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2014年8月 5日 (火)

司馬遼太郎は、終戦時二十二歳の自分に、日本はこれでいいか、と書き続けた

0003071943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。
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 兵庫県加東郡河合村(現小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。翌44年4月に、満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。
   戦車学校では文系であったために機械に弱く、戦車学校で成績の悪かった司馬は大陸に配属り、卒業後、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊の小隊長として配属される。翌45年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。
 その時に、アメリカ軍(連合国軍)が東京に攻撃した場合、
「市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか。」と、大本営からきた少佐参謀に聞くと
「轢き殺してゆく」と答えたという。

 終戦時22歳の司馬は
「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」
000310_2「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。
 
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司馬遼太郎が日本人の心に残る歴史小説家で、エッセイも多く残したことも有名だから省略する。彼が晩年、書きたいと思いつつ、書けなかった「ノモンハン事件」についてのみ書いておこう。
 
ノモンハンのソ連軍との戦闘で、日本軍の戦闘部隊は70数%が戦死する戦いであった。000218 その作戦を指揮した作戦参謀に戦後インタビューすると、まるで、自分の責任を感じない答弁をしている。
 それをスラスラと、その言葉遣いが、油紙の上に水を垂らすと流れるように、語るのに言葉がしみてこない・・・という。

000310_2 100人の部隊が20人そこそこに減ってしまう戦闘を強いる作戦参謀の考え方はどうなっているのか。(続き) 
 “統帥権と軍”をテーマに“昭和”を小説に書きたかった司馬遼太郎は、ノモンハン事件に注目した。

 ノモンハン事件とは、昭和14年5月から9月まで続いた短い期間の戦闘である。
 モンゴル国境をめぐる紛争事件で、日本軍はソ連の戦車軍団とモンゴル軍を相手に戦って、日本軍の死傷者は2万人に上った。しかし、この事実は、当時極秘にされて、国民には知らされなかった。二万人が死傷したとは、日本の軍隊史上でも、大きい事件だ。このノモンハン事件は、関東軍参謀の辻政信・服部卓四郎が独断で拡大したのだった。関東軍を統轄する参謀本部は彼らの無謀を追認した。

 なぜ、参謀本部は無謀な戦いを止められなかったのか。
 司馬遼太郎は、この事件をきちんと書くことで、昭和という時代の正体がはっきりすると考え、中央公論社の編集長や文藝春秋の半藤一利と共に、稲田正純を訪ねた。彼は、関東軍を指揮命令する立場にあった、内地東京の陸軍参謀本部の作戦担当課長であった。


Photo稲田 正純(いなだ まさずみ、1896年(明治29年)8月27日 - 1986年(昭和61年)1月24日):日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍中
将。鳥取県日野郡黒坂村(現在の日野町)出身。陸軍三等軍医・稲田清淳の二男として生まれる。
 米子中学校(現在の米子東高校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)陸軍士官学校(29期)を卒業、砲兵少尉に任官。陸軍砲工学校高等科を卒業し、1925年(大正14年)陸軍大学校(37期)優等で卒業。
参謀本部付勤務、参謀本部員、フランス駐在、仏陸大卒業、野戦重砲兵第2連隊大隊長、陸大教官、参謀本部員(防衛課)、参謀本部作戦課戦争指導班長、陸軍省軍務局軍事課高級課員、参謀本部作戦課長(1939年、ノモンハン事件当時)、陸軍習志野学校付、阿城重砲兵連隊長、第5軍参謀副長などを歴任し、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に昇進。
 第5軍参謀長を経て、1943年(昭和18年)2月、南方軍総参謀副長となるが、インパール作戦実施に強硬に反対し更迭。第2野戦根拠地隊司令官、第3船舶輸送司令官、陸軍兵器本廠付などを経て、1945年(昭和20年)4月、陸軍中将に進級。第16方面軍参謀長として九州で本土決戦に備えていたが終戦。
1946年(昭和21年)8月九州大学生体解剖事件及び油山事件(油山米兵捕虜斬首事件)容疑で巣鴨プリズンに、1948年(昭和23年)8月、横浜軍事法廷でBC級戦犯として重労働7年の判決、1951年(昭和26年)6月に釈放


