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2013年8月30日 (金)

『南京戦 閉ざされた記憶訪ねて』深い傷に誠実に

 南京の虐殺が事実なら、許しがたいことである。中国での強姦、凌辱は日本人の恥を曝すことであり、「南京虐殺なんか虚構だ」と思いたい・・・。日本人としては、なんとか言い訳したい。それを事実だと認めるのは、気の進まないことだ。しかし、逃げられない過去は、勇気を持って立ち向かうことが、現代の日本人には必要である。
 今一部で、なかったことのごとく、大声で言い募る人がいるが、それは恥ずかしいことだ。事実をウソ固め、封じるのは、将来に禍根を残す。中国人に与えた深い傷に誠実に反省し、区切りをつけたい。
 きちんと過去の事実を受け止め、後世に積み残すようなことのないようにしたい。積み重なった1000兆円の赤字国債を清算するように、立ち向かうべき大きな問題である。
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一度見たが、再度『戦争と人間』五味川純平原作のDVD完結編を図書館で借りた。これは、まさに南京の事件と同時期の日本軍、関東軍の正体だ。
 昭和14年、ソ満国境のノモンハンでの関東軍とソ連との戦いが描かれている。日本軍は、物量で70対1のアメリカ、ソ連との戦いに、物量には注目せず、戦う根性で大和魂は敵より強いと強弁して、戦いに突入する。この危うさ、神ががかりの精神はなんだろう。

五味川純平は、満州でソ連軍との激戦の生き残りだ。100人中わずか一人とか、二人程度の激戦の生き残りだ。そんな激戦を経験すると、人間が変わるだろうし、腰が据わるというか・・・。

 松岡環編著 『南京戦  閉ざされた記憶を訪ねて』 (社会評論社、2002年8月15日)は、南京の経験をした兵士からの聞き取りである。ナマの言葉がまとめられている。
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-03-11
第一部「南京大虐殺情報ホットライン」から元兵士の調査へ15
第二部 南京大虐殺をめぐる背景              31
  抹殺されようとしている南京大虐殺   軍隊用語解説
第三部 証言
1 南京陥落直後 -- 揚子江一帯での集団虐殺  55
2 南京陥落前後 -- 城内や城門付近での虐殺 128
3 陥落後も続く集団虐殺              220
4 中国女性への性暴力               269
5 「徴発」と称する掠奪、放火、強制労働     336 
 南京の虐殺に代表されるように、軍隊の規律が欠けると、一体人間はどうなるか、どんな行動をするか。規律を他人から与えられなくても、規律を自分で保持しているとしても、リーダーがひどい男であったら、それに従わないと、制裁を受ける。
あとがき 

●鬼頭久二(仮名)1916年生まれ p269~ 聞き取り 1999,10月 (略)
 掃討する時、家を一軒一軒まわり女のをみつけるとその場で強姦した。女の子はだいたい床の下かカーテンの後ろとかに隠れていたな。見つかった時、怖いかどうか分からないけど反抗し無かったな。憲兵から止められたりしなかったのでやり放題やった。
 女たちは皆顔に墨などを塗っていた。何人ぐらいしたか覚えていないけど、印象に残るのは逃げている母と娘を捕まえた時、母親は我々に娘は小さいから自分をやってと頼んだ事だった。
 我々は「アホかー」と母をふりはらった。やる時は2,3人で行っている。もちろんやる時悪いと思ってたし、逆に日本がやられ自分たちの子ども、あるいは女性がやられたらどうなるかを考えたこともある。それでも、自分もいつ死ぬか分からない状況なので、生きている間に、天皇の命令とかは関係なく自分がやりたいことをした。そんなことは当たり前になった。
 私ももちろん南京で強姦を経験した。場所はどこでもいい、いくらでも空家があり、そんな家の寝台の上とかでやった。平時の時はお米を持っていって、母親に娘をちょうだいと頼んだこともある。
 また、難民区から女性たちが自ら出てきて、お米と自分の体を交換した人もいる。お米は私たちが食べるお米で、一回に靴下片方満タン(五合ぐらい)のお米を上げた。
 南京城内ではなく、郊外では憲兵に見つかったらうるさいから女の人を殺したりした。自分は掃討戦の時だけ城内に入り人を殺したことがある。
 こんなことから南京大虐殺はあったと思う。悪いことしたと思っている。

