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2013年5月21日 (火)

全国(戦国時代)統一 準優勝 小田原城北条氏 優勝 豊臣秀吉

 田原城が落城し北条氏滅亡で、豊臣秀吉が全国統一し、高校野球でいうなら優勝でジエンドとなる。その北条氏は、準優勝である。優勝戦前の戦いではあちこちに勝っているから、史跡として残っている。
「葛西城」は北条氏の配下にあった
「野菊の墓」と北条VS里見の古戦場:

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Nogimu050501      ↑江戸川土手から国府台方面を望む。
「矢切の渡し(江戸川)」を柴又から国府台へわたり、「野菊の墓」2546 (伊藤左千夫)の実家の隣が「国府台合戦」の古戦場である。始めてこの史跡に接したときには、意味が良くわからなかったが、ようやく納得した。
 対戦するのが、北条氏(関東側)Vs里見氏(千葉側)である。
 江戸川をはさんで、下総の西の最先端「
国府台城」があり、対する武蔵の国の東の最先端が「葛西城」。両城の間、直線距離でおよそ4km足らず。国府台合戦の頃には、家があるわけではないから、お互いの城郭から敵方の城が、手に取るように見ることができた。

 北条氏側は氏綱・氏康父子、対するのは小弓公方足利義明と里見義堯(よしたか)、武田(真里谷)信応(のぶまさ)の連合軍。天文7(1538)年に衝突し、北条氏側が大勝。これが第一次国府台戦争。

 それから、第二次国府台戦争である。第一次合戦より一世代分の時間が経過した25年後に起きた。
Page_57 序盤で、関東北条氏軍の二人の指揮官遠山・富永の両将が、果敢に敵陣に深く攻め入り過ぎ、里見方によって相次いで討ち取られ、敗退した。
 国府台側は勝利の宴で祝杯を挙げ、深夜ぐっすり眠ったところで、北条方が里見方を急襲し、一気に形勢を逆転し、この合戦により北条氏は下総への本格進出を果たし、里見氏は逆に下総への足掛かりを失うきっかけになった。と古戦場の史跡説明には書かれている。

 ところが、よくよく調べてみると、遠山・富永の両将が討死したのは永禄6(1563)年1月であり、里見方の大敗北は、一年後の永禄7(1564)年1~2月の出来事のようだ。
 遠山・富永両将が戦死してから、里見方敗北で撤退に至るまで1年以上を要しており、「第二次国府台合戦」は、少なくとも複数の年にまたがる大きな戦いの総称、と現在では考えられている。

 北条氏康(北条早雲の息子)から自軍武将宛に送った手紙(古文書)が残っている。
「里見方が市川のあたりに5、6百騎で陣取って、岩槻城(埼玉県)に食糧を運び込もうとしているが、値段で折り合いがつかなくてもたもたしている。我々も出陣する。食糧は3日分もあれば十分なので、揃わなければ現地で調達すればよい。槍を持ってすぐに来い。必ず一戦交えることになるのでそのつもりで。」永禄6年(1564)正月4日

 これ(永禄6年)がちょっと興味深い。
 このポイントは、北条方は、少なくとも永禄6年1月の戦いは、初めから超短期での決戦を意図していた。そして、里見方が食糧の調達に手間取っている。里見側の食糧ぁら長期戦を考えている、と北条側は予測している。

 実は、前年の永禄5年10月から、北条氏康(関東軍)は甲斐(山梨)武田信玄と手を組んで、共同で武蔵松山城(埼玉県)を攻囲していた。
 対する反北条軍である「松山城主」上杉憲勝は越後の上杉謙信に救援要請を依頼すると謙信は駆けつけた。謙信は、関東諸将に松山城救援を呼び掛けると、「房越同盟」(房総・越後同盟)関係にある里見氏は、武蔵松山城に向かうルート上の岩槻城に食糧が輸送されようとしていた。

 こちらは甲相駿(甲斐・相模・駿河)三国同盟に基づき、北条氏が武田氏の出馬を仰いだ重要な戦いで、松山城が落城しないまま、上杉・里見連合軍に背後を襲われたら・・・北条氏は全滅する危機に瀕していた。
 里見氏の
岩槻城への食糧運び込みと進軍は、北条氏にとって何としても止めなければならない。勝たなくても、少なくとも三日間だけでも、里見軍を「松山城」に向かわせないで下総にほんの数日でも留めることができれば、その後の戦局に大きな影響を与える。
 今置かれている北条氏の立場を熟知した遠山・富永両将だからこそ、戦死を覚悟で里見氏の進軍を止める戦いに挑んだ・・・、と推測する。
 この戦いの結果、北条軍の遠山・富永両将の戦死という犠牲によって、里見軍は少なくとも上杉謙信軍との合流が遅れ、「武蔵松山城」の救援に失敗した。

 翌・永禄7年の戦いは、北条軍と里見軍の真っ向勝負となった。戦闘はおよそ1か月継続し、里見、正木氏の一族等多くの戦死者を出し、里見方は退却し、国府台合戦は終わった。

 永禄6年(1564)の北条氏は、3回の戦いにすべて勝利。なお、食糧を運び込む予定の岩槻城内では、反北条方の有力武将であった太田資正(三楽斎)が、実の息子の氏資に裏切られ、城を乗っ取られ、追放という事件が発生。
 北条軍の策略や戦略を見た息子の氏資が、頭の古い頑固おやじ(太田資正)を追い出す事件画起きた。息子氏資はその後、下総の三船山というところで、北条軍ではなく里見軍に囲まれ、あえなく討死する。

 北条氏の下総支配は、国府台合戦で単純に進捗したものではなく、制圧には相当な時間と労力を要している。

 きっかけになった古文書に
「(里見軍は国府台あたりでコメを買占め)岩槻城に食糧を運び込もうとした」が、 里見軍は、目的地の岩槻城へいく目的を達することができず、国府台あたりで兵員は留まっていた。
 一方、北条方は、諸将に「食糧は現地調達せよ」と、こちらは食糧の大量買付け、大量輸送はしていない。北条軍の後方支援の黒幕たちが、里見軍の後方かく乱をはかり、「商人たちにコメを売らせない」運動を進めた人物が存在した。

 岩槻城の太田氏資が父親を追放したのは、戦闘一本槍で、このような情報戦のノウハウが遅れていると痛感したのだろう。北条軍が強かったのは、
戦闘ばかりでなく、情報戦にも力を入れていたから・・・という解釈をしたい。
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