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2013年4月27日 (土)

「マンデラの名もなき看守」評価A

091_2  白人看守が黒人南ア囚人への暴行、一般人黒人への暴力は、リアリティがあり、迫力のあるシーンが多い。白人の黒人蔑視は、ベトナム人をベトコンとひとくくりにするのや、イラク人捕虜収容所「アブグレイブ」の看守による暴行・・・似ている。人種間紛争と似たようなものだが、白人はやることがひどい。
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108_4 町でパスポートを持っていない主婦を叩きのめし、赤ちゃんが泣いているのをみた主人公グレゴリーの娘がショックを受けると、妻が
「白人と黒人は違うの。」
「どうして?」という問いに、
「カラスとはとが一緒になれないと同じ」と、娘に教えていた。

106_4 南アフリカの刑務官ジェームズ・グレゴリーは、南アフリカの地元語である「コサ語」を理解できるという特技で、終身刑を受けたネルソン・マンデラを監視する任務に就く。
 1968年に刑務所のあるロベン島(ケープタウン沖合約12kmの島)に赴任する。妻グロリアは、夫の昇進が近いと、大喜びである。
 看守になったグレゴリーは、白人の敵であるマンデラは死刑が当然と考えていた。独房で実際にマンデラと出会ってみると、マンデラの威厳ある態度に、徐々に考え方が変わる。マンデラは、アフリカ民族会議の『自由憲章』(The Freedom Charter)の意義を、正々堂々、グリゴリーに説く。
 グリゴリーは、その自由憲章がどんなものか、図書館へ調べにいく。発禁書籍を強引に係りから見せてもらい、その一部を持って帰る。
 妻グロリアは、「仕事よ。今は(黒人と)戦争をしているの。アノ人たちは、野蛮人だわ。この国を白人から奪う気よ。白人を一人残らず海に投げ込むつもりだわ。全てを奪い、丸裸にして。」

162 夫グリゴリーは、マンデラの人柄や思想に感化され始めていた。政府や白人がマンデラら黒人囚人をひどく扱うのに疑問を持ち始めていた。実際には、表立って主張するわけではなく、極々個人的な内面の賛同に過ぎなかった。その変化に妻グロリアは、夫の行動に神経を尖らせていた。
 「彼等は、爆弾よ。爆発するわ。(図書館で「自由憲章」を読んでいたと)大佐(上司)に知れたら大変よ。昇進もなくなるわ。バカなことをしないでよ」 
 グレゴリーは、その妻の言い分に「わかっている」というしかない。妻・・・女は賢いというか、国当たり前に現実を見ている。

 マンデラの息子の事故死を知り、グレゴリーはコサ語で「お悔やみ」を告げてマンデラに信用される。現地語であるコサ語が使え、指導者マンデラと意思が通わせる人材は、白人にはいなかったから、グレゴリーは南ア政府の貴重な人材になった。彼は、幼い時代にマンデラの住んでいた地方で育って、黒人と分け隔てなく仲良く遊んでいたから、コサ語が自然と身に付いたのだった。

  釈放間近のアフリカ民族会議の戦士への手紙にコサ語の『秘密指令』が入っていた。グレゴリーはそれを見つけ、それを上司に報告。その情報に基づき、先回りして南アフリカ国軍が待ち受けて、釈放されたその戦士は到着すると、襲撃され戦死する。グレゴリーは、この功績で彼の評価が高まったが、自分の報告で襲撃されて死んだことを知り、罪悪感に苦しむ。

 1975年、刑務官グレゴリーは、マンデラが妻にクリスマスプレゼントの小さなチョコを贈りたいという便宜を図った、と新聞報道され、職場や地域では、彼は白人社会の裏切り者呼ばわりされ、仕事に嫌気を感じて、退職を願い出たが却下された。コサ語ができ、マンデラに信頼されている彼を上司は手放したくはなかった。
 南ア国内の黒人勢力が勢力を伸ばすにしたがって、国民的人気のマンデラの存在が大きくなり、従ってマンデラに信頼されるグレゴリーが重要な存在になった。


234 1980年代になると、アパルトヘイト体制への内外の批判が高まり、236_2南アフリカ当局も軟化して、ネルソン・マンデラを優遇し始める。
 国内の黒人の独立運動など黒人権利の獲得へのうねりが大きくなって、白人統治が揺らいでいた。政府高官は、マンデラを刑務所から呼び出して、「黒人の運動を止めてくれたら、代わりに、マンデラの身を解放する」という“取り引き”を提案をした。
 マンデラは、「黒人の参政権、不動産所有の権利」など、「黒人の自由」を要求し、その自分の身を解放の“取り引き”提案は拒否して、再び獄中につながれるほうを選んだ。

 グレゴリーは、マンデラの移送先のボルスムーア刑務所にて、マンデラ番看守としての『任務』に復帰する。グレゴリーとマンデラの間に信頼ができていることを政府上層部が利用しようと、グレゴリーをマンデラに張り付かせた。そのころのマンデラは、刑務所の独房ではなく、ただ同じ黒人たちからの「軟禁」隔離だけで、ほぼ自由な行動ができた。

249 1983年5月30日、南アフリカ国軍司令部前での爆破テロにより、一般白人市民に犠牲が出る。マンデラやシスルらANC元幹部らを集め、昇進した刑務官グレゴリーは非難する。政府内部でも、指導者マンデラの『テロ』をやめさせるための役割に期待する。グレゴリーの息子ブレントも成長し、父と同じ刑務官となったが、交通事故死する。

 政府はマンデラが率いる「アフリカ民族会議」の勢力が南ア内で無視できなくなり、マンデラとの交渉する姿勢に変化し始めた。1988年、マンデラが、ビクター・バースター刑務所に移り、マンデラ付のグレゴリーも転任する。
 マンデラも刑務所内で広い屋敷が割り当てられるなどの自由を与えられ、アフリカ周辺諸国の高官と会談するまでになる。
267 そして、マンデラ釈放で世界中の目が注目した1990年2月11日がやってくる。南ア政府がマンデラ釈放の署名をした日、グレゴリー刑務官は、准尉から中尉に昇進した。


 なお、主人公であり、原作者でもあるジェイムズ・グレゴリーは、1994年5月10日のネルソン・マンデラ大統領就任式に招待された。グレゴリーは、2003年に亡くなっている。

ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(1918年7月18日 -2013年12月 ):南アフリカ共1和国の政治家、弁護士である。大統領(第8代)、下院議員(1期)、アフリカ民族会議議長(第11代)を歴任。
 賞歴としてネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞、サハロフ賞、
ノーベル平和賞、国際検察官協会名誉章受章など。称号には名誉法学博士(早稲田大学)など。南アフリカ共和国での愛称はマディバ。
 反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され、27年間刑務所に収容。釈放後、アフリカ民族会議(ANC)の副議長に就任。その後、議長。
 デクラークと共にアパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導き1994年に大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した。

デクラーク:アパルトヘイト廃止後、初代大統領(白人)、下院議員、国民党党首(第7代)を務める。アパルトヘイト体制の解体、アパルトヘイト関係法の全廃に大きな役割を果たした

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