●井戸直次郎(仮名)1914年生まれ p273~ 聞き取り 2000,5月
  南京陥落の日じゃった。城内にはいる時、城壁の外側が死体の山じゃった。足下がフワフワするんで。マッチをつけて見たら、筵を敷いたように一面に死体がぎっしりじゃった。ずーと死んどったんじゃ。どの部隊がやったかは知らんが、突き殺したんやな。兵隊やなしに、女も子どももおった。爺さんも婆さんもおった、兵隊やないもんばっかりじゃ。
 どこの部隊がやったのかは知らんが、新聞でよう言う”南京の虐殺”って、全く本当のことじゃが、そんなこと言えんもんで「嘘」や言うとるんじゃ。(略)
(強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじゃ。もう無茶苦茶じゃ。
 陥落して二日ばかりたったころじゃ。下関(南京の一地区)あたりに徴発に出た時、民家のあるとこに米や食べ物を徴発したんじゃ。そんな時に女も徴発するんじゃ。
 家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。ズボンひとつでパンツみたいなものははいておらんで、すぐにできた。
 やった後、(私は)「やめたれ」って言うたんやけどな、(他の兵が)銃で胸を撃って殺した。暗黙のうちの了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。それを知っとるさかい、やった後、殺すんじゃ。
 だいぶたって治安がよくなるとな、部隊のみんなを並ばせて、憲兵隊が強姦された女を連れてきて、誰がやったと調べたこともあった。平時と違って罪にはならんかったが「やめとけよ」と怒られる程度じゃった。罪にも何もならへんかったけど、叱られたくらいじゃ。
 悪いことし放題やった。十人おって九人まで強姦しとらん者はおらん。自慢話にもなっとる。
 慰安婦、慰安婦いうて、三十人くらいの女をたいがいの部隊では連れ歩いておった。ほとんど朝鮮人の女じゃった。わしらの部隊でも慰安所を作ったわな。中隊やなく、野田部隊の連隊で作っておった。南京でも(駐屯していた)光華門の近くで作っておった。
 街の中でも、女が隠れとる所を良く知っとるわ。若いもんも、お婆あも、みんなやった。それからばれたらまずいから殺すんじゃ。
 南京に入る前から、「南京に入ったら女はやり放題、物はとり放題じゃ」と言われておった。「七十くらいのお婆あをやった。腰が軽うなった」と自慢しよる奴もおった。町中に女はぎょうさん残っておった。大概穴の中に隠れておってね。慰安所作っても強姦は減らんわ。
 慰安所の女はだいたい朝鮮人やった。将校用、一般用と分かれておった。料金は一円か二円くらいやったかな。一般の兵隊の給料は八円やった。わしは伍長で十五円くらいやった。
 わしの分隊はまだましやったけど、他の兵隊は無茶苦茶や。分隊の兵隊は、ほぼみんな(強姦を)やっとった。街に行ったら”ただ”やからな。
 ほとんど女ばっかりの難民区にも行って、部屋に入ったら「これとこれ」と、指差して、女は選び放題やった。その場でやってしまうんや。わしの部隊でだれがやったか、やってる最中に中国の敗残兵に頭を殴られたもんがあったので、見張りをつけて強姦やった。昼夜お構いなしじゃ。だいたい一個分隊で行った。十数回は行ったやろうかな。 (略)

 倉庫のような部屋に中国人を詰めこんで、機関銃で殺しよった。部屋の中(に大勢いる)やさかい、(機関銃を撃てば)どれかには当たるわな。何百人も入れてやったんじゃ。小さいところで三百人くらいやった。わしらが捕まえた奴をこうして殺したんじゃ。男という男はつかまえて倉庫に放り込んだ。兵隊も何も関係なかった。
 (殺し)処分した後はどうしたか知らんわ。三十分かかるかかからんかじゃ。中から凄まじい叫び声が聞こえてきた。こんなこと、部隊がそこら中でやっておった。手榴弾は危ないのであまり使わんかった。投げ損ねると破片が飛んでくるよって。
 南京大虐殺はあったんじゃ。無茶苦茶やったんや。『軍恩新聞』なんかには”デマ”や言うてるけど、今から言うと、いろいろあるけど間違いなくあったんじゃ。