 たっぷり時間を取って、午後6時から午後11時までインタビューした取材であったが、・・・司馬の期待した回答は何も得られなかった。

Inada_masazumi_1952 司馬遼太郎が「参謀本部は、関東軍に対して、どういう指揮、指導、政略ができたのか、あるいは、やったのか」と、稲田さんに切り込んだが、元参謀本部策作戦課長だった彼は
「もちろん関東軍は三宝本部の指揮下に合って参謀総長が“やめろ!”といえば、関東軍はその指揮に従わなきゃならない。当然指揮はできるのです。」

 司馬遼太郎は、「それをなぜ、悲惨な戦闘になるまで引っ張って勝手に関東軍が作戦を練って、突撃して沢山の兵士を殺している。それを黙って見過ごしたのか?」と聞くと
 稲田課長は
「黙って見過ごしていませんよ。ちゃんと指導しています。」だけど、関東軍がいうことを聞かないじゃないですか?
「関東軍のバカどもに(責任が)あるよ」という。
「とにかく悪いのはみんな関東軍だ。現地が言う事を聞かなかったからあんなことになった」
「国境線のことは関東軍に任せていた」
というような話しかしない。その無責任な態度に司馬遼太郎は、
「いくらなんでもあんまりじゃないか。こんな奴が作戦課長だったのかと、心底あきれた」と半藤に語った。

 口数は多く
おしゃべりであったが、ノラリクラリと、核心をえない回答で、何も書くに値する内容は何も出てこなかった。ちょうど、ツルツルの油紙の上に水をかけたように弾くばかりで、聞き手の心に入ってくる言語がなかった。中身のない話を堂々とする態度は、まるで妖怪をみている思いがあった。こういう人たちが戦争を引っ張っていった、怖さを感じる取材であった。
 ノモンハンの戦いに関することをはずした官僚的な回答しか出てこないという点、それが面白かったが、こういう人が戦争をやっていたのか、と納得した気分であった。

 ソ連軍の戦車部隊は、質、量ともに日本軍を上回って圧倒していた。やがて、日本軍は火炎瓶による、肉弾戦を展開した。壊滅的な状況に追い込まれても、参謀本部は戦闘を継続させた。死傷者は76%を越している部隊があった。千数百人から2,000人程度の「連隊」の連隊長で、生き残っているのは三人のみだった。

000253 その一人、須身 新一郎に、司馬遼太郎は、取材のために会いに行っている。(他の2人は砲兵団野戦重砲兵第7連隊長、鷹司信熙大佐、砲兵団野戦重砲第1連隊長、三嶋義一郎)

須身 新一郎(すみ しんいちろう)は、東京府出身。1913年5月、陸軍士官学校(第25期)を卒業し、同年12月、陸軍歩兵少尉任官。
第7師団歩兵第26連隊は、小松原道太郎中将率いる第23師団強化のため6月20日に配属された。
サイダー瓶を使った火炎瓶攻撃を組織的に実施し、83両の敵戦車(部隊記録)を破壊したことでも有名である。
8月23日小松原師団長が指示した、わずか400人の兵力で敵側背に迫るという無謀な作戦を拒否し、小松原師団長、辻政信参謀の無謀な作戦計画に反対するなどもあり、ノモンハン事件後予備役編入となった。

 戦後、須身 新一郎は、ノモンハン事件について
「(小松原師団長は)あのソ連軍をなめているなという感じですな。甘く見ているということですわ。」
「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将および、そのあと荻洲立兵中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないから、この戦いが不結果終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりした。」
「責任を負って死ねと。残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。
 また停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないですね。」

