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2013年12月29日 (日)

軍師黒田官兵衛 NHK大河ドラマ 本当の史実は?

 軍師黒田官兵衛の生きた戦国時代が“日本史の華”だ。再び大河ドラマの舞台が戦国時代に戻ってきた。1が戦国、2が明治維新、それ以外をやると、不評になりやすい。一昨年の平清盛に大方の人が文句言ったのは、あの時代に人気がないからだ。000033・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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黒田 官兵衛が生きた時代が、まさに“戦国時代”のど真ん中だ。
黒田官兵衛 1546年~1604年4月19日 58歳Yoshitaka_2豊臣秀吉   1537年~1598年8月18日 61歳
織田信長   1534年~1582年6月  2日  48歳
徳川家康   1542年~1616年4月17日 75歳


000022黒田 孝高(くろだ よしたか=通称黒田官兵衛):戦国時代~江戸時代前期、武将・大名。 彼は、官兵衛(かんべえ)、あるいは如水( じょすい=出家後の号)として広く知られる。
  豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍。竹中半兵衛(重治)と双璧をなす秀吉の参謀。キリシタン大名でもあった。

 通称官兵衛の祖父・黒田重隆の代に近江国伊香郡黒田村(賤ヶ岳山麓)から播磨国に入り、播州平野に勢力を広げていた戦国大名小寺政職に仕えた、と言われている。000041 小寺政職(戦国大名)は、祖父黒田重隆を高く評価し、天文14年(1545年)姫路城代に任じた。

000042黒田 孝高(官兵衛)は、天文15年11月29日(1546年12月22日)に、重隆の息子黒田職隆(小寺政職の養女と結婚)の嫡男として播磨国の姫路に生まれる。永禄5年(1562年)、小寺政職の近習(小姓)となる。満16歳で父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。
 永禄10年(1567年)頃、官兵衛(31歳)は父職隆から家督と家老職を継ぎ、櫛橋伊定の娘の光(てる=主君小寺政職の姪)を正室に迎え、姫路城代となった。
000050 放浪していた足利義昭は、織田信長の支援を得て三好三人衆を退けて、室町幕府第15代将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))となる。000024翌12年(1569年)8月、足利義昭と誼よしみを結んだ赤松政秀が、池田勝正、別所安治、宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んだが、姫路城代黒田官兵衛は300の兵で奇襲攻撃を仕掛けるなど、2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功する(青山・土器山の戦い)。
 京を誰が握るかで、まさに戦乱のピークが来ていた。その時代に黒田官兵衛の才がさえる。

元亀4年(1573年)、甲斐国は、武田信玄死去により弱体化し、信長が勢力を盛り返す。
4月、東播磨の三木城主・別所長治が攻める(印南野の戦い)。
7月、内紛により三好氏の篠原長房が討死。
9月、信長が浅井長政を討ち、足利義昭を追放。
12月、浦上宗景が信長と和睦。
翌2年、足利義昭は山陰山陽に勢力を張る毛利輝元の領内へ逃れる。

天正3年(1575年)、官兵衛は、長篠の戦いで勢いを増す織田氏への臣従を主君小寺政職に進言
7月、岐阜城で信長に謁見。
天正4年、主君小寺政職、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で信長に謁見させる。
9月、宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。
翌4年1月、丹波の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃して信長より離反。
 

天正5年(1577年)5月、孝高は500の兵で毛利三木軍5,000の兵を退ける(英賀合戦)。この後、長男松寿丸後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。
 10月、信長、松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐。孝高は、姫路城を秀吉に提供し、官兵衛自らは秀吉の参謀として活躍11月26日、佐用城(福原城)攻め(落城)へは竹中重治らと共に加わり、先陣を務めている(上月城の戦い)。
 

天正6年(1578年)3月、別所長治(波多野秀治の娘婿)が反旗を翻し(三木合戦)、毛利氏が呼応。
4月、宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、阿閉城に攻め込んだ際、官兵衛が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。
7月、秀吉本隊は信長の指示に従い、山中幸盛らを残して上月城を放棄、書写山まで撤退。双方の調略も激しさを増し、
9月、官兵衛は宇喜多直家を調略成功。しかし、摂津国荒木村重(織田家重臣)が信長に対して謀反し、有岡城に籠城(有岡城の戦い)。この時、主君小寺政職も呼応したた。
Photo
10月、黒田官兵衛は、村重を翻意させるため有岡城に乗り込んだが、逆に幽閉される。
天正7年(1579年)10月19日、有岡城本丸は開城し、一年幽閉された黒田官兵衛は救出された。幽閉の後遺症で足が不自由に。
 このあたりのことは、司馬遼太郎播磨灘物語」(全四巻)を読むとくわしく書かれている。参考になる。
 

天正8年(1580年)1月、秀吉、2年間の難攻の末に、(兵糧攻めで)三木城を陥とし、官兵衛の主君小寺氏(戦国大名)は滅んだ。
これ以後、黒田官兵衛は、織田家臣として秀吉の与力となり、名字に黒田を用いた。
000011 秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を官兵衛に還そうとするが、官兵衛は「姫路城は播州統治の適地である」と進言。7月、秀吉より姫路城普請を命じられる。
9月、官兵衛は揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石を与えられる。

 天正9年(1581年)6月、因幡国の鳥取城へ、
6月に再び秀吉は出兵(第二次鳥取城攻め)、これに官兵衛も加わる。
完全に包囲して補給路を絶ち、兵糧攻めを行った。城内は飢餓で凄惨極まりない状況(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏したが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、秀吉にこの作戦を献策したのは官兵衛だったと言われる。
 

天正10年(1582年)、毛利氏の“備中高松城攻略”に、秀吉は巨大な堤防で上手く水を堰止められなかった。官兵衛は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させた。 

“備中高松城攻略”の最中の6月2日、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った官兵衛は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させた。000008 このとき、主君織田信長が死んで、秀吉が大泣きの最中に、黒田官兵衛は、「これは(天下取りの)チャンスです」という趣旨の言葉を秀吉に向かって言ったという。 秀吉は、泣いていてもそんなことは分かっているだろうが、その心中を察するがごとき言葉を黒田官兵衛が発したがゆえに、秀吉は、以後、官兵衛を用心するようになったといわれている。
 引退後、政治の中心から離れた九州に領地を与えた。秀吉の死後、関が原の戦いでは、数年の混乱が続くとみていた黒田如水(官兵衛)は、九州を基盤に天下を望もうとしたが、一日で勝負がついて、さっさと諦めておとなしくなったという。

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