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2012年9月18日 (火)

日中戦争始まり 満州事変の背景

Photo_3  東北の農村では、「親を楽にさせられる」という娘が、置屋、女郎屋に金銭で売られて、年期奉公を10年くらい過ごす。小学校出たくらいの歳で都会の色町へ出されるのだが、たいていはどういう場所へ行くのか知らされていない。ご飯が腹いっぱい食べられるだけで幸せだと思うのが普通だったらしい。
 昭和一桁の時代、農村では、子供の間引きは多く行われていた。大抵の次男、三男は相続する田畑がないから、職業軍人を希望する人が多かった。そのなかで、成績優秀、体格の優れたものが、士官学校へ入る。

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 昭和のヒトケタ代は、今の日本と似て、大不景気で、娘身売りの数は 3,298 名で、内訳は(山形県、昭和 9 年1月から11 月まで)
芸妓  249名、娼婦1,420名、酌婦1,629名(私娼)でした。

Baibai1_2 同じ年(昭和9年、1934年)10月10日現在の青森県の資料によれば、身売りしたもの、
芸妓  405名、娼婦  850名、酌婦1,024名(私娼) で、
これ以外に離村した女子は
女給   945名、女工 1,427名、女中 2,432名(その他含)、合計では 7,083 名 でした。
(中央公論、昭和9年1934年12月号)

 Img4fda866azik0zj_2 そんな時代の中で、日本の困窮をいかにして救うか、「狭い日本に住み飽きた」「大陸は日本の生命線だ」「満蒙開拓団」・・・、そんな標語が、中国戦線が窮して、アメリカに追い詰められると、いつの間にか『撃ちてし止まん』(昭和18年)と大きな垂れ幕が、有楽町にあった日劇ビルの上から垂れていた。
「うちてしやまん」は 「討って滅ぼしてやる」の意味。
撃ち(討ち)-て(接続助詞)-し(助詞-強意)-止ま-ん(む・助動詞-意思)“止まん”否定形ではなく、未然+意思で ~にしよう、~にしてやるの意味で
止むは殺す、滅ぼす、事を終わらせる、などを意味する。(資料

Photo_6 中国の呼び方では「九一八事変」という「満州事変」は、どう起こされたか。1931年(昭和6年)9月18日、中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(大日本帝国陸軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)。
 
 軍事的には、わずか5ヶ月の間に、関東軍は満洲全土を占領した。
この軍事衝突を境に、中国東北部「満洲」を占領する関東軍と現地抗日運動と衝突が激化した。満洲国の建国により、いわゆる、十五年戦争(中国名称、十四年抗日戦争)の基点となっている

Chichiharu_2  中華民国蒋介石派は、
①日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張、
②日清通商航海条約の破棄を宣言する。
③日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借土地・家屋の回収が図られた。満州各地の朝鮮系日本人居住者は立ち退きを強要され、あるいは迫害された。
 このことは満州事変の大きな要因となる。

 日露戦争で締結したポーツマス条約(日露講和条約)には、
●旅順、大連の租借権と長春 - 旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を日本政府に移転譲渡することが定められ、
●中国の鉄道新設の禁止などを定めた満洲善後条約が締結。
 日本政府は「南満州鉄道」(満鉄)を創設し、同年7月31日の勅令196号をもって関東都督府を設置した。

 日露戦争後の日清善後条約で、満鉄付属地外でも営業できることになっていたが、昭和5、6年には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害、経営不振が続出した。外務省を通じて南京総領事が南京政府に交渉しても、音沙汰なしであった。
 満州事変前には、このような日中懸案が370件あまりあった。関東軍は、再三交渉するが聞き入れられなかった。
 これにより関東軍の幹部は、本国に諮ることなく、満洲の地域自決・民族自決にもとづく分離独立を計画した。

 事件①
Heilongjiang1_3  1931年(昭和6年)6月27日、大興安嶺(中国黒竜江省の最北端)の立入禁止区域を密偵していた陸軍参謀中村震太郎一行が張学良配下の屯墾軍に拘束され殺害された。「中村大尉事件」が発生。
 事件の核心を掴んだ関東軍は調査したが、真相が明らかにならず外交交渉に移された。その場で中国側は調査を約したが、日本による陰謀であるなどと主張し、関東軍関係者は態度を硬化させ、
日本の世論は中国の非道を糾弾、日華間は緊迫した空気に包まれた。

 8月24日陸軍省は、満州北西部・?索地方の占領案を外務省に企画提案したが、協議の結果、見合わせることになった。しかし中国側が「中村大尉事件」で殺害の事実を否定する場合は、関東軍の協力を得ながら林久治郎奉天総領事が強硬に交渉することになった。
 鈴木貞一(永田鉄山の直属部下)の戦後の回想によると、(陸軍)永田鉄山軍事課長と(外務省)谷正之アジア局長らで「満州問題解決に関する覚書」を作成し、武力行使を含めあらゆる手段をもってやることが書かれていたという。