須身 新一郎は、ノモンハン事件についての手記を残している。
兵士たちを死地に追いやった上官への怒りに満ちていた。
「わが作戦の愚昧なこと、さらに装備はお話しにならない。その性能極めて愚鈍なるわが戦車は敵の戦車砲の前には豆腐のごとき存在でしかなかった。」
「迷夢の酔者たちは日本をひきずって、ついに大東亜戦争まで突っ込んで終わった。」

Wikipediaから引用すると
ソ連軍の猛攻の過程で、日本軍の連隊長級の前線指揮官の多くが戦死し、生き残った連隊長の多くも、戦闘終了後に敗戦の責任を負わされて自殺に追い込まれ、自殺を拒否した第26連隊長須見新一郎大佐は予備役に編入されるなど、敗戦後の処理も陰惨であった。
 また、壊滅的打撃を受けた第23師団の小松原師団長も、事件の1年後に病死したが、これも実質的に自殺に近い状況だったと見られている。
000223 その一方で独断専行を主導して苦戦を招いた辻政信・服部卓四郎ら関東軍の参謀は太平洋戦争開戦時には陸軍の中央に返り咲いた。植田謙吉関東軍司令官は責任を問われ辞職した。
 また、この事件の実質的な責任者である関東軍の作戦参謀の多くは、転勤を命ぜられたが、その後中央部の要職に就き、対英米戦の主張者となったと、戦後の史家遠山茂樹らは主張している。

 日本では、軍部の威信低下を避けるため、国内に対して敗北を隠し、新聞はノモンハンでの日本軍の圧勝を報じた。
 また、軍内部においては敗北の責任を参加将兵の無能と臆病、および政府の非協力に帰し、参加将兵に緘口令をしいた。一般の日本人が敗北の事実を知ったのは、戦後になってからだった。
 陸軍はノモンハン戦後に「ノモンハン事件研究委員会」を組織しその敗戦の要因を研究したが、装備の劣勢や補給能力の低さを認識したものの、抜本的なドクトリンの改革には結びつけず、“軍の伝統たる精神威力の更なる鍛錬を”との精神論に堕した
。」000262 ノモンハン事件当時、調べていくと、国家、参謀本部、戦車が劣化して、小説上で魅力あるものがない・・・、000303 司馬遼太郎のは書きたい意欲がわいて来ないと語り、ノモンハンを背景にした「坂の上の雲」に比する小説ができたはずだった。それを断念した。体調も思わしくなかったのかもしれない。その数年後、72歳で亡くなった。

司馬遼太郎、五味川純平、そして山崎豊子 民族の歴史小説家 
村田蔵六(大村益次郎)46歳で死す:

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コメント

「ソ連軍の戦車部隊は、質、量ともに日本軍を上回って圧倒していた。やがて、日本軍は火炎瓶による、肉弾戦を展開した」

『ノモンハンの真実 日ソ戦車戦の実相』古是三春(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E6%97%A5%E3%82%BD%E6%88%A6%E8%BB%8A%E6%88%A6%E3%81%AE%E5%AE%9F%E7%9B%B8-%E5%8F%A4%E6%98%AF-%E4%B8%89%E6%98%A5/dp/4819110675

『ノモンハン戦車戦―ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い』(独ソ戦車戦シリーズ)マクシム・コロミーエツ (著) 鈴木邦宏(監修) 小松徳仁(翻訳)

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E6%88%A6%E8%BB%8A%E6%88%A6-%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%B3%87%E6%96%99%E3%81%8B%E3%82%89%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%BD%E9%80%A3%E8%BB%8D%E5%AF%BE%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E3%81%AE%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%88%A6%E3%81%84-%E7%8B%AC%E3%82%BD%E6%88%A6%E8%BB%8A%E6%88%A6%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A0-%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%84/dp/4499228883/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1485942803&sr=1-1&keywords=%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E6%88%A6%E8%BB%8A%E6%88%A6

投稿: | 2017年2月 1日 (水) 18時55分

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