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2013年3月13日 (水)

東京大空襲と浮浪児、語りたくない過去 狩野光男 その2

125107332644616132221  軍国主義に染まって、昭和20年まで少年時代を送りました。
  「わが日本は神の国であり、万世一系の天皇をいただく優秀な国である。八紘一宇の精神でアジアを統一し、白色人種からアジアを守る。そのためには、現人
アラヒトガミである天皇陛下のために、国民が命を捧げるのが、最高のモラルである」という教えを受けた。これを自分の意思とした歴史観を皇国史観という。
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 平成になってからも、あのM元総理大臣が「日本は天皇を中心とした神の国である」と言った。小学生だった当時私がそう思ったのは無理もないと思います。
 私が小学校5年生の時に大東亜戦争が始まり、大変な戦争なんだから、おまえたちも一生懸命やらなければいけないと言うわけです。
「米英両国は軍事上、経済上の脅威を増大し、もって我を屈従せしめんとす。かくのごとくにして推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存立、またまさに危殆にひんせり。ことすでにここに至る。
 帝国はいまや自存自衛のため、決然たって一切の障害を破砕するのほかなきなり。皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、億兆一心国家の総力をあげて征戦の目的を達成するに、違算なからんことを期せよ」
 

 そのうち中学2年生の2学期になると、学徒勤労動員法というのができ、中学生以上は軍需工場に行かされ、兵器をつくる手伝いをさせられた。勉強はほとんどすることができない状態であった。 

029  昭和19年11月半ばを過ぎると、ほとんど毎晩のようにB29が飛んできて1万メートルの高さから爆弾を落とした。幸いにして学徒勤労動員で働いていた工場には落ちることがなかったが、いよいよB29の爆撃範囲内に入っている実感が湧いてきた。
 昭和20年は元日から空襲があり、私たちは正月休みもなく、軍需工場に行った。
 3月10日は、昔の陸軍記念日で、日露戦争の時、奉天に日本陸軍が入城した記念日で、「この日にはアメリカは何かをやってくるに違いないから用心するように」との先生からの注意があった。
 それまでも、寝る時には洋服を着てゲートルを巻いて、枕元には鉄かぶとと鞄、靴を置いていた。各家に床下防空壕を作り、そこに入ることを義務づけられていたが、素人の作った防空壕は危ないと思って入りませんでした。
 毎晩のように空襲があり、空襲なれしていた。3月9日の夜は昼間の疲れもあって一人でグウグウ寝ていました。12時ちょっとすぎごろ、どうもいつもと違うように騒がしい。窓を見ると真っ赤になっているんです。開けてみると近くまですごい勢いで燃えているので、びっくり。
 防空壕に入っていた親父が出てきて「これはいかん」と。焼夷弾が落ちたら消火するように言われていたが、状況を見てとても消せないと警防団の人は判断して、避難してくれ、ということになった。
 非常持ち出し用のリュックなど、身ごしらえもちゃんとしていたので、重要書類だけ入ったリュックと手回りのものだけ持って逃げました。
 

 私の家は浅草5丁目で、そこから逃げたわけですが、火に向かって逃げられません。暗い方、暗い方に逃げるわけです。警防団もその方向に誘導し、隅田公園が逃げ場所になっていました。

 途中、B29が来ました。ふだんは1万メートルくらいの高度で来るんですが、この日は1500-2000メートルという低空で来ました。今まで当たらなかった日本軍の高射砲が当たりました。真っ二つになって落ちていくのを見た時は喝采したものですが、向こうも焼夷弾をどんどん落としてきます。直撃を受けて亡くなる人もいました。
 その中を隅田公園に逃げて行ったんですが、逃げてきた人が殺到して、隅田公園には高射砲陣地があってふだんは入れなかったんですが、緊急事態ですからみんな入ってしまいました。
 周りには木もあるし、このまま助かるのかなと思っていたんですが、そのうち火の粉がものすごい勢いで突き刺さって火の手が迫ってきました。急激に酸素がなくなってきて、呼吸が困難になりました。

031  防空頭巾というのは布でできているので火の粉がつくと、気づかないうちに燃え、それが着物に移って初めて気がつくと、その時はすでに遅く、全身が炎に包まれて、そのまま倒れてしまうか、絶叫して走っていく。そんな状況がだんだん周りで起こっていた。

 隅田公園に詰めかけていた群衆がいっせいに立ち上がって、大混乱になった。私は父親と手をつないでいたんですが、手が離れてしまい、10人か15人くらいの人の下敷きになりました。このままつぶされてしまうのかと思いました。何とか這いだしたが、その時には家族とは離れ離れになっていた。
 家族は両親と小さな妹2人、同居していた女性2人。私を入れて7人で逃げたが、独りぼっちになった。火の粉をはたきながら、地面に穴を掘って顔を突っ込んで酸素を吸おうとしたが、それも限界。周りを見ると、たくさんの人がグタッとしていました。
 

 隅田川の言問橋のところまで逃げてきたが、しかし、火は川面をなめていく。川の中にいる人の顔や上半身を焼いていくんです。後に水死体になった人の顔が焼けていたので、川の水が煮えたぎっていたという人がいましたが、川の水は冷たかったんです。炎で上半身を焼かれて亡くなったのです。
 炎が、川の中央から向こう岸まで届くものもあった。川の中に後から後から人が飛び込んでくるから、人が何重にもなって、下の人は沈んでしまった。

