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2012年10月 1日 (月)

日中国交正常化 高碕達之助のやったこと

004007 中国大陸に中国人民共和国ができると、その国は、清朝の後継ではない。中華民国(台湾)と国交を持っている日本としては、ビミョウな立場であり、冷戦下ではアメリカ(資本主義国)と共産主義国とは、対立していて、中国と国交を開くというのは、敵方と友好関係を結ぶことだから、一筋縄ではいかない。

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中華民国(台湾)と中国人民共和国とを比較したとき、大陸を広く統治する国を無視できないのは明白である。そこで、台湾派、アメリカの意向に逆らって・・・というと角が立つ。そこで、アジアとの貿易を拡大という趣旨のアジア・アフリカ会議が、1955年4月、インドネシアのバンドン市で開かれた。

009010 そこへ中国から周恩来首相が来た。日本代表高碕達之助(経済審議庁長官)が会議のない日を選んで、周恩来の宿泊する民家(住宅街にある華僑の別荘)へ押しかけて会談を開いた。立ち会ったのはわずか5人だった。

中国側も、ソ連との関係が険悪になっていて、新しく日本の発展した技術を導入し、資金も・・・と、周恩来も日本との国交回復を望んでいた。高崎達之助はきわめてフランクに、自分の意見を述べる人だから、「貴国の共産主義体制は好きではない。私は資本主義でいく」とずけずけとモノを言って、お互いの腹を割って話を進めた。

自主外交を掲げていた鳩山内閣で、閣僚であった高崎は、中012国との関係改善を目指して行動した。日本からインドネシアへ飛行機で飛んでいる間に、「オレは貿易できるところとは、中国でもどこでも貿易するんだ」と、通訳に語っていた。
 アメリカは、日本と中国が貿易することは反対していた。そのことを無視して、突っ走ろうとしていた。コレは鳩山内閣であったから、高崎の行動が許されたのだろう。

033 周恩来:戦争中のことは、お互いに忘れましょう。長期的立場に立って、いかに日中友好関係になるか、考えるべきだと思います。中国は平和共存五原則の基礎の上に日本との国交正常化推進を希望と表明。
高崎達之助:現在日本は、米国によって指導されているので、日本政府は必ずしも貴国政府の希望されるようにはいかない。そこで、ちょっとでも両国関係を改善するために、まず貿易を行いたいと思っている。


017 日本の復興は、アジアとの貿易でしかなしえないと思っていた高崎は、貿易できる国を求めていた。ソレは日本国民のためだと思っていた。その日は、次回の会談を約束して終わった。

021 日本代表団には、外務省からの派遣された顧問(谷正之)がついていた。谷は、会談から帰った通訳を呼んで「きょうの会談の内容はどうだった?」と聞かれたので、通訳は「こうこう、こうで、明日二回目の会談がある」と答えると、
谷は「そんなわけにはいかない。断って来い」
 アメリカの頭越しに中国と交渉話を高崎にさせるわけには行かない。「断って来い」といわれ、周恩来首相のところへ断りに行った。それで、二回目の交渉は出来なくなった。


026当時の世界情勢は、アメリカとソ連、東西関係が激しく対立していた。外務省は、アメリカとの関係を重視していた。このとき、日本は、台湾を中国とみなし、日華平和条約を結んでいた。外務省としては、中華人民共和国との関係を深めることは、考えていなかった。
 だから、貿易問題や政治関係の変更に関して話し合うことはない、と確約する。と外務省顧問谷は、アメリカへ秘密電報を打ったのである。
源頼朝は、義経軍の軍監として梶山某を入れて、義経の考え、言動を逐一頼朝に報告をさせている。外務省も似たことをしているのだ。

高崎達之助の親中意識が高いことは、周恩来を通して、毛沢東も知った。毛沢東は、親中高崎を徹底的に利用して、一方の反中意識の強いグループとを分断して、日本の混乱を強めることをねらう指示を周恩来に出している。

1960年(昭和35年)安保改定のために岸信介が渡米し、アイゼンハ027ワー大統領相手に安保条約の改定を行った。岸の掲げる反共政策に中国は激しく反発し、北京天安門広場、全国各地で岸の反共安保に大規模集会が開かれ、日中の関係は完全に遮断された。岸内閣が安保改定と共に退陣すると、池田内閣が誕生した。
 池田内閣は、中国との関係を、政治と経済とを切り離し、貿易拡大を目指した。

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 そこで、高崎達之介は再び中国へ渡った。バンドンで一回目周恩来総理との会談以来途絶えた、会談の実現に出かけた。
「時間の許す限り、一回でも二回でも周総理に申し込んである」

中国の誤解を解くことから始めた。あまりに中国が神経質になっているから、日米安保条約について、中国側に日本側の見解を説明した。
「アメリカは、日本に対して、寛大な態度で日本を援助してくれたので、日本は今のように生活ができるようになった。だから、日本はアメリカに感謝しているのだ」と。だから、「アメリカを敵視することはない。」この見方は中国人にも、周総理も賛同できないが、