 事件②万宝山事件
 1931年(昭和6年)7月2日に朝鮮人(日本人)農民が、旧満州新京(長春)の北、万宝山の賃借土地に作った用水路に反発した中国人農民が襲撃、日本領事館警察官と衝突。「万宝山事件」が勃発。
 この朝鮮人農民は、土地をなくした朝鮮人農民が朝鮮半島から流入したもの、中国側からすれば「日本の眷属(親戚か仲間)」であり小競り合いがエスカレートした事件であった。
 この事件の後、中国人排斥暴動が朝鮮半島で発生。「朝鮮排華事件」で、多くの死者重軽傷者が出た。この事件により、日華両国関係が著しく悪化した。

 中国語版、韓国語版ウィキペディアでは、日本による陰謀と記述している。日本では偶発的事件であるとされている。
 満州青年連盟の長春支部長小沢開作の指導で、厳重な抗議を起こし、問題を重大化させたが、このような事件やもっと残虐な事件はざらにあった。

 1931年(昭和6年)以前から、鈴木貞一参謀本部作戦課員らによって「木曜会」が組織され、1928年(昭和3)年3月には、「帝国自存のため満蒙に完全な政治的権力を確立」することを決定した。昭和3年10月に石原莞爾が関東軍作戦主任参謀に、翌年昭和4年5月に板垣征四郎が関東軍高級参謀になった。
 石原、板垣らは、満蒙問題の解決のために全満州の軍事的占領を考え、1931年(昭和6年)6月頃には、計画準備を本格化し、9月下旬決行を決めていた。
 1929年5月、二葉会と木曜会が合流して「
一夕会」が結成され、「人事刷新」、「満州問題の武力解決」、「非長州系三将官の擁立」を取り決めた。同年8月、岡村寧次が陸軍省人事局補任課長になり、1930年(昭和5年)8月、永田鉄山が軍務局軍事課長になった。
 同年11月永田は満州出張の際に、
攻城用の24糎榴弾砲の送付を石原らに約束し、1931年(昭和6年)7月に歩兵第29連隊の営庭に据え付けられた。満州事変直前の同年8月には、陸軍中央の主要実務ポストを「一夕会」会員がほぼ掌握することとなった。
満州問題解決方針の大綱」を決定した。
 同年8月、同会議は山脇に代わり東条英機編制課長が入り、今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長が加わって、「
七課長会議」となった。
 今村作戦課長は「満州問題解決方針の大綱」に基づく作戦上の具体化案を8月末までに作成。
陸軍中央部では永田鉄山、鈴木貞一らが動き、関東軍では石原莞爾、板垣征四郎らが動くことで満州事変の準備が整えられた。
 「
一夕会」系幕僚が陸軍中央を引きずり、内閣を引きずって満州事変を推進していった。

 ★統制派永田鉄山、皇道派将校に刺殺
 9850 1931年(昭和6年)3月、満蒙問題の根本的解決の必要を主張する「昭和6年度情勢判断」が作成され、同年6月、建川美次参謀本部第二部長を委員長とし、
陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、参謀本部の山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる、いわゆる五課長会議が発足し、一年後をめどに満蒙で武力行使をおこなう旨の
決定を行い、陸軍をリードする勢力となった。

 幣原喜重郎外相は、広東政府と話し合い、国際協調を重視し
「①日本は領土権は主張しない。
②日本人が相互友好協力の上に満州に居住し、
③経済開発に参加できればよいのであって、これは少なくとも道義的に当然の要求である。
 また、④中国がかりそめにも日本の鉄道に競争線を建設できないことは、信義上自明の理である」と述べている。
 幣原外相は、英米との国際協調により中国政府に既存条約を尊重することを求め、アメリカのマクマリー駐中国公使も同様の方針を本国政府に訴えていた。
 が、国務省内の親中派のホーンベルク極東部長によって日本との協調路線は退けられた。

 その環境の中で、起きたのが満洲事変の発端となったのが、柳条湖(溝)事件である。
 1931年(昭和6年)9月18日、夜10時半、満鉄線が奉天近郊の柳条湖附近(柳条溝は奉天駅隣駅)爆破は奉天駅・柳条溝駅の間で爆破された。
 この爆破は独立守備隊第2大隊第3中隊長川島正大尉(このとき文官屯附近で演習中)が河本末守中尉、小杉軍曹ほか5名に命じ、実行された。ただし、河本中尉は単独で事前に爆薬を設置していて、点火したさいも小杉以下には、わからないようにやったという。
 爆発は小規模なもので、線路の片側だけ1本が1メートル程度吹き飛んだだけで、直後、この上を列車は無事通過している。

 河本中尉は、爆発音を聞いて様子をうかがいに出た奉天軍兵士を射撃した。銃撃戦に発展し、そこに川島大尉の部隊が到着し、本格的交戦となった。川島大尉の報告をうけた上司の独立守備隊第2大隊長島本正一は隷下の第1・第2中隊と撫順にいた第4中隊に出動を命じた。
 さらに大隊営所内に据えつけてあった24センチ榴弾砲も奉天軍の本営であった北大営に砲撃を加えた。この24榴は、永田鉄山陸軍省軍事課長の斡旋によって、7月に旅順から移送されたものだった。

