« 「横田みぐみ」さん拉致を新潟の海岸で実証 西岡力会長、恵谷治 | トップページ | 公共情婦「湯 燦」(タン・ツァン)から芋ヅル式に汚職党幹部投獄追放 »

2014年7月 5日 (土)

先輩東條英機を侮辱した石原莞爾の受けた報復

 Kanji_ishiwara2 満州事変を起こし、満州国を作った発案者が石原 莞爾で、実行したのが板垣征四郎。関東軍は、昭和6年(1931年)23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の軍を率いて、日本本土の3倍もの面積を持つ満州を占領。
 現在、中国の柳条湖事件記念館には、事件首謀者として、板垣と石原二人のレリーフ(浮き彫り肖像画)が掲げられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「★読んで頂いたら、★1日1度クリック」 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います 
ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
 満州国を作ったという歴史的な事実について、その善悪を言う前に、まず、日本という国が過去に何をしたか、私たちが知らないと、話にならない。ということで、近代日本に何が起きたか、何をしたか、それを知ろう!ということで、
石原 莞爾を取り上げる。

石原 莞爾の生い立ち。
 
Kanji_ishiwara2_2_2
山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として誕生。
莞爾=にっこりと笑うさま。ほほえむさま。意味は(にこやかな様子)であるが、キレもの過ぎて、笑っている印象は少ない
 長男、次男が亡くなり、莞爾が事実上の長男。四男は1940年6月に航空機事故で殉職。 五男は一歳で亡くなり、六男は昭和51年まで西山農場で暮らす。

 幼年期は乱暴な性格。しかし利発な一面もあり、校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績で、また三年生の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。 また小児時代は病弱で、麻疹ハシカ、種痘を何度か受ける。近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、将来の夢は「陸軍大将になる」と言っていた。 

明治35年(1902年)に仙台陸軍地方幼年学校に合格し、ここでは総員51名の中で一番の成績。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などは不得意。 

 三年後、明治38年(1905年)には、陸軍中央幼年学校に入学。(陸軍幼年学校は、旧制中学1年から旧制中学2年修了程度に受験資格を与えた。)
 
石原は、図書館に通って戦史や哲学、社会科学などの書物をよく読んだ。「国柱会」設立した田中智学の法華経に関する本を読み始めた。(「国柱会」=純正日蓮主義を奉じる宗教右派)また東京に在住していたため、晩年の乃木希典や大隈重信の私邸を訪問、教えをこうている。
 明治40年(1907年)陸軍士官学校に入学。勉強は教室と自習室で済ませ、学科成績は350名中で3位、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。

 士官学校卒業後は原隊復帰し見習士官の教官として厳しい教育訓練を行った。軍事学以外、広く哲学や歴史の勉学にも励んだ。南次郎(昭和9年、第8代朝鮮総督。内鮮一体化を唱え、①民族語の復活 ②朝鮮語教育の推進 ③創氏改名など進めた)からアジア主義の薫陶を受けた。 

 連隊長命令で、陸軍大学校を受験。
 陸軍大学校の受験科目:初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史など、各科目三時間または三時間半で解答する。
 石原は受験に対して、どうせ受からないと試験前は全く勉強しなかった。普段の部隊勤務をこなし、試験会場に一切の参考書を持って来なかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学。
 

 今まで図書館で独学していた石原には、陸軍大学の宿題も楽にこなした。残った時間は、思想や宗教の勉強に充てた。石原の戦術知識は高く、討論でも教官を言い負かすことがあった。
 大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業(30期、卒業生は60人)。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。(北越戦争=戊辰ボシン戦争:薩摩藩・長州藩の新政府軍と、奥羽越列藩同盟(旧幕府勢力)が戦った日本の内戦)
 

 石原 莞爾「卒業論文」ポイントは、長岡藩兵は継之助の巧みな用兵により、新政府軍の大軍と互角に戦ったが、長岡城を奪われた後、逆襲に転じ、夕刻、敵官軍の意表をついて八丁沖渡沼作戦を実施し、長岡城を奪還。これは軍事史に残る快挙“河井継之助”の小を以って大に勝つ作戦である。 

  昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領。アイディアは石原莞爾、実行統率が板垣征四郎と考えられる。