033  言問橋の上は、向島側から浅草側に、浅草側の人たちは向島側に向かって逃げてきたから、橋の上でぶつかり合って動けなくなっていた。
 荷物に火がついて、それから人に火が移り、橋の上は大火災になって、離れて見ると、まるで橋が燃えているように見えた。鉄の橋なので燃えるはずがない。人やモノが燃えていたのです。
 欄干に止まっていた人はみんな亡くなりました。橋の上から川へ飛び降りた人も、ほぼ亡くなった。「天皇陛下万歳」と言って飛び下りた人もたが、いま考えてみると、死ぬ意味をつけたかったんだと思う。
 最初消防自動車は川から水を吸い上げ、橋の上の人にかけていたが、そのうち自動車も焼け、消防士も死んだ。橋の下では多くの人が逃げまどっていた。
 

 次の日の朝、ある親子を見ました。
 そのお父さんは3歳くらいの男の子をおぶって川に飛び込んだそうです。飛び込んだ時は引き潮だったんですが、だんだん潮が満ちてきて立つのが難しくなって、たまたま杭が立っていたので、それにつかまってかろうじて立っていたら、人がたくさん寄ってきました。大勢がつかまると杭が折れてしまうし、自分たちも沈んでしまうので、このお父さんはすがってくる人たちを突き飛ばし、蹴飛ばしました。その人たちは川に沈んでいったそうだ。

 六本木で展示会をやった時、この様子を絵にしたのを見て、60歳過ぎの男性が「この子は私だ」と言って、私に抱きついて泣きました。人の犠牲の上に今日の自分の命があることに悩んできて、60年間だれかに話したこともないし、都の慰霊堂にも行けなかった、と語っていました。
 しかし、今年60周年の節目なので慰霊堂に行き、この時突き飛ばした人たちの霊を弔って、そして帰りに私どもがやっている「空襲展」に来て、私の話を聞いて絵を見ているうちに、これは自分だとわかった。それで男泣きに泣いていました。

 ある14歳の女性は泳げないのに橋の上から飛び込んだんですが、近くにいたおじさんと一緒に、流れてきた角材につかまって何とか助かったそうです。火が下火になってから川から上がりました。近くで何かが燃えていたので、そこに行って濡れた服を乾かし、暖をとったんですが、夜が白々と明けてきてよく見ると、それは人と馬が燃えているところでした。暖をとっていた人たちは、それに気付いて、一人二人と去っていったそうです。
 

 その朝、私がいた川に下りる石段には、びっしりといたほとんどの人が亡くなっていました。おそらく、窒息死、一酸化炭素中毒死、ショック死だろうと思います。傷はほとんどありませんでした。
 私だけなぜか助かりました。鉄かぶとで川の水を私たちにかけてくれた人も、水の中に沈んでいました。
 高射砲隊の兵隊が来て、あまりの惨状にびっくりしていました。
「この中にだれか生きている者はいないか。いたら上がってこい」と言われ、私は死んでいる人たちを踏みつけて上がっていったんですが、非常に驚かれました。
 階段から上がると、黒こげの死体がゴロゴロしていました。まだ燻っていました。私もそこにいたら、同じようになっていたはずです。切れ端か何かを見つけて、自分の身内と確認したらしい人が泣いて死体にすがっているのを、私はぼやっと見ていました。人間の尊厳などまったくない状態でした。

 それから言問橋の浅草側に上っていくと、死体の山でした。消防自動車は焼け、消防士も自分の持ち場についたまま亡くなっていました。死体はいろいろな形をしていました。ピンクもあれば真っ黒もあれば、マネキン人形のような人もあれば……。何がどうなってそうなったかはわかりませんが、いろいろな形で亡くなっていました。
 橋の真ん中の方はまだ煙っていて、暑くてとても行けません。あきらめて、家族が待っているのではないかと思って自分の家の焼け跡へと帰ってきました。
 家に行っても何の連絡もないので、また言問橋の方に引き返してきました。もう昼ごろです。橋の上は一番最初に片づけなければならないということで、軍隊が出てきて遺体をジャリッジャリッとスコップですくってはトラックに積んでいました。手だけとか足だけとか、何だかわからないものも一緒くたにしてゴミ同様にして持っていきました。

 鉄かぶとがたくさんあったんですが、鉄かぶとの中身は溶けてしまって形をなしていないので、後に鉄かぶと一つは死体一体とみなしたということです。ほかにもボタン4個で一体、がま口の口がね一個が一体というふうにして、死者数を割り出したそうです。
 作業している人たちは無表情で黙々とスコップで遺体をすくい上げていました。遺体は身元が確認できないので、上野などの空き地に穴を掘って投げ入れていました。ですから実際に何人死んだかは、本当のところはわかっていないのが実情。

http://38300902.at.webry.info/200908/article_24.html
狩野光男画 東京大空襲
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わが日本は神の国であり、万世一系の天皇をいただく優秀な国である。八紘一宇の精神でアジアを統一し、白色人種からアジアを守る。そのためには、現人神あらひとがみである天皇陛下のために、国民が命を捧げるのが、最高のモラルである

投稿: 日本は神の国 | 2015年8月17日 (月) 23時43分

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