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2013年6月12日 (水)

信長の従者黒人彌助ヤスケ モザンビーク出身

004  彌助(やすけ)は、天正9年2月23日(1581年3月27日)、イタリア人の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、信長と謁見する際、奴隷として連れて来られた。日本人とわずかなヨーロッパ人しか知らなかった信長には、大変興味深い動物を見る思いであっただろう。現在の(旧ポルトガル領東アフリカ)モザンビーク出身であったといわれる。
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0019 007  いい仕事があると集めた黒人はモザンビーク島周辺に住むマクア人だけで、彌助もまたマクア人であった可能性が高い。ヴァリニャーノ一行はポルトガルからインドまでの道中でモザンビーク島にしか寄港しておらず、『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26~27歳、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と記述される。

0011  ルイス・フロイスがイエズス会本部に送った報告や、同時期のロレンソ・メシヤ(天正9年、1581年)の書簡によれば、
「京都に黒人がいると評判になり、見物人が殺到、投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではとなかなか信用せず、着物を脱がせて洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころか一層黒く光った」という。

0035  信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「彌助」と名付けて士分に取り立てて身近に置くことにした。
 『松平家忠日記』天正10年4月19日(1582年5月11日)には、
「名は彌助、身の丈六尺二分(約182.4cm)、黒人男性、身は炭のごとく」とその容貌が記述されている。信長の甲州征伐に弥助も従軍していた。

0024  また、天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変に際しても、彌助も信長と共に本能寺に宿泊中、明智光秀の襲撃に遭遇した。
信長が死ぬと、弥助は本能寺を脱出して、二条御所に行って戦ったが、明智軍に捕縛された。彌助をどう処分するか、家来に聞かれた光秀は
「動物で何も知らず、日本人でもない」との理由で命は取らず、南蛮寺に送った。明智光秀は、この黒人に対し蔑視していると考えられる一方、彌助を殺すのは忍びないと思ったという見方もあるが、真実は不明。

本能寺以降、弥助の消息は分かっていないが、(フロイスの著書『日本史』で、沖田畷の戦いの記述の中で、「有馬方に黒人が出て大砲を使って活躍した」という記述がある。それは弥助ではないかとする説がある。
 ヴァリニャーノは信長に謁見する前、彌助を伴って九州の有馬晴信にも面会しており、主人を失った彌助が有馬家を頼ってここまでやって来て、有馬家の一大事に協力したのではないかと考えられる。
 
0001  モザンビークのマクティという村では、顔に白塗りをして日本の着物(キモノ)と発音が似たキマウを着て踊る祭りがある。
  これは弥助が有馬家で「沖田畷の戦い」を経験したのち、奴隷の身分から解放され、南蛮船で故郷モザンビークへ帰国した、と記録にはない事実が推測される。

 帰国後、日本の文化を故郷に伝えたものではないかとする見方もあるが、これを裏付ける資料は見つかっていない、。そのため憶測の域を出ないが、弥助が本能寺の変の後に故郷へ帰ったのか、またどのような生涯を送ったかは大変興味がある問題である。

006  2013年6月8日放送のTBS『世界ふしぎ発見』の中で、弥助のルーツを探しに16世紀に「モザンビーク」と呼ばれていたモザンビーク島に取材に行ったところ、現地のマクア人の間で「ヤスフェ」名前が男性によくある名前であることがわかり、番組ではそれが転じて「弥助」と名付けられたと示唆していた。興味がある指摘である。
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コメント

むしろ弥助がヤスフェになった可能性もありそう。

投稿: | 2014年9月19日 (金) 00時24分

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