9月19日、午前6時30分、独立守備隊第2大隊は北大営を占領した。ここは王以哲(のち孫銘九らによって西安事件で殺害された)の独立7旅が駐留していたが、遺棄死体320を残して撤退した。日本側戦死者6名であった

Mainichi1931919 1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、中華民国の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊された。関東軍は、これを張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中華民国東北地方の占領行動に移った。

 爆破は関東軍の虎石台独立守備隊の一小隊が行ったものであり、つまり関東軍の自作自演であった。この爆破事件のあと、南満洲鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしたが、関東軍兵士によって立ち入りを断られた。また、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過したことからも、この爆発がとても小規模だったことが伺える。


67_4 奉天占領直後の守る日本軍
 事件現場の柳条湖近くには、国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠した。関東軍は、翌日までに、奉天、長春、営口の各都市も占領した。奉天占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。9月22日関東軍は、居留民保護のためハルピン出兵の意向を示したが、陸軍中央は認めず、断念した。

 陸軍中央部の対応
 9月19日午前7時、陸軍省・参謀本部合同の省部首脳会議が開かれ、小磯国昭軍務局長が「関東軍今回の行動は全部至当の事なり」と発言し、一同異議なく、閣議に兵力増派を提議することを決めた。
 出席者は杉山元陸軍次官、小磯国昭軍務局長、二宮治重参謀次長、梅津美治郎総務部長、今村均作戦課長(建川美次第一部長の代理)、橋本虎之助第二部長、および局長・部長以上の会議において特別に出席が許され、実質的に局長待遇であった永田鉄山軍事課長であった。省部首脳会議の決定を受け、作戦課は朝鮮軍の応急派兵、第10師団(姫路)の動員派遣の検討に入り、軍事課は閣議提出案の準備にかかった。

 同日午前10時の閣議で南次郎陸軍大臣は関東軍増援を提議できず、「事態不拡大の方針」が決定された。
 同日午前、杉山陸軍次官、二宮参謀次長、荒木貞夫教育総監部本部長によって、満蒙問題解決の動機となすという方針が合意され、条約上の既得権益の完全な確保を意味し、全満州の軍事的占領に及ぶものではないとされた。
 同日午後、作戦課は、関東軍の旧態復帰は断じて不可で、内閣が承認しないなら陸相が辞任して政府の瓦解も辞さないと「満洲における時局善後策」を作成し、参謀本部内の首脳会議の承認を得た。作戦課は関東軍の現状維持と満蒙問題の全面解決が認められなければ、陸軍によるクーデターを断行する決意で・・・。

 南陸相は、「事態不拡大の政府方針」に留意して行動するよう、本庄繁関東軍司令官に訓電した。
 20日午前10時、杉山次官、二宮次長、荒木本部長は、関東軍の旧態復帰拒否と、政府が軍部案に同意しない場合は政府の崩壊も気にとめないことを確認した。

 軍事課は、「事態不拡大」という閣議決定には反対しないが、関東軍は任務達成のために機宜の措置をとるべきであり、中央から関東軍の行動を拘束しないという「時局対策」を策定し、南陸相、金谷範三参謀総長、武藤信義教育総監(陸軍三長官)の承認を得た。

 東京への第一報は奉天特務機関長土肥原賢二大佐からで、「北大営西側で満鉄線が爆破され、支那軍隊が我が守備兵を襲撃した」というものだった。中村大尉事件、万宝山事件そして相次ぐ中国内のテロ事件によって、この第一報は陸軍部内でもそのまま信じられた。
 柳条溝事件の真相は、当時から日本軍の犯行であると噂されたが、全貌が暴露されたのは、花谷正(当時少佐・関東軍参謀)が『別冊 知性』(昭和30年12月号 河出書房)に手記を書いてからである。

 軍の指揮権が、日本国政府の外交に優先するというのである。板垣征四郎は、これが訴因の一つとなり、絞首刑となった。石原莞爾は罪に問われず栄転した。花谷は戦後生き延び、貴重な証言をなした。

 「満州事変」1931年(昭和6年)から45年(昭和20年)の終戦まで、足かけ15年、「15年戦争」。この戦争によって、日本国民310万に、アジア人2000万人が犠牲となりました。
 日本の戦後は、この戦争への反省から、再び戦争はしないとの固い決意のもとに再出発しました
参考
統制派永田鉄山、皇道派将校に刺殺

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コメント

芸妓 娼婦 酌婦  
山形県 249 1,420 1,629
青森県 405 850 1,024
(昭和 9 年1月~12 月)(酌婦=私娼)これ以外に、女給945+女工1427+女中432=7083名
中央公論、昭和9年1934年12月号

投稿: 満州事変の背景 | 2013年1月14日 (月) 16時12分

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