高崎は「お国(中国)の政治体制(共産主義)は、私としては賛同できない。 私は引き続き、資本主義をこれからもやっていきます」と、ズケズケ主張した。

このあと、周総理と高崎は、かつて満州国時代、高崎が満州重工業開発の総裁をしていた会社の主力工場、現「鞍山製鉄所」を回った。
 その生産力は、戦前の生産量以上の生産が行われていた。その努力に感嘆したが、一方で問題点を見つけ、技術の遅れを指摘し、積極的にアドバイスをした。そのアドバイスに従って改良すると、数年後、生産量は五倍に達した。
 また、長春自動車工場では、ガソリンの発動機をジーゼルエンジンに直し、すべて自給から輸入することで、非効率を直せるなら、自給にこだわるべきではないと教えた。
 高崎の、技術的にも、経済に詳しい彼の能力を惜しまず、中国のためによかれと思う気持ちを惜しげもなく伝えようとする人柄に非常に感謝していると、周総理の側近通訳は感動を伝えていた。この高崎個人の周恩来とのつながりが、今後の日中関係に大きく影響を与
えた。

1960年、安保改定、岸政権から池田内閣へと移った同じ年に、数ヶ月以内に高橋はバンドン会談の続きを実現するために動いた。

この様子は、40年後公開された外交文書によって証明されている。アメリカと中国を仲良くさせないと、日本の日中関係も改善できないという、スケールの大きな視点から、高崎は若い中曽根康弘を伴って渡米する。ケネディや下院議員のマコーミックに働きかけた。しかし、当時の国際関係は冷戦下でソ連との対立が厳しく、中国には関心が薄かった。高崎の米中関係改善の進言は、アメリカでは効果を表さなかった。

そのとき、高崎がアメリカ関係者に伝えた内容は
「日本は過去30年間、中国侵略し、圧迫してきた。今、中国は建設途上にあり、食料が不足し、その他多くの面で苦しんでいる。コレもかつての加害者である隣国日本がほうっておいていいものか。アメリカもこの考えを理解してほしい」と。日中関係の改善下地ならしをアメリカにも働きかけた。
マコーミックは、「中国を地上から消してしまおうとは思わないが、しかし、共産主義が我々の自由と平和を脅かすのを許すわけにはいかない。」と述べた。

この後、ケネディ政権が成立した。そこで、高崎は再びアメリカへ行ったが、アメリカ人の関心は中国には向かない。中国本土に関心を持っていなかった。高崎は、すでに東西冷戦の壁を越えて、日米、米中、日中を考えていた。

  中国は、このころ、「大躍進政策」を毛沢東の提唱で推進して、中国の人口を養うために進めたが、コレが死者2000万人という、考えならないほどの大失敗でとなった。ソ連との関係も悪化して、技術支援設けられない状況になった。
大躍進政策」(簡体字:大跃进、拼音dàyuèjìn ):
250px1  中華人民共和国にて、毛沢東が1958年から1960年まで施行した農工業の大増産政策である。
 しかし、市場原理を無視して、数年間で経済的に米英を追い越すことを目的に、ずさんな管理の元で農村の現状を無視した強引な増産ノルマを課したため、却って生産力低下をもたらした。三年自然災害も重なった結果、推計2000万人から5000万人ともいわれる餓死者を出し大失敗に終わった。のちに毛沢東は自己批判、国家主席を辞任した。
1959年の7月から8月にかけて、会議(廬山会議)において、共産党の要人・彭徳懐が大躍進政策を諫めた。この指摘は、毛沢東に社会主義への裏切りであるとされ、拒否の上に彭徳懐は失脚させられた。
 この政策に意見するものがいなくなると、一層無理なノルマが課され、ノルマが達成できない現場指導者たちは水増し成果を報告した。その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま、更なる増産を命令する悪循環に陥っていった。
 経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである
。Wikipedeia 参照


 この中国の惨状を打開し、毛沢東の失敗を挽回するために、技術も進み、経済状況もよい日本との関係を構築する必要があると、周恩来は考えた。周恩来は、現代の温家宝首相の立場であった。その上には主席として毛沢東がいた。

050  周・高崎会談の成果が、1962年11月9日、貿易協定が結ばれた。これが、LT貿易である。協定の実務者の廖承志と高橋達之助の頭文字をとって名づけた。これによって、国交はないが、政府保証の事務所を両国につくり、人的交流と共に貿易が行われ、この積み重ねで、双方の事情も理解し始めた。この協定が出来た結果、約10年後に日中国交回復した。

 しかし、その成果を見ることなく、1964年、高崎達之助79歳で亡くなった。1964年2月24日に死去。
 死去に際して、親交の深かった周恩来は「このような人物は二度と現れまい
」と哀悼の言葉を述べた。また、死の前日には高槻市の名誉市民表彰を受けている。正三位・勲一等旭日大綬章。

この成果を引き継いだ後継者が、日中国交回復を果たした。
1972年9月29日、中華人民共和国の北京で行われた「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中角栄、周恩来両首相が署名し成立した。なお、日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった中華民国(台湾)に断交を通告した。

日中友好条約(中平和友好条約)
Images 1972年の日中共同声明を踏まえて、日本と中国の友好関係の発展のために締結された条約である。
基本的に日中共同声明の文面を踏襲し、主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内Tanakak政不干渉が記述されている。中国側は賠償金請求を放棄する代わりに、日本側からODA等の巨額な経済援助を引き出した

 尖閣諸島に関しては、「触れないで置きたい」と周恩来が田中角栄の問いに答えている。この事実と経緯を民主党幹部がきちんと把握していなかったことが、中国との関係を悪くしてしまったようだ。中国は土地所有制度がないから、国有化という意味が日本と中国では違う。

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