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2013年8月 5日 (月)

兵隊のおじちゃん 陸軍士官学校54期

080411152455_01940年(昭和17年)(54期)卒業した義理のオジがいる。(57期には、朴正煕(高木正雄)卒業)戦争が激しい中の卒業であった。
 田舎で優秀な子供には、学資の必要ない学校は魅力的であった。「一高・三高・海兵・陸士」などと並び称された。兵隊のおじちゃんは、兄弟の中では体格も一番よく、田舎では軍隊で郷土を守る343332_2
市谷の士官学校へ勇んでいった。

朴槿恵(韓国大統領)は、韓国大統領朴正煕の長女、EGテック現会長の朴志晩は長男
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Imagesca3xq05w 士官学校は、卒業後の数ヶ月間、見習い士官の訓練がある。その訓練期間が過ぎると、少尉として任官する。この訓練期間に銃の紛失か、あるいは怪我人を出したとか、おじちゃん、ミスあったと同期の方から聞いた。だから、わりと安全な任地になった他の同期に対して、オジは一番激戦地へ飛ばされた。それがシンガポールであった。

 攻撃に出る主力部隊に先んじて、敵の攻撃をひきつける危険な敵前上陸を命ぜられた。シンガポールの北側にあるジョホール海峡にある島に駐屯した。大本営の指示で、主力部隊に注目が来ないようにするおとり部隊の任務であった。

 駐屯した島に敵の砲撃がひっきりなしに飛んできたが、部下が「隊長、危険です」言うのに対して、「当たるときはどこにいても当たる」と、堂々としていたといえば言えるが、日中歩いているとき、砲弾が後頭部当たったという。任官して一年目、多分同期54期ではトップの戦死であろう。その後、元気に生きていたら、もっと大きな仕事ができただろうに、残念である。

 それから40年後、54期の同期会の文集が送られてきた。部下であった山口県の畳屋さんであった方が、佐々木中尉の戦死の記憶を書いておられた。士官学校同期の親しい数名が、戦後、実家の秋田県へまでおいでになり、オジの兄である義父と歓談して当時のことを話して帰られた。

 靖国神社の記念慰霊会へ、代理で姪である妻と共に54期の方々と席を同じくして話しをきいた。オジの同期グループの方々に世話になった。会の運営、アトラクション、案内など、まるで一つの占領地域を統括するがごとく、みごとにスキのない運営であった。優秀な人材が揃っているという印象があった。
 戦争という事実は、こういう人材を湯水のように消費してしまった・・・そんな印象がした。
 日本がイギリスの植民地になっていたシンガポールを陥落させたのは昭和17年の一月だった。イギリスはインドの東インド会社を通じて莫大な利益をあげていたし、それがイギリスの「ゆりかごから墓場まで」の社会保障を完璧にしていた・・・といわれていた。
 アジアの国々にとって、占領植民地化するイギリス、フランスに抵抗する人々のグループには、日本の行動は歓迎された面がある。日本がABCD包囲網で、堪忍袋の緒が切れて、本心は東南アジアの資源を目的としていたとしても、イギリス、フランス欧米よりはまだまし・・・アサンジのウキリークスの告発をみると、先進国のかんがえることは、浅ましいほど自国の利益ばかりだ。

 シンガポールで日本が勝って、アジアのために先頭切って、先進欧米に打ち勝って行く理想が日本のためであって、アジア諸国のためになるかどうかは、ちょっと置いて、欧米よりはいいはずだ。

000006その牙城をさらに東進して、アジア全体を植民地化するのが目的でシンガポールに堅い前進基地を築いていたイギリスを、日本がアジア民族の先頭に立って西欧の悪魔の意図をくじくのが目的という名目で、シンガポールを落とす。
 アメリカとの交渉の行き違いから、宣戦布告をする前に戦闘が始まった。この日本が交渉で行き詰って、本国と対米交渉団とやり取りは、アメリカは逐一、日本の秘密暗号電報を傍受して手のウチを熟知していた・・・つまり、アメリカはこういう暗号解読技術と傍受は、日本の及ぶべくもなく、ルーズベルト大統領は、日本の宣戦布告、真珠湾攻撃も事前に把握していた。アメリカ国民が開戦意思がないから、真珠湾で被害によって国民を奮起させるには、ホノルルを日本軍に空襲させるのが・・・、という考えをルーズベルトの気持ちにあった、と解釈する人もいる。スノーデンが告発するまでもなく、アメリカはソ連の電話傍聴、会話の盗み聞きなどで非難していたが、アメリカが本家本元だ。
 日本の最高責任者の山本五十六の撃墜も、(海軍乙事件につながる)総司令官古賀古賀峯一らが撃墜された事件も、行動を全部アメリカは傍聴で把握されて、待ち伏せされている。

