« 「葛西城」遺構に処刑した女性の頭蓋骨発見、里見軍の間者か | トップページ | 八千代市長には 服部か、秋葉か 杉山か »

2013年5月23日 (木)

石田三成の才覚と人望 秀吉治世下での功績

0032 歴史上唯一徳川家康に刃向かった男として、石田三成は「名」を残している。豊臣政権がずーっと続いていたら、彼の秀吉に尽くした行政官/宰相として伝わっただろうが、徳川政権になり、彼は稀代の悪者にされ続けている。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「★んで頂いたら、励ましクリック
 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います お気に入りに追加
 ●ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
0033  
吉は尾張の百姓からの成り上がりで、親族にも内閣政務官にしたい優秀な若者がいなかった。長浜城主になってから、鷹狩りと称して領内を巡回をしていた。領内に見所のある若者がいたら、召し抱える(スカウト)考えは持っていた。

 三成の父は武士の最下層の足軽であったので、息子の三成が武士として昇進はできないと考え、寺に入れ教育の機会を与えようとした。
 三成は、頭のいい子であった。その当時、長浜には帰化人が多い土地柄で、朝鮮の王朝が滅びると、亡命して日本へ渡ってくる渡来人が多かった。大陸の文明を身につけた多くの人がこの琵琶湖近辺に住み着いたと言われていた。
 朝鮮の教養がすべてがそっくり伝わったわけではないだろうが、
長浜地域は、数学・・・というより、ソロバンが盛んであった。これは、朝鮮・中国からの影響か、ソロバンと簿記に通じて、事業を数字で見通す・・・という技術を学習する機会があった。三成は若いうちに身に付いたらしい。

 寺の中でも、そのレベルに到達するには、三成以外にいたのかわからないが、15歳という若さで三成が秀吉にめぐり合うとは幸運であった。寺内では、一番の俊才であったはずだ。
 
鷹狩
りの帰途、寺に立ち寄ってよって、「茶を所望」したとき、三成が最初に出て行って対応した。

 NHKの番組では、三成自身の気持ちとしては、出世のきっかけを虎視眈々と狙っていたと、エピソード紹介していたが、そういう気持ちがあって当然だ。
 
芸能界デビューを小学生でも考える子がいるように、
このぐらいの子なら、豊臣秀吉が水呑み百姓から大名になったことは、知られていただろうから、「チャンス」と思ったに違いない。

 「鷹狩り」は、現代の社会でいうと、ゴルフ、その帰り道のような位置づけになるだろう。秀吉は運動して喉が渇いていると三成は察知して、ぬるめのお茶を大きめの茶碗にたっぷりと差出した。0036 「もう一杯」と秀吉が所望したら、次は、少し熱めのお茶を出した。そこで、秀吉は、(ホー、この子は知恵を使っている)と感じたので、その知恵はホンモノか、試してやろうと思って、「もう一杯」と三杯目を所望した。
 これが試しどころであったが、二杯目よりもっと熱くて、少量のお茶をゆっくり味わうように、
三成もさらに知恵を出した。

 秀吉自身、主君信長に仕えて「懐で草履を温めた」エピソードを持つ男であるから、三成を試していたのだ。三成が本当に頭を使って茶を出しているか、確認したのだった。

01
 「太閤記」などは、後から太閤の信奉者、ファンが書いたといわれているから、三成と秀吉を持ち上げているマユツバものだろうが、まあ長浜には先進的な知恵がある帰化人が多い地域である。
 長浜は、北国街道ともう一本京都につながる東海道が合流する場所、先進文化の気風がある場所である。

 寺へ、三成を小姓にスカウトする連絡が秀吉からあった。「雑兵」クラスの三成の父は、「足軽」からの昇進を考えていただろう。ところが、三成は、一気にその上の「足軽」→「足軽大将」と三段階上の給与でスカウトされ、16歳にして、新人給与の三倍300石を得ることになった。高校生がプロ球団と契約する気分であったにちがいない。

付録知識:
 足軽とは、武士集団における最下級の兵。歩兵に相当。胴鎧・籠手・脚絆・陣笠、10kgに満たない軽装。装備によって「槍組足軽」「弓足軽」「鉄砲足軽」に分類、刀だけは持たされている。
 兵糧として、水筒・米(もしく糒)・芋がらを携帯。足軽に正規採用されると、武士として給与も出る。戦が終われば故郷へ帰り農作業に従事。 現代でいえば非正規公務員。臨時雇用で一代限りの身分。
 その上は、
足軽小頭は30名程度を統率。
 
足軽大将(部下50~150名程度)、200石から500石の家禄、中級の武士。


0037  三成が小姓になってからの何年かのち、秀吉に気に入られ「500石」加増するといわれたが、三成は断った。
 その代わり、琵琶湖に自生する」が欲しいと申し出て、許可された。このエピソードも本当か?わからないが、石田三成像を描くにはふさわしい・・・。


