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2013年3月 8日 (金)

東京大空襲と浮浪児、語りたくない過去 その1

077  東京大空襲とか、浮浪児について語るのは、NHKだけ。民放は、そんな悲惨な話だとか、残酷な話は、作り手が知らないし関心ないのかもしれない。
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NHKで取り上げたのは、山田清一郎 サンの体験。
  神戸大空襲で防空壕で退避していたとき、防空壕が襲撃されたその瞬間、母と二人逃げ込んでいたとき、少年の背中を押して逃げ出させたのが母で、防空から出た次の瞬間、直撃弾が落ちて、防空壕は埋まってしまった。それ以来、ずっと一人で暮らした。10歳で小学校三年生。それ以来3年間は、学校へ行っていない。
 

053安心だと思っていた防空壕に直撃弾があたり、中にいた大勢人々は圧死した。東京大空襲だ。65年以上前、昭和20年3月11日には、10万人が一夜にして焼け死んだという。そして、平成11年3月11日は、東日本大震災だ。
 
いやー、3月は、大きな事件事故がある。

 (東京文京区)動坂の叔母は私の父の妹で、夫はホワイトタイガー(白虎)という洋裁店を営んでいた。町内会の会長で皆の世話をしていたから、空襲警報になると、メガホンをもって「駒込病院内の防空壕へ退避するように」と掛け声をかけていた。 

054013  敗戦後は、戦争の落とし子である浮浪児が3万5千人(朝日年鑑による)いたという。
 戦争孤児が住むところもなく、食べるものもなく、巷をさまよう。浮浪児は戦後、数年間は巷にあふれ、大きな社会問題となった。
 アメリカ占領軍から「汚いから浮浪児を一掃しろ」と命令された国(都道府県)は、「刈り込み」といって、浮浪児を捕まえる。
 大勢の浮浪児を捕まえても、収容する施設が足りない。逃げ出さないよう劣悪なオリの中のような環境に押しこめたが、逃げ出す子が多かった。(
0015 「俺たちは野良犬か」山田清一郎著より)

 一人っ子だった山田さんは10歳(小4)のとき、昭和20年6月5日、敵機襲来で防空壕に避難していたが、何発もの焼夷弾が壕に突きささり「子どもを早く」と母に押し出された。次の瞬間、壕は崩れ親たち、大人は生き埋めになった。
 神戸は戦火で焼きつくされ、死体が山になっていた。死体を片付ける大人は、誰もかまってくれない。
 003 10歳だった山田さんはなすすべもなく、2、3日は母の生き埋めになった069壕の側で寝た。お腹が空いて、人が集まる駅へいっても誰も食べ物をくれない。ゴミ箱をあさり、腐ったものを食べた。そのうち4人の孤児たちと銀行の焼け跡の金庫に住みつき、仲間と一緒に行動するようになった。
 その内の一人が腐ったものを食べて中毒
072 死した。それから野良犬の真似をして、ゴミの外側だけを食べるようにした。それでもお腹はへる。
 駅などで親と弁当を食べている幼児の弁当を奪ったりした。仲間のアキラはトマトを盗んで逃げたところをジープにはねられ即死した。そのトマトが血の中で動いていた。それ以来、赤いトマトが食べられなくなった。
 それから無賃乗車して、神戸から東京へ出て上野の地下道に住みつくようになった。コンクリートの上でごろ寝する。髪は伸びほうだい、服は垢まみれで固い板のようになりボロボロ、変な虫がうようよわいている。鼻が曲がりそうな臭い匂いをさせていた。

 この子たちを世間では浮浪児を「バイキン、汚い臭い、乞食」と呼び、世間から爪弾きにされ、忌み嫌われていた。食べ物は「拾うか、物乞いするか、盗みをするか」しかなかった。
 JR上野駅から京成電鉄上野駅につながる地下道には、山田さんと同じ浮浪児が大勢いた。
 これは、テレビではカットされていたが、
 ある日、「千葉へこないか」と誘われて行った。10歳前後の子どもに、朝の5時から乾燥芋の仕事や豆つくりの仕事をさせられた。家族は部屋で食事をしていたが、それとは別に、少年たちは、犬猫と同じ扱いで、土間(地面)で粗末な食事を与えられた。あまりにひどいので、そこを逃げだし、また浮浪児になった。

