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2012年10月30日 (火)

三国志 劉備玄徳に見出された諸葛孔明

Img_1143417_39504095_0 諸葛亮孔明(しょかつこうめい)は劉備玄徳に見出され、いわゆる三顧の礼で迎えられた。
 当時、当時のインテリは、各国のシンクタンクに就職しようとしていた。国の創業者、劉備とかは知恵があったが、それでも、食客の意見を求めて、戦争も外交も国家運営をしていた。だから、カリスマ的な指導者が出てくると、その国は伸びるのだった。そのトップが、諸葛亮孔明である。

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100 金町中央図書館で、三国志DVDを借りてみた。
 前回は④「
赤壁の戦い」であったので、まとまったストーリーになっているが、⑤「南征の戦い」は知られていないから、あまりピンとこない。それでも、孔明はいい人になっている。

「赤壁の戦い」では、風が吹くから、孔101 明は、曹操軍は船の扱いになれていないから、と伝授する策が当たり、船に火をつけられて曹操軍は壊滅して逃げ出す。真実ははっきりしないが、兵士に疫病が流行したところに劉備の蜀と孫権の呉と同盟を演出したのが孔明である。その策が見事にあたり、「赤壁の戦い」では曹操の側の不手際を呼び、劉備蜀と孫権呉同盟軍の勝利になる。

魏・呉・蜀三国のなかでは、蜀は軍事力も、経済力でも劣っていたので、蜀の知的シンクタンクになった諸葛亮孔明は、魏・呉・蜀三国鼎立を提唱して、蜀の安全を図った。そういう外交政策の立案には優れた才能があったと思う。しかし、蜀の国力が弱いかったので、赤壁の戦いの大成功のようなホームラン性の政策は出てこない。

諸葛孔明は、玄徳に、27歳のとき、三顧の礼で軍師として迎えられ083 た。 青年期、荊州(中国中部)で学問を学ぶ。学友には優秀な人材が多く、その中で切磋琢磨しながら自分を鍛えた。そのうち、学友徐庶は曹操の魏に仕官したが、孔明は仕官しなかった。
 その荊州にも戦乱の波が押し寄せ、200年、官渡の戦いで北方の雄・袁紹を破り、中国北部の覇権を掌中にした曹操が、中国統一を果たすため、荊州に侵入した。さらに、その時期、荊州の知事劉表という人物が亡くなり、後継者を巡り内紛が起きていた。
 その前に、劉備玄徳が曹操に敗れ、荊州知事の劉表を頼って来ていた。劉備も天下をおさめる野心を持った人物で、配下に関羽・張飛など有能な人物を抱えていた。その劉備が孔明の噂を聞き、孔明を訪れた。

孔明にしてみれば、器量のある人物のもとでなければ働きたくない。そこで劉備が訪れると、わざと居留守を使った。皇帝の親類という身分だった劉備が、一浪人を三回目もおとづれるのは異例。劉備の態128 度に感心した孔明はようやく劉備と語り合う。
 時勢の中でどう活路を開けばよいのか。そのことに悩む劉備に孔明は、魏・呉・蜀による三国鼎立を提唱しする。その構想に感銘を受けた劉備は、孔明に仕官を要請し、劉備の誠実さや人徳、漢朝復興にかける志に感動した孔明はそれを承諾した。

劉備は孔明につきっきり。こうした劉備の態度に、関羽・張飛が嫉妬する。彼らは劉備に文句を言うが、この時劉備が言ったのが「水魚の交わり」。魚が水を得たように大切だということだ。
  こうして劉備配下となった孔明だが、劉表の後継者争いに巻き込まれてしまう。しかも、北から曹操が迫っている。結局、劉備たちは逃亡することになった。
 簡単に荊州を占領した曹操は、次の戦いの相手を呉(中国南東部)の孫権に定める。

曹操は圧倒的な兵力を背景に、孫権に降伏を迫る。孫権も一方の雄であり、そのようなことは受け入れない。しかし、曹操に対抗するには戦力が充分ではない。
 劉備にとっても、漢朝簒奪をたくらむ曹操は不倶戴天の敵であり、そこで、劉備と孫権は同盟しようとするが、そこで孔明が活躍する。孫権を見事説得し、弱小勢力の劉備軍と大勢力の孫権をほぼ対等に同盟させた。