●東雅雄(仮名)1915年生まれ p278~
聞き取り 2000,6月
 みんな襟章(所属によって色分け)を外して、物を奪うのさ。腹へってくたくたになっても、女を見るといきり立って捕まえよったわ。恥ずかしいからもうこれ以上言わさんでや・・・・・・。
 部隊のもんはみんなやっとったわ。黙認じゃ。女は殴って半殺しにしたわな。抵抗されるからじゃ。若い女は腰振って入れさせんようにするからじゃ。嫁(既婚者)はやりやすかったわな。(話すのは)恥ずかしいからこれ以上は勘弁してください。
 抵抗するから殴りつけたんじゃ。させたもんは殺しはせんかったが、させんもんは殺したわな。
 慰安所の朝鮮人の娘は、ピー屋(業者)から、軍需工場や看護婦にするいうて騙されて連れてこられた言うとったわな。馴染みになった朝鮮人の娘から、前線に徴用され、将校にやられた後、慰安所に払い下げられたという話もきいとるわな。兵隊には立派なことを言いながら、こんな将校もおったわな。
(略)
 大東亜戦争の時、スマトラでオランダ人の女とも寝たよ。慰安所やのうて、捕虜収容所やった。そこの(収容されている)女とやったんじゃ。支那みたいにいやらしいことやったんじゃ。腹がへっとるさかい、食べ物で釣ったわけさね。日本が負けて日本に帰るとき、その二~三十人の女から”首実検”されたわな。悪いことした奴はどれかちゅうことですわ。わしは髭剃ったりしてばれんかった。ひやひやした。(略)

 支那では村に入る前に、抵抗されたことのある村などは放火したわさ。復讐心さね。殺した支那人は十人から二十人、それ以上は覚えておらんわ。銃(銃弾)で殺したのは一人だけで、ほとんどは銃剣で刺し殺した。ほとんどは男じゃが、女も二、三人おったな。女を出さん言うて殺したわな。突いてもなかなか死なんもんじゃ。一時間くらいして見ると、血をぶくぶく吹いていた。
「オラ、恨むんなら蒋介石恨めよ」と言うてやった。(殺すことは)何とも思わんかった。わしだけやない。みんなやっとった。
 若いもんばっかしじゃ、女がほしいわな。一回内地の水を飲みたい、内地の女を抱きたいと思うとった。支那の女はニオイが違うとった。台湾は台湾のニオイ、朝鮮は朝鮮のニオイがあった。食べ物の違いじゃろか?(強姦した中国の女性は)十人じゃきかんわさ(それ以上)。三十人くらいじゃろうか、ようは覚えとらん。それは勘弁してくれ・・・・。(略)
 今、そん時の支那人が夢に出てきよる。七十歳になってからじゃ。気が弱くなったせいかねぇ。人を殺したとは言うても、他のことは誰にも言うとりゃあせんよ。戦友会でも言わん。

●田所耕太 (仮名)1916年生まれ p281~
聞き取り 2000,6月
(昭和13年) 12月15日まで攻略戦、16日から1月31日まで南京付近の警備についた。南京郊外の駐屯地にも慰安所ができた。とうもろこしの皮で編んだアンペラ小屋で寝台が置いてあるだけの狭いとこだった。女の子は十五人か十六人くらいおったなあ。みんな朝鮮の女の子やった。兵隊はみんな外まで並んで待っとった。
 私は下士官だったから兵隊が帰ってから行った。一円五十銭位から二円くらいしたなあ。軍票で払った。日本の金なんてひとつもなかった。分隊で訓練しているときは駐屯したところへ女を見つけてきて分隊で飼うとんや。一週間か二週間したらもう帰して替わりを捕りに行くんや。寺へ行ったらなんぼでもおるんや。寺は大きな家やから逃げて来るんや。行ったらおるんや。民家でも二階を壊したら隠れとる。二階に置いてあるわらの中なんかに隠して女の子の親が食べ物を運んでるんや。