 上野の地下道にいるとき、「刈り込み」で捕まり、長野県にできた孤児施設「恵愛学園」に収容された。復員してきた坊さんが上野に浮浪児がいっぱいいるのをみて「恵愛学園」を設立したのである。長野大本営の跡地にある小さい掘っ立て小屋が、12人の孤児たちの住み家になった。
 浮浪生活で学校へ通えなかった野はもちろんだが、「恵愛学園」に来ても、地元の人には「野良犬、バイキンがきた」といって、地元の小学校へ通学できなかった。山田さんは、三年生から五年生まで、三年間学校へ行かれなかった。

 地元の学校にやっと通学できるようになっても、学校へ行ってみると、みんなと同じ教室ではなく、三階の物置小屋でに入れられ、教師からも差別された。教室に入ると「浮浪児犬小屋」と黒板書かれて、惨めな思いをした。彼らから軽蔑されないためには、学力が追いつくことだった。
 だから、学校から「恵愛学園」へ帰ると、一緒に生活した孤児たちは、必死で勉強をした。小学校3年生でありながら、自分の名前さえ書けない子がいたり、五年生で九九をいえない子もいた。
 

 「恵愛学園」一緒に生活した仲間の行方は、その後、現在まで、一人の消息もつかめない。
それだけ、浮浪児だった生活を思い出す仲間と接触したくない。ここで生活したことを知られたくないのだろう。

 その気持ちは、痛いほどわかるが、あなたの責任ではない・・・、生きていくには、人のものをとったり、ズルをしたり、万引きも、しょうがないこともある。10歳そこそこの子には、責任を問えるだろうか。20歳過ぎ大人は、そうもいえないが。

081 リンカーンが「40歳の顔は、自分の責任」という言葉を残しているが、その頃まで引きずってはいけない。自立したときには、自分の顔にまで責任がある。

 山田清一郎さんは、その後勉強を続け、中学校の教師になった。教師生活は30年は越しただろうが、母を失ってからの十代までの影響は大きい。その体験は、いろいろの面で十分モトが取れていると思う。ベビーブームの生徒の増加のときに教師として腕を振るったはずだ。

 「東京大空襲と浮浪児」の話しの締めくくりとして「母への手紙」を読み上げて、山田さんは、母と切り離された悲しみ、孤独を誰かに伝えたいと訴える。
 すると、聴いていた児童擁護院の(親のいない)生徒には、自分たちも、親とは会えないから、山田さんの胸のうちに伝わるようだった。

(略)
野良犬のように追われ
バイキンの塊と呼ばれ
ゴミのように
水をかけられ逃げ回り
お母さん
命を犠牲にして守ったわが子の
そんな惨めは姿を見たら
どんなにか哀しむでしょうか。
(略)
なにより辛かったのは
自分には
帰る故郷がない
支えてくれる家族がいない
たった一人という
孤独感でした。
(略)
私は見えないお母さんに
支えられて生きてきました。
ありがとう お母さん
あなたの子供は
ここまで生きてきました。
苦しくて
泣き出したくなることもありました。
何とかがんばってきました

赤塚不二夫の引揚げは葫蘆ころ島
鐘の鳴る丘 佐田啓二 中井貴一の父
戦後満州引き揚げ 故郷への道


素晴らしき日曜日 昭和22年から学ぶ
党派を超えた恋 園田直と松谷天光光

東京大空襲と浮浪児、語りたくない過去 その2
東京大空襲と浮浪児、語りたくない過去 その3 :
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コメント

東京大空襲と浮浪児、語りたくない過去 その1

投稿: 語りたくない過去 | 2014年9月 2日 (火) 23時34分

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