Itagaki 二人の関係を表すエピソードがある。
 参謀部の北満演習旅行があったとき、 このとき石原莞爾は「戦争史大観」の講演を行い、板垣大佐をはじめとする関東軍参謀の面々が聞いていた。
 その日の夜、石原がホテルの寝床でふと目を覚まし、トイレにたったとき、板垣大佐の部屋の窓には明かりが灯っており、戸が半開きになっていた。明かりに誘い込まれるように板垣大佐の部屋に入ると、大佐は一心腐乱に何やら書き物をしている。
板垣「おお、君か。どうしたのだ。こんな夜更けに」
石原「板垣大佐、何を書いておられたのですか」
板垣「君が昼間の講演で語った戦略理論が、あまりにもすばらしい内容で深い感銘を受けたのでそれを忘れないようにと思って、要点を思い出しながら整理し、まとめているところなのだ」 
 まったく先輩、後輩の垣根のない、板垣の純粋な心、素直な姿勢が見て取れる。
 石原はこのとき「板垣大佐の数字に明るいのは兵要地誌班出身のためのみと思っていた私は、この勉強があるのに感激した」と後に出版した「戦争史大観」に書いている。

Imgmanchukuo084 満州国の建国スローガンは「王道楽土」「五族協和」。それが石原 莞爾の中で、満蒙独立論へ転向していく。日本人は、国籍を離脱して満州人になり、日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であった。冷静に考えてみれば、日本人が“欲”を出して独占を考えないで、五族の協力が可能なら「東洋のアメリカ」は理想の実現である。
1 その実、裏では、石原独自の最終戦争、日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための「民族協和」であったと指摘する研究者もいる。
 

04_2 その後、満州国は日本の敗戦と共に、崩壊する砂上の楼閣であったように言われるが、「理想国家」を夢想した、人類の実験であった・・・という面も持っていた。 

 二・二六事件、昭和11年(1936年)の際、石原莞爾は、参謀本部作戦課長であり、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にあった。
 この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて、参謀本部へ登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため、登庁することができた。
 安藤輝三大尉は、部下に銃を構えさせて石原の登庁を陸軍省入り口で阻止したが、
「何が維新だ、陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ!」と、石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。

 満州事変以降、関東軍は内地中央の方針を無視する態度が目立つようになった。
 1936年(昭和11年)、関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう、石原莞爾は説得に出かけた。
 現地参謀であった武藤章が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。

Mutouakira武藤章:(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、昭和の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
1913年(大正2年)陸軍士官学校(25期)を卒業。
1920年(大正9年)陸軍大学校(32期)卒業。

 盧溝橋事件=支那事変(日中戦争)開始時、1937年(昭和12年)7月には、ここでも参謀本部作戦課長の武藤などは、不拡大方針をたてた上司の作戦部長石原莞爾とは、反対に対中国強硬政策を主張。

 石原は「早期和平方針を達成できない」と判断し、最後の切り札として近衛首相に
「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したが、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。

 石原は、“戦線が泥沼化する”と予見して不拡大方針を唱え、在華ドイツ大使トラウトマンを介して中華民国政府との和平工作を行ったが、この石原莞爾の方針は当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢は反対し、参謀本部から関東軍の参謀副長として左遷された。これ以後、東條英機との確執は激しくなった。

 石原莞爾は、昭和12年(1937年)9月に関東軍に戻り、参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。1940年(昭和15年)に満洲国から勲一位柱国章(勲一等瑞宝章に準ず)が贈られた。
 
 翌年の春から、東條英機が関東軍参謀長に着任。東條参謀長と石原参謀副長は、満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。

 Thxkolqtk3
東條 英機(明治17年(1884年)7月30日~昭和23年(1948年)12月23日):
日本の陸軍軍人、政治家。陸軍大将。
明治38年(1905年)陸軍士官学校を卒業
大正元年(1912年)~大正4年(1915年)陸大を卒業

 石原 莞爾(明治22年(1889年)1月18日~昭和24年(1949年)8月15日): 明治40年(1907年)陸軍士官学校に入学 大正4年(1915年)~大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業(30期、卒業生は60人)

 石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。

 気性の激しい石原莞爾は、東條の5歳年下であったが、以後、東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと罵倒、事ある毎に東條を無能呼ばわりした。
 一方東條の側も、石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原を「許すべからざるもの」と思っていた。
 東條の根回しにより、昭和13年(1938年)に
石原は関東軍参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に左遷され、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長にされた。太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。

 以後、大学で講義したりの生活をしていたが、東條の指示で憲兵がスパイのように付きまとっていた。そのいちいち報告が東條へ伝わっていた。石原は、A級戦犯になるべき身であったが、体が病魔に冒され、免れた。A級戦犯の処刑昭和23年12月より長く生きたとはいえない昭和24年8月15日に病没した。