●三木本一平  1913年9月生まれ p286 取材、2000年11月、2001年11月
  南京では、暇でほか何もすることないから、女の子を強姦した。部隊の兵隊が、勝手に出ていって、クーニャン徴発していると知っていても、将校は何も言わず黙認やった。男だったら、半年も一年も女の子と寝てないと我慢できないわな。男やったら当たりまえや、そりゃ人間やもの女の子と寝たいもんや。
 家に入るとな、女の子はいろいろなところに隠れてるんやで。家の中におったり、畑で隠れているのもいた。たいていの女の子は、鍋墨で顔を黒く塗っていたな。支那の女の子は風呂にもはいらんので汚いが、南京のような都会の娘はきれいにしている娘が多かったな。「ピー、カンカン(性器を見せろ)」と言うと、たいがい、どの娘も服を捲くって、おとなしく見せてくれた。国際赤十字の旗が立っている所に、南京の女の子はみんな逃げ込んでいたな。町の中には女の子はいないので、女の子捜しは、たいがい郊外へ掃蕩などに行くと見つけられる。点々とつながっている部落で悪いことをしたんや。

 クーニャン捜しは、分隊や数人で行くことが多いな。見つけるとな、分隊の何人もで押さえつけたんや。それで、女の子を強姦する順番をくじで決めた。一番のくじを引いた者が、墨を塗っている女の子の顔をきれいに拭いてからやった。交替で五人も六人も押さえつけてやったら、そらもう、泡を吹いているで。兵隊もかつえ(餓え)ている。女の子は殺される恐ろしさでぶるぶる震えている。
 南京で、二三人でクーニャン捜しに行った時、きれいな中国服を着た、国民党の偉いさんの奥さんと思うが家の中に隠れていた。「ピーカンカン」と言うと、殺されるのが恐いから全然抵抗せんで、大人しく裾を持ち上げたので、わしらはさせてもらった。(略)
 十九や二十の娘を引っ張り出すと、親がついてきて頭を地面にぶつけてな、助けてくれという仕種をするんや。助けてくれと言われても、兵隊はみんなかつえているから、だれも親の言うことを聞かん。まだ男と寝たことのない女の子を、三人も五人もで押さえ込んだら泡を吹いて気失うとるで。親が「やめて!」と言っても、やらな仕方がない。
 わしもしたけど、こんなんしても何もええことなかった。日本中の兵隊がこんなことをいっぱいしてきた。言うか言わんだけのことや、男やもの、分隊十人のうち、みんなやっとる。戦争が長引くから女の子が恋しくて、他の部隊も同じことをやっていたんや。人間やったらみんな同じことをやる。(略)
 南京を守っていた中国の兵隊は一杯おってな、捕虜になった兵隊は、みんないなくなったんや。そりゃそうやで、中国の兵隊は捕虜になって殺すのは当たり前やんか。捕虜に飯食わすのは、もったいないさかい。
 「南京を守っておった兵隊はどこへいったんや」と嘘を言ったって、実際いたのを全部殺してしまったんやから。南京大虐殺はあった。ワシはこの眼で見たんや。わしらは、どういうわけで戦争しているのかわからんで、一銭五厘で召集されて「チャンコウなんて殺してしまえ」と言っていたんやから。あの時は、中国人をなめてかかっていたな。

 揚子江の港、下関(シャーカン南京一地区)に行ったときやった。港とは名ばかりでな、河に桟橋がつき出ていた。捕虜を収容している倉庫のような建物から、五十人くらいの捕虜を引っ張り出し、幅があまりない桟橋に並ばせてた。そこを重機関銃でドルルルルーと水平になでていた。やられた中国人はみんなそのまま河に落ちよった。河のそば、桟橋があるところにわしは行って覗いて見たんや、川底からすぐ足下の岸まで人間が積み重なっていた。大きな船の着く桟橋や、そうとう深いのと違うやろか。ちょうど河に浮いているボラの死体のようにぷかぷか浮いて流れて行った。始末することないわな。

 南京大虐殺はあった。自分がこの眼でみてきたことや。今から振り返ってみても、南京の虐殺については、中国人をチャンコウといって下に見ていた。そんなのに自分の戦友や村の者がやられて死んでいったのを見て、かーとなって、殺して当たり前と考えていたんやな。
 強姦についてはな、男やから二年も女の人に接していなかったなら我慢できないもんや。それは仕方のないことや。自分の部隊も、となりの部隊もみんなやっていた。兵隊はみんなやっていた。それを人に言うか言わんだけのことや。

