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2014年1月16日 (木)

おきく物語 そのとき豊臣家と徳川家の政治背景はいかに

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おきく物語の“おきく”は、大坂城が落城する“夏の陣”で、豊臣方が崩壊するとき、決死の脱出した。淀殿に仕えた侍女“おきく”、慶長二十年(1615年)5月7日、命からがら大坂城から逃げ出した歴史の証人である!!大坂城落城は、大事件である。
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関ヶ原の合戦後、今度NHK「歴史秘話ヒストリア」は「大阪冬の陣、大阪夏の陣」を「おきく物語」から取材構成していた。
 大阪城落城当時、慶長二十年、幼少期から茶々(淀殿)に仕えた“おきく”は、すでに20歳でキャリアウーマンであった。父親は、しっかり娘を教育していい勤め口を探す教育熱心な人であった。現代にも通じる考え方である。
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 そして、彼女は大阪城落城で本丸から逃げる様子をつぶさに語り、それを聞いた人が書き伝えている。それが、、『おきく物語』である。“おきく”が、孫の田中意徳という人に語った話を聞いた人が、かなり後になって書いたもの。伝聞の伝聞で、やや信憑性に欠けるとの評価もあるが、それでも、とても興味が沸く貴重な話である。000023

当時、侍女といっても、階級があった。000062
 江戸時代になると、上臈、中臈、下臈から、身分が細分化される。侍女(女房)と言っても、最下層の●御半下(御末) おはした(おすえ) 大奥の雑用一切を受け持つ下女から始まる。
 ●御半下→御使番→御茶之間→火之番→御仲居→御三之間→御広座敷→御坊主→呉服之間→切手書→御次→御右筆→表使→御錠口→御小姓→●中臈→中年寄→御客応答→/(これ以上が老女)御年寄→小上臈→●上臈御年寄
●上臈御年寄 : 将軍や御台所の御用や相談役を担当。御台所(正妻)に同伴して来た公家出身の女性。
●中臈 :将軍・御台所の身辺世話役。家柄や器量の良い女性が選ばれ、この中から側室が選ばれていた。
 ★女中たちのお手当は、主に切米、合力金、扶持(月々の食料)、湯之木=風呂用の薪、五菜銀=味噌や塩を買う銀、油などの現物給与が多かった。また老女とは、上臈御年寄、小上臈、御年寄の3役総称、老女になると町屋敷が与えられることも。

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 徳川の「豊臣家倒壊作戦」は、方広寺鐘銘事件・・・から、が始まった。方広寺鐘の碑文に「家康」という文字が二つに分けられていると、家康が豊臣家にイチャモンをつけた。
 徳川の政権奪取のための流れと気付いた時点で、豊臣家の淀君側が政治判断するればよかったが、天下の生母さまには、家康に屈服ができなかったのが、玉にキズ。糟糠の妻ネネさまは家康の天下を譲り、豊臣家を隠居の覚悟があった。ところが、高校生くらいの秀頼という“掌中の珠”を握る若い(40代半ば)淀殿には譲れなかった。秀頼を太閤にする願いがあった。
淀殿(永禄12年(1569年) - 慶長20年5月8日(1615年6月4日))
高台院:「ねね」「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」 (天文16年(1547年)- 寛永元年9月6日(1624年10月17日))

 しかし、明らかに天下は徳川家康に移っている現実認識ができる人は、サッサ次の時代への身支度して旧家豊臣家から抜け出した。豊臣家に忠義を尽くして、徳川の世に豊臣家を残そうとすると、トラブルの結果になる。その典型は豊臣へ忠義つくした“片桐且元”だろう。徳川と豊臣の間で外交担当して、妥協点を見つけようとして、豊臣家から裏切りもの呼ばわりされ、結局、徳川家へ庇護を求める結果になってしまった。

001 慶長19年(1614年)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ出掛けるが、(作戦的に)家康は且元と面会しない。一方、淀君の側近老女大蔵卿局が行くと、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。ここで、「家康の本心」の解釈で、片桐且元と淀君の側近老女で、決定的な対立になった。
  9月6日、徳川側は崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と片桐且元、双方同席の上で、江戸に赴いて申し開きするよう要求した。同日、徳川方は、西国の大名50名から(徳川への)誓詞をとっている。