207年、劉備・孫権連合軍は曹操軍と赤壁で対決する。
 小説の「三国志演義」では孔明が風を操ったり、呉の軍師と知恵比べしたりして活躍しているが、実際には劉備軍はほとんど動かず、呉軍の活躍と疫病の流行で曹操軍が撤退した。これが赤壁の戦いの実情らしい。

01ともあれ、曹操軍が撤退して、ひとまず劉備は荊州を確保。自前の領土を得て、さらに西方の益州(四川省)を狙う。今もそうだが、四川省のあたりは険しい山が多く、守りやすく、攻め込みにくいところである。益州の都成都を陥落させ、益州も手に入れる。ここで曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の三国鼎立が成った。
 孔明の構想の第一段階が達成されたのだ。

 順調に見えた三国鼎立も、呉との関係が悪化して、劉備の有力武将関羽が呉の孫権から縁組を申し込まれたが、断った上に孫権の悪口を言って、険悪な関係になる。さらに、呉は蜀の勢力拡大を危険視していたので、もはや絶望的となる。
結果、荊州から北上して魏を討とうとしていた関羽の背後から呉軍が攻撃し、関羽軍を崩壊させ、関羽を殺害、荊州も呉に奪還される。
 そのことに怒った劉備が呉に攻撃を仕掛けようとする。孔明は必死に諌めたが、こればかりは劉備も聞かず、大軍をもって呉に攻め入ったが、呉の名将・陸遜に大敗北(夷陵の戦い)。劉備はショックで憤死してしまう。

「息子の劉禅が蜀の皇帝の器量がなければあなたが代わりになってくれ」と。息子のこと哀願し、劉備は亡くなる時に孔明に蜀の運命を託した。劉備の後継に息子劉禅をたて、孔明が蜀の全権を担うようになった。息子劉禅は、父劉備と違って凡庸な子で、戦略や政治はまったく孔明に頼りきりで、孔明が南蛮に遠征に行くとなると不安がるのだった。

 孔明はまず、呉との関係修復する。劉備の遺志は魏の討伐であり、そのために呉との同盟は必要不可欠だった。魏は漢朝から政権を譲られ、魏王朝を建てた。 呉との同盟を復活させると、今度は南部の南蛮制圧にかかる。半年かかって南蛮を制圧し、後顧の憂いを取り除き、南蛮からの軍需物資などで国力を増大させると、いよいよ魏との戦いになる。
 DVDで見た、「
南征の戦い」はこの後からの部分である。

087  蜀の国家方針として、孔明は、魏と戦かって勝つには、魏は蜀の北部に位置していたから、まず 南蛮を統治していた孟獲を味方につけたいと考えた。今のベトナム、ラオスあたりの国を南蛮と呼んでいたようだ。
 南蛮王の孟獲は、頑強に抵抗するが、孔明はこれを捕らえる。孔明は南蛮を心から信服するには、信頼であると考え、孟獲を解放する。以後、孔明は何度も孟獲を捕らえ、解放した。7回目、ついに孟獲は孔明に心服した。こうして、南蛮攻略は成功した。

124南征の戦い」の諸葛孔明、羽の扇であおぎながら、悠々たる態度を演出しながら、相手をなんとか策を弄して捕らえるのだった。
「泣いて馬謖バショクを切る」という格言、警句があるが、その馬謖が孔明の配下にいた。彼は、いい意見を述べて、孔明に意見を求められると「南蛮王の孟獲を武力で抑えても、いつ刃向かうかわかったものではない。心服するためには、心を攻めるべきだ」と発言して、孔明を感心させる。
 馬謖バショクは、文官としては賢いが、武官としての経験がないゆえ、魏との戦いに彼のすべき戦を大失敗して、孔明の計画がすべて終わりになる・・・、この責任を可愛い馬謖を死刑にするのは忍びないが、ほかの部下の手前、けじめとして斬首せざるを得なかった・・・という言葉の由来である。

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コメント

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!

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投稿: 職務経歴書の営業 | 2013年7月20日 (土) 02時10分

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