0038  あるとき、秀吉が馬ぞろえをしたとき、三成は騎馬武者を揃えて整列した。ふつうなら「一万石の大名」レベルの騎馬隊を揃えて周囲を驚かせた。
 500石の加増を断り、代わりに「(琵琶湖の)葦」の権利を得て、「葦」を刈る人から徴税していた、という。その徴税権でカネを集めて、それで騎馬隊を養っていた。
500石加増以上の収入があるとわかっていたのだろう。
 これは、元気のいい、武勇だけが取り柄の加藤清正、福島正則等の子飼いの武将には思いつかない商才である。

0043 秀吉がライバル柴田勝家と賎ケ岳の合戦では、石田三成は武勇は勇ましいとは言えなかったが、秀吉Vs柴田(+信長の妹)で対峙し0048 ていたが、動きがないので、(陽動作戦で)柴田の味方が別の50キロ離れた場所で味方を攻撃した・・・、そっちへ主力を移動した。

 柴田軍は、スキができたと秀吉軍の残留部隊へ攻撃し始めた・・・この情報を
三成がいち早く知った。0051
 
情報の重要性を知っていたから、三成が近辺の寺に工作して僧侶をスパイ間者に仕立てていたからである。
 「柴田軍動く。秀吉残留部隊ピンチ」と知らせてきたのを、総大将秀吉に通知した。

0056 総大将秀吉は、その情報に基づいて、すぐにきびすを返し、深夜50キロを騎馬武者数万騎が走った。深夜灯りがないときには、馬を動かすのは難しい。
 秀吉の側近として、
三成は付き従っていたが、道々にある村々へは、カネを払って、「(いざという時には)松明に灯りつけ、道路を照らすよう」に頼んであった。つまり、前もって、村々の人が秀吉に味方する工作をしていたのだ。それに、柴田軍は秀吉軍がいないと、残留部隊が攻撃されると読んでいた。

 柴田軍は「秀吉軍は夜中は行動できない」と、当時の常識で判断した。夜の山道50キロを馬が走れるはずがない。明日の朝から行動して朝5時に出発して、馬なら一時間10キロで5時間かかるから、翌朝
10時になるはずだ。と思っていた。

0046  夜中を走り詰めで、夜明け前に現場に到着して攻撃しかけた。
 山道を走れるように、地元の百姓を買収して松明をつけて照らした。道路わきで、百姓たちが握り飯と水を用意して、秀吉軍の兵士に渡し、走りながら食事をさせた。それが急行できた理由があった。


  「忍城」おし城を水攻め
0078  関東の北条攻めのときは、埼玉県行田にある「忍城」を水攻めを秀吉が指示してきたが、鳥取でやった城攻めのように、山があって、川をせき止めれば城の周りの水深が深くなるような都合よくなっていなかった。
Ws000073  1000メートルで1m高低差、それで15キロ先から水を引いて、「忍おし城」を水びたしにと計画した。
 それには土手を20キロ、土手の高さ3メー
0094 トル、土手幅10メートル、あとは作業員を集めることだった。作業できれば、いいという石田三成の方針で、賃金だけは通常の3倍の賃金をはらうことで、人をかき集めた。すると、その賃金の高さで人は集まった。
 中には、忍城の篭城していた武士も集まって来た。石田三成に注進する人もいた。
 目的完遂のためには、ソレも許した石田三成の功績であった
「忍城」の陥落は時間がかかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
んで頂いたら、励ましクリック 
  ↓   ↓   ↓   

人気blogランキングへ 今後とも、継続的に追読して頂けると、嬉しく思います お気に入りに追加  
ブログ村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Sponsored Link
野沢工房
http://www.nozawa21.net
/
データ入力(文字入力)エクセル入力
http://www.nozawa21.net
/データ・名刺入力/

アンケート入力
http://www.nozawa21.net/アンケート入力/
アンケート処理  1000件以上を想定

録音テープ起し
http://www.nozawa21.net/テープ起こし/

研究講演、授業の音声の記録を文書化に役立つ
財界「ランキング情報 テープ起し部門」全国1位

クリック http://www.nozawa21.net/お問合わせ/ 

執筆代行(ゴーストライター)
http://www.nozawa21.net/執筆代行/
原案は著者が考え、著者に代わり一冊の本になるまでの作業。
著者の持っているテーマを聞き出し、著者の言いたいことを表現する作業。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

|

« 「葛西城」遺構に処刑した女性の頭蓋骨発見、里見軍の間者か | トップページ | 八千代市長には 服部か、秋葉か 杉山か »

事件、事故」カテゴリの記事

日本史」カテゴリの記事

生き方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「葛西城」遺構に処刑した女性の頭蓋骨発見、里見軍の間者か | トップページ | 八千代市長には 服部か、秋葉か 杉山か »