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2012年12月 6日 (木)

文永の役、弘安の役から鎌倉幕府崩壊

0060 NHK教育「さかのぼり日本史」は、わかりやすいから、おもしろい。日本史を勉強している高校生に、セットで販売したら、コレは売れるだろうにね。普通の授業の10倍おもしろい。
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フビライハン  弘安の役は、本気になって元のフビライハンは、日本を征服しようと14万の大軍を送って来た。幸い、元の本体ではなく、占領植民地の宋の軍隊と朝鮮の高麗軍であったから、指揮官は元の士官だっただろうが、戦意が余り高いとはいえなかった。多数の船も、植民地でつくった手抜き造船であるという見かたもある。

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0061 元は隣国南宋を包囲して、服従させるには、周辺国を従えさせて、南宋を孤立化、包囲網を進める外交をしていた。元寇の役は、その一環として日本の従属を求めて、最初は文永の役で日本を脅して、外交で服従をさせようとした。文永の役(1274年)は、博多に上陸して町を焼き尽くして、一日で引き上げた。

00540053  鎌倉幕府は、これを奇禍として、幕府は御家人だけでなく、本所領家(貴族、寺社の武士)への統治する命令をしたので、一気に強大な権力を幕府は握った。
0029  最初に着手したのは、九州博多湾沿いに、防塁を築くことであった。元軍の上陸が予想される海岸線に、約6ヶ月で約21キロにわたり、九州の御家人に築かせた。鎌倉幕府の統率力が増大した証拠でもある。


 半年後に、元は外交官使節を送って、元に逆らうとひどい目にあうぞと脅して外交交渉をしようとした。
0058  建治1年4月15日、杜世忠(と・せいちゅう)を正使とした元の使い一行5名は、フビライハンの国書を持参し、下関(正確には、山口県豊浦町)に上陸した。
 文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが、第一の目的で、「次回(弘安の役)はもっとたくさん軍隊を送る。ひどい目にあうよ。服従するなら今のうちだよ」というのが、フビライハンの外交であった。

0066_2  元の外交官使節は、太宰府に移り、さらに鎌倉に送られ、鎌倉「龍ノ口」(当時刑場だった)で代表、副代表、翻訳官ら5名が処刑され、見せしめとして首はさらされた。その時、代表は杜世忠は34歳。・・・幕府は断固とした態度を示した。

 しかし、外交使節を罪人として斬ってしまうのは、当時としても異常な出来事で、国際ルールの重大な違反であった。それを承知で使節を斬首した。武家外交の強引さを通して、元の負けになったからよかったが、近代外交で強引に押し通した場合、まとまるものがまとまらないだろう。

 続いて、幕府は弘安2年(1279年)6月に、(南宋から派遣された)周福を正使とする一行も、博多で全員斬りすててしまった。「弘安の役」1281年の二年前である。「文永の役」1274年から7年後が「弘安の役」である。

0090  若き執権「北条時宗」の断固たる決意があった。時宗は、相談役の蘭渓道隆(日本に禅宗を伝えた宋のお坊さん)から、「南宋は、蒙古と交渉している間に侵略されてしまった」と、聞いていた。また蘭渓道隆の後継者無学祖元からは「あれこれ考えずに正しいとをやりとおしなさい」と、交渉の道を絶って徹底的に戦う決意を示した。無学祖元は、南宋で修行中に元のやり口を見聞きしていたので、元の交渉しても無駄と考えた。

Kouan2 1281年6月、元の軍勢は、二手に分かれて博多湾に到着した。最初元軍は4万の高麗から来た東路軍が襲ってきた。蒙古援軍(江南軍)が到着して船の数4400隻、総勢14万人。文永の役とは違って、日本を占領する気であった。その証拠には、鋤や鍬に種籾などを用意していた。
 防塁にてこずったが、回回砲という投石機を使って防塁を壊しに0084 かかった。火薬と鉄片を組み込んだ、「てつはう」という爆発物も使用した。また、弓矢の矢も、日本の矢の4
倍の威力のある刃先で、接近戦では日本式の戦いに、集団戦法で強力であった。と分析されている。九州博多では、防塁を築き蒙古軍を防いだが、壱岐と対馬へ上陸した蒙古軍は、ほとんど島の住民は皆殺しにあっている。対馬は隠れる場所があったが、壱岐では平地が多く、逃れることができず、悲惨であったらしい。

 弘安の役で、日本軍が勝った理由
0033 ①博多海岸線に防塁を築き,敵の上陸をはばんだ。
 防塁は高さ約2メートル、底辺の厚さは約3メートル、海側が切り立ち陸側にはなだらかな斜面で、敵に襲われにくく、守りやすい形に作られていた。
②文永の役の経験で、元軍の戦法は分かっていた。
③御家人の統率ができ、関東からも御家人が来ていた。
④敵船に夜襲、火をつけたり、敵兵にゲリラ戦を行った。
⑤東路軍(高麗軍)・江南(南宋)に分かれ博多湾に到着。
⑥元軍二軍は連絡が悪く、統一行動に時間がかかった。
⑦多くは宋や高麗の植民地兵で「やる気」が強くなかった。
⑧なんといっても「嵐が元軍の船をおそった」。

 鎌倉幕府へのダメージ
 多くの御家人にとって「元寇」は大きな出費だけで,何の利益にもならなかった。ただでさえ苦しくなっていた御家人の生活が加速的に苦しくなった。
 幕府としても、元寇の戦いで、元を追い払ったが、領地が増える戦いではなかったので、恩賞に苦慮した。御家人の生活苦は、「分割相続」や「元寇」だけが原因だけでなく、幕府は御家人救済で「借金の棒引き(徳政令)」=「その場しのぎ」の政策を行い、貸した側を犠牲にして、その後、御家人はますます窮地に陥った。
その一方「北条氏」だけが力をつけたため、多くの御家人から反発を受け、それが幕府滅亡の主要な原因になった。

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