 東條は、敵対するライバル、あるいは東條の意向に逆らう人材を徹底的に消していく話はいくつか聞く。その代わり、自分の意向に従う飼い犬同様な人材を重用した。
 東條に近かった人物は「三奸四愚」と総称される。
三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二
四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄

 田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、評判のよくない、且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因と思ふ」と名指しされた。
 田中隆吉(兵務局長)は、東條の腰巾着と揶揄され、戦後は一転、連合軍側の証人として、東京裁判であることないこと証言したとして評判が悪い。
 富永は、東條の陸軍大学校教え子で、東條陸軍大臣時、仏印進駐の責任問題で、二人の将官が予備役編入処分される中、人事局長に栄転し陸軍次官も兼任。のち、富永は(戦況悪化で)フィリピンで特攻攻撃を命令、自らも特攻すると訓示したが、富永自身は病気(胃潰瘍)を理由に戦場離脱、台湾で温泉保養する。評判悪い男。帝国陸軍最低の将官との評価である。


東條運動 松前重義に報復人事: 
ナゼ東條内閣ニにらまれたか 松前重義 
懲罰召集の記者と250名道連れ年配兵玉砕
ミズーリ艦降伏調印 責任者の責任 
海軍軍令部はどんな反省をしたのか 
兵士たちの戦争 ガダルカナル白兵突撃 
「従軍作家たちの戦争」石川達三 戦争協力

兵士たちの戦争NHKルソン島死闘  
ルソン島で人肉を食う敗走日本軍 
初年兵を死地にやった上官 
ある憲兵の記録 日本人のDNA 
戦争を知る人たちの記録 
ビルマの竪琴(竹山道雄)VTR見る
硫黄島からの手紙 映画館で見た 
終戦 荒廃した国土 忘れるな 
講和条約 日本は占領されていた 

白骨街道 
戦争の影響 疎開、食料など 
日本軍の関与 集団自決、慰安婦問題 
被爆死体片付けた 広島高師の学生 
美しい国 命をかけた祖国
戦争を知る人たちの記録 
レイテ戦記 レイテ戦記2 レイテ戦記3 
兵士たちの戦争

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「★読んで頂いたら、★1日1度クリック」 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います 
ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Sponsored Link

Kanban2データ入力 
http://www.nozawa21.net/データ・名刺入力/

顧客名簿作成・名刺データ入力・DM宛名シール作成。様々な形式で作られたデータの同一形式での統一化。手書き原稿のデータ化。《→データ入力詳細へ   

 アンケート入力
各種調査アンケート集計
《→
アンケート入力詳細へ

 録音テープ起し
講演・講義・取材・座談会など。様々な媒体の音声のデータ化。 オプションサービスとして、出張録音(機材持込可)・原稿要約いたします。 《→
録音テープ起し詳細へ   

Dropboxge_3 最近お勧めはDropBoxです。 

ドロップボックスへ音声ファイルを入れるだけで、非常に簡単になりました。現在1回12GB(音声20時間)まで受付可。
  ご連絡頂ければ、即日、専用ドロップボックスを用意します。バイク便を使うより確実で早く、料金のご負担もありません。(もちろん、宅急便依頼で、SDカード、CD,DVD送付でもOKです。)

執筆代行 (①ゴーストライター/②スピーチライター) 
ゴーストライター:原案は著者が考え、著者に代わり一冊の本になるまでの原稿作成。著者の持っているテーマを聞き出し、著者の言いたいことを文章に作成。出版社・印刷所に提出できる体裁にします。《→執筆代行詳細へ                                                         

プライバシーマーク認証 研修済み 証明書番号1483
当社はベテランオペレーター40名
Microsoft Office User Specialist 有資格者


問い合わせ窓口 ←クリック

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

|

« 「横田みぐみ」さん拉致を新潟の海岸で実証 西岡力会長、恵谷治 | トップページ | 公共情婦「湯 燦」(タン・ツァン)から芋ヅル式に汚職党幹部投獄追放 »

戦争」カテゴリの記事

日本近代史」カテゴリの記事

生き方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「横田みぐみ」さん拉致を新潟の海岸で実証 西岡力会長、恵谷治 | トップページ | 公共情婦「湯 燦」(タン・ツァン)から芋ヅル式に汚職党幹部投獄追放 »