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2014年1月25日 (土)

「シンドラーのリスト」にある思い 日本人に伝わるか

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「シンドラーのリスト」のDVDを改めて見た。
 監督は、スピルバーグである。彼自身もユダヤ系アメリカ人だから、かなり思いが入っているのを感じる。旧ドイツ親衛隊ナチスにも、何も言い分があったはずだが、伝わってこない。
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 第二次世界大戦中のドイツは、ナチズムの旋風でユダヤ迫害を国の方針で貫いたが、今は、ナチズム賛同者は現ドイツ政府とは確実に一線を画している。この点が、戦時中の行為を擁護する考えがある日本とは、大きく違う。A級戦犯合祀の靖国神社へ総理が参拝することは、ドイツだったらないだろう。Imagescahtz99r
  「シンドラーのリスト」という映画は、ユダヤ人強制収容所の隣りで軍御用達の琺瑯工場をつくり、それもユダヤ人の出資で、ユダヤ人経営者を採用して、大もうけをする。戦況の変化、つまりドイツ軍の旗色の悪くなるに従って、強制収容所から絶滅収容所に転換することで、シンドラー工場も移転することになる。Imagesca0ufli1
  その際、工場労働者=ユダヤ人を会社に必要な人材としてリストをつくり、収容所長に承認を受け貨車に乗せたが・・・、女性列車がアウシュビッツ絶滅収容所へ着いてしまい、ガス室へ送り込まれる寸前にシンドラーが駆けつけて、収容所内の親衛隊全員の金を配る約束して、助ける。そして、終戦によって・・・ソ連軍の騎馬兵がユダヤ人解放を宣言する。Imagescabknfgx

 シンドラーの史実
 1927年秋にはエミーリエ・ペルツル(Emilie Pelzl)と知り合った。彼女はツヴィッタウから南西40キロほどのアルト・モレタイン(Alt Moletein)(現・チェコのマレティーン(Maletín))の裕福な農場経営者ヨーゼフ・ペルツル(Josef Pelzl)の娘だった。
 オスカー・シンドラーとエミーリエは、1928(昭和3)年3月6日にツヴィッタウで挙式。エミーリエとの間に子供はできず、シンドラーは父の秘書だったアウレリエ・シュレーゲル(Aurelie Schlegel)を愛人にして、彼女との間に私生児二人を儲けた。(1933年に長女エーディト(Edith)、1935年に長男オスカー。長男は第二次世界大戦末期に行方不明)。

 軍の勤務を終えた後、シンドラーはブリュンの電機会社に復職したが、この会社は1931年に倒産。シンドラーはこの後一年ほど失業者になった。シンドラーの父の農業機械工場も倒産し、父の助けを借りる事も出来ず、エミーリエの父に援助してもらい生活を凌いだ。シンドラーは養鶏場を買い、またプラハの銀行の代理人の仕事に就き、ブリュンの商人に国有財産を売却する仕事に携わった。

 ナチ党員に
 シンドラーは、ドイツ民族主義的な政党に入党。ドイツ国防軍諜報部「アプヴェーア」と接触し、その諜報員として活動。彼の諜報活動が露見、チェコ鉄道の秘密内部情報を漏らし、大叛逆罪で死刑宣告を受ける。1938年10月にドイツのズデーテン併合により、刑の執行は中止。

1939年2月10日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に志願して入党。彼は、ドイツのポーランド侵攻に合わせ、戦争での一儲けを狙い、ポーランドのクラクフにやってきた。

 ユダヤ人強制労働者の救出
 1939年10月、シンドラーは、没収されそうなユダヤ人所有「琺瑯(ホーロー)容器工場」を買い取る。
 ユダヤ系ポーランド人会計士イツァーク・シュテルンの助言を受け、闇商売で資産を拡大。小さな工場は、わずか3カ月で250人のポーランド人労働者を使い、ドイツ軍の厨房用品を製造して1942年末までに、巨大な琺瑯容器軍需工場に成長した。 45,000 m²の敷地に800人近い労働者が働いた。その中にはクラクフ・ゲットーから通うユダヤ人370人がいた。Imagescaif38t3

 シンドラーは、プレイボーイの遊び人で、まさにすべての面で享受していた。彼は、見てくれよく育ってきた人間とみなされて、上品な社会の中で立ち回り、良い身なりをし、女性たちからもてはやされ、金を湯水のように使っていた。Imagescaeccxoj
 ナチス党政権へのシンドラーの抵抗は、イデオロギー的な面からではない。無力なユダヤ人住民たちに対する扱い方に異を唱えたのである。多くのユダヤ人を救済したいという願望の前に、最後には、全財産をこの目的のために投げ出すだけでなく、自分の命まで賭けようとしたのである。Imagescayigv17 シンドラーがユダヤ人救済できたのは、
 彼の工場が“ドイツ軍の軍需工場”ということで、ドイツ軍司令部から特別の承認されていたことである。これにより、彼は大きな利益のある契約を締結出来き、ユダヤ人労働者を安価に雇用できたのである。
 彼は、ユダヤ人労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張して、ユダヤ人労働者が絶滅収容所へ移送される危険が迫った時にも、それを阻止させることが出来た。