  片桐且元は、大坂へ戻り、9月18日、(徳川と豊臣の妥協)私案として、以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言した。
●秀頼を江戸に参勤させる
●淀殿を人質として江戸に置く
●秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する
  片桐且元は、ここまで譲らないと、豊臣家が生き残れないと、豊臣家は追い詰められていると認識していた。
 ところが、大野治房、渡辺糺といった豊臣家の人間たちから“家康との内通”を疑われ、淀殿は怒り、且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。
 秀頼や木村重成など、穏健派からの調停があったが、片桐且元は、大坂城を出ることを決めた。この決心は秀頼側ら穏健派の態度をも硬化させ、「不忠者である」として、“改易”(現代なら、除名処分)が決められる。
 10月1日片桐且元・貞隆は300程の雑兵を率き連れ、共に大坂城を退去した。(改易とは:大名家が何らかの罪を犯して、領地、城、上・下屋敷などの拝領屋敷を没収され、武士の身分を剥奪される。)Photo
  淀殿が若い秀頼の後見人として、実質総指揮をとって、作戦を立てていたが、関が原の敗戦牢人武将が城に入っていたが、豊臣秀吉が大事にしてきた恩顧の家来は、徳川側の切り崩し多数派工作で、豊臣方は減る一方。一年前の冬の陣では20万と10万であったが、夏の陣では、徳川方15万、豊臣方5万の軍勢となった。豊臣方は、本気で闘うのは淀殿の取り巻き老女の子弟か、信州真田の軍勢しかいない状態。もちろん豪傑と称する個人はいるが、軍勢としては、少なく、豊臣側が勝つとは客観的には考えられない。000116
 その状況を戦略的に判断する能力が、淀殿の取り巻きにはなかった。作戦会議を開いて、戦闘員が3倍、4倍の徳川側に勝つには奇襲しかないと真田が主張しても、秀頼様の安全第一で、篭城して闘うことを決断する。
 壕は冬の陣の休戦協定を口実に徳川側は、強引に内掘まで全部埋めてしまった。篭城するにしても、大阪城は裸城になっているという認識が、淀殿グループにはピンときていない。秀吉の遺産である黄金が山ほどあって、いくらでも牢人を集めて、家康に立ち向かえば、恩顧の大名たちは、大阪城を攻撃するはずがないと甘く考えていた。
 大阪城の鉄壁の守りは、種子島などの鉄砲で攻撃しても、大阪城はビクともしない設計になっていた。だから、負けるはずがないという頭が淀殿グループはあり、秀吉が死の前、何度の何度も、家康に約束させた・・・・。その約束があるのだから、という油断もあったが、鉄砲ではなく、責め道具は“大砲”で天守閣の壁も破ってしまう強力な武器が出現して・・・000097
大砲を300砲も並べ、一斉攻撃されては、裸城の大阪城は持ちこたえられないだろう。

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 これが、「おきく物語」で、“おきく”が侍女として勤めていた当時の大阪城の内情=政局である。
00154 しかし、その時=大阪夏の陣で家康軍が攻めてきたとき、“おきく”は、本丸の長局(ながつぼね=宿舎)にいて、そば焼きを食べようと、下女に「そば焼きを作ってヨ」と申しつけたところだった。
 ところが、その下女が台所へ向かってまもなく、「ワーァ!」と、下女は慌てて戻って来た。000014
「本丸南東にある玉造口(たまつくりくち)が、徳川方の攻撃によって炎上しています」と叫ぶので、すぐさま、“おきく”も、(侍女宿舎のある)千畳敷の縁側へ出て、少し高台の見晴らしの良いところで確認すると、大阪城へ徳川の兵士が攻め込んでいた。あちこちから火の手が上がっているのが見えた。

  燃え上がる火を見て、これ以上ぐずぐずしていては、命の危険だ。「これは、いかん!」もうこれまでか、“おきく”は、城と共に討死を覚悟したが、淀君が回りの侍女を集めて、
「若いみそらのあなた達は、あたら命を落とすではない。城から落ちよ」と命じた。
 “おきく”は、局へと戻り、かたびら(麻のひとえ)を3枚重ねにして着込み、帯も3本締め、豊臣秀頼から拝領した鏡を懐中にしまいこみ、現金のなる“竹流し金”を懐にに隠し持った。ずっしり重く、一本で7両(一本70万円)を二、三本隠し持った。これで、追いはぎに会っても命が助かるだろう。
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 台所口から出ると、武田栄翁なる武将と、ほか二名がいて、
「女中の皆さんは、外へ出んといて下さい」と言ったが、
「そら、あなたらは、城を枕に討死の覚悟かも知れんけど、ウチはいやや!」“おきく”は機転の利く女性だったらしく、そんな言葉には耳を貸さずに押し切った出ていくと、そこに、秀吉以来、豊臣家のシンボルとなっている金の瓢箪の馬印が落ちていた。
「なんで、こんなとこに、こんな大事なモン落としてんねん!敵に見つかったら、めっちゃ恥ずかしいやん!」
と、ツッコミを入れながら、たまたまそばにいた「おあちゃ」という女中とともに、これを打ち折ってから、すかさず外へ出た。しかし、城外へ出ても、城兵は1人も見当たりません。