 ちょっと、ついでに「海軍乙事件」というのは、総司令官古賀と共に「マリアナ沖海戦」の計画書類をもっていて、撃墜と共に福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員数名セブ島に上陸し敵方の手に落ちて機密書類を奪われた事件。
 すっかりアメリカに翻訳され内容がアメリカに筒抜けになった。その責任を逃げて、責任を問われると軍幹部の庇護で無罪になった。「マリアナ沖海戦」は、暗号をすっかり読まれているのに、そのまま戦って、勝てるはずの日本軍は大敗北となった。これでも、福留繁参謀長は責任を問われず、軍の上層部がかばった。東京電力の責任をカバーしあう姿は、当時と二重写しだ。
  参謀長以下、連合艦隊司令部要員は、拘束時に大した抵抗もせず、自決、機密書類の破棄もしなかった。この書類が敵に渡った場合の重大性にピンときていない。命に代えても守らなくてはならないという必死さが伝わってこない。

 ご存知のように、開戦当初は、日本は連戦連勝で、イギリスの最新空母ウエールズを撃沈して、イギリスは意気消沈してしまった。

 
 イギリスのシンガポール防衛軍は、主に戦艦を攻撃に東の海にむいていたが、背後から日本軍は攻めてかなり犠牲を出しながら、五分の戦いであったが、イギリス側に「これ以上の民間の犠牲者を出すのは忍びない」という上層部からの指示で、シンガポールの総司令官パーシヴァル中将と山下奉文中将 が休戦会談をした。

00008 シンガポールの戦い(Battle of Singapore):第二次世界大戦の東南アジア戦域で、1942年2月7日から2月15日にかけて行われた戦闘で、2月15日、米英連合軍の食料と何種類かの弾薬は、既に底をつき始め、パーシヴァルは指揮下部隊の司令官たちと協議したあと、日本軍と連絡し、午後5時15分ころ「フォード自動車工場」において正式に山下司令官に降伏した。
(この時山下がパーシヴァルに「イエスかノーか」と迫ったというエピソードは有名であるが、降伏の意思の有無を訊く為であって恫喝の類ではなかったとされている。なお、英軍は降伏ではなく、あくまで休戦のために投降した)。

000001この連合軍との戦いに勝ったという事実から、日本軍は妙に自信をもってしまって、イギリス軍はくみしやすいと安易な感想をもってしまい、インパール作戦の根拠にして進んで、大犠牲を払うことになる。

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コメント

偶然このブログを見て書いてます。
数年前他界した私の伯父も陸士54期でした。終戦時に大尉で、少佐の内示があっていたそうですが、敗戦後、昇進しても意味が無いと任官拒否したそうです。
 終戦前は和平交渉の担当者としてソ連に派遣される予定だったそうで、相当ロシア語を勉強させられたとのことでした。終戦後は公職追放が10年ほど続き、その後旧制中学時代の先輩から声がかかり、運良く大手企業に就職できたそうです。
 当時は旧制中学で学業もスポーツも優秀な生徒は多くが陸士海兵に進んだようです。伯父は旧制高校と併願で受験しどちらも受かったそうですが、陸士への入学は拒否できないシステムになっていたらしく、否応無く陸士へ進むことになったとのことでした。

伯父が陸士54期様
靖国神社でお会いしたOBの方々は、すばらしい人材でした。腰が低く、思いやりがある方々でした。伯父様、10年公職追放とはいえ、生きて戦後の生活ができてよかったと思います。

