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2012年11月11日 (日)

赤木春恵の満州体験 昭和二十年夏Ⅰ

01 Img_ttl_02 角川文庫「昭和二十年夏、女たちの戦争」で、赤木春恵の体験を読んだ。満州は今なく「中国東北部」と言わないと中国に悪いんだという意識をさせられそうだが、あえて「満州」といいますが、赤木春恵は、兄がハルピンで劇団を立ち上げたので、そこへ参加するために渡航することから、激動の人生が始まる。
赤木春恵の満州体験 昭和二十年夏Ⅱ:
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Photo満州の位置(旧日本領土=赤色)
 赤木春恵は、昭和20年2月、日本下関から釜山へ渡り、合計4日かけて、ハルピンに到着した。
 都合で遅れた母も、続いてへ渡ることになっていたが、その直後から、海峡の制海権をアメリカに握られて、結局母は京都の実家に残ることになった。
 引き上げまでの春恵が体験を考えると、母が京都に残ったことは、よかった。春恵が昭和21年10月20日博多へ着くまでの激闘を考えると、母がそれを体験しないで済んだ。帰国後の家があったのも、助かった。

2011_04 満州では、新京が首都であるが、ハルビンは、奉天と並んで大都市であった。人口は、昭和15年段階ですでに60万人を超した国際都市であった。ヨーロッパからソ連を通って、シベリア鉄道の主要都市であった。
 春恵が見たハルビンは、日本の景色とは違う異国情緒のある都会であった。昭和20年に入って敗色の濃い日本からくると、食料事情は格段によくて、街角の喫茶店では、紅茶でケーキを食べる余裕があった。

 春恵の次兄が立ち上げた銀星座劇団は、20名の団員をかかえ、関東軍の恤兵部(じゅぺい部=戦地への慰問、或は慰問で送られるもの扱う部署を「恤兵」という)の管轄下でPhoto_5 活動していた。そこの代表責任者(理事長)が、甘粕正彦であった。
(彼は、関東大震災のドサクサでアナーキスト大杉栄、甥橘惣一、伊藤野枝を殺害したことで、逮捕されたのち、内地から満州へ特務工作員として渡る。終戦時服毒自殺)
 赤木春恵は、そのことを知っていたので怖い人だと思っていたが、20歳の彼女には、小太りのずんぐりむっくりの優しいおじさんだった。兄を中心に20名で巡回営業をしていたが、
数ヶ月後、頼りにしていた兄が徴兵された。
 これが、いわゆる満州の「根こそぎ徴兵」(昭和20年7月10日)である。在満州の18歳から45歳の男子は全員、病人を除き、徴兵された。

 このとき、銀星座劇団の兄(責任者)を奪われて、赤木春恵が20歳で団員を引っ張っていく責任を負わされた。団員を放り出すわけにもいかず、春恵は徴兵されなかった年配団員の協力を得て、慰問巡業を開始した。
 8月初旬、東満州地区春化(しゅんか)という村へ入った。(間島省琿春こんしゅん、延吉寄りで北朝鮮とソ連が接する場所)巡業はすべて軍の指示で行動し、巡業の演芸を行った。
 

 
春化の部隊では、歓迎の宴を催してくれた。
 大切な豚をつぶして料理しするのは、異例のご馳走であった。ほかでは得られない歓迎であった。
 しかし、春恵は、この春化部隊の雰囲気に違和感を感じていた。
 これだけのご馳走を出すなら、宴が弾んでもいいはずが、兵士は皆沈黙しがちであった。沈黙が続く間に、大砲の音が時折、ドーン、ドーンとしていた。

「あれはなんですか」と春恵が聞くと
「あれは、やっているのです、もう」と世話役兵士から答えが返ってきたが、春恵には何をやっているのか、わからなかった。
 翌朝、「速やかに琿春にお帰りください」
 琿春は、春化部隊の司令部のあった場所である。
「実は慰問どころではないのです。まもなく琿春行きのトラックが出ますので、乗ってください。」と、演芸隊はトラックに乗せられた。

 琿春に戻ると、町中が不穏な雰囲気になって、人々は右往左往して、家財を載せた荷車が行きかい、人々は逃げまどっている様子であった。春恵は年配の団員といっしょに、司令部へ様子を聞きに行った。
 司令部内も騒然として、ただ事ではないようす。
「ソ連軍が攻めてくるから、町を出てください」と、対応した将校に言われびっくり。ソ連とは中立条約を結んでいるから、ソ連が攻めてくるとは想像もしないのが、当時の国民の常識であった。