●大田俊夫 1913年8月生まれ 293頁
取材 2000年7月、2001年1月、11月(略)
 紫金山から降りて来た日、13日やな、揚子江の川縁で人いっぱい撃った。「殺せ」言う命令や。そんなかわいそうなことはもう言わんとくわ・・・・・。 今言う中国の婦女子が日本人にえらい目に遭わされたと怒っとんやろ。そら命令とはいえ「掃蕩して殺してしまえ」やろ。向こうの人に本当に惨めなことしたわ。
 城内に入って、男も女も引っ張ったんや、男やったら手と足を見て「これは軍隊や」言うて殺るんや、親死なして、子どもがいたら、生かしておいたらためにならんで、処分してしまうんや。わしらは、それでおかしな者をみんな川岸べりの大きな倉庫、いっぱいあるんや、そこにみんな放りこんだんや。
 外の部隊はどんどん刺し殺しとるんや。わしら捕まえて連れて行くだけやけどな。外の部隊そうしてるんやから、やらんわけにいかんわな。倉庫満タンや。
 何日かして、工兵がそれに火をつけたんや。命令や言うても気の毒に皆殺しや蒸し焼きや。向こうの倉庫は煉瓦とトタンでできてるんやから、あちこちの倉庫の窓からえらい炎が出てたわ。倉庫には中国人でいっぱいでもう(入れる倉庫が)ないから、今度は、川岸べりに中国人を四列に並べて何十メートルやないわ、もっと長いわ。ものすごい数の人がびっしり並べられてたんや。こっちから重機を何機も並べて軽機も並べて、撃て!でバラバラと撃ったんや。うちの中隊だけと違う。そこにいた(連隊)全部や。
 生かしといたらためにならんということで、女も子どもも一緒に混じっていたのを撃ち殺したんや。全部やで。こっちから撃つとばんと飛び上がって河に飛び込むんや。岸辺は死体が折り重なっていっぱいや。そしたら、向こう岸から駆逐艦が撃っているんや。揚子江を泳いで逃げる人をみんな撃ち殺したんやで、そら惨めなことやった。わしら命令やさかいやらなしゃあない。(略)

 淋病や梅毒になったら軍医さんにしかられるんや、病院に入れられてかなんから、自分で治すのには、人間の脳みそがいいんや。 (略) 淋病言うたら小便したらじっとしてられへんぐらい痛いんや。それで、どこかでニイコの子どもを殺すんや。支那人の頭をゴンボ剣でこじ開けて飯盒(はんごう)で脳みそを炊いてたのを分隊長や分隊の者は知っていたけど、知らんふりや。食ってるのを見たんや。「これ食ってみるか」て言われたわ。女の子にいらんことやっているのは、えらいさんでもやっているのに、部隊でいっぱいやっているのは当たり前や。(略)

 南京大虐殺はあったで。ない言う人は後から入った人や。東京から来てちょっと見て回って「南京に行きました」言うんやか、兵隊でいた人は見てるわ。
 今、中国や韓国から賠償という問題が出ているが、気の毒な人がいっぱいで、日本がえらい目に合わしたんや。文句言うのは当たり前やな。南京大虐殺はあったんやから。わしらが、揚子江川縁で、何万という支那人を撃ち殺したんやからな。

●井上益男  1915年6月生まれ  298頁 取材 1998年3月、2000年5月、2001年5月
  南京陥落後、金陵女子大学の警備に入った。警備に入ったら十人で一週間交替制やった。女子大学は女の人の避難所や。そこに日本の将校たちがよく来て「ちょっと入るで」と言って、女子大の構内に入って行っては女の子を連れて出て行った。将校たちはむちゃくちゃで、女の子を連れて行って強姦した。 (略) 
 よく出入りする部隊は、三十三連隊だけではなく、それ以外の九師団と十六師団の三十旅団もいた。あの人らはトラックで来た。昼間はあまり来ない。
 一日だいたい二三台ぐらい来るかな。将校を含め兵隊四五人で来て、三人は銃を持っている。一日五六台来るときもある。一台に二十人ぐらいの女の子を乗せて行くこともあり、嫌がって泣く子もいた。トラックの荷台に引き上げられ、上からシートをかけるとおとなしくなった。送り返されてくる娘は少なかったな。慰安所のことは聞いたこともないし、行ったこともない。たぶんわしらの中隊が出てからできたと思う。(略)