投稿: 伯父が陸士54期 | 2013年8月 8日 (木) 22時59分

 ご返事有難うございました。
 仰るとおりですね。おじ様は戦死なさったんですよね。我が家は武運長久なのか、父は海軍の軍人でしたが、レイテ海戦や台湾沖航空戦などに出撃しながらも生還しています。
 ただ、父の話で印象に残っているのは、終戦後実家へ帰郷する際には、まだ軍服を着ていたためか、乗った列車の乗客達から、死に損ないとか恥知らずとか、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられたそうです。
 その経験があるからか、知らない人には親が元軍人だったなど決して言わないようにと釘を刺されていました。勝てば官軍、負ければ賊軍というのは、時代が変わっても同じなのですね。
伯父が陸士54期様
 敗戦で、塗炭の苦しみを国民に味あわせたのも軍隊ではありますが、多くの将校や一兵卒は、日本を守ろうとした真剣な軍人だったと思います。
 国民を戦争へ引きずり込み、「国民総ざんげ」と、責任の大半を民間の責任へ押し付けようとするエリート軍人もいることは確かです。死に損ないとか恥知らずとか、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせる乗客達は、敗戦を憎んでのことで、これが勝ち戦で領土を奪えはそんな反応はないことでしょう。
 付和雷同の大衆は、そんなものでしょう。敵の苦しむのは好ましいでしょう。違った見方をできるかどうかでしょう。その続きは、別の場所で語りたいです。
 

投稿: 伯父が陸士54期 | 2013年8月 9日 (金) 20時58分

部下が「隊長、危険です」言うのに対して、
「当たるときはどこにいても当たる」と、堂々としていたといえば言えるが、日中歩いているとき、砲弾が後頭部当たったという。任官して一年目、多分同期54期ではトップの戦死であろう。

投稿: 隊長、危険です | 2014年7月27日 (日) 10時08分

偶然ブログを読みました。陸士出身のおじ様を誇りに思っていらっしゃることを大変好感を持ち読みました。
私の父も54期です。日本のために軍人になり生涯誇りを持っていました。公職追放のこと終戦後の苦労したはずのことはほとんど語りませんでした。
おっしゃる通り勝てば官軍ですから敗軍の将、兵を語らずです。卑怯を恥とし責任感が強く、尊敬できる生き方は士官学校のおかげだと思います。戦時中54期は小隊長クラスで先頭で戦ったので消耗率も高かったようです。
今生きていらしたら95,96歳ですね。実は各月ですが東京市ヶ谷の偕行社で54期生、未亡人、2世(子供世代)の集まりがあります。
9月4日には靖国神社でおじ様のような戦死なさった同期生をお祀りする54期生の永代神楽祭を執り行っています。毎年毎年、永遠にその日にやっています。
参加なさってください。お待ちしています。

投稿: 田中信代 | 2016年4月11日 (月) 01時29分

たまたまこのサイトに出会いました。
実は私の父親も陸士54期でした。平成24年2月4日に他界、母親も今年(平成28年)1月父親のもとへ旅立ちました。
父親が同期生の皆さんとどの様なお付き合いをさせて頂いていたのか、また過去には年一回催されていた陸士54期生総会にも夫婦同伴で参加させていただいた同期生会の皆さんの動向にも興味があり、東京市ヶ谷の偕行社の集まりや9月4日の靖国神社で同期生をお祀りする54期生の永代神楽祭に参加させて頂いております。
戦前、戦中、戦後と一世紀に渡って生きて来られた同期生の皆さんは、同期生である此元志津範氏の調べによりますと、本年11月20日現在130名とのこと、都道府県別に詳細に調査され、前出会合の折公表されました。
  ここに集う皆さんの絆の強さに敬服しております。参集されお話しされる皆さんが少なくなったとはいえ貴重な機会に巡り会えた幸運を最後まで大事にしたいと思っております。
矢作様
 機会があったら、お話を伺いたいと思っています。

投稿: 矢作雅男 | 2016年12月17日 (土) 17時16分

貴重な生き証人、戦前、戦中、戦後を通して初めて知る日本の激動期。今までとは全く違い世界を知り得て驚いています。

投稿: 矢作雅男 | 2017年1月 5日 (木) 14時44分

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