙 映画館で見た 
終戦 荒廃した国土 忘れるな 
講和条約 日本は占領されていた
白骨街道 

戦争の影響 疎開、食料など 
日本軍の関与 集団自決、慰安婦問題 
被爆死体片付けた 広島高師の学生 
美しい国 命をかけた祖国
戦争を知る人たちの記録 
 

レイテ戦記 
レイテ戦記2 
レイテ戦記3 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「★読んで頂いたら、★1日1度クリック」 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います 
ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Sponsored Link

Kanban2データ入力 
http://www.nozawa21.net/データ・名刺入力/

顧客名簿作成・名刺データ入力・DM宛名シール作成。様々な形式で作られたデータの同一形式での統一化。手書き原稿のデータ化。《→データ入力詳細へ  

アンケート入力
各種調査アンケート集計
《→
アンケート入力詳細へ
 

録音テープ起し
講演・講義・取材・座談会など。様々な媒体の音声のデータ化。 オプションサービスとして、出張録音(機材持込可)・原稿要約いたします。 《→
録音テープ起し詳細へ
 

Dropboxge_3 最近お勧めはDropBoxです。 

ドロップボックスへ音声ファイルを入れるだけで、非常に簡単になりました。現在1回12GB(音声20時間)まで受付可。
  ご連絡頂ければ、即日、専用ドロップボックスを用意します。バイク便を使うより確実で早く、料金のご負担もありません。(もちろん、宅急便依頼で、SDカード、CD,DVD送付でもOKです。)

執筆代行 (①ゴーストライター/②スピーチライター) 
ゴーストライター:原案は著者が考え、著者に代わり一冊の本になるまでの原稿作成。著者の持っているテーマを聞き出し、著者の言いたいことを文章に作成。出版社・印刷所に提出できる体裁にします。《→執筆代行詳細へ                                                         

プライバシーマーク認証 研修済み 証明書番号1483
当社はベテランオペレーター40名
Microsoft Office User Specialist 有資格者


問い合わせ窓口 ←クリック

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

|

« 「花子とアン」アユムの死、疫痢。昔、子どもの突然死はよくあった。 | トップページ | ペリリューの戦い:1944年(昭和19年)玉砕 戦闘経過Ⅱ »

戦争」カテゴリの記事

日本近代史」カテゴリの記事

死の招き」カテゴリの記事

生き方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「花子とアン」アユムの死、疫痢。昔、子どもの突然死はよくあった。 | トップページ | ペリリューの戦い:1944年(昭和19年)玉砕 戦闘経過Ⅱ »