 南京の手前で、中隊長が「南京に入ったら、強盗、強姦、殺人を許す」と命令を出したのを聞いたので、わしの中隊が入城して荷物を降ろし、ぐずぐずしてるとさ「何してる、早く盗りに行かんかい」と兵隊に言われた。皆早く実施しなければならない気持ちですぐ掃蕩に入った。わしは銀行に行くのが一番良いと思って、三人一組で行った。
(略)

●坂田貞一 1915年9月生まれ p308 取材 1997年11月、1998年4月
  慰安所は早くからありましたで。男は最初行くのが女の子のいる所で、下関(シャーカン南京一地区)には二か所、城内にも十か所か十二か所あった。対岸の浦口にも慰安所が三四カ所ありました。
 女の子を世話してくれるところがなかったら、もっと暴行がひどかったやろ。下関(シャーカン)の慰安所には朝鮮の人が多かった。中国人も十二、三から二十五、六歳までの人がいました。中国人は中国人の子ばかりの建物、朝鮮人は朝鮮人の建物に集めてました。
 南京城内でも日本人の女性がいる慰安所は一カ所ぐらいでしたで。日本では売れない四十代の女性が、何人かいたようです。慰安所の女の人をピーと呼んでました。町の裏通りに入ったら、軍の許可を取ってない闇の慰安所がたくさんあってね。裏通りで立っている女の子はだいたいそんな淫売やった。日本人が女の子五人位(雇って)連れてって、闇で商売していた。

●下山雄一郎 1916年5月生まれ 319頁~
取材 2000年11月
 揚子江を上海から船で南京へ行った。 (略)
 女の徴発をする者もおった。家内がある者ほど我慢できひんのか強姦してた。騎兵でもおった。女をつかまえて民家でもやっとったし、道の真ん中でもやっとったのを見た。わしらの中隊でな。やるから「やるな」と師団命令があったんや。憲兵もはいっていたと聞いてたけど、おらんやった。
 女をやってしまってから殺したりしよったな。うちらの師団でもあったと聞いたし、自慢話も聞いた。道の真ん中でひとりで強姦しているのを、支那人も見ていたな。 (略) 
 連隊長が「婦女子には戯れるな」とよく言っていた。婦女子はようけおった。普通の家に隠れとるわけさ。顔に鍋墨塗ったりしてな。わしらが占領したところへ入ったらな。鍋墨を塗っていれば、年寄りに見えるが、こっちには若いのだとわかってました。部落へ四五人で徴発に行くと、女が驚いて動けずにいた。敵が入ってくるからやな。部屋におるのを代わる代わる強姦していた。(略)
 戦争については、どうも思わんな。侵略とも思わん。みな外国もやっとる。英国人でもフランス人でも、支那の上海あたりにおったやろ、いろいろ。戦争はやって当たり前。
 あの時はいつ死ぬかわからへんから、あまりやられる側のことなんか考えたことはない。長々と生きたかった。生きたいわ。

●山岡敬一 1916年2月生まれ 321頁 取材 2000年12月
(昭和)11年兵ですねん。(略)連隊長は野田謙吾でしたな。(略)
 十三日陥落の日、紫金城から下りてきて、わしらは中国人を捕まえると、女も男も列車の中、いっぱいになるまで詰めこんだ。貨車はようけあったな。一分隊はこれ、二分隊はこの貨車というように、分隊に貨車が割り当てられるんや。
 次の日になって貨車から女も男も子どもも出して、揚子江の側の大きな広場に四列ほどに並べました。自分の分隊に割り当てられた貨車は何杯分かありました。「殺せ」と小隊長が言ったので、軽機関銃や小銃で並ばせて中国人を撃った。女の人はひとつの貨車に十人位いました。ほかの分隊も並んで撃っている。南京城を出るとすぐ河へ出られる門のところを出てすぐやった。
 撃たれて死んだのもいるし、倒れているのもいる。それを兵隊が河に投げ込むんや。自分は手と足を持って生きてる人を河へ放り込んだ。また中国人を並ばせて射殺や。どんどんどんどん揚子江へ放り込みましたで。
 南京では揚子江の端にずっとおりましたので、死体はようけありました。河べりにごみみたいに折り重なって浮いてたな。わしは気が弱いさかい、あまりよう見んかった。(略)
 徴発で物を盗って、中国人を殺した者も多かったです。中国の女は気がきついというか、主人が殺されても、女の人は日本兵が盗った牛なんか返せ言うて、後ろからついてくるんや。女は返せと言う、それでもわしらは運ぶものないんで、みなボンと撃ち殺した。 (略)
 家の中で分隊の者が強姦して、わしは、外で歩哨、見張りやな。立たされた。きつい女で抵抗して強姦できない時は、腹立てて胸など撃って殺してましたな。射撃の目標にしたこともありました。命令やからしょうがない。木にくくりつけて射撃の練習でみんなで撃ちました。かわいそうと思いましたが命令やからな。