「どうしよう・・・」
と、思っていると、物影から現われたのは徳川方の兵・・・、さびだらけの刀をチラつかせながら
「ネェチャン、金出せや!」と・・・、こんな事もあろうかと、“おきく”は胸元深くに“竹流し金”(竹に流して固めた金)を隠し持っていたので、そのうちの二本を、男に手渡し、「藤堂さんの陣はどこ?」と尋ねた。
「松原口や」という男に、さらに、次の“竹流し金”をチラつかせながら、「その場所まで連れてってくれたら、これも、あげるけどなぁ」
と、言うと、男は「ささ・・・コチラへ・・・」と、本来なら城内に向かう事も忘れて、道案内をしてくれた。

  その後、幸運な事に、城を出た常高院(淀殿の妹:お初)の一行に出合って、合流させてもらった。ご存知のように、この常高院さんは、姉が秀頼の母=淀殿で、妹は徳川秀忠の妻=江(江与)、一年前、冬の陣で徳川方との和睦交渉の時の豊臣方の使者となっていた人で、京極高次(きょうごくたかつぐ)の奥さんでもある。

  その常高院とともにいた秀頼付きのお女中が、たった1枚のかたびらに1本の下帯のみの、哀れな姿だったのを見かねた“おきく”は、「自分は3枚着てるので・・・」と、1枚わけてあげるというやさしさも見せつつ・・・そうこうしているうちに、徳川家康から常高院に、呼び出しがあった。・・・000215
 求めに応じて、常高院が家康の陣に向かう前、
「あなたたちは、豊臣に仕えていた身、お咎めを受けるかもしれないが、覚悟をするように」と、豊臣に仕えた輝かしい経歴が今罪を問われようとしていた。
 家康と顔見知りで、徳川秀忠の妻江(江与)の姉であっても、どんな指示が出るか分からないからと、常高院は連れている一行に覚悟を促した。潜り込んだ“おきく”は心配であった。
 豊臣の残党狩りは熾烈を極めていた。
老若男女を問わず、召し捕り、年端も行かぬ幼子も極刑に処して、大阪城の落城後、家康は豊臣に縁がある者を徹底的に排除した。

 戻ってきた常高院は
 「城内におる者も、出た者も、女の子らは、関係ないよって、好きなようにしてええで」との将軍命令が出たとの事・・・皆で大いに喜んだのです。

 豊臣方の5万人の兵士が篭城した大阪城では、死者2万人、侍女も数限りなく犠牲になり、“おきく”は賢い選択と幸運によって生き延びたのである。まさに九死に一生を得たのであった。大阪城に残った秀頼、淀の方は大阪城と共に命を絶った。大阪城は、徳川政権になったのち、新たに建て替えた。

 すべてを失った“おきく”が向かったのは、京都。京都では、淀殿のいとこ、松の丸殿の許で新たに侍女生活を始めた。“侍女”という職業は、かなり経験がモノを言う職業らしく、淀君の侍女という経歴が採用の理由であったようだ。今で言えば、社長秘書みたいな職業であろうか。文字はきれいにかけるし、接客にもなれ、英語も使えるとか、普通のシモジモの人とは違う技能があったのだろう。帳簿つけもできる才能もあったに違いない。

 (NHK「歴史秘話ヒストリア」では)その後、“おきく”に転機がきた。それは、結婚。慶長20年(1615年)20歳で大阪城落城で、それから数年、20代半ば、当時としては晩婚だが、天皇の御所で勤める医者に、侍女の経験と能力を買われ、良縁に恵まれた・・・。
 別の書には、
 その後、“おきく”は、備前岡山藩の藩医をしていた田中家に嫁ぎ、83歳の天寿を真っ当したとの事・・・孫に昔語りを聞かせる、おだやかなおばぁちゃんの武勇伝とも言えるお話でした。とある。

それにしても、戦国時代の20歳は、しっかりとした女の子だ。成人したばかりの今時の子とは、まるで違う。平均寿命が50代だったころに83までいきたのは平穏な人生の証明だろう。 

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