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2013年6月10日 (月)

国府台合戦の古戦場 上杉陣営が加担し、北條(葛西城)危うし

Photo  国府台合戦の結果、北条側が勝ち、国府台側にいた里見とそれに加担する上杉陣営が負けた。北条の勢力が千葉県内に広がった。同時に北関東へも北条の力が及ぶようになった。それは、小田原城が豊臣秀吉によって落城するまでの戦国時代の終盤約30年間ほどである。
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Photo_2  歴史を一気に理解とっかりとして、天文7(1538)年10月と永禄7(1564)年正月矢切の台地で戦いを理解するのが、わかりやすいだろう

 江戸城の支城葛西城(青戸城)から来た北条軍は、柴又帝釈天の裏側から江戸川を矢切の渡しから一気に乗り込んで行っただろう。川幅200~250mだ。
1365  上陸すると広い水田地帯が1000メートルくらい続いて、丘陵地帯(台地)にぶつかる。そこで、国府台側の里見軍が(小高い丘で)待ち構えて、攻めてきた北条軍と戦闘になった・・・。

364それが第一次国 府台合戦、天文7(1538)年10月北条軍が有利な戦いで、一応の決着になる。

3  次の第二次国府台合戦が永禄7(1564)年正月、26年ほど後である。これは、小田原北条氏康が放っている間者からの情報がもたらされた。
「上杉軍の関東進出のルート上の城に食糧貯蔵しようと国府台で千葉の米を大量に仕入れている」と江戸城と葛西城(青戸)の城代に連絡があった。
 小田原の氏康から連絡があった。
「米の仕入れ値でもめているらしいから、今すぐに行動すれば阻止できる」から、三日間分の食糧で出発せよと。
 
 葛西城の遠山城代らは、江戸城からの援軍の到着を待たないで、数百に満たない軍勢を率いて江戸川を押し渡り、里見軍と渡り合った。
 食糧調達して北関東の拠点の城へ運ぶ準備をしている敵方は、葛西城の動きを監視していたから、江戸川を渡って坂下から攻めてきた北条軍を里見軍は有利な坂の上から攻撃した。

32  葛西城から出陣した北条軍は、戦闘むなしく、勇将富永、遠山を失って、その日は、負け戦で夕暮れと共に葛西城へ引き上げた。
 一方、里見軍は「勝った、勝った!」と、戦勝祝いでその夜は浮かれて兵士は酔いつぶれていた。

 その夜の明け方、引き上げた葛西城軍は、江戸から来た援軍とひそかに相手側の行動を見守っていた。北条軍は、江戸川から攻める側と背後に回った味方とで夜の明ける前、里見軍の陣を挟み撃ちで襲った。
 昼間勝ったつもりの里見軍は、士気が上がらず、逃げるに手一杯で、第二次国府台合戦も北条軍の勝利となった。両軍合わせて戦死者は900から1,
000名という大合戦であった。この戦いは、北条軍にとっては大きな勝利であったが、その後、豊臣に滅ぼされてその勝利の意味が消えた。
 日本史全体の中では、北条は、戦国時代の準々決勝、準決勝くらいまでは勝ち戦であったが、最終勝利を秀吉、家康に奪われてしまい、歴史の中では信長、秀吉、家康ほどのネームバリューがないから、多くの人は記憶に留まっていない。

3_2  北条の宿敵里見義弘は、国府台城を放棄して、千葉の安房へ逃れ、再起不能になった。
 これは、「野菊の墓」伊藤左千夫の実家跡地に立っている看板に書かれている説明である。

 北条側の立場から、北条の勝利が一方的に書かれているが、葛飾区内の寺を回ると、「国府台合戦で寺を焼かれた」との記載があちこちにある。
 高砂駅近くの七福神「寿老人」のある観蔵寺(高砂)、東金町の光増寺(旧水戸街道)など、里見軍の放火によって焼かれたと、500年前の記録や言い伝えが残っている。
 つまりは、里見軍は葛西城の城下に攻め込んでいることの証拠である。葛西城に味方する地域にはゲリラ的は攻撃をして、国府台合戦以外にも、戦が葛西城の近辺で行われているのを見落としている。

「野菊の墓」と北条VS里見の古戦場: nozawa22
Kounodai(国府台:現千葉県市川市国府台)里見城から出陣した里見義弘、彼は8000騎を率いて陣を張る。
 向かうは、北条側には、江戸城代家老遠山丹波守直景と葛西城(水戸街道と環七交差点付近)の勇将富永三郎右衛門が着陣していた。第2次国府台合戦図

 大谷口に城のあった(里見側だった)高城氏が矢切の一角に陣を張り、江戸城代家老遠山側に味方したので、小田原から北条氏康、氏政親子が総大将として到着前に(里見側へ)仕掛けて行った。
 遠山・富永は自信をもって、江戸川を渡り、里見義弘8000騎に積極的に戦いを進めた。

 里見側8000騎は、主要戦闘要員が8000人という意味だろう。馬が8000頭というのは、里見側は総力で北条に当たる気構えが見える。しかし、8000人の武士を地域戦闘に投入に対して、一方、北条勢は2万人を数えた。水の冷たい1月7日両軍は江戸川を挟み対陣した。

1340  大坂の途中まで北条方遠山軍が押し寄せてきて、里見軍は坂の上に退却し、(計画的退却可能性あり)、里見軍が立ったとき、眼下の北条軍に一斉に討ちかかる。
 勇将富永三郎右衛門は、ここで獅子奮迅の戦いをしたが、落馬したところを里見の兵士が押し掛り、戦死した。その場所が(伊藤左千夫)文学碑のある下の坂道である。

 葛西城代家老、遠山丹波守直景は、坂下坂川の手前にある「カイカバ曲がり目内野」という場所で、里見側の16歳の少年に打ち取られた。

Kounodai2  その日の戦いは、北条側の敗北で、柴又へ引き上げた。その夜、里見側は戦勝祝いで酔いつぶれているところへ、北条軍は忍び寄り、挟みうちの夜襲をかけた。二度目の戦い(第二次国府台合戦)である。
 油断していた里見軍はコテンパンに敗れて、市川から中山を経て、安房へ逃れた。その後、再起することはできなかった。第2次国府台合戦図

 本土寺の過去帳には
「コウノ台ニテ上下諸人 遠山殿(江戸城主)正月 其外千余人」
 と記されている。
 最終勝利者である北条側の死者は、手厚く葬られているようだ。房総の領有権も里見から北条へ移った戦いであった。

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