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2014年2月 3日 (月)

NHK黒田官兵衛 忠臣の死んだ青山・土器山の戦いに苦戦す

Photo NHK大河ドラマ「黒田 官兵衛」を見ていると、日本史中央政治だけでは紛争は、よくわからない。
   官兵衛の妹「おたつ」として嫁いだ婚礼当日(永禄7年(1564年)1月11日)に、赤松が嫁ぎ先の浦上家(室山)を夜襲を仕掛け、花嫁の妹と浦上親子を討った。これにより赤松は浦上家の領していた室津近辺を奪取し領土を拡大した。
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 浦上は、もともと赤松の有力家老(家臣)であったが、独立して近隣の実弟や、小寺(官兵衛の主スジ)とも和睦を結び、勢力の伸張していた。赤松は、それを危惧し、永禄7年(1564年)婚礼の日に、浦上一族を滅ぼした・・・というのが、それまでの流れである。
 その後、赤松政秀は、永禄十二年(1569)に小寺氏の重臣黒田官兵衛孝高の姫山城(後の姫路城)を攻略すべく兵を起こしたが、黒田官兵衛孝高の奇襲に敗れ、龍野へ撤退した(青山・土器山の戦い)。
 これを好機とみた浦上宗景が龍野へ軍を向けると、赤松政秀は抗しきれず降伏した。翌元亀元年(1570)、政秀は何者かに毒殺された。赤松を政秀の嫡男広貞が継いだ。天正五年(1577)に羽柴秀吉が播磨へ侵攻すると、龍野城の赤松氏は一旦抵抗するが、敗れて降伏した。

黒田 官兵衛
永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。
永禄5年(1562年)、小寺政職の近習となる。
この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。
永禄7年(1564年)、室津の浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に敵対する龍野城主赤松政秀(宇野政秀)に攻められ、夫や一族とともに討たれる。
永禄10年(1567年)頃、官兵衛は父・職隆から家督と(小寺の)家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。
 家督を継いだ黒田 官兵衛は、中谷美紀の光てるとの間に嫡男(後の黒田長政)が生まれ、夫婦の関係は良好のようだ。
 同じ歳の家僕(家臣)永井大も、侍女のお国(中川翔子、翔子キャラを発揮しないと、目立たない)と、恋仲になり、黒田家の穏やかなときが流れている。
 

永禄12年(1569年)8月、義昭と誼ヨシミを結んだ龍野城主、赤松政秀が、池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて大軍を率い姫路城を襲ってきた。
 黒田官兵衛は奇襲攻撃を仕掛けるなど、官兵衛は300の兵で相手赤松軍に突撃をして、赤松を追い払った。
 大軍である赤松は、一度の失敗では引き下がるはずもなく、動き始めた。小寺城のお屋形も、官兵衛を支援すべく出陣したが、赤松軍が動き始めたとの物見の報告であった。
 官兵衛の勝負勘が働き、即刻配下の兵を集めて出陣した。赤松軍は、一度追い払われたが、まだ兵の損傷がほとんどなく、数は3000、小手調べのような戦いであった。
 官兵衛は、赤松軍が完全に準備が整う前に攻撃仕掛けないと勝機はないと攻撃を開始したが、多勢無勢、劣勢に立たされ、大事な家臣が次々に負傷したり討死し、完敗であった。
 

 その報告が小寺城のお屋形の本陣に届くと、お屋形は「加勢に出撃する」と立ち上がったが、側近が「あぶない」と進言して、戦いの場から脱出した。

 赤松軍は、黒田を駆逐し、勝利の宴で大いに盛り上がって油断した。官兵衛は、負け戦の中から、残る動ける兵約二百人を再び集め、油断している赤松本陣へ突撃した。宴で酔いつぶれている赤松軍は逃げるのに精いっぱい、多くは切り殺され、さんざんであった。
 黒田軍は、三木通秋の援軍などもあって、多くの家臣が命を落とすなか、奮戦の末、長年の宿敵・赤松に討ち勝った。(青山・土器山の戦い)。 
 
 
 
 赤松兵を追い払って勝利をしたが、官兵衛の忠臣武兵衛(永井大)も、大きな傷から命を落とした。

  凱旋勝利を祝うべき黒田軍は、悄然と負け戦の将兵の姿だった。母里武兵衛(永井大)と恋仲になっていた侍女お国(中川翔子)は、彼の死を知り、涙に暮れるのだった。 黒田官兵衛は、青山・土器山の戦い以後、死ぬまで一度も破れていない。

官兵衛、土器山の戦いに苦戦す
http://kanbee.taigadrama.org/main/himeji4.html
 みごと赤松政秀の軍勢を撃退した官兵衛。しかし政秀はすぐ諦めるような男ではありませんでした。またもや官兵衛を倒しに3,000騎の兵力で押し寄せてきたのです。 

 青山の戦いの合戦城にほど近い、夢前川(ゆめさきがわ)の対岸の土器山(かわらけやま・現在の船越山あたり)に官兵衛は陣取りました。
 しかし、今度は逆に政秀軍が奇襲をかけてきます。圧倒的戦力差もあって叔父の井手友氏は重傷の上死亡。家臣の母里小兵衛(もりこへえ)など重臣も相次いで戦死しました。黒田軍は大打撃を受けますが、援軍到来のおかげで辛うじて小康状態へと盛り返します。(また、小兵衛の死は土器山の戦いの数年前で、この戦いには参加していないとも。)

 「守りに入っては負ける」と考えた官兵衛は、敢えて攻撃を強行します。母里武兵衛(もりぶへえ・小兵衛の子)は無謀とも思えるこの判断に対して「瀕死のこの状況で出撃しろとは、つまり死ねということか」と言葉を返しましたが、官兵衛は「恐らくそうなるであろう」と応えた。 

 その夜、官兵衛たちは赤松(政秀)陣へ急襲した。昼間、黒田軍に大打撃を与えたばかりで、まさか逆襲してくるとは思っていなかった赤松軍は狼狽。あれよあれよという間に官兵衛たちに徹底的に敗れた。
 母里武兵衛は、7箇所もの大きな傷を負いながらも先陣を切って奮戦したが、ついに死に、黒田軍も戦に勝ったが、大きな痛手を負った。 
 

 しかし、この結果、300騎という少数で大軍を破った官兵衛の名は轟き、“播磨に官兵衛あり”との名声を得た。
 一方、敗戦した赤松政秀は、浦上宗景に攻め入られまたも敗退。あげくに毒殺された。
 

 武兵衛の母里家の戦死者は24人にものぼり、お家断絶の危機となったため、官兵衛はこれを危惧し、姫路・妻鹿(めが)の地侍で職隆に仕えていた曽我一信と母里氏の女との間の子・万助に母里姓を与えて母里の籍を継がせた。 

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