 ソ連軍は、今の北朝鮮の国境近くからも、侵攻し始めていたのだった。その場所が、琿春こんしゅんであったのだ。
 春化部隊で演芸会をやったのは、ソ連軍の侵攻始める前日であった。前の晩、豪華な食事しているときに兵士が静かであったのは、今生の別れを噛み締めていたのかもしれないと知り、胸にきた。
 琿春に戻ってきて、「あなたたち、よく戻ってこられたね」といわれた。「もうすぐトラックが出ますのでそれに乗ってください」
 昨日宴会で共にした春化部隊の隊員は、全滅したと伝わってきた。
 宿舎に戻り、事情を劇団員に伝え、荷物は身の回り品、一切の演劇関連の道具は置いて、慌しくすぐ出発する。大きな釜にご飯が残っていたので、大急ぎでおにぎりをつくり、司令部に戻り、トラックに分乗させてもらった。軍人、軍属の家族用のトラックで、合計12,3台になった。乗ったのは、お年寄りや女性や子供、赤ちゃんを産んだばかりの女性、病人もいた。トラックは一路南下して、朝鮮の国境に近づいた。

 司令部で、トラックに乗るように急がされたので、乗ってしまったが、このトラックは関東軍の通化へ参謀本部の移動に伴うトラックであった。春恵の拠点にしているハルビンとはかなり方向が違う南へつれて来られてしまった。
 
演劇巡回慰問団は、関東軍の恤兵部(じゅへい部)の指示で行動しているのに、その指令に背いてしまったことに、春恵はひどく心を痛めていた。朝鮮へ逃げ込んでいくのは、関東軍から咎められると思って、他の団員に諮ってみると、ハルピンへ戻るべきだという結論になった。

 ソ連軍が侵攻してきているのだから、満州の中心から南の北朝鮮近くへ行ったほうがいいと、今ならわかるが、その頃は、一切情報がなかったから、とにかく関東軍の指示が一番絶対でしたから、「(ハルビンへ)戻る」と言う団員の結論になった。
 とにかく、ハルビンが劇団の本拠地であったので、すべての邦人が南へ南へ逃げるところを、劇団の一行は、北に向かって乗りついて、関東軍司令部のある新京を目指した。このとき(昭和20年8月)から引き上げ(昭和21年10月)まで、一年二ヶ月の苦難の道がはじまった。多くの日本人が南へ向かうのに、春恵たちは、北へ行こうと急いだ。列車ダイヤはメチャクチャになっている列車に乗り継いで、ようやく新京に到着した。
 この緊急時であったが、予定外の南へ行ってしまい、ただひたすら、上部団体である関東軍恤兵部(ゅぺい部)に咎められたら、どうしよう・・・ということばかりを苦にしていた。このような状態だからゆるしてくれるだろう・・・と考えていた。

 ようやく新京の駅に着き、なお北のハルビンへいく列車を待っていると、列車が入ってきた。無蓋車に兵士と馬が乗っていた。
「どこへ行くのですか?」との問に
「南、南だ」、
「あんたたち、慰問団かい?」
 新京のホームで止まっている無蓋車から兵士たちに聞かれ、そうだと答えると
「じゃあ、一曲歌ってくれないか?」と言われ、赤木春恵たち銀星座団員は、兵士たちの前でホームに並んで、『暁に祈る』を涙を流しながら歌った。

暁に祈る
http://www.youtube.com/watch?v=7WOVJbs4pOM


(続く赤木春恵の満州体験 昭和二十年夏Ⅱ
満州からの引き揚げ 1 
引揚げはこうして実現した。葫蘆ころ島 
ソ連兵強姦の現実 手記 文藝春秋  
後満州引き揚げ 故郷への道 
我が子を手にかけ 満州引揚げ
満州引上げはどう行われたか
   
加藤登紀子 遠い祖国

 満州で体験したことなどは、日本人の大きな負の文化遺産。体験の伝承は「東日本大震災」だけではない。「満州」の日本人が味わった悲しみを死者の数で表すと、東日本大震災の死者は2万人である。満州では、終戦時の日本人満州開拓民24万人いたが、8万人、三人に一人が日本に帰ることなく死亡した。

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コメント

暁に祈るhttp://www.youtube.com/watch?v=7WOVJbs4pOM

投稿: 暁に祈る | 2013年8月19日 (月) 23時38分

関東大震災のドサクサでアナーキスト大杉栄、甥橘惣一、伊藤野枝を殺害したことで、逮捕されたのち、内地から満州へ特務工作員として渡る。終戦時服毒自殺

投稿: amakasu | 2014年8月 9日 (土) 16時58分

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