●中田清次 1915年生まれ p342~ 取材 2000年七月
 昭和10年兵です。現役は機関銃中隊にいました。昭和12年に除隊です。 (略)
 中島師団長という人は剛胆な人で「支那の家を全部焼いてしまえ」と言いましてな。(略)「ここは抗日の一番ひどいところやから各部隊の家は全部焼け」とも言いました。(略)
 日本の兵隊は無茶なことしてますわ。強姦は南京戦より徐州の方がひどかったくらいです。南京でももう乱れてましたな。 (略)

【従軍慰安婦】 
当初、「慰安婦」を直訳のcomfort womanが使われたが、93年のウィーン世界人権会議以降は、性奴隷(sexual slave)や性奴隷制(sexual slavery)が使われるようになった。

戦争に伴う強姦はニッポンだけにとどまらず、事例は多い、らしい(たとえば、終戦直前の満州へのソ連軍侵入に伴う日本子女のソ連兵による陵辱)。

 本書初版では、証言した元軍人の生年に誤植があり、南京従軍時12歳?前後となる!ことを根拠に、アマゾン書評で<この証言録のすべてが、したがって、虚偽>とウヨクから評されていた。第二版以降では修正されている。

  • 『南京戦 閉ざされた記憶訪ねて』深い傷に誠実に
  • 南京戦元兵士102人の証言 その真実
  • 「従軍作家たちの戦争」石川達三 戦争協力
  • 「従軍作家たちの戦争」火野 葦平 戦争協力
  • 緒方貞子「満州事変―政策の形成過程」 冷静で客観的分析だ
    おとなになれなかった弟たちに 米倉斉加年
  • 虐殺命令http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html
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  • 福田治夫 第16師団歩兵第9連隊 第2大隊
    野田典吾 第16師団歩兵第33連隊 連隊本部
    安藤猛治 第16師団歩兵第33連隊 大隊砲
    大川護男 第16師団歩兵第33連隊 大隊砲
    外山武雄 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
    鬼頭久二 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
    南泰吉 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
    小沢小次郎 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班
    徳田一太郎  第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
    町田義成  第16師団歩兵第33連隊 第3大隊
    吉川定国  第16師団歩兵第33連隊 第1機関銃中隊
    依田修  第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊
    中田清次 第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊
    山田忠義  第16師団歩兵第38連隊 第3機関銃中隊
    吉川克己  第6師団歩兵第45連隊 第1大隊
    内村和郎  中部第38部隊第2碇泊所

     

    田中次郎 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
    松田脩一 第16師団歩兵第38連隊 第1大隊
    小沢小次郎 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班
    徳田一太郎 第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
    朝倉正男 第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
    上西義雄 第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
    井上益男 第16師団歩兵第33連隊 第2大隊
    小田利吉 第16師団歩兵第33連隊 

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    コメント

     はじめまして
     最近になって、中韓の反日の異常さが気になっていろいろと調べはじめました。
     南京大虐殺に関しては、東京裁判で取り上げられたのが初めてとの主張を何かで見ました。こうした誰でもわかる状況をでっち上げることは難しいと思われ、かなり信じております。これについて、いかが思われますか。

     9月2日無署名様 コメント、ありがとう。
     私も、日本人ですから身びいきで、本当は身内の恥になる暴行、陵辱は語りたくはありません。しかし、戦時中の日本兵の暴行を(人間として)傍観するのはできないでしょう。
     黙っているのは、イジメの傍観と似て卑怯です。やはり、一言、中国における「日本兵の暴行」は、簡単に許してもらえませんが、謝罪はしっかりきちんとするべきでしょう。世代が違うから、知らないとか、責任がないとはいえないです。
     次世代の私達が、心からお詫びして、友好を最初から結びましょうと、相手の国に語りかけるしかないでしょう。
     日本だけじゃない、ソ連も日本にひどいことをした、と言い訳する方もいますが、戦争になると、人間は野獣以下になるは、わかっているのだろうか。それを踏まえて、憲法9条は考えないといけないと思うのです。