 その際に、ただ子供や大学生を熟練の金属工と称した。シンドラーは、かの有名な“シンドラーリスト”は、映画では、会社の有能な会計士が書いたことになっているが、実際には秘書ミミ・ラインハルト(Mimi Reinhardt)に口述筆記させた。

 几帳面なドイツ軍は、たびたび規則違反やユダヤ人に対する優遇の嫌疑をかけ、ゲシュタポからシンドラーは事情聴取を受けた。こうした規則違反の事実を隠そうとはしなかった。ワイロを贈り、罪を逃れた。
 1943年、ユダヤ人組織の招待で、シンドラーは、ブダペストに旅行し、そこでハンガリーのユダヤ人たちと会合を持った。彼シンドラーは、ポーランドの(収容所にいる)ユダヤ人たちの状況を包み隠さず説明し、救出の可能性について議論を交わした。

1943年3月、クラクフのゲットーは解体され、シンドラー工場のユダヤ人たちは郊外のプワシュフ強制収容所へ移送された。
 シンドラーは、強制収容所所長のアーモン・ゲート(親衛隊大尉)が飲み仲間であり、工場内にユダヤ人労働者の小屋を建てさせてくれるようにと説得。所長ゲートとの秘密交渉で、収容所警備兵たちは、工場の敷地内への立ち入りは禁止し、ユダヤ人労働者に比較的快適な生活条件を提供し、闇の市場で食糧は調達し、貧弱な栄養状態を補ってやることが出来た。

 ドイツ軍降伏前、1944年末、ソビエト連邦軍の侵攻により、プワシュフすべての収容施設の解体され、ここにいた20,000人以上のユダヤ人がアウシュビッツ絶滅収容所に移送されることになった。
 シンドラーは、ズデーテン地方のブリュンリッツ(現・チェコのブルニェネツ)で新たに工場を手に入れた。ドイツ軍司令官から、「軍需物資の生産」を継続し、そのための労働者を連れていく許可を得た。

 その工場労働力には、プワシュフの収容所から総数で800人の大人数を選び、そのうち700人がユダヤ人、300人が女性だった。これらの人々のブリュンリッツ労働収容所への移送は、1944(昭和19)年10月15日に行われた。
 輸送列車はアウシュヴィッツを通っていた。その時、彼女たちが別の収容所に移される前に、すべての囚人はすべて検疫所に行くようにという親衛隊の指令書が届き、そのため、女性たちはおよそ60km離れた強制収容所アウシュヴィッツに行くはめになった。

シンドラーは、アウシュヴィッツに駆けつけ、シンドラーが、ユダヤ人1人当たりにつきゲシュタポに7マルク支払うことを約束し、彼らを助け出すことに成功した。これは、アウシュヴィッツの運用期間中、絶滅収容所から最も多くの集団が脱出を許されたケースである。

 シンドラー夫妻は、アウシュヴィッツの収容施設から、さらにユダヤ人120人を救出した。
 この人たちは、ドイツ石炭鉱業で働かされていた人々である。1945年1月、この人々はソビエト連邦軍の侵攻により、強制疎開を余儀なくされ、2台の鍵をかけられた家畜貨車で西方に荷送された。凍りつくような寒さの中、食事も水も与えられず、7日間かけて親衛隊は、この貨車をシンドラーの工場の門まで運んだのである。

 妻エミーリエ・シンドラーは、親衛隊の輸送部隊を止めて、工場の中に貨物車だけを引き入れた。夫オスカー・シンドラーは、貨物車の乗客が工場にとって急ぎ必要なのだと説いて、貨物車のドアが開けられると、13人の凍死者が発見された。生き延びた107人は、ただちに治療を必要とする状態で、懸命な介護でなんとか一命を取り留めた。

 親衛隊は誰一人、シンドラー工場には立ち入らせず、そればかりか凍死したユダヤ人を彼ら親衛隊に焼却処分することも許さなかった。彼シンドラーは土地を購入して、ユダヤ教のしきたりに則って彼らをそこに埋葬した。

 プワシュフでは、それ以来、収容所エマーリア(Emalia)では、シンドラー工場の労働者たちの誰一人として、暴力で虐待されることはなかったし、不自然な死を遂げたものも、また絶滅収容所に送られなかった。

 シンドラー居住建物の壁にある記念のプレート
 戦後は1945年11月から1950年5月まで、シンドラーはレーゲンスブルクにいた。その後アルゼンチンに赴き、毛皮農場、貿易商の仕事をしたがうまくいかず、ドイツに帰国。ドイツでは、セメント工場も1961年に倒産。シンドラーに救われたユダヤ人たちが、次から次に事業に失敗し奔走しているシンドラーを見かねて、イスラエルに招待した。

 一年の半分をフランクフルトで隠居生活を過ごし、他の半分をユダヤ人たちのエルサレムで過ごした。夫オスカー・シンドラーはこのような生活を1974年、ドイツのヒルデスハイムで死ぬまで続けた。
彼の墓は彼自身の希望により、エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。

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