    投稿: 9月2日無署名様 | 2013年9月 2日 (月) 11時56分

     既に、日中政府間で戦争の清算は終わっているので、いま、特別に謝る必要性は無いと理解しています。
     その後、中国が今日のような激しい反日姿勢をとるようになったのは、人民の不満の捌け口を外に向けるための江沢民の徹底した反日教育からみたいです。
     日本が謝れば謝ったで、さらに二の矢三の矢で謝罪要求を突きつけてくるでしょう。なぜなら、中国として人民の不満の捌け口はいつまでも必要だからです。さらに、昨今の中国の振る舞いは日米関係にすきあらば、日本に戦争を仕掛ける意図十分と受け取れます。
     こうしたやり方は、彼らのひとつの外交手段と思われますが、日本は正々堂々と日本は主張すべきと思います。
     善悪は別として、暴行、略奪は戦争につき物みたいです。 参戦国は例外なく行なってきたようです。ここで、議論になるのは、通常よくあり得る規模の範囲の行為なのか、特別に大規模・残虐な行為なのかということでしょうか。
     南京の事案が特別に大規模・残虐なものと言われ始めたのは東京裁判が初めてとの主張があります。その目的は、米国による日本全土への大空襲、広島・長崎への原爆投下という大規模虐殺を薄めることであると。
     調査不十分とは思いますが、今時点、南京の事案は大虐殺ではなく、戦争では通常ありえる暴行、略奪の範囲と理解しています。

    9月3日無署名様
     あなたのおっしゃる言い分、もっともだと思います。私も、中国のしつこ言い分に辟易としていますが、私の意図が汲みとって頂ければ、ありがたいです。
     戦中中国に迷惑をかけた事実のある日本として、それを強くいうことは控えたいです。たとえ、中国が無礼な態度で言い募ったとしても、居丈高な態度で言い返すのは、日本人の品位を落とすだけです。自然体で右から左へ受け流し、問題にならないようにしましょう。
     あくまでも、国同士で、既に日中平和条約で解決したとしても、中国個人では腹に据えかねる気持ちがあるのは確かでしょう。中国には、自分の肉親を殺された人がヤマほどいます。その気持ちが収まるには、一代ではムリでしょう。
     江沢民には、詳細は把握していませんが、無抵抗の父親を日本軍に殺された過去があるのです。彼の個人的な感情が政治を左右しているとは確証はないですが、反日教育して政治に利用した面はあると思うにです。
     が、ソロソロこの方法で人民を掌握していくにはムリが出ています。戦争記念館で反日教育をしないように、外交ルートで日本は申し出てもいいのではないか、と思っているのです。日本は逆に戦争のことを若い人が知らなさすぎるのが、問題ですね。

    投稿: 9月3日無署名様 | 2013年9月 3日 (火) 16時40分

     中国が中華思想によって拡大主義を続けているうちは、 日本の謙虚さはかえって彼らをつけ上がらせるだけで百害あって一利なしと思います。
     教育については、自虐史観に基づいた教育でなく、反省すべきこと、きちんと主張すべきこと、両面をしっかりと教えるべきではないでしょうか。
     突然のコメントで失礼致しました。
    もう少し、いろいろと継続的に調べてみます。

    9月4日無署名様  コメント、ありがとう。
     日本の謙虚さで、中国や韓国が「付け上がる」としたら、そこの国が未熟で思慮がないからでしょう。だからといって、相手国に武力や強気の言葉で返したら、どうなるでしょうか。相手を怒らせるだけです。
     中華思想によって拡大主義というのは、・・・500年後の世界を見据えて世界政策を打ち出しているとは、聞いたことがあります。日本も、長期計画で国際関係を築きたいです。
     現実的には、中国政府との友好、民間外交を広げる。経済的なつながりで、共に繁栄できる政策でつながる。情報の共有化です。
     特に、相互に留学して、大学の単位を共有して、若い時代にお互いの国を知り合いになり、将来20年後、30年後の両国の担い手になって友好関係が作れたらいいと思います。

    投稿: 9月4日無署名様 | 2013年9月 4日 